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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 49 


「……今……何て……?」
 聞き間違いだと思いたかった。
 佐知子さんの唇を震わせた、彼女の意志。
 タチの悪い冗談で片付けたかった。そっちのほうが、まだ救いがあった。
 けれど、これは現実。佐知子さんの意志も本物。瞳を逸らすことなく、聞き洩らさないようにはっきりとした声で提案……いや、半ば強制する。
「今の惠さんは、屋敷を出るどころか、起き上がることすら困難な状態です。上乗せには惠さん自身が命を奪う必要があります。でも、もう外部から命を持ってくることはできません。だから、私が」
「バカなこと言わないでください!」
 一言一言から溢れだす悲痛な想いを受け止めきれず、裏返った声で止める。耳を塞ぎたくなる、こんな決断見たくもない。だけど佐知子さんも必死だ。一歩も引きさがらない、引き下がる気などない。彼女にしてみれば、僕が最後の砦。断られたら惠はどうなるか……追い詰められ、凝縮された苦悩が彼女を突き動かす。
「だって、もうこれしか方法がないんです! 今日命を乗せなければ、惠さんは明日にも死んでしまうかもしれないんです!」
「だからって、だからって惠がそんなの喜ぶと思うんですか!」
「わかってくれます! 惠さんなら、私を地獄から引き上げてくれた惠さんなら、わかってくれるはずです!」
 金切り声に近い、叫び声。なんとか平常心を保とうとするものの、到底無理な話。乾ききった涙腺が涙を絞り出そうとするせいで、息が苦しい。
「お願いします、智さん……! お願いしますっ……!」
 土下座するかのように膝をつき、身体を曲げ、頭を下げる佐知子さん。
 彼女の惠への忠誠心は、一種異様ですらある。ここまで来ると、忠誠というより盲信だ。
 熱意が判断を鈍らせる。そこまで言うのなら、なんて最悪の同情が芽を出す。八方ふさがりの自覚は、僕らの意識を粘りつく闇へと引きずりこんでしまう。
 ううん、ここでひるんじゃダメだ。佐知子さんの願いを聞いたりしたら、惠は……。
 身体の重心を落とし、質問を投げて震える心を押しとどめる。
「何でですか……? なんで、そこまでして……」
 佐知子さんが僕を見上げる。もう出しつくしてしまったんだろうか、目に涙はなく、どこか焦点がぼけているようにも見える。
「……私は、惠さんに命を救われたんです」
「救われた?」
「はい」
 苦痛に耐えるような表情をしつつ、佐知子さんは記憶を引きずり出す。ぽつり、ぽつりと言葉に変えていく。
「私はかつて、下卑た、下賤な女として使われていました。親の借金のカタとして、来る日も来る日も女を消費させられる日々。何人の相手をさせられたかなど、もう覚えていません。弟が一人いましたが、彼は外道どもの腹いせ道具として暴行と名のつくあらゆるものを受け、殺されました。気の休まる瞬間などなく、あらゆる場面で、あらゆる状況で踏みにじられ、はけ口として使われる。人間であることさえ忘れたくなる、生き地獄に沈んでいました」
「……」
「そこから私を救い出してくれたのが、惠さんだったんです。惠さんはあの場のクズを全て処分しただけでなく、気の済むまでこの屋敷にいていいと、ここで暮らしていいと言ってくれました。私がメイドを申し出なければ、きっとそのまま引き取ってくれたと思います。私が来たところで惠さんには何のメリットもないのに、見返りも何もなく、それが自然なことであるかのように、私を守ってくれたんです」
 紡がれるのは、僕の想像など到底及びもしない彼女の裏側。
 笑顔の奥に潜んでいた、超えてきた絶望の峡谷。
 そう……だったんだ。
 メイドさん二人がいつから働き始めたかなんて、全く考えてなかった。大貫氏が生きていたころからなんだろうぐらいに軽く考えていた。
 ……違ったんだ。
 この屋敷の状況からすれば、惠が新しく人を雇う理由もメリットもない。
 極論すれば、惠の仕事の過程で佐知子さんと出会ったのなら、助けるよりも手を下す方が得策という考え方だってできる。
 それでも、惠は佐知子さんを守ろうとした。奪うのではなく、守ろうと、支えようとした。
 ……なぜなのかは、おぼろげにわかる気がする。
 虐げられるものの辛さを誰よりも知っている惠。形は違えど、人間以下の扱いに落とされていた佐知子さんを見捨てられなかったんだろう。
 恐らく、佐知子さんはそれに気づいている。だからこそ、惠への感謝も、シンパシーも尽きない。
 彼女の忠誠心は、惠と佐知子さんの間に交わされた様々な思いの結果。歪んだ日々を送った二人だからこそ、通じ合えるものがある。下に敷かれた慟哭の日々が、佐知子さんを駆り立てる。
「だから私、決めたんです。何らかの理由で惠さんが命を奪えなくなったら、私の命を使ってもらおう。惠さんが一日でも長く生きられるように、惠さんの命のストックとして生きようと。それが今日なんです。私は惠さんの命を支えるために、惠さんの未来になるために、今まで生きてきたんです」
「……佐知子さん……」
「お願いします、智さん。私を、私の命を惠さんに捧げさせてください。惠さんの命としての役目を果たさせて下さい」
 声も出せず、首を横に振る。
 誰も望まない、何の希望もない、それなのに最善に近い選択肢。
 惠を失いたくない。それは僕も佐知子さんも同じ。そのためにできることがこれならばと、悪魔の囁きに傾いてしまう気持ちもわからなくはない。ずっと前から知っていて、覚悟を決め続けていたならなおさら。
 だけど、そうやって命を捧げられる惠の方はどうだろう?
