QLOOKアクセス解析

after Birthday ※視点は惠

     act1 / act2 / act3 / act4 / act5 / act6 / act7 / act8 / act9 / act10 / act11 / act12(完)

僕の考えた惠ルート ※視点は智

  / / / / / / / / / 10 / 11 / 12/ 13/ 14/ 1516 / 17 / 18 / 19 / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 / 28 / 29 / 30/ 31 / 32 / 33 / 34 / 35 / 36 / 37 / 38 / 39 / 40 / 41 / 42 / 43 / 44 / 45/ 46 / 47 / 48 / 49 / 50 / 51 / 52 / 53 / 54(完)

chapter 12 

「こんばんは、智」
 ……なんの変哲も無い、夜の出会いのあいさつだ。
 礼儀とも言う。話を切り出すための第一声としても使われる。
 この国で一番使われている言葉ランキングで、間違いなくトップ5に入る表現。耳にタコができるを通り越して、右から左へ抜けていくぐらいありふれた日常語。
 けれど、けれど。
 僕たちは、ごくごく親しい相手に「こんばんは」と「こんにちは」を使わない。
「こんにちは」も「こんばんは」も、礼儀を重んじるべき対象、いわば他人へのあいさつだから。
 そう。
 惠の「こんばんは」は、断絶の始まりを告げていた。

「見てごらん。いい空だ」
 僕の動揺を見透かすかのように小さく笑い、惠は空を指差す。つられて顔を上げると、夜は随分と深く、月がひとりぼっちで輝いている。まるで孤独に焦っているみたい、手を伸ばしても誰もいない場所で、ひとりきりで叫んでいるみたいだ。そんな感傷が胸を通り過ぎて、ひゅるりと根を下ろす。
 都会ということもあって、夜空の色そのものはあまり綺麗ではない。排気ガスは青空だけでなく、夜にもはびこっているんだろう。
 月に思いをはせるなんて、何世紀前のセレブの趣味だろうか。十五夜とか花火とか、何か意味がある日なら見ることもあるかもしれないけど、こんな普段の日にわざわざ上を向いて、そして何かを思うなんて、今までに一度あったかなかったかだろうな。
 たわいない思考を回しながら、雲を探して空を仰ぐ。
 ……いや、違う。僕は空を見てるんじゃない。
 ただ、前を向けないだけだ。視線を誘導した相手の顔を見られないだけだ。広がる景色に面白みを探して、慣れない物思いに耽って、逃げ出そうとしているだけだ。目前に迫る悪夢に背を向けて、必死で走っているだけだ。
『人形の名前は、才野原惠』
 姉さんは言う。惠の行動は、全てが姉さんの指示だったと。
 僕と惠が過ごした時間は、姉さんが作った舞台。僕だけが知らない、結末の決まった物語だったのだと。
 ……姉さんの言葉だけを、拠り所とするなら。
 いずれにせよ、今日、この場で芝居は終わる。姉さんと僕が出会い、惠は――
「青褐、いや褐返か。洋の国では何と表現するのかな」
 日本語かどうかすら迷う不思議な名を、惠が空へ投げかける。彼女も空を仰いでいるんだろう。
 二人が同じ方を向いている―― 些細なことが、胸を締め付ける。
「夜空は深い青、もしくは漆黒と良く言われるけれど、随分乱暴な表現だと思わないかい? もはや、空はそれらの色の名に通じる透明感を失っているというのに」
 雑談めいたその奥に潜むのはどんな心理か。
「灰を交えた色彩は大抵、名前すら与えられない。夜空は青や黒から離れて久しいのに、代わりの表現は生まれず、運よく生まれたとしても、なじむことなく消えていく。今言った色名も極僅かの物好きだけが知る、事実上の死語だ。現実がどうあれ、人々の間で夜は透明を保ち続ける。正しく伝えようとする者が現れれば、やれ芸術家、やれロマンチストと特別視して隔離する。そうして、さも当然のように、真実から目を背けるんだ。青の深い夜空は、古来からごく自然に行われてきた処世術といえるかもしれないね」
 いつもにも増して婉曲な言い回し。話題の選択が随分と皮肉めいているのは、自分自身の状況と重ね合わせているからなのか。ごてごてとした比喩の博覧会には、読み解けそうな要素が散らばっている。口調も言い回しも普段通りではあるものの、井戸端会議のネタとは違う意図が感じられる。
 当然といえば、当然か。わざわざ待ち伏せたぐらいだし。
「この期に及んで、解りづらいなぁ」
「それが僕の個性だからね」
「アイデンティティと来ましたか」
「異国語かぶれはよくないよ」
「突っ込むべきはそこじゃないって」
 上滑りする日常のふりは、長くは続かない。平静を装いながら、漂う違和感は隠しようもない。
 数分前と今は、全く違う軸の上だ。
「……今のが、僕の夜空に対する意見だ」
 納得いかないことがたくさんある。納得したくないこともたくさんある。
 何より――
「智。君には、この空が何色に見える?」
 雑談の延長戦のような問いかけが、緊張をもたらす。裏の意味は、開戦の合図。
 惠。
 君は、どんな気持ちでここに立っているんだろう。
 準備運動にするには長すぎる前置きで、何を伝えようとしているのだろう。
 姉さんは、君に会うなと言った。君と話すなと言った。
 少なくとも今この瞬間は、姉さんの支配下から外れている。
「僕は――」
 一対一。
 それは、対峙した両者に逃げ場がないことを意味する。
 お互い、信じるものは、使えるものは自分のみ。
 現在地は二時間ドラマの最後の十五分。起こるのはトリックの解説と、犯人の自白と、どんでん返し。
 姉さんのシナリオ通りに進むなら―― 結末は、僕と惠の仲の終焉。
 正直、怖い。回る思考は矢継ぎ早に、最悪のバリエーションをはじき出す。追い出されるか、飛び出すか、身の危険を感じる羽目になるか……いずれにせよ、柔らかな着地点など見出せるはずもなく。
 たぶん、惠は断絶を覚悟している。だからこその「こんばんは」だ。
 解答編が始まれば、僕らの日常は粉々になるだろう。空の話が最後のあがきになるかもしれない。
 姉さんに会った時点で、この瞬間は決まっていたのか。
 あるいは、出会った時からか。崩れることは確定事項なのか。避けられないのか。

