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「無実の果実」本文サンプル


「ん……っ」
 鼻をくすぐるのはどことなく甘い香り。ひゅるんと身体に入ってきて、感覚を鋭敏にする。指先までたっぷりと神経が行き届いて高ぶって、しびれに似た感覚が全身を駆け巡る。
「気持ち……いい……」
 思わず漏れた声はやたらに乙女っぽくてちょっと恥ずかしくなる。ちらっと視線を移すと、僕の様子を伺っていた彼女が穏やかに微笑む。
「不思議だね……君の可愛らしさは日を経るごとに磨き上げられ、陰る隙すら見当たらない」
「にゃぁ……」
「ほら、今もそうして愛らしいじゃないか」
「褒めても何も出ないのに」
「照れる姿が引き出されているよ」
「……ハメられてますか、僕」
 いい加減慣れればいいのに、繰り出される小っ恥ずかしい台詞にはどうしても反応してしまう。とっくの昔に結ばれてるんだから改めて口説かなくていいのに……なんて言うのは野暮。これが彼女の示し方だ。単純明快直球勝負は僕らのご法度、回りくどくて曖昧で、でも届けあうやり取りが肝。
 ……オトコノコがオンナノコに口説かれている構図に、アイデンティティがぐらつくのはご愛嬌。
 両手を広げて、彼女を誘う。
「惠も来て? 気持ちいいよ」
「お言葉に甘えてもいいのかな」
「ん」
 二人のてのひらが重なる。視線が噛みあって、微笑みあう。
 木の葉の間から挿し込む日差しが、不規則にまんべんなく僕らを包みこむ。伝う体温が胸に響く。
 さっきまでのまどろみが尾を引いているのか、惠の動作はゆったりしている。重ねていない方の手をおしりのそばについて力を入れると、バランスが悪いのか傾いてしりもちをついた。
「……あはは」
 ばつが悪そうに笑う。以前はあまり見られなかった微細な表情の変化だ。心に貼りつけ凍りつかせてきた演技は、二人きりになってだいぶほぐれてきた。隠すためじゃなく、伝えるための表現を覚えたんだろう。僕だけが知る今の彼女が、愛おしい。
「えい」
 エスコートするように手を引っ張り、惠を立たせる。このぐらいはお手の物。
 するっと自然に隣に並んで――
「はーい、伸びをしてー、深呼吸ー」
「んー……っ」
 ぐいん、と惠が背を反らして伸びをする。
 ぷはっと息を吸って、吐いて。山の小道に満ちる、マイナスイオンたっぷりの空気をいただく。
「やっぱり、木陰って休憩に最適だよね」
「ああ、智がここを見つけてくれてよかったんじゃないかな」
「ねー」
 現在地は山の中腹、樹々の雄叫びここにありと言わんばかりの緑のるつぼの真ん中だ。獣道とそう変わらないところをせっせと登って大体一時間、目的地にはあと一時間ってところ。慣れているから特に苦ではないし、二人以外誰もいないからお気楽。
 ペットボトルのお茶で喉を潤して、ほっと一息。見渡すかぎりの樹々や草花は、夏ならではの饗宴中だ。
「新緑もいいけど、夏の緑もいいよね」
「植物の香りや特有の揮発成分の濃度は、今の季節が最も際立っているね。日光が強いぶん、光合成も盛んに行われるんだろう」
「頑張ってます、って感じがするもんね。こっちも元気もらえる気がする」
「山には多種多様、雑多な生命が息づいている。夏はあらゆる生物が積極的に活動する、その生命力を感じ取っているのかもしれない」
「うんうん」
 その生命力をもっとうまく借りられないものか――ふらりとよぎる気持ちは口にしない。大自然の偉大なる力は賭けるに値するだろうけど、即効性はないのはわかりきっている。期待はするけどし過ぎは禁物。
「じゃあ、そろそろ行く?」
「今回は入りやすい温度だといいね、智」
「湯治で火傷しちゃお笑い種だもんね」
 前回の苦い経験を思い返し、苦笑い。七十度のお湯に浸かるなんて、惠でなかったら大惨事になってたところだ。いや、彼女だから平気だったってわけでもないんだけど……毒見ならぬ湯見の大切さを痛感する。
 温泉が大体四十度、なんていうのは完全に思い込みだ。温泉宿なんかは入りやすいように調節してるからそうなってるだけ。源泉はぬるいものから触れないぐらい熱いものまで千差万別……ということを、ここ数ヶ月の体験で学んだ。案外、変なところに誤解が潜んでいるものです。
