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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act11 「誰でもない誰かのおしまいに」  


 離れからの香の流れに怯えるかのように、木の葉が揺れる。懐かしいという感傷を抱きたくない香りだ。甘い、と表現される毒の香は、きっと今も彼女をゆらゆらと取り囲んでいるのだろう。なんという名前の香なのか、どんな効果があるのか、僕は聞いたことがない。聞くことに意味を見出せなかったからだ。ただ、彼女はもはやこの香の鎖から解き放たれることはない、それを知っているだけで十分だった。香が麻薬の一種であるなら、然るべき治療を施せば助かるのかもしれないが、人に見られてはならない呪いを持つ彼女にはそれも叶わない。決して良いことではないと知りつつも、香を切らさないようにするしか術がない。要は、どうすることもできないのだ。
 ……そして、それをいいことに、僕は彼女の能力を使い続けてきた。彼女からの依頼を受けたこともあったけれど、大抵は僕から要求した。彼女の指示通りに動けば足が付くことも失敗することもなかったし、何より『指示通りに動けばいい』という、一種の安心感があった。
 もちろん、彼女の指示だろうと僕の意志だろうと、犯し続けた罪の重さは変わらない。けれど、自分の意志で全てを完結させなければならなくなった今と比べると、当時はどこか浮ついたものがあったように思う。多分、無意識に彼女という保証にすがっていたのだろう。
 人殺しの片棒をかつがされているというのに、彼女は何故か僕の要求を拒むことはなかった。どうでもよかったのかもしれないし、手を貸さないと自分が危険にさらされると思っていたのかもしれない。いずれにせよ、そこには信頼や情というものはなかったように思う。お互い、それぞれの抱える深淵には踏み込めないし、踏み込まなかった。
 生き汚い僕と、心を病んだ彼女。この屋敷は、それ自体が呪いの園。僕が離れた今も、景色と構図は変わらない。
「……う、ふ、ふ……帰ってきたのね、惠……」
 離れから響くけだるい笑い声。音量は決して大きくないのに、こちらに及ぼす影響はなかなかに大きい。引き出されるじわりとした感覚は、ハンカチを水たまりに落としてしまった時に似ている。慌てて水滴を払っても既に染みこんで取り除けない、そんな奇妙な居心地の悪さだ。
「変わりはないかい? 真耶」
「……っふ、うふふふふっ……バカね、気遣っているつもり……?」
「意味をなさずとも、挨拶は礼儀だろう」
「礼儀……っふふふふ……そんなものまで、気にするようになったのね」
 真耶の言葉は蛇のように絡みつく。彼女は表面的な感情のコントロールをしない分、本心がそのまま音になる。あからさまという言い方もできるだろう。温度、抑揚、内容……その端々から、僕をどう思っているのかが伝わってくる。
 改めて、蔑まれているのを確認する。二人の関係を思えば当然の結果だし、今さら修復などできるはずもない。
 となれば、さっさと本題に入ったほうが良さそうだ。葉擦れの音は慣れていてなお心を不安定にさせる。
「真耶。君は最近、どんな未来を視ていた?」
「……どういうことかしら?」
 求めに応じ、もう少し踏み込む。
「君は、今日僕たちに起こった出来事を視ていたのか? 視ていたとしたら、いつから、どこからだ?」
 あえて直球で聞く。その方がより明確な答えが引き出せるだろう。
 もし、智の見た夢と真耶が見た未来が同一であるのなら、智は真耶の干渉を受けたということになる。まずはそこを確かめなければならない。二人の能力が似通っているのは事実だし、香による異常な状態が能力にまで影響を及ぼしている可能性もないとは言えない。
「……」
 間があった。
 ……それは、真耶が理解するための時間。
「……っふ、ふ、あはははははははは!」
「!?」
 沈黙を破ったのは、けたたましいほどの哄笑だ。
「そう、気づいたのね、惠……! うふ、あははははは……! そうね、いずれは分かることだったわね……!」
「何?」
 突然の変貌に気圧される。
 何だ、一体? 僕は何か聞いてはいけないことでも聞いたのか?
 彼女が動いたのか、香が一段と強くなる。思わず一歩後ずさる。彼女の手に頭を掴まれるような幻覚を見る。慌てて首を振り、意識を引き戻す。
 狂気が花開いた――そんな毒々しい笑い声が空気を歪ませる。
「う、ふふふふ……教えてあげるわ、惠。私よ、全部、私が引き寄せたのよ」
「引き寄せた……?」
 耳慣れない、真耶が口にしたことのない言葉に眉をひそめる。
 どういうことだ? 真耶は未来を見ることができるとは聞いていたが、引き寄せるとは……?
「う、ふ、ふ、ふ。そうね、惠、あなたは私の能力を『未来を視る』だと思っていたのよね……うふふ、本当は違うのよ」
「違う?」
「ちがう、違うわ……っふふふふ」
 耳を疑う僕に腹の底からおかしそうに笑う真耶。両者の温度差は激しい。
 真耶はさも当然のように言葉を続ける。
「うふふっ……ふ、ふ。私はね、未来を視るわ。そして、視えた未来から好きなものを引き寄せることができるの。人の心までは操れないけれど、未来を操って思い通りにすることはできる……たとえば、そうねぇ、誰かが裏SNSを見られるようになったタイミングで、どこかに強盗が来るようにするとか、ね」
「!」
 ぐらりと視界が揺れる。慌てて両足を踏ん張って耐える。
 ……今、なんて……?
「っふふふふ……簡単よ、とっても簡単。だって、視えるんだもの。あなたと智がどこで何をしているか、視えるんだもの。視えるなら、引き寄せられるわ。ここに戻ってこさせることぐらい、簡単なのよ」
 鼓動が脳まで響き渡る。
 真耶の言葉が与太や妄想でないと、僕は知っている。嘘などつかないと知っている。
 託宣――未来を視る巫女のお告げ。
 僕はずっと、真耶の能力をそういうものだと思ってきた。前の主人がそう言っていたし、既に病んでいる彼女に確かめる必要も感じなかった。
 ……まさか、彼女の能力を誤解しているなんて、思わなかった。
 真耶にしてみれば、わざわざ訂正する必要もないし、そのままにしておいたほうが何かと便利だったのだろう。
『見える』と『引き寄せる』では、できることが圧倒的に違う。そして、それを知っているかいないかで、取れる対策は大きく変わる。
「そんな、ことが……」
 確かに、妙と言えば妙だった。裏SNS自体はずっと前から存在しているもので、悪意に満ちた計画も常に溢れていた。それに、屋敷に僕という主人がいなくなってから何ヶ月も経っている。その間に狙われなくて、僕たちがアクセスした時にバッティングしたというのは、偶然にしてはできすぎだ。
 けれど、それがもし偶然ではなかったら? 誰かが恣意的に招いたものだとしたら?