 ……そんなの、認めない。
 
 開き直ったともいう。開き直る以外に選択の余地がないともいう。
 ともかく、自分のスイッチが切り替わるのを感じ取った。
 思考の方向が変わり出す。
 誰が作ったものだろうと、他人が敷いたレールの上を走る趣味はない。
 情報量の差は歴然としている。でも、それはあくまで「姉さんに関して」だ。
 姉さんが僕らを導いたのだとしても、姉さんのためだけに僕らがあるわけじゃない。
「僕はね、惠」
 諦めない価値を教えてくれたパルクールレース。
 あの日、君は確かに走ってくれた。
 姉さんの指示であっても、動いたのは君だ。勝てるかどうかすらわからない状況で、僕らのために頑張ってくれたのは君だ。
 家に招いてくれたのは君だ。姉さんに引き合わせるという目的の元だったとしても、はぐれものの僕らが笑顔で過ごせる場を作ってくれたことには変わりない。食事をふるまってくれたり、泊めてくれたことには変わりない。
 二人だけで交わした会話は、確かに僕を満たしてくれた。仕組まれた台詞も一杯あったと思う。でも、それ以上に、僕らは山ほどのアドリブを作ってきたじゃないか。
 ……真実が一つ。僕と君が、姉さんの作った台本どおりに歩いていた。
 それでも、全てが思い通り、狙い通りなんてありえないんだ。
 だから。
 逡巡を終え、口に出すのは開始の合図。
「……その質問そのものが、違うと思う」
 考えろ。カードを探せ。糸口を見つけ出せ。
 自分の目で見たものを、自分の耳が聞いたものを掲げろ。
「そう。じゃあ聞き方を変えようか」
 ゆっくりと、前を向く。
 暗く濁った夜の中、僕らは静かに対峙する。
「……真耶に、どこまで聞いた?」
 両の拳を、痛いぐらいに握りしめる。
 向き合おう、君と。
 ……君の、呪いと。