 荷物を確認して、再び山道を歩き出す。
 目指すは山の上、人知れず存在するという秘湯。
 流石にパンダになったり性転換したりは行きすぎだけど、ちょっと常識を超える程度の治癒効果があったらいいなと願う。
 ……最悪の猛毒であり、最高の薬でもある、惠の能力。
 それを使わないですむ日に、いつになったら辿りつけるのか――
 果てしない僕らの旅路は、今日も続いていく。

 惠の病気を治したい。
 あまりにも当然で、あまりにも困難なその願いに辿りつくまでに、長い時間はかからなかった。
 現在、惠はその身に宿る能力を頼りに、かろうじて生命を繋いでいる状態だ。彼女を蝕む病魔は相変わらず突然蜂起しては死を叩きつける。そのたびに、惠は能力を使って黄泉から帰ってくる。
 彼女が死から帰ってくるための能力――『命の上乗せ』。一言で言えば、奪った命と奪われる命を等価交換する能力。
 それは、決して楽な道ではない。
 選ぶ相手は身に覚えがあるヒト落第の畜生の皆様とはいえ、はいそうですかとおとなしくしてくれるわけがない。俗にいう小悪党ほど、追い詰められると手段を選ばなくなるものだ。知られる意味でも反撃の意味でも、僕らの手段のリスクは極限レベルに高い。さらに、余計な虎の尾を踏む可能性だってある。
 踏み込んでわかったことだけど、裏社会には魑魅魍魎が跋扈するネットワークがある。罪状に加えて打算が必要だ。相手を間違えれば次はない。
 かつて惠はマヤという人の託宣で乗り切ってきたみたいだけど、今やそれも不可能になった。現状維持を選択できないほどに、惠の、僕の未来は暗雲に覆われている。
 飛び出した先に待っていたのは、見渡すかぎりの地雷原だったというわけだ。
 もちろん、選んだ道に後悔はない。惠をこの世に繋ぎ止めるためならどんな犠牲も厭わないし、彼女と生きることが僕の全てだ。
 だから僕は求める。惠の病気を治す方法を、不安を抱かずに愛し合える日を探す。
 西洋医学は駄目だ。町医者ではどうにもならないし、大病院に行けば今後の医学の発展とかなんとかの理由をつけられてモルモット扱いされるのがオチ。惠の母親は西洋医学の力を借りて失敗しているというし、百害あって一利なしだろう。
 ならばと目を付けたのが東洋医学だ。西洋医学に比べ即効性はないものの、俗に言う科学的根拠と結びつかない手段が溢れている。漢方や鍼灸が西洋医学にサジを投げられた人を救っているケースや山ほどある。あるいは民間療法、秘境に伝わる秘薬……この世に病気がある限り、治療法もまた星の数ほど生まれている。その中のどれかが惠を治せる可能性はゼロじゃない。
 難点は、情報が圧倒的に少ないということ。信用に足る情報が少ないと言ったほうがいいかもしれない。眉唾ものも多いし、本当に名医と呼ばれる人はちょっとやそっとでは情報自体が手に入らなかったりする。
 結果、僕たちは定住をせず、あらゆるところを渡り歩く旅人となった。
 実際、いくつか光は見えてきている。名医と呼ばれる先生の中には惠の特異性を見抜いた人もいた。大抵ビビって逃げちゃうんだけど、探していけばそのうち肝の座った人に出会えるだろう。出会えたところでスタートでしかないんだけど、スタートに立てるのは大きい。
 そう、僕らはスタートを探している。求めるゴールにたどり着くための、幾千幾万の可能性の網の一つを探している。
 今日もまた、その探しもののひとつだ。
 ――湯治。
 身も蓋もないことを言えば温泉巡りなんだけど、お気楽レジャー的なものじゃない。なにせ僕たちが探しているのは未だ解明されていないような薬効を持つ、文字通りの秘湯なのだ。すでに観光地となっているところは論外。地元の人だけが知っているような、知っていても近づかないような、限りなく自然のままのところがいい。僕らの事情的にもその方が助かる。