 真耶は、それができるという。事象を操り、舞台を整えることができるのだと。
 じゃあ、あの計画は、強盗たちの行動は……。
「真耶、君は」
「ええ、そうよ。ここに強盗を呼んだのは私。あなたたちが裏SNSに行ける様になったタイミングで、あの愚か者たちがここを知るように引き寄せた。何も知らない愚か者、当たり前のようにここをターゲットに選んだわ。そして、その情報があなたたちに伝わるように仕向けた……うふ、ふ、ふ」
 真耶は笑う。自分のしたことをわかった上で、笑う。
「その情報を見て、惠はここに来ることを決めた……私の、狙ったとおりにね」
「……」
 いつの間にか握り締めていた拳の中で、爪が刺さる。
 踊らされていたのか、僕は、僕たちは――
「だから次に、智に教えてあげたの。行ったらどうなるか、いくつもの道を見せてあげたの。だって、私が視えるものは、智にも見せてあげられるんだもの」
「……何?」
 さらなる事実をするりと明かす。彼女にとっては当然で、僕からすれば驚愕の種明かし。
「私と智は、二人でひとつ。能力も、呪いも、二人で分けあっているわ。だから、私が視て、智に教えてあげているの……いつも、そうよ。智は私を知らないから、勘だと思っているみたいだけれど」
「――――」
 にわかには信じられない。
 智と真耶が、同じ能力を分け合う……そんなことが、可能なのか。
「う、ふ、ふ……私と智は特別よ。双子として生を受けた私たちを、お父様が繋いだの。本当は、私だけが能力と呪いを持っていたけれど……もっともっと上手く使えるように、お父様が智にも分け与えたのよ。だから、智は私の力を使えるわ。いつだって、私たちは繋がっているのよ」
 与えられる情報は、あまりに突飛だ。いや、想像の範囲外だからそう感じるのか。
 智と真耶が双子――言われて初めて、その可能性に気づく。
 この屋敷の最初の主人は和久津という。それは僕も知っていたし、そのころから既にこの屋敷にいた。十分にヒントはあったのだ。それなのに思い至らなかったのは、病んだ彼女を知る僕が、無意識に思考をシャットアウトしたからなのだろう。
 情報は、意識しなければ知覚できない。和久津という苗字、屋敷の主人という材料があっても、その持ち主である僕が智と真耶の接点を考えようとしない限り、その情報は意味をなさない。
 迂闊だった。前回来たときに呪いについてもっと考えていれば、この答えに近づけていたかもしれないのに。
 ……いや、答えを知ったところで、結果は一緒か。
 智の能力の正体が掴めたことは収穫だ。けれど、それをはるかに上回る脅威が控えている。
 ……未来を、道筋を、意のままにする能力。
 真耶は、一体どこまでを引き寄せたのか。僕たちは、一体どこまで踊っていたのか。
 彼女の語りは続く。けだるく暗く、夜に響く。
「だから、見せてあげたの。私が引き寄せて舞台を整えて、智に教えてあげたのよ。でも、少し予想外だったわ。智に怪我はさせたくなかったのに、あんなことになるなんて」
「……」
 飾らない言葉が胸を刺す。
 智に対するいたわりと、その他の存在に対する冷徹さ。右と左それぞれに振りきれた針のように、両極端な感情が彼女の中に共存する。佐知子や浜江は切り捨てられる方、智は守られる方。何が線引きになっているのか全く分からないが、それが彼女の本音なのだろう。それについては、踏み込んだって仕方ない。
 ただ、気になるのは――
「……なぜ、そんなことを?」
 強盗が来ることそのものを、真耶は引き寄せたという。つまり、引き寄せなければ強盗は来なかったはずだ。元々来る予定だったものと僕たちのタイミングを合わせるならまだしも、わざわざそんな危険を冒す必要が一体どこにあるのか。襲撃によって自分が危険に晒される可能性はゼロではないというのに、なぜそんな危ない橋を渡るような真似を?