 出会いは異常だった。「踏まれたときに恋をした」なんて、真性の変態か、何らかの意図があるかのどちらかで、普通は後者だと思うだろう。でも、当時の僕たちはそんな単純な思考すらほとんど持たなかった。彼女の怪しさより、花鶏の本を取り返すことで頭が一杯だったから。そして、生まれ損ねた疑念はその後の展開によってあっさりと流され、レースによって消滅した。
 今にして思えば、僕らの思考も、状況も、惠にとって不自然に都合が良かった。その事実にすら気づかなかったのは、過度の注目を浴びないよう、惠が自分の存在感をコントロールしていたからだろう。
 僕らは、そのとき一番大事に「思える」ことに注力し、思考の割合を調整する。その隙を突けば、違和感や不審感を薄れさせるのは造作も無い。信頼に足る事実の積み重ねと、疑念から目をそらさせる技術。惠はそれを見事に使いこなし、姉さんの計画の駒として存分に動いていた。
 僕の知る顛末は以上。じゃあ、惠から見たら?
「まずはね、姉さんと、僕の能力について。未来を見る能力なんだってさ」
 目をそらさず、包み隠さず、僕の知りえる情報を語り始める。
「それから?」
「姉さんの呪いのこと。僕と同じ。呪いを避けるために、ここでひっそり隠れて生きていたって」
「それから?」
「仕組みはよくわかんないんだけど、姉さんは力を僕に移せるんだって。それを使って、僕に夢を見せたって言ってたよ。僕は能力の存在すら知らなかったからね、未だに実感がわかないんだけど」
「……それから?」
 返答の選択が気に食わないのか、惠の相槌に苛立ちが混ざる。
 ……予想通りだ。
 僕だって、伊達に腹黒をやってない。相手が何を聞き出したがっているかの見当ぐらいつけられる。返答の選択は駆け引きの基本、焦らして焦らされて、ボロが出た方が負け。そういう勝負の場数だけは踏んできている。
 だから、いちいち考えなくても、脳が即座にはじき出してくれる。今、有利なのはどちらか。何をすれば風が吹くのか。何をすれば―― 相手の真意を引き出せるのか。
「それから、ね」
 一歩、前に踏み出す。
 惠が一瞬身を引きかけた。暗がりで表情はわからないものの、焦っているのが伝わってくる。身体の動きがひどく鋭角的だ。普段の、余裕のある滑らかさがない。
 やっぱり。
 確信が深まる。
 惠は、人を煙に巻いたり、こっそり誘導したりするのが得意だ。要は身をかわすのが上手いタイプ。その代わり、本音でぶつかるという経験を積んでいない、いや、意図的に避けている。
 対する僕は、今までの人生、そして同盟内で散々矢面に立ったこともあり、自分で言うのもなんだけどそれなりに修羅場をくぐってきている。
 勝敗は往々にして、経験の差で決まる。いくら情報があったって、その場に応じて使いこなすスキルがなければ意味がない。惠もそのくらいは理解しているだろう。
 ……だから、今日、この時だったんだ。
「君のことも聞いたよ」
「……何て?」
「姉さんが、裏でいろいろ指示してたんだってね」
 勝負というのは、自分が不利だと思った方が負ける。逆を言えば、相手に不利だと思わせれば勝てる。それが実際の状況と異なっていてもだ。
 惠がこの時を選んだのは、僕に「自分が不利だ」と思い込ませるため。実際のパワーバランスから目をそらさせるためだ。
 つまり―― 作戦が上手くいかなければ、窮地に立たされるのは惠の方。
「どの辺まで種明かししたのかな」
「僕らが出会ってからのほぼ全部。雨の日のこととか、パルクールレースのこととかも」
 極力、淡々と、できる限り感情を絞り込む。暴れ出しそうな感情を押し込めて、ゆっくりと、噛み含めるように告げる。
 逃げの一手はいくらでも打てただろう。初めて会ったあの日のように、うやむやに流すことだってできたはずだ。僕の疑念を避けながら、今まで通りのつかず離れずを保つこともできたはずだ。
 でも、危険を知りながら、君はここに現れた。
 つまり、この場そのものが、君の意志。
「……」
 ぐっと待つ。
 僕らの間には濁った夜が流れている。それは幕であり、霞であり、暗転した舞台でもある。その先は目に見えず、手で掴めず、有利不利、幸不幸も不明瞭。
 けれど、無ではない。たどり着く先は必ずある。
 たとえ君が、どんなに――
「……ははは」
 乾いた笑いが、惠の口からこぼれおちた。
「っは、あははは! なるほど! なるほど、全部聞いたんだ!」
「え……」
 予想以上の大声が響く。
「長かったよ。本当に、長かった! やっと終わってくれたんだね!」
 堤防が決壊するかのように、静かな夜が震えだす。落ち着き払った仕草は吹き飛び、夜を被った白い腕が広げられる。
 わざとらしい嘆息がひとつ。
「もうね、一日一日が退屈で仕方なかった。僕には君たちの行動が手に取るようにわかるからね。君たちが必死になればなるほど、その姿が無様で無様で」
「……惠」
 声だけが庭を鳴らす。彼女を中心に悪意が渦を巻く。僕ではなく、空をめがけて吐き出される独白。
「もともと、僕は趣味が悪くてね。真耶の思い通りになる人々を観察するのが好きなんだ。だから彼女に協力している。今回の件は僕の嗜好を十分に満たしてくれたよ。六人揃って騙される姿は、いっそ壮観ですらあった」
 まくしたてるのは、絆を裂くもの。矢継ぎ早に降り注ぐそれには、哄笑が混ざる。
「同じ痣があるから仲間? 随分と舞い上がってるじゃないか! まったく、扱いやすい単純思考には反吐が出るよ!」
 痛いところを突かれ、思わず唇を噛む。同じ呪い持ち、惠を誘ったのは本当にそれだけだったから。
 僕らが人を信じるには、普通の人とは違う理由がいる。呪いという共通項は、僕らの信頼の原点でもあった。
 ……呪いは、相手の誠実さを保証しないのに。
「特に智、君だ。僕が台詞を読むだけで勝手に盛り上がるし、顔を赤らめるし、変に気を回すし、まさに滑稽の一言に尽きる」
 朗々と、滑らかに。るいあたりが聞いたら殴り飛ばしそうな、あからさまな侮蔑の嵐。
 確かに僕はバカだった。それは認める。だけど――
「考えもしなかっただろう? 僕が君で遊んでいると! 騙される君を嘲笑っていると! 君はまさに玩具だった、至高の人形だったよ!」
 聞くに堪えない悪口、人でなしの思考回路。あまりにもふざけきった、僕らへの呼称。
「玩具、って」
「そう、玩具だよ! 君たちの言動、考え方の流れ、選択、全てが僕らの玩具だ!」
 怒りに、全身が総毛立つ。
 これほどふざけた話もない。
 僕らを弄び、蔑み、見下して、表面だけいい顔をして、操って。
 こういう展開の予想もしていたけれど、いざ直面すると、冷静さが吹き飛んでしまう。
「偶然も奇跡もありはしない。全ては真耶と僕が仕組んだこと。情報弱者の君たちは、本当に気持ちよく踊ってくれた」
 歪な嗜好を謳い文句に、次々と言葉を重ねていく。一貫性のある悪意が、惠の喉をふるわせ続ける。
「この数日間、どれだけ君が醜態をさらしてくれたか! 君が無防備に罠を堪能するたび、僕は楽しくて仕方がなかった! そして期待した、全てが崩れおちる瞬間、君がどんな顔をしてくれるのか!」
 高笑いが溶ける。頭に染み込んでくる罵詈雑言は、いやが上にも惠への憎しみを誘発する。
 彼女がどれだけ歪んだ表情をしているのか―― 見えないのは、いっそありがたい。
「今、僕がどんな気持ちかわかるかい? 最高の気分だよ! すべてが思い通りになったんだからね!」
 息継ぎの間に、けたたましい動悸が混ざる。警報なのか衝撃なのか、身体の至るところが騒ぎたてる。言葉として現われるのは怨嗟。形にならない意識まで、吐き気を伴う憎悪に染まる。
「さあ、智。君はどうする? わめくか叫ぶか、僕に食ってかかるか?」
 ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
「この場を逃げ出して、明日みんなに話をするのもいいかもしれない。六人そろってショックを受ける姿というのも見ごたえがあるね」
 くぐもった笑い声が反発心を煽る。