 今目指しているのも、そんな秘湯のひとつだ。一応地元の小さな旅館が所有しているものの、余程の物好きでなければ近寄らないぐらい山の奥深くにあり、宣伝すらしていないという。実際問い合わせた時もちょっと歯切れが悪かった。多分、サービスが行き届かなくてバツをつけられるのが嫌なんだろう。クレームつかないように縮こまって営業するって大変だなぁ。
「……それにしても、険しい道」
「ひょっとしたら、他にもルートがあるのかもしれないな」
「地図にはこの道の入り口しか載ってなかったけど……確かこの山、旅館の裏にあるんだよね。チェックインしてからの方が良かったかな」
「ついて来られても困るだろう? 特に君は」
「そうなんだよねー、そこが問題」
 てくてくがさがさ進む道は良く言えば自然そのもの、悪く言えば歩きにくい。間違っても大衆ウケはしないだろう。たまに草が激しく揺れて、野生動物が走り去っていく。蛇を見かけるのは日常茶飯事。慣れてしまえばどうということはないけど、慣れてなかったら必要以上に大騒ぎされる環境だ。
「……まあ、ここまで山奥じゃ、どんなに頑張ったってクレーム付ける人はいるよね」
「だから宣伝していないんだろう。どの案内にも、秘湯のことは書いていなかった」
「あると知ったら行きたくなるのが人間だもんね。止められたらますます行きたくなるし」
「困難な道程に対し、人は過大な結果を期待する。おそらくその期待には答えられないような所なんじゃないかな」
「僕たちみたいなのはイレギュラー中のイレギュラーだしね」
「純粋に効果のみを期待する層を相手にしても商売にはならないのかな」
「温泉って、お湯そのものより景色や旅館の綺麗さやご飯が優遇されるらしいよ」
「だからこそ成り立つ、とも言えるんじゃないかな」
「確かに。そっちのニーズを満たしてれば、たとえ温泉の半分が水道水でも文句は出ない」
 以前立ち寄った旅館にあった週刊誌の記事を思い出す。なんでも、一般的な温泉宿の大半は源泉に水道水を加えているらしい。法的には源泉は一滴加えてあればオッケーだから、それをいいことに多くの温泉旅館は好き勝手している許せんという記事だった。十分有り得る話だと思いながらも、やっぱりがっかりはしたっけ。
 ……ちなみに、立ち寄った旅館は週刊誌によって源泉掛け流しのお墨付きをいただいていた。需要と供給ってそういうもの。
 そんな裏事情を遠目に見つつ、僕らはあまり歓迎されない薬効至上主義者として山を行く。
「あ」
 視界に、いかにもな屋根が見えてきた。
「あれかな?」
「おそらく、ね」
 緑の猛り合いの隙間に見える、自然界ではありえない濃いグレーの直線。プレハブっぽくも見える。
 少し乱暴に草をかきわけ、足取りを早める。胸に湧いてくるのは期待と安堵だ。この小さな達成感がたまらない。
 ほどなくして――視界が開けた。
「みーっけたっ」
 僕たちの前に現れたのは、緑の切れ目に広がる青空に、物置を二回りぐらい大きくしたプレハブ小屋と、外から見えないようにたてられた木の壁だ。壁といっても秘湯全体を囲っているわけではなく、『見えない場所を作っている』程度。覗き込めば大体四人ぐらいが入れそうな大きさの湯船が見える。プレハブ小屋に料金所みたいなものはないけれど、放置されている風でもない。むしろ使ってくださいと言わんばかりだ。
「思ったより整備されてる」
「ああ。囲いがあるのはありがたいんじゃないかな」
「とーってもありがたいです」
 秘湯の中には一切整備されていなくて周りから丸見えのところも少なくない。それはそれで手付かずの薬効が期待できるんだけど、羞恥心と呪い的な意味での危険と隣り合わせになる。そういうところでは間違っても他の誰かに出会うことはないとはいえ、いろいろ解放しちゃうのはやっぱりこう……ね。
 その意味では、めったに来ないけど来ることは想定してあるここの秘湯は理想的だ。
「じゃあ、早速」
 念のため、コンコン、とプレハブの扉を叩いてみる。返事はない。
「あ」
 プレハブの引き戸を引くと、するりと開く。
「開いてた」
「僕たちの為に開けておいてくれたのかもしれないね」
 プレハブの中を覗き込んでみると、きっちりと整備されている。籐カゴの入った棚や休憩用のちゃぶ台、急須や湯のみのセットまで置いてある。水や電気は通っていないんだろう、棚の一角には魔法瓶や電池式のライト、懐中電灯がまとめられていた。