「……ふぅ」
 分かっていないとばかりに、真耶が呆れたため息をつく。
「……だって、あのまま放っておいたら、智が遠くへ行ってしまうんだもの」
「……」
 こともなげに言う。
「智の未来を視たわ。近いうちに組織から連絡が来て、智は引っ越すことになっていた。智が離れてしまうのよ。惠が連れていってしまうの。私はここから動けないのに、智がどんどん遠くへ……私の力がどこまで及ぶかわからない、ひょっとしたら、能力の届かないところまで、視えないところまで行ってしまうかもしれない……駄目よ、智。そんなのは駄目。そんな未来は許さないわ、智が私の手の届かないところに行ってしまうなんて、絶対に駄目」
 さっきまで抑揚のなかった口調に、熱がこもる。真耶の中にまだ残っている心が、ちろちろと蛇の舌のような火を作る。
「許すもんですか……う、ふ、ふ、ふ、智、逃さない、離さない……っふふふ。だから、引き寄せてやったの、遠くへ行けないように、この屋敷を、佐知子と浜江をダシにして、繋ぎとめてやったのよ。だってそれが、一番手っ取り早い方法だったから」
「な……!」
 御簾の奥の二つの瞳が、確かに僕を睨んでいる。見えないけど、分かる。
 ――憎悪と怨嗟と嘲笑に満ちた、視線。
「そうでしょう? 惠。あなたがあの二人を見捨てるはずがないものね……っふ、ふふふっ。まあ、万が一来なかったとしても、それはそれでよかったのよ……佐知子と浜江は死ぬけど、どうでもいい。その時は、また別の未来を引き寄せればいいだけ……う、ふ、ふ、ふ」
 背筋を冷たいものが走る。
 智をこれ以上離れたくない――そのためだけに、この屋敷を、住人を危機に晒したというのか。
 彼女の狙い。そのためならば、犠牲などどうでもいいという透徹した態度。そして、その真耶の壊れた心に沿って行われる、未来の選定。
「そして、惠と智はここへ来た。でも、智が怪我をする未来を選んだのは予想外だった……せっかく教えてあげたのに、仕方のない子。でも、来てくれたからいいわ。けれど、その未来ではまだ足りなかった……智はまだ外を向いたまま……怪我が治れば、やっぱり遠ざかってしまう未来だった」
 壊れた人間の敷いたレールが、まともであるはずがない。そこに乗せられた者が行き着く先も、当然、歪んでしまう。
 真耶は先を視る。現在を起点として、さらに思い通りになるように、蜘蛛の巣を張り巡らせていく。
「だから次は、逃がした男があの部屋の情報を得る未来を引き寄せたの。思ったとおり、彼は復讐に出たわ……う、ふ、ふ、ふ。あの部屋を、もう戻れないようにしてくれた……」
 真耶の台詞が熱を帯びていくのに反比例し、僕の心の温度が下がっていく。
 嘘だと思いたいのに、体験は彼女の言葉を裏付ける。
 屋敷の人間が僕たちの状況を真耶に伝えるはずがない。仮に伝えていたとしても、あくまで大まかな部分だけのはず。
 知ることができないはずのことを、真耶は知っていて当然のように語る。
 ……つまり、彼女は本当に、視ていたということになる。
 だと、したら……屋敷の襲撃も、あの部屋が荒らされたのも真耶の導きだとするなら……!
「もう、わかったでしょう……? あの子達が現れたのも、私が引き寄せたからよ。智はあの子達を気に入っていたみたいだから……うふふふっ、あの子達に囲まれれば、もうどこへもいかないと思った……そう、惠を捨てて、ここにとどまると思った……」
 目が乾いている。鼓動は遠くから響いているようで、全身は重力に取り憑かれたように重い。足はまるで木のように地面に根を張り、ぴくりとも動かない。
 呪われていたのだと――ここで、僕と智は呪われ続けていたのだと、知る。
 真耶は、ずっと智を見続けていた。双子であるがために、能力を分け合うというイレギュラーのために、爛れる一方の心の最後の一片として、あるいは狂気の源泉として、智の行く末を先読みし続けていた。
 知らないうちに、いいや、知らないからこそ、智は真耶の手の内にあった。そこから離れる未来が出てきたから、真耶は再び閉じ込めようとした。
 ……そこにある、大きな障害。
 智に遠くへ行ってほしくない、それが真耶の願いだ。
 では、智が離れる未来を作っている元凶は? この屋敷から離れ、田松から離れ、さらに遠くへ連れていこうとしたのは?
 気づく。気づいてしまう。
 真耶が僕に何をしようとしたのか、僕をどう思っているのか――
「そうよ、惠。全てはあなたと智を引き裂くため。あなたと智が一緒にいると、智が遠くへ行ってしまうの。そんなの許さないわ。だからあなたを摘む。智のためにあなたを殺す。確実に、智が見たくもないと思うぐらい醜く潰してやるの。簡単になんて死なせてやらないわ。う、ふふふふっ……生き地獄の果てに、惨めな骸を晒すのよ、それがあなたにお似合いだもの……っふふふふふっ」
 明確な殺意を向けられる。それは即座に爆発するものではない、けれどゆっくりじわじわと、確実に死に至らしめる。奈落への坂道を、静かに下らせる。
「ねえ……あなたが一人で来れば、ここで強盗に負け、ボロボロに犯されたのよ? 身も心も朽ち果てて、欲望のはけ口になって、前も後ろも完全に汚されて、吐いて、泣いて、叫んで、殴られ、蹴られ、踏まれ、四肢を砕かれてね。それでも元々死にぞこないのあなただから、一度は生き返るわ。そして、最後の生き汚さで相打ちになって――う、ふ、ふ、ふ。あなたの無様な死体を見た佐知子は狂うの。う、ふ、ふ……智が来る頃には、全部終わっているわ……智は解放されるの、もうあの部屋には帰らないのよ」
「……っ……!」
 真耶の憎しみをそのまま具現化した、あったかもしれない未来。
「でも、智もわがままね……せっかく惠が死ぬ未来を引き寄せて、教えてあげたのに、怪我をしてまで別の未来を選ぶんだもの……。本当に、困った子。智が望まない内に惠を殺しても、智と惠は引き裂けないのね。それでは意味が無いのよ。だから、今度は殺すより先に引き裂いてやることにしたわ。引き裂いた後なら、惠がどこで死のうと、智には関係ないものね……う、ふ、ふ、ふ、ふ」
 笑い声は、湿った喜びに満ちている。
 僕が死ぬ未来を導くのが、智にまとわりつく化物を排除するのが楽しいのだと、一言一言にあからさまににじませる。