「惠っ……!」

 人間は、本当に流されやすい生き物だ。
 事実かどうかより、投げられた言葉のインパクトに引きずられる。
 耳ざわりの悪い言葉ばかりを投げられれば、投げた相手を憎んでしまう。
 肺と胃の中間で、黒々とした怒りが湧き上がる。血管に染み込んだ苛立ちは全身を駆け抜けて、僕の表情まで醜悪に変えていく。
 なんでこんな奴に気を許したのか。なんでこんな奴と一緒にいたのか。どうして見抜けなかったのか――
 もし、僕が何も考えていなかったら、激情のままに惠のほっぺたを鳴らしただろう。
 惠の狙い通りに。

 飛び出しそうになる買い言葉を必死で飲み下す。浅い深呼吸を繰り返す。
 ……落ち着いて。お願い、落ち着いて。
 僕は、知っているじゃないか。

「怒らないのかい? 智。それともショックで反応できない?」
「……怒れないよ」
 わざわざ口に出したのは、僕の中の雑音をけん制するため。一歩間違えれば惠のレールに乗ってしまう。その先に待つのは奈落の底。
「君らしくもないな。立ち位置と僕の正体がわかったんだ、即座に次の行動に移るべきじゃないか?」
 反応の悪い僕を蔑む惠。
 ……彼女は忘れてしまったんだろうか。
 古本屋での僕の問い。
『惠も、お芝居をしている?』