「おじゃましまーす」
 靴を脱いであがりこむ。惠も僕に続く。
 入ってみると、床までちゃんと掃除が行き届いているのがわかった。山の上とは思えない手入れの行き届きっぷりだ。
 他の秘湯もこうならいいのにな、なんて勝手なことを思いつつカゴを引っ張り出し、荷物を放りこみ、服を脱ぎかけ――ふと、気づく。
「……そういえば、先にこっちに来るって旅館に連絡してたっけ?」
「智がしていないなら、していないんじゃないかな。開いているんだから想定はしていたのかもしれないよ」
「んー。そっか」
 記憶を辿る。秘湯のことを聞いて、そこに行きたいと言って、予約をとって……スケジュールについては確か言わなかった、ような。女将さん、行くなら事前に連絡をとか言ってたかな? 言ってたような、言わなかったような。
「何か気になることが?」
「……ううん、たいしたことじゃないよ」
 想像以上に環境が整ってるのは嬉しい。嬉しいけど、逆に変な気がしてくる。
 もちろん、この秘湯の持ち主である旅館のオーナーさんたちが使っている可能性もあるし、昨日の時点でお掃除してくれたのかもしれない。
 それにしても、宣伝もしていない秘湯にしては設備が整いすぎている、ような? ほったらかしの秘湯を何度も訪れている身からしたら、ここは手が込みすぎてて違和感さえ持ちそうになる。
 ……まあ、僕たちがとやかく言うことじゃないし、単にリサーチ不足で知らないだけで利用者がいるのかもしれないし、使えるものは使わせてもらえばいいか。
 気を取りなおし、改めて服を脱ぐ。万が一のことを考えて大型バスタオルに身を包み、端を止める。ちらっと横を見ると、惠は既に準備ができていた様子。
「……温泉特集に映えそうな姿だね」
「危険すぎます、色々危険すぎます」
「最近は女の子みたいな男の子と行く温泉旅行なんてプランもあるそうだよ」
「何その世も末すぎるイロモノ企画」
「ニーズのないところに企画はないんじゃないかな」
「呪われてる、この世はとっても呪われている……」
 色々と蘇ってくる記憶に頭がズキズキする。そういう企画に乗りそうな人を知らないわけでもないからなおさらだ。
「とっ……とりあえず、入ろ」
「そうだね、帰りにも時間がかかるだろうし」
「うん」
 もう一度バスタオルの巻きを確認してから、プレハブを出る。
 秘湯は目の前。透明なお湯が陽光を反射してちらちら光る。
 近づいて、まずは温度を確かめ……ようと思ったら、惠が先に手を浸していた。
「温度はどう?」
「ちょうどいいんじゃないかな、ほら」
 促されて確認すると、ちょっとぬるいぐらい。湯ざわりは少しとろっとしている。
 湯船は土に石を埋め込んだような感じで、いかにも手作り、風情はバッチリ。
「やっぱ、他にも利用者がいるのかな」
「様々な理由であえて宣伝しないところは多い。ここもそのひとつかもしれないね」
「だとしたら、ちょっと期待しちゃう」
 ちゃんと整備されているのに隠すんだから、それ相応の理由があるんだろう。とすれば薬効ぐらいしか思いつかない。例えば、効果があるのに温泉関係の法律に引っかかるから隠してるとか。利権でできた法律は時として本物を追い出す。そこで追い出されたのがここだとするなら……なんていうのは、希望的観測すぎるかな。
 ともあれ、まずは入ってみよう。
 バスタオルに気をつけながら、そろそろと片足ずつ浸けていく。
「ほひー……」
 いきなり気の抜けた声が出た。
「気持ちいいかい?」
「うん」
「どれ」
 惠も続く。二人が入るとお湯が溢れ、草花の上を下を伝って流れていく。
 声を出す代わりに、惠が静かに深呼吸。気持ちいいみたいだ。
 しっかりと浸かると、大体胸の上あたりまでお湯がくる。深さもちょうどいい。
「えへへー……」
 なぜだかにやける。ぷにっとほっぺたをつつかれて、つつき返す。
「ふふっ」
「あー……温泉、いいなぁー……」