 ……これが、真耶の狂気。同じ敷地内にいた頃は気付かなかった、彼女の本性。
 好かれているとは思っていなかった。道具扱いされているような気はしていた。情を抱いてもらえる立場ではないと理解はしていた。
 でも、呪われているとは思わなかった。こんな風に、死に方をデコレーションされてるとは思わなかった。
 双子だからというにはあまりに強い、智への執着。二人でひとつというくらいだ、彼女にとって智は半身のようなものなんだろう。
 その半身を奪った存在を許さない、徹底的に地獄を味わわせてやる――明確な意識から生まれた、数週間の事件の連鎖。
「……」
 怖い、のだろうか。
 胸の中を去来するのは言語化できない砂嵐。口の中が干からびる。
 殺意を向けられたことは幾度もある。命のやりとりを繰り返してきた身、突発的な殺意は慣れたものだ。
 ……だけど、これは違う。真耶が僕に要求しているのは、生命の終焉ではなく、消失だ。要は、僕と智が結ばれたことが気に入らなくて、邪魔だから排除したいということ。動けない、人前に出られない彼女がそのために行使できるのが未来視で、死という極端な手段を導けるということに過ぎない。
 僕と智を離れさせる――ここ数週間の出来事は、全てその一点のために導かれ続けた。僕や智、同盟や宮和だけじゃない。央輝も、姚任甫も、屋敷を襲った強盗も、部屋を荒らしたグループも、みんな巻き込まれた。他者に対し徹底的に冷徹な真耶だからこそできた、巨大な罠。
 真耶の作った蜘蛛の巣に、それとは知らずに絡め取られていた。全ては、僕を殺し、智を手に入れるため。
「……手を尽くしたんだね、真耶。おぞましいほどに」
「……ええ」
 ……けれど。
 そうまでしても、未来は不確定。
「……だが、結果は君の導きと異なった。そうだね?」
「……!」
「君は失敗した。だって、同盟は僕たちを迎え入れたのだから」
 語った言葉が、足場を作る。僕が立つ地面を作る。
 真耶の能力は確かに強大だ。運命と呼ばれる大きな流れを手中に収め、全てを思い通りにしようと働きかけることができる。
 しかし、真耶にできるのは、『舞台を整える』ことだけ。登場人物が『そこで何をするか』は操れない。
 同じ舞台に立っても、反応は人それぞれだ。そこに人がいる限り、可能性は無限大に広がっている。
「……君は、見誤ったんだ」
 胸に渦巻くものがある。
 それは、現実が教えてくれた答え。
「彼女たちは、確かに智が帰ってくるのを望んでいたよ。そのために君の敷いたレールの上を走り、再会までたどり着いた。そこまでは、君の望みどおりだ。けれど、そこから先に齟齬があった」
 神の御業か悪魔の所業か、和久津真耶の作った運命。ほぼ完璧だったはずのそれは、小さな、けれど確かなケアレスミスによって崩れ去った。
 すなわち、智の、みんなの望みの読み違い。
「彼女たちが求めていたのは、『智』じゃなかった」
 冬篠宮和はきっかけに過ぎない。結果はあの場にいた六人の想いの総体。
「彼女たちが求めたのは、智がいて、僕がいて、みんながいる、あの瞬間だった、だから」
 ――だから、運命は変わったのだ。
 誰もが理想の未来を描く。そこに向かって走り続ける。真耶の作った舞台の上であっても、それは変わらない。
 ……彼女たちは、僕という些細なパーツすら、自分たちの理想に組み込んでくれていた。真耶が排除しようとした僕を、みんなが待っていてくれた。
 誰かを排除して得られる未来など、誰も望まなかった。
「だから――智さえいればいいとは、一度だって思わなかったんだ」
 込み上げてくるのは、血液を巡る熱さ。
 まるで夢物語じゃないか。人殺しの業を背負う僕を、血を吐いて心配をかけた僕を、智を連れ去った僕を、それでもみんなは望んでくれた。起こした出来事ではなく、存在そのものとして受け入れてくれた。
 そして、智も。
 彼は言っていた。見せられた二つの未来を拒み、夢の主に怒ったのだと。僕が居なくなる未来を、彼は否定してくれた。見えなくても、与えられなくても、導かれなくても、僕がいる未来を探してくれた。
 だから、僕は今ここにいる。受け入れられた一人として、同盟のひとつのパーツとして、智の恋人として、ここに立っている。
「――みんなは、智は、君に勝ったんだ」
 知っていても逆らえないだろう未来操作の檻を、みんなが破ってくれた。一度は僕も真耶の奸計にはまりかけた、そこから引き出してくれた。
 真耶が誰よりも憎み、誰よりも消したがっていた僕を、みんなが助けてくれたんだ。
 思い知るのは、おぞましさと日々の確かさ。時間はどれほど短くとも、刻まれたものは深く、揺るぎない。
 ……それなら、これからは――
「なぜ……? なぜ? なぜ、なぜ、なぜなの!」
 何を言う前に、真耶が叫ぶ。
「真耶?」
「視えないの! もう視えないのよ! 智と惠を引き裂く未来が! 二人を引き離し、智を私だけのものにする未来が! どうして!? どうして消えてしまったの!? まるで歪に溶けた蝋細工のよう、もう何をしたって離れない、離れてくれない! 惠を殺す未来には、必ず智が邪魔をする、惠が死ねば、智も死んでしまう、何を使っても、どんなことがあっても、智は惠を手放さない……なぜ!? どうして!? どうしてなの、智! あなたは私のものなのよ、智! 私の智、智、智……!」
 解かれた罠は、そのまま仕掛けた当人を切り裂くのか。狂乱の叫びがこだまする。
「嫌よ! 嫌よ、嫌! 選びなさい! 私を選びなさい、智! 智! 私だけの智、他の誰も要らないのよ! どうしてなの、どうして分かってくれないの! 智、どうして、どうして……! どうして、惠を選ぶの! 智……智……!」  
 引きつった叫びで空気が揺れる。屋敷に届くか届かないか、智に聞こえるか聞こえないかの、きっと真耶に出せる最大限の大声だ。
「駄目よ智! 私でなければ駄目! 私が消してあげるのに! 邪魔者は全て、私が殺してあげるのに! なのにどうして嫌がるの! 智、私よ、私だけよ、他はみんな、私に殺されるのよ! 智、智、私を! 私を……!」
 全能を主張するも、彼女の前には僕がいる。摘み取ろうとしてできなかった僕がいる。