 大抵の人間は、今交わされた会話が嘘か本当かを確かめようとすらしない。
「発言は真実である」という前提を、無条件に信じてしまう。
 嘘であっても、人の心を動かすことはできる。嘘だとすら気付かせずに感情を誘導するのが、うそつき村の住人だ。
 惠はそれをよくわかっている。
 問われるのは、内容の真実性ではなく、相手の心を動かせるかどうか。その点について、彼女の技術は突出している。感情さえ操れれば、真実は意味をなさない。

 ……だけど、残念ながら、僕も嘘つきだ。
 そのからくりを、知っているんだ。

「怒れないんだよ」
「……なぜ?」
「君が嘘をついているから」
「……何……?」
「嘘だから。今、君が叫んだこと全部、君がでっちあげた嘘だから」

 カードを切れ。
 僕がこの数日間、ずっと考え続けてきたことを。
 たどりついてしまった答えを。

「お人よしだな、君は。しかし、真実がいかに残酷だろうと、受け入れなければならない時もあるだろうに」
「そうかもね。でも、嘘まで全部受け入れる必要はない」
「ありもしない希望にすがりつくのは危険だよ。真耶の話も聞いているんだろう?」
「聞いたよ。でも、姉さんと惠は別だ」
「全てが明らかになった。真耶の計画も明るみに出た。この期に及んで嘘をつく理由があると?」
「あるよ」
 一歩、踏み出す。
 二歩、三歩、惠の顔が見える位置まで歩み寄る。
 目線を上げて、しっかりと視線をかちあわせる。
「惠。君は嘘つきだね」
「ずいぶん拘るじゃないか。それが根拠?」
「違う。根拠は『惠がなぜ嘘つきなのか』」
「……っ!」
 はっきりと、惠が動揺を見せた。
 ……ああ、もう、間違いない。
 うそつき村に住むのは、実は相当に困難だ。世渡りを覚えた大人ならともかく、子供にはハードルが高すぎる。僕自身、かなりの葛藤と試行錯誤、危険を経て、ようやく住人となった。嘘を貫き通すのは、事実だけを話すより遥かに苦しく、辛く、よほどの意思と事情がなければ達成できない。
 それを乗り越えたのは、乗り越えなければならなかったのは―― たったひとつの理由があるから。
「惠。僕は、君の呪いに気づいてる」
「――――!」
 反射的に身を翻そうとする惠。けれど上半身を少しひねる程度で、それ以上は離れない。
 僕が、彼女の両手首をしっかり握っているから。視線に意識を集中させたその隙に捕まえていたから。
「……あ……!」
「残念でした」
 両手首をぐっと引くと、惠が再びこっちを向く。間近で見る瞳からはさっきまでの悪意がすっかり消えてしまっている。
 形勢逆転。
「ごめんね、思い通りにならなくて」
「……う、あ」
 悪意の代わりに広がるのは、怯え。惠の身体が小刻みに震えている。訪れる悪夢から身を庇うかのように背を丸め、頭を下げる。耳を塞ぎたいのか、腕を動かす。今にも倒れそうなほど弱々しい。
 ……わかっている。これから僕が突き付けるのは、彼女が一番言われたくないこと、知られたくないことだ。僕に憎まれ、嘘八百を並べ立ててでも隠そうとした、惠を貫く制約。
 言うことが正しいかどうかはわからない。ただ単に、惠を傷つけるだけかもしれない。
 それでも―― 僕は知っている。
 嘘つきな僕たちは、嘘が発覚するその日を、恐れながら、憎みながら、待ちわびているのだと。
 ぐっ、と息をのむ。内臓を一段下げるイメージで、全身を落ち着かせる。

「君の呪いは――『真実を語ってはならない』」
 
 惠の動きが止まる。
 夜が止まる。
 僕はそのままじっと立つ。
 ……惠には、大きな誤算があった。
 造りものの中で、僕が彼女に抱いた感情。誰にも本音を明かさず、どうでもいい存在であり続けようとした彼女に、僕が抱いた思慕の念。本来ならば嫌われる要素である「嘘つき」が結んだ縁。好奇心の枠を飛び越え、覚悟に結びついた想い。
 どれほど彼女が嘘を重ねても、僕はそれを見失わない。
 僕は、惠を信じている。嘘つきの裏側の彼女を、まだ見えない本心を、信じている。
「……」
 やや間が空いて、身体が下に引きずられた。
 惠が膝を折り、へたりこむ。合わせて僕も芝生に座る。
「……どうして……?」
 絞り出すような儚い呟きが、地面に吸い込まれた。