 腑抜けた感想がほろほろ溢れる。歩き通しの身体の疲れをお湯が溶かしてくれるんだろう、筋肉のこわばりが取れていく。これじゃ単なる温泉好きだなぁなんて思うけど、せっかくなんだから楽しんだほうがいい。病気によって湯治の方法は異なるらしいけど、惠の場合は同じ症状の人がいないから、その辺にこだわってもあまり意味はないだろう。……いきあたりばったり、とも言う。
 ぱしゃ、と惠が肩にお湯をかける。合わせた視線は少しとろんとしている。頬が赤いのはあったまってきたから? その様子から、ふわふわと包まれてこそばゆい気持ちを受け取る。
 ある意味での言葉の不自由を持つ彼女は、面と向かって感想を述べることができないし、お礼も言うことができない。知っているから僕も求めない。その代わり、彼女の気持ちを表情から、些細な仕草から読み取るように心がけてきた。その努力が身を結んだのか、以前に比べたら沈黙に混ざる意味をすくい取れるようになってきたと思う。かつて心を読む力を持っている友達がいたけど、少しはそこに近づけているのかな。
 しばし黙りこんで、惠を見つめながら秘湯を堪能する。温度が比較的低めだからか、湯気は水面の上数センチをささやくように舞っている。お湯から手を出すとほんの一瞬だけついてきて、すぐに空気に溶けていく。視界に広がるのは木の板でできた衝立、でもその向こうには何十種類もの緑色と元気な青空、ときおり山肌。草花の香りと温泉の湯気が混ざり合った、濃厚な香りが鼻をくすぐる。そんな景色に混ざるようで混ざらない人肌の色。ショートカットの惠だから、首から肩にかけてのなめらかラインが良く見える。妙に色気を感じるのは湯気との相乗効果なんだろうか。時々お湯をかける仕草がまた上品で、ちらっと出てくる指先の細さにもどきりとする。
 ……触りたいな、と思う。
「……智?」
「んにゃ!?」
「どうしたんだい?」
「え、え、何が?」
 急に声をかけられ、思わず動揺。そんな僕が面白いのか、惠がくすくすと笑う。
「いや、なんだか物欲しそうな目をしていたから」
「も、物欲しそうな、って」
「水を持ってきたほうがいいかい? のぼせてしまっては後が大変だろう?」
「……あ、そっちの意味なんだ」
「?」
 不思議そうに首を傾げる惠。どうやら、僕の想像した意味ではなかった模様。
 自分の身体に爆弾を抱えているからか、惠は僕の調子をいつも気遣ってくれる。男の子だし、体力に問題はないと言ってもやっぱり心配なものは心配なんだという。こうなった理由が理由だからこそ、僕に何かあったらと不安になってしまうんだろう。
 それは僕だって同じこと。きらびやかな愛情では測れない矛盾を孕み、僕らの関係は織りあげられている。
 ……だからこそ、求め合う。
「惠」
「何……っ」
 ぐいっと抱き寄せ、キスをする。距離が一気に縮んだ、その瞬間の荒っぽい水音に煽られる。うなじから首の後ろを指でなぞって、肩に触る。たったそれだけなのに、惠の身体が震えるのがわかった。
「ん……っ、ふ」
 軽いキスを皮切りに、二つの体が重なりあう。温泉を含んだバスタオルごしの抱擁に、これから先の行為を想像する。
「と……も?」
 オトコノコの本能というのは問答無用なもの。無防備な彼女の姿を見たら、そういう気持ちになってしまうこともあるのです。
「正直、物欲しいです、僕」
「……ここで?」
「うん、ここで。だって惠も欲しくなっちゃってるでしょ?」
「それ、は……智が……っん」
 バスタオルの裾から手を入れて、おしりを軽く撫でる。惠が軽く息を飲む。力が抜けてきたのか、僕に覆いかぶさるようにしなだれかかってくる。
 吐息が熱い。温泉にも負けない体温の高まりに、惠の発情を悟る。
「多分、誰も来ないと思う」
「た、多分……って」
 あと一押し、耳元で囁く。
「今までも来たことないでしょ? 大丈夫だよ」
「……智にそう言われたら、どう反論すればいいんだい」
「しなくていいよ」
「……っ、はぁ……!」
 尾てい骨の当たりからくすぐるようにして触れていき、そのまま陰部に指を滑らせる。温泉とは明らかに違うとろみが指に絡まる。
「ふぇ!?」
「……君が、その気、なら……」
 やられっぱなしはイヤだと思ったのか、惠の手が僕のバスタオルの中に伸びていた。