 ひょっとしたら、声を聞きつけて智が来るかもしれないな……静かに、そんなことを思う。
 真耶の狂気の様を聞いても、何故か心は穏やかだ。ちくりと痛むものはあるものの、彼女に引きずられるようなことはない。
 上を見る。十分に葉が生い茂った木々の隙間からちらりと覗く宵闇と、点のような星々。
 全ては神の思し召し、なんて言葉がある。諦めとして使われることもあれば、受容として使われることもある。僕の目の前にいるのは、運命を操るという意味においては神にすら近い存在だ。けれど、彼女はどうしようもないほどに人間で、だからこその未来を引き寄せた。
 それは、人間『和久津真耶』の願い。人の願いが導いた運命は、同じく人の願いによって破られる。
 彼女の真の願いは、おそらく叶わない、叶えられない。他でもない彼女が織りなした運命は、そういう道を作り出してしまった。
 ……僕が今立っている、この道を。
 掛ける言葉は見つからない。彼女にとっては、僕こそが最大の運命の壁だ。破壊する術を必死で探している最中なんだから、何を言われたって腹が立つだけだろう。
 踵を返し、戻ろうとする。
「……守りなさい」
 僕の背に向け、真耶が呟く。
「私はあなたを許さない。どこにいたって呪い続けるわ、永遠に逃しはしない」
「……」
「だから、智を守りなさい、惠。その命が尽きる時まで、全身全霊を、あなたの全てをかけて、智を守りなさい」
 狂気の殻の内側からの、静かな指示。
 振り返る。御簾の向こうの彼女がどんな顔をしているのか、僕は永遠にわからない。ただ、嘘はつかないと知っているだけだ。
 真耶は心を病んではいても、失ってはいない。取り繕ったりもしない。
 だからこれは、彼女が僕にする、最初で最後の本気の頼みごと。
 まともな意思疎通すらしたことがなかった二人が行う、たった一度の意見交換。
 見えないと知りながら、大きく頷く。
「……そうだね。その願いなら、叶えられるかもしれない」
 曖昧に、けれど確信を込めて、真耶に誓う。

 部屋に戻ると、案の定、智は起きていた。ベッドに腰掛けて枕を両手で抱きかかえて、ちょっとふくれっ面をしている。
「……どこ行ってたの?」
「想いを巡らせるときには、身体が自然に動くものなんだよ。歩いたほうが脳の働きが良くなるとも言われている」
 ぱちん、と部屋の電気を点ける。暗い中で話をすると、どうしても流れが悪い方へと傾いてしまうし、受け止め方も偏る。なんだかんだで、環境は心理状態に大きな影響を及ぼすものだ。蛍光灯の灯りにムードはないけれど、これから言おうとしていることの内容を考えればこちらの方がいいだろう。
「惠、なんかすっきりした顔してる」
 明るくなり、僕の表情がよく見えるようになったからだろう。智が不思議そうな顔をする。
「心の有り様は表情に現れるというからね。そんなに変わっているかい?」
「ん。なんていうのかな……今までずーっと考えてたことが決着したみたいな、そういう感じ」
「鋭いね」
 思わず苦笑い。気恥ずかしいような、安心するような、複雑な心境だ。
 智の隣に腰掛けると、智は肩に頭を乗せてくる。
「……聞かせて?」
 上目遣いで、甘えるように問う。軽く頭を撫でてあげると、少し頬を赤らめる。
 きゅっ、と服の上から袖を掴まれた。あまり意味はないのだろうけれど、なんだか支えられているような気持ちになる。
 傍にいるから平気だと、そう言ってくれている気がする。
「……少し、長くなるかもしれないけれど、大丈夫かな」
「うん、いいよ。惠の話聞きたいな」
「……ああ」
 小さなため息をひとつ。たいしたことではないんだろうけど、緊張する。
 ――語るべきことは、たったひとつ。けれどそこに至るまでに、山ほどの話をしなければならない。本当は要らないのかもしれないが、僕の気持ちとして、歩いてきた心の道のりを確かめておきたい。
 考えてみれば、自分の在り方について話すのは初めてに近い。多分、智との仲が深まっていく過程で明かしたものぐらいだろう。それだって、あくまで表層、事実の一面に過ぎなかった。
 呪いがそれを禁じていたから――もちろん、それもある。けれどそれ以上に、自分で自分に課してきた、逃げ場としてきた定義がある。
 すなわち――『才野原惠は存在してはならない』という、矛盾。
「ここを飛び出してから、色々なことがあった。住む場所、行動範囲、共に歩く人物、生きるがための手段の取り方……全てが未知の世界だった。その中で手を取り合い、二人は歩いてきた」
「うん」
「そこにあった必死さについては、今さら語ることでもないだろう。二人は常に背水の陣を敷きながら、細々と訪れる依頼をこなし、立場を固めていった」
 思い返すのは、組織に連絡を取った日のこと。生きるための手段を確保すべく、闇と呼ばれる世界に足を踏み入れた。命の上乗せのために培った、人殺しとしての能力を交渉材料として意識したのは、あれが初めてだ。
 思ったよりも上手くいったというのが、振り返っての感想だ。それだけ人手不足だったのか、誰かが手を貸してくれていたのか。
 ともあれ、僕たちは殺し屋として組織に認識された。依頼をこなしていくに従い、その認識は裏社会に広がっていった。
 神も仏も幽霊も怨霊も幻想と切って捨てる裏社会において、殺し屋は現実の脅威だ。その正体はあくまで『人間』であり、どこかで生活を営んでいる実在の人物。金銭的な交渉が通じるし、住処もある。会おうと思えば会えるし、潰そうと思えば潰せる。しかも、組織に在籍するとなれば、名前も家族構成も外見的特徴もしっかり把握されることになる。だからこそ恐れられるのだ。どこそこの誰かは何人殺したという事実は、超常現象よりよっぽど確かな脅威の証明。
 真耶の指示に従い命を摘んでいたころとは大違いだ。裏社会に入ってからの命の上乗せは全て『仕事』として僕たちと明確に関連付けられている。黒い王子様とか吸血鬼とか、学生の間でまことしやかに囁かれる『噂の誰か』は、『組織に所属する殺し屋』という形を持った。
 今にして思えば、その時点で無意識に理解していたのだろう。自らに課してきた定義の過ちは、裏社会での日々を過ごせば過ごすほどに明確になる。ただ、それでも目を背けることは可能だった。