「きゅうっ」
 それを軽く掴まれるだけで、期待と欲情に肩が跳ねる。
「……ああ、確かにこのままでは出られないね」
 意地悪っぽく微笑まれる。でも表情に余裕はない。あっさりと物欲しさにまみれた瞳はその情欲のままに惠を突き動かす。
 ぞくぞくする。お互い、この時は自分に正直だ。
 そのまま僕らは――この環境にふさわしい、野生じみた契りを交わす。

「……にょぼせた……」
「懲りないなぁ、君も」
「うー……惠ずるい、復活早い」
「これは致し方ないことなんじゃないかな」
「ひふぅー……」
 寝っ転がってため息。ガンガン痛む頭を抱えながら伸びる。
 いくら温度が低めだったとはいえ、中で熱いことすれば限界を超えるのは当然のこと。想定内なんだけど、いざとなると想定すら放り投げちゃうもんだからこういうことになる。ついでにいうとこういう展開は始めてじゃなかったりする。学習能力のない僕たち。
 ちなみに惠ものぼせたものの、復活は早く、僕を肩に抱えてプレハブまで運んでくれた。オトコノコとして情けないです、オトコノコとして振舞った結果なだけに一層切ないです。
 ペットボトルのお水を飲んで、惠に扇いでもらう。見上げる天井は殺風景で人工的なそれで、ここが山の中だということを悪い意味で忘れさせる。
 いたわるように頬を撫でられる。こそばゆくてほっこりする。でも、残念ながら現在は頭痛のほうがオオゴトだ。
「はー……情けなや」
 ひたすら回復を祈りつつ、ぼうっと上を向き続ける。目は極力閉じないように気をつける、寝たりしたら暗くなる前に山を降りられなくなってしまう。携帯の電波も届かないところだし、旅館に迷惑をかけてしまうと後々面倒なことになりかねない。優等生である必要はなくなったけど、もろもろをそつなくこなしていくことは大事だ。普通の人ほど印象に残らないものはない、その『印象に残らない』を活用しない手はないのだ。
 ……こうなっちゃったら説得力もへったくれもないけど。
 と――ふと、視界に何かが入る。
「あれ、なんだろ」
「ん?」
「ほら、あれ。天井になんかくっついてるの」
 指さしたのは、天井から垂れ下がった紐のような何か。蛍光灯に付いてる紐に良く似てる。換気扇でもあるのかと思ったけど、あくまで紐……と、それを引っ掛けるためのフックだけだ。
「ふむ……」
 惠が手を伸ばす。全然届きそうにない。
「椅子に乗れば届く、かな……」」
「んにゃ、そこまですると怒られちゃうかも」
「間違って壊したりしたら大変だね」
「弁償とか洒落にならないよ」
 好奇心は猫を殺す。そもそも目立っちゃダメなんだから余計なことはしないに限る。
「……君は、ミステリーは好きかい?」
「ほへ?」
 気分転換を思いついたのか、惠が妙な方向に話を振る。
「ミステリーでは、天井裏に知られてはならない資料や物品を隠すものだね」
「このプレハブ、天井裏とかなさそうだけど」
「あるいは、紐を引いたら扉が回転して隠し部屋が出てくるのかもしれない」
「忍者屋敷みたいなやつ?」
「そんな仕掛けが実際に使われているとしたら、面白いと思わないか?」
 からかってるのか、本気なのか。僕より圧倒的に長く裏の社会に馴染んできた彼女に言われると、なんとなく説得力がある気がするから困る。
「まあ、隠すとしたらへそくり程度かな」
「それは結構リアリティあるかも」
「身に覚えが?」
「昔はね、万一のこと考えて、お金を部屋のあちこちに隠してたんだよ」
「なるほど」
 納得と頷く惠。よしよしと頭を撫でられて、抜けている力がさらに抜ける。
 ……。
 ため息が漏れる。痛みやよどみ、不安を含んだよからぬ吐息だ。
 何故、だろう。何の変哲もないはずの紐が妙に強烈な印象に残る。
 単なる気晴らしのはずの惠の言葉が、胸の奥でパズルのピースのようになる。
 嫌な予感がする。頭の痛みではなく別の何か、身体のもっと奥から来るざわつき。
 今は僕らの手の届かないあの紐が、パンドラの箱の鍵だったとしたら? 知らなければ、見つけなければそれで済むのに、うっかり道を間違えてしまったとしたら?
 ……まったく、気分が悪いと考えまで変な方向に行くから困る。第一、僕たちには関係ないじゃないか。
 そんなことを考えているうちに、徐々に体調が持ち直してくる。
「大丈夫……かい?」
「まだちょっと頭痛いけど、降りてくうちに治ると思う」
「もう少し休んだほうがいいんじゃないかな、顔色がまだ悪い」
「ん、でも急がないと日が暮れちゃうよ」
「そうか……でも、無理はしないように」
「旅館に着いたらゆっくり休めるでしょ? だから大丈夫」
 心配から渋っている惠を説得し、荷物をまとめる。プレハブを出て空を見上げると、太陽は真上から少しずつ傾き始めている。
 灯りのない山は、夕焼け空ですら光量が足りなくなる。懐中電灯は持ってるとはいえ獣道ではほとんど役に立たないし、山の夜を着の身着のまま過ごすのはあらゆる意味で危険だ。
「智、手を」
「んにゃ」
 惠に手を引かれ、ふらつく頭を抱えながら気持ち早めに足を動かす。
 すっきりしたはずなのに、やたらと気持ちが重い。呪いを踏んだ感覚はないものの、何かをミスした予感に苛まれる。
 ひょっとして、たまにある直感の類? それとも、体調不良が招いた発想の偏り?
 できれば後者でお願いしたい。僕たちはきまぐれな旅人、あちこち立ち寄りながらもとどまることなく、印象にも残らず、上澄みの薬効だけいただいて、お客その一として去っていく存在でいたいんだ。

 ――けれど、予感は的中する。最悪の形で。

「……何だか騒がしいね」
 人里に近づくごとに、危機感は強くなる。疲れとは全く違う動悸の激しさに、言い知れぬ恐怖を覚える。
 耳に届くのは山の生きものたちのさざめき、そして無機質で人工的で暴力的なサイレンの音。遠かったそれは山を降りるにしたがって大きくなっていき、一向に消える様子がない。
「……」
 惠が足を止め、一点を凝視する。視線を追うと、木の葉の隙間から見えるのは真っ赤にぎらついたライト。
「……なに、あれ……パトカー……?」
 こくん、と頷く惠の表情がこわばっている。降りる先に異常事態が発生していることは明らかだ。
 血とは違う、命に関わる危険の広告。くるくると回し続けているのは、そこに何かがある証。
「どうするの……?」
「……」
 すぐに返事はこない。当然だろう、何がどうしてパトカーが来たのか、一体何があったのか、事件なのか事故なのかパトロールなのかすらわからない。この山は宿泊予定の旅館のちょうど裏側、パトカーは旅館に来ている。目的は僕たちではない、と思う、思いたい。
 ……追われる理由がないといえば嘘になる。心当たりはある。どれを心当たりとすればいいのか迷うぐらいある。ありすぎて――
「智、地図を見てくれないか。今から行ける迂回路を」
「わかった」
 地図を広げる。日が落ちつつあるせいで、細かい所がよく見えない。懐中電灯を光が漏れないように手でくるみつつ、現在地と周りの地形を確認する。人の手のほとんど入らない山だから、もともと地図に道は記されていない。別ルートを取るにしても勘が頼りになるけど、このまま降りるよりはマシなところがあれば……
「……」
 ぎゅ、と地図を握りしめる。その様子に、惠が僕の結論を理解する。
 ぐずぐずしている時間はない。あと少しで人里に着くとはいえ、夜になってしまうとそのわずかの距離が命取りになってしまう。ここまで来て降りないのは逆におかしな話だ。かといって、もう一回登る選択もない。とにかく一旦降りて、何食わぬ顔で通り過ぎるしかないだろう。
 僕らは旅人だ、この地域で生命を乗せようとは思ってないし、ターゲット調査だってしていない。ここで変に目立つ要素はない、だからきっと大丈夫のはず。
 ……何一つ断言できない現実が、足元のおぼつかなさを強調する。
 ぎゅっと手を握り合う。二人を伝う不安。
 意を決し、再び歩き出す。細く長い深呼吸を繰り返し、少しでも平穏の気配を引き寄せようとする。
 運命は、いつだって問答無用だ。知らないところで積み上げられたドミノがいつの間にか倒されて、巻き込まれて潰される。この世は呪いの蜘蛛の巣で、僕たちはそろそろと綱渡りを続ける。