 ……それをできなくしたのが、この数週間の出来事。
「この数週間はね、智。この屋敷にいる真耶が仕組んだことだったそうだよ」
「え!?」
「真耶によると、君と彼女は能力を共有しているらしい。君が見た夢の声というのは、おそらくは真耶の声なんだろうね」
「……そうなの?」
「ああ。真耶については、別の機会にゆっくり語ることにしよう。君はきっと驚くんじゃないかな」
「……ん、わかった。じゃあ今日は、惠の話を聞かせて」
 引っかかるところはありつつも、智は了承してくれる。
 真耶と智の関係については、近いうちに話さなければならないだろう。双子の姉が生きていることを知らずにいるのはあまりに可哀想だし、真耶に対しても示しがつかない。彼女が自分を選ばなかった智に会いたがるかどうかという問題はあるが、それはまたおいおい考えていくことにしよう。
 今語るべきは、そこではない。本題は、真耶の紡いだ運命が僕にもたらした、ひとつの認識と覚悟について。
 どう語ろうかと考えて……よく使っている、物語の形を取ることにする。
「真耶の導きにより、物語が生まれた。それは今まで身につけていなかった手段であり、触れたことのない矜持であり、改めて確かめた縁だった」
 一旦言葉を切る。
 ……ここからは、さらに慎重に慎重を期さなければならない。まさに綱渡りの状態だ。一歩間違えれば呪いを踏む。
 それだけじゃない。語ることで、智に聞いてもらうことで、僕は長年連れ添ったもの別れを告げることになる。手放すべきものとはいえ、痛みを伴う行動には勇気が要る。
 一度、智の手を握る。そして離す。
 伝えたいのにそのままは口にできないもどかしさを噛み締めながら、一言一言を積み上げていく。
「……物語には、二人の登場人物がいた。一人は和久津智。もう一人は、自分自身を誰でもない存在だと思い込んでいる、哀れな亡霊だ」
「……」
「その亡霊は、この屋敷にいたころから、常に他人の服を着用していた。何をするでもなく、ただ日々を漫然と過ごすだけ、しかし死ぬことは望まない。亡霊は、生きてはいたけれど、何かになろうとはしなかった。自我も意志も判断力も嗜好もある癖に、その全てを放棄し、ただただ『誰でもない存在』であろうとした」
 亡霊なのに、生きている。その矛盾こそが僕の矛盾だ。
 智に以前語ったことがある。誰のものでもない命ならば、姿もそれにふさわしくあるべきではないかと。それはなにも外見に限ったことではない、内面だって同じこと。命を奪い、混ぜ込んでいく存在は、個人であってはならない。誰かの趣味趣向や、誰かの興味、誰かの考えによって立ってはならない。
 そう。
 最初の一人を殺したあの日に、僕は無意識のうちに決めていた。
 ――もはやこの場に『自分』というものはない。あるのは、『誰でもない誰か』だと。
 そんな馬鹿げた嘘を、ずっと自分につきつづけてきた。だから僕は何にも興味を示さなかったし、執着もしなかった。誰でもないんだから、当たり前のことだ。
「亡霊は、『誰でもない誰か』として生きていた。心は冷え切り、感情と呼べるものも萎えていた」
 嘘も百回繰り返せば真実になる。自分に課した『誰でもない誰か』という定義は、嘘からやがて真実に、前提になった。
「しかし……数週間前、亡霊に変化が起こった。真耶の導きにより屋敷に戻ってきた亡霊は、智のためという名目のもと、家事の技術を身につけたんだ」
 智の怪我で、僕は自分が人間を知らないのだと悟った。人間である智と生きるには、人殺しの技術だけでは到底足りない。幸い、浜江という家事仕事のエキスパートが傍にいた。渡りに船とばかりに、僕は彼女から技術を学んだ。
 なぜそんなことができたのか。誰でもない誰かであろうとあらゆるものに目を耳を閉ざしてきたのに、なぜあんなに素直に二人に頭を下げ、花嫁修業のような真似をし始めたのか。
 ……何のことはない。気づいてなかっただけで、定義はとっくの昔に破綻していたからだ。
「その後、亡霊は智と一緒に部屋に帰ったものの、そこは既に真耶の手により破壊されていた。仕方なく戻ってきた二人は、そこで新たな依頼を受け、尹央輝と姚任甫に出会った。そして、依頼後には同盟の皆と再会した。そこで脱落するかと思われた亡霊は、同盟の手によって繋ぎ止められた。亡霊は驚いたよ。だって、自分はあくまで亡霊であって、実体なんかないはずなんだ。ないはずの手を握られて、舞台へと引き戻される……そんなことがあると思うかい?」
 謎掛けのようにして、言葉を切る。
「……あるよ」
 ゆっくりと、手を重ねられる。
「だって、その人は自分を亡霊だと思い込んでいただけなんだ。その人にとって自分自身は亡霊でも、周りから見たられっきとした一人の人間で、仲間なんだ。仲間の手を取るのは、当然のことでしょ?」
「……ああ。その段になって、ようやく亡霊は気づいたんだ」
『誰でもない誰か』は、閉じこもるための殻だった。殻と中身は同じではない。だというのに、当人はそれに気付こうともしなかった。
「自分は『才野原惠』だった。自分の歩んできた道は全て、才野原惠という一人の人間のもの。『誰でもない誰か』なんて亡霊は、とっくの昔に消えていたんだ」
『誰でもない誰か』という自分は、世界に自分しかいない場合にのみ成立する。逆を言えば、自分が一人ではないのだと確信した瞬間、その前提は崩れ去る。
 そう、つまり。
「才野原惠は同盟の一員。同盟のみんながそう認識した時点で、亡霊は実体化していた。だって『誰でもない誰か』なんて意味のわからないものを、仲間だと思うわけがないんだから」
「そうだよ、惠。僕がここにいるのだって」
「ああ。いくら君でも、『誰でもない誰か』を好きにはなれない。 同様に、『誰でもない誰か』じゃ智は愛せない。愛情は、あくまで個人が抱くものだ。誰かに愛情を抱いた瞬間、『誰でもない誰か』は完全な机上の空論になる」
「随分長い間、亡霊さんは誤解してたんだね」