 そんな環境だ、いつ足元を掬われても絡め取られてもおかしくない。だけどそれは今じゃない、想定できる未来じゃない、そう信じて、闇雲に信じることで一歩を踏み出し続けてきた。
 だけど、ちっぽけな個人のあがきなど、大きな流れの前では塵も同然。
 希望は、神様の指先でぷちりと潰される。
「おーい、おまえらー!」
 砂利に足を置くなり、歩み寄ってくるスーツの若者と警官二人。その目がぎらついて見えるのは、きっとライトのせいだけじゃない。
「何でしょう?」
 とりあえず、落ち着き払って聞いてみる。も、向こうには全く落ち着きがない。
「ええとですね、実は――」
「いい。俺が話す」
 説明しかけた警官を遮り、前に出たのはスーツの若者。若者といっても僕たちよりは年上で、社会人になって間もないといった風。軽薄にすら聞こえる調子で、けれど言葉には明確な敵意がこもっている。
「へっへーん、発見までもうちょっと時間稼ぎできると思ってたんだろうが、甘かったな」
「……話が見えないのですが」
「俺には見えてるから問題ないって」
「いや、説明してもらわないと」
「説明も何も、あんたらが犯人だろ? 聞くのは俺達の方だよ」
「犯人? 何の?」
「しらばっくれても意味ないぞ、見つけたんだから」
「……待ってください」
 勝手に話を進められそうになるのを惠が止める。焦りと動揺を押し込め、あくまで平静を装いつつ、少しだけ語調を強める。
「事情の説明をお願いします。教えていただかなければこちらも反応のしようがありません」
「って言ってますよ、いいんですか? 俺また始末書書かされるのイヤですってば」
 惠の言葉に、制服姿の警官が不安げな反応をする。も、スーツは自信満々だ。
「大丈夫だって言ってるだろ、俺のこと信用できないのかよ」
「信用できたら聞かないですって」
「話わからないやつだなぁ」
 ……どうやらこのスーツ、仲間の警官の評判もイマイチみたいだ。やりとりの様子からして刑事だろうか? 警官から信頼されない刑事って、もうそれだけで大問題な気がするんだけど……そんなツッコミを入れられるような雰囲気でもない。
「第一、事件があった山から出てくる時点で決まったようなもんだろ? あそこ旅館の持ちものでめったに人が立ち入らないんだぞ、無関係って考えるほうがどうかしてるって」
「そんな短絡的なぁ」
「短絡的じゃねーって! 俺の推理力バカにすんなよ!」
 警官たちの泣き言にも一切耳を貸さない。一体どこからその自信が湧いてくるのか。
 話が見えないもどかしさとロクなことにならない確信に苛立ちが募る。何が何だかわからないから反応のしようもなく、勝手に流されてしまう。
 わかることはただひとつ。
 ……危険だ。
「僕たちは山から降りてきただけです。一体何があったんですか?」
「ほーら、早速自供したぜ? 俺の目に狂いはなかった」
「だから、一体何が」
「あーもうめんどくさいなぁ! しらばっくれても無駄無駄無駄無駄無駄だっつーの! おい」
「……いいんですか? こんな真似して」
「問題ねーって! 俺の目に狂いはないっ」
「狂いも何も、話が全然見えてないんですってばっ」
「やかましい! 殺人犯はおとなしくお縄についてろ!」
「……は……?」
「殺人……犯……?」
 感情がぶつ切れる。背筋を走る冷たい痺れ。体温が一気に下がる。
「はーいはいはいとぼけてもダメねー。俺の手からは逃れられないっ」
 無駄にテンションの高いスーツは、妙にノリノリで僕らに詰め寄る。
「と、いうわけで――」
 手首に。
 惠の細い手首に、銀色の輪がかかる。
「――――」
 呼吸が止まる。視線が釘付けになる。事態が理解出来ない、したくない、こんなことがあっていいはずがない。
 足の感覚がなくなる。鼓動が遠く響く。現実感が消え失せ、光景が脳に刻み込まれ、目が乾く。
 どうしてこんな、抵抗すら許されない状況で、わけもわからないまま――
「お前らを――殺人容疑で、逮捕するっ!」

<続きは本にて>