「ああ。周りはとっくに認めているのに、本人だけがなかなか気づかなかった。ひょっとしたら怖かったのかもしれない。自分というものを認識してしまえば、『誰もない誰か』という亡霊に押し付けていた罪の意識を全て背負いこむことになるからね。けれど、それもまた生き方だ。この数週間で多様な生き方に触れたことにより、亡霊はやっと、生き方を探す気になった」
 この数週間は、生き方に出会い続けた日々だった。
 帰らないかもしれない主の部屋を、いつまでもきれいにし続ける佐知子。
 苦しみ人の世に逆らい続ける、愚かな幼子の成長を見守り続ける浜江。
 裏社会にあっても、義と変態の精神を失わない姚任甫。
 組織という後ろ盾や取り巻きが居ながらも、一匹狼を貫く尹央輝。
 何も明かしてもらえなくても、愛を信じると語る冬篠宮和。
 裏切り同然の形で姿を消した二人組を、それでも温かく迎え入れてくれた同盟のみんな。
 叶わぬ願いと知りながら、智を求めて未来を手繰り寄せる真耶。
 色んな生き方があった。どれが正しいとか間違ってるとか善とか悪とかじゃない。みんなそれぞれ、『自分』としてこの呪われた世界を生きていた。
 触発されたのかもしれない。ぐずぐずと殻の中でいじけている僕を、多種多様な在り方がつっついてくれたのかもしれない。
 そして、何よりも――
「人の世に弓引く愚か者を、いつまでたっても自分自身を認めようとしない愚か者を、それでも支えようとしてくれた、和久津智。かの者の想いを受け、亡霊は今ここに、やっと己の生を得た」
 真耶は言った。もう僕と智は引き裂けない、引き裂く未来が見つからないと。
 それは多分、真耶が導いたこの道程で、僕が僕になったからだ。
『誰でもない誰か』という幻想を捨て、この呪われた生に、在り方に、真っ向から挑んでいこうと決めた今なら、何があったって智を手放さないと誓える。それは真耶にとって、崩すことのできない障壁ができたことを意味する。
 だから真耶は頼んだのだろう。
『智を守りなさい』――それは、彼女なりの呪われた祝福。
「……智。君は望んでくれるかい? 才野原惠が智の隣で生きることを、もう二度と、君を置いていかないことを」
 視線を合わせる。染み入るように、見つめ合う。
「……ふ、ぇ」
 智の目から、涙が零れ落ちる。
「惠……めぐ……っ、ひっ、ぅ……!」
「……え、あ、あれ?」
 いきなり泣き出された。
「惠ぅっ……!」
「うわぁ!?」
 思い切り抱きつかれた。そのまま後ろにひっくり返る。
 ぎゅっと、きついぐらいに服の合わせ部分を握られる。温かい感触が胸元にあるのは、智の涙が服に染み込んでいるからだろうか?
「めぐ、めぐ……! っと、やっと、やっとここまで来てくれた……!」
「……智……?」
「良かったよぉ……これで、これでもう、僕、ぼく……!」
 胸にすがるようにして泣く智。位置関係もあって、なんだか女の子に抱きつかれてるみたいだ。前々からそんな風に思ったことは何度もあったけど、今日はまた一段と女の子らしい。なんて言ったら智は怒るんだろうけど。
「っく、ひっく……惠……めぐむぅ……!」
 じわり、と目頭が熱くなる。多分智に影響されたんだろう。あるいは、こうして智が僕を認めてくれていることが嬉しいのか。
 ……どっちでもいいか。
「智……本当に長い間、君は待っていてくれたんだね」
 絹糸のような髪に指を絡ませながら、ひとしきり静かな涙を流す。泣くと目の奥が引き攣れるんだなと、今更ながらに確認する。
「……あのね、惠」
 僕の胸に頭を乗せたままで、智が独り言ぐらいに小さな声で語り出す。
「……僕、惠にずっと言わなきゃいけないことがあったんだ」
「言わなきゃいけないこと?」
「うん。すごく単純なことなんだけど、怖くて」
 服を掴む手に力が入る。
「……あの日、僕が三宅の命を惠に捧げた日のこと、覚えてるでしょ?」
「あれを忘れろというのは、なかなか難しい要求じゃないかな」
「あのときね、僕、わざと聞かなかったことがあるの。絶対に確かめなきゃいけないことだったのに、君の答えを聞くのが怖くて、そのまま突っ走った」
「……何を、聞こうとしたんだい?」
「惠は生きたいかどうか」
「……」
 服を掴む手にさらに力がこもる。
「あの日、惠は死ぬ気だった。君が決めたことだから、僕もそれに従おうと思ってた。……思ってたけど、駄目だった」
「智……」
「三宅がね、僕が助けてしまった三宅が、僕だけじゃなくこよりまで脅迫していたんだ。人を殺すのはいけないことだけど、三宅を放っておいたら僕たちはどんどん不幸になる。惠を止めなければこよりやみんながピンチになることもなかった、死ぬ思いをしても懲りない三宅を止めるにはそうするしかない、だけど人は殺しちゃいけない……そんな感じでぐるぐる回って回って、わけがわからなくなって、だけど時間は待ってくれなくて、惠は死にそうで、答えは出なくて」
 胸元に広がる温かい湿り気。智がまた泣いている。
 と――顔をあげる。なんだか変な体勢で、二人の視線がかち合う。
「だから僕、考えて考えて、自分が一番強く願うものに従うことにした。どれを選んだってきれいな展開にならないのなら、せめて自分だけでも満足する結果が欲しかった。……ものすごいエゴだと思うけど」
「それが……三宅を」
「違う」
「……?」
「僕が願ったのは、『惠が僕の隣で生きてくれること』」
「あ……」
「僕は、惠に生きていて欲しかった。そのためならどんなことでもするって思った。人を殺す理由がほしいなら作る。一人では踏ん切りがつかないなら手を添える。それでも駄目だというなら、君の気持ちにだって逆らう」
 見つめる瞳の中にあるのは、昏い狂気。
 ――いや、違う。よく見れば、渦巻いているのは純粋な感情。
 それは智の願いだ。僕を求めてくれた智が、求め抜いた結果として得た光。ねじ曲がって見えるのは、他でもない智が、その想いに罪悪感を抱いていたから。
「死にたがってた惠を無理矢理連れてって、問答無用で復活させて、一緒に生きるという契りを結んで……でも、やっぱりどこかで怖がってた。罪がどうとか倫理がどうとかじゃなくて、単純に、こうすることで惠を裏切ってるんじゃないかって思った」
 智が従ったのは『自分はどうしたいのか』という原初の願い。思考の筋道を立て、あらゆる事態を、可能性を吟味した上で行動に移していく智にとって、その決断は揺るぎないものであると同時に、それまでの自分の在り方を否定するものでもあったのだろう。考えても答えは出ない問題だけど、だからって思考の源泉、本能的ですらある欲求に素直になっても良いものなのか。ましてやそれが、対象となる人物のそれまでの道をねじ曲げてしまうものであるなら、なおのこと疑念は消えない。おまけに最善策ではないと分かっているから、自己弁護もできない。
「惠が生きたいのか、聞けなかった。生きててくださいって言えなかった。だって、それを口にしたら全てが壊れてしまうかもしれない。惠がノーと答えたって、僕の気持ちは変わらない。そのとき、僕は君を裏切りながら君を生かすことになる。それっておかしいでしょう? でも、おかしくたって構わない。僕は惠に生きていて欲しい。今までずっと、それだけを願い続けてきた。だから一緒に命を摘むんだ。そうすれば、惠は乗せた命を粗末にはしないだろうから」
「智……」
 初めて聞く、智の想い。可愛らしい振る舞いと細やかな気遣いと少し激しい愛欲の後ろにあった、基板としてきた彼の矛盾。
 聞けば解決することだ。だからこそ聞けない。わかってしまうことが怖い。
 智は、あの日からずっと苦しみ続けてきたのだろう。生きたいのかどうか分からない恋人を支えながら、その身体を、命を求め続けて、正体すらわからない軋轢に揉まれ続けた。
 愛情というのは、時に横暴だ。真耶のそれが両手で足りない人数を巻き込んだように、いざとなれば他者を踏みにじることすら厭わなくさせる。智はそれを自覚していたからこそ、僕を踏みにじる可能性に怯えていた。それでも願いを捨てられず、狂気の上に張った薄氷を歩いていた。
「……もう、いいんだよね? 僕、もう、惠を裏切らなくていいんだよね?」
 確認のような、懇願のような、智の言葉。
 ……智は、僕を裏切ってなんかいなかった。ただ僕が気づかなかっただけだ。
 智に愛された才野原惠は、確かに生きたがっていた。訪れる恐怖から逃げ出そうとしたことはあったけど、それでも、生きたいという願いは捨てられなかった。
 だってあの日――僕は智が何を用意してくれたかわかっていて、彼の手を取った。
 病に蝕まれ、思考も矜持も倫理も遠ざかっていたあの時、僕は一瞬たりとも迷わなかった。
 それは、僕の原初の想い。『誰でもない誰か』という自己欺瞞の元に押しつぶしてきた一粒の願い。
 ――僕は、生きたい。
「大丈夫。君の悪夢も、もう覚める」
「本当に?」
「ああ」
 ゆっくりと身を起こす。智も起こして、向かい合う。
「智……辛かっただろう?」
「まあ、正直ちょっとしんどかったかな。でもいいんだ。惠がここまで来てくれたから」
 軽く、羽で肌を撫でるように弱音を零しつつ、その対極にある喜びを露にする智。
 ……満たされているとは、こういう気持ちのことをいうんだろう。自然と目頭が熱くなる。少しだけ頭痛がするのは、さっき泣いた名残だろうか?
「……智」
 ふと、思いついたことがあった。
 せっかくだから、今日。僕がやっとたどり着いたこの日は、きっと最適なはず。
「何?」
「共に歩む二人の儀式に、まだひとつ欠けていることがあるんだ。それをこれからやってみないか?」
「……回りくどくてよくわかりません」
「宗派や地域によって形は様々のようだし、記憶に頼って行うのだから正式とは言えないだろうけれど……まあ、信仰する神もいないし、けじめみたいなものだから、大丈夫だろう」
 流石に直接言うのは恥ずかしいので、分かるように婉曲表現を使う。
 智はちょっとだけ考え込んで、ぽんと手を打つ。
「んーと、じゃあ立ったほうがいっか。座ってるのは見たことない」
「なるほど」

 よいしょ、と立ち上がる。意外とノリノリだ。勢いがないとできないというのもあるかもしれない。
「ほら、今夜は月が輝いている」
「ほんとだ。ちょうどいいね」
 示し合わせたように、窓の中に月がすっぽり入っている。庭にいたときは気づかなかったのは、位置の関係か、空がちょっとだけ気を利かせてくれたのか。
「……えーと、こういうときってどっちがどっちに並ぶんだっけ?」
「どちらでもいいんじゃないかな。僕たちはどちらがどちらでも成立するかもしれない」
「それもすごい話だよねぇ」
「らしくていいじゃないか」
「そうだね」
 お互い、気恥ずかしさに顔を赤らめる。歯が浮くような口説き文句は随分覚えているのだけれど、本気でやるとなると気の持ちようが違ってくる。
「さて、それじゃあ――」
 深呼吸。
 謳うように、数多の人々が繰り返してきただろう、神父の言葉を紡ぐ。

「――汝」
「この誓を、神の導きによるものだと受け取り」
「常に彼の者を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく」
「その健やかなる時も、病めるときも、富めるときも、貧しきときも」
「死が二人を分かつときまで、その命の続く限り」
『かの者を愛し続けることを、共にあり続けることを――』

「誓います」
 ――誓います。
 重ねるべき一言は、重ならない。僕にそれは許されない。
 ……それでもいい。
 語らないということが、その誓いが真実であるという証明。
「……ふふ」
 自然と笑みがこぼれる。見えないけど、多分今まで生み出したことのない笑顔だ。向かい合う智も、やっぱり見たことのない泣き笑いの表情。
「祝福は得られたのかな」
「どうかなぁ。どっちでもいいんじゃない? 辛いことも、苦しいことも、どうにもならないことだって、やっつけてやればいい
「……頼もしいな、君は」
「惠がいるからだよ」
「……」
「あ、赤くなった」
「……い、いやだって、そんな面と向かって言われるとは」
「自分で言うのは平気なのに、言われるのはダメなの?」
「……参ったな、これは」
「ふふふ。これからもよろしくね、惠」
「ああ。二人の道に、幸多からんことを」
 ゆっくりと唇を重ねる。もう何回したかわからない、数える気もない想いの体現。
 けれど……多分、この一回は永遠に忘れられないだろう。
 永遠なんてないけれど、その甘い言葉を使いたくなるぐらいに意義深い口づけ。

 ――さあ。
 二人の日々を、始めよう。