 一人の犠牲で長く助かるならまだしも、今の状況では一日保たない可能性だってある。下衆だろうと佐知子さんだろうと、命は命。
 生きていたいという願い。そのために払わなければならない犠牲。
 人でなしなら、まだ自分に言い訳はできるだろう。法で裁けない奴らを裁くとか、虐げられた人々を救うとか、たとえ自己弁護であっても理由はつけられる。
 だけど、佐知子さんの犠牲は理由すらつけられない。彼女の想いが丸ごと、命とともに惠に注がれる。
 ……僕だったら、その重さに耐えきれない。もちろん、惠は既に幾重にも命を奪ってきた身、僕とは比べ物にならない精神力と、開き直りにも似た覚悟があるだろう。
 でも、だからって、いや、だからこそ、佐知子さんという選択肢は惠を壊しかねない。
 幸せのためでなく、ほんの少しの延命のため……何を言おうが明らかな現実。
 だけど、だけど……そうしなければ、惠は……!
「智さん」
「……」
 痛いほどに、揺れる景色に頭が痛くなるほどに首を振る。
 できない。だけど、惠を失いたくない。
 他に、他に何か……ないの……?
「……少し……考えさせて下さい……」
 半分は逃げで、半分は賭け。口をつくのは情けない先送り。
 佐知子さんは一瞬瞳に失望を浮かべたものの、すぐに気を取り直して立ちあがる。
 ただ……剣はその場に置いたまま。
「……私は、惠さんのお傍にいます。気持ちが決まりましたら、呼んでください」
 軽く頭を下げて、小走りに去っていく背中を見送る。
「……」
 置き去りにされる、僕と剣。突きつけられる究極の選択、終わることのない地獄の鍵。
 震える手で剣の柄に触れ、握る。
 軽々振り回すのは難しいけれど、負担がかかるほどではない、一振りの剣。
 ……これが重いのか軽いのか、人を殺すための武器を持ったことのない僕には理解のしようもない。
 知らされなかった日々、隠され続けてきた苦悩、言葉で知ったところで、現実感は皆無。
 わかるのは……このままでは、僕たちが惠を失ってしまうということだけ。
 感情で乱れる頭が、考えることを放棄しようとする。楽な方向、楽な方向を探す。
 ……楽な方向すらない現状に、何もかもを投げ捨ててしまいたくなる。
 重い足取りで食堂まで引き返し、テーブルの上に剣を乗せる。
 誰もいない、がらんとした食堂。
 目を閉じたら記憶がみんなの残像を呼んでしまいそうで、無理矢理に見開き続ける。
「……」
 ノートと、剣。
 惠が抱え続けてきたもの。守り続けてきたもの。僕から、隠し続けてきたもの。
 怒ればいいのか泣けばいいのか嘆けばいいのか、混ざり合う激情は形をなさず胸の中をかきまわし続ける。
 どうしたらいい? 問いに答える人はいない、満足のいく答えなどない、妥協点すら存在しない。差し出される手段はどれも絶望的で、しかもその場しのぎ以上の意味を持たず、避けられない未来を突きつけるばかり。
 中身を読む気もなく、ぺらりとノートをめくる。並ぶ文字には懐かしさの欠片すらなく、意味をなさない情報として流れていく。
 ……生きていることが、当然だと思っていた。
 呪いさえ踏まなければ、僕たちは生きていられるのだと思っていた。
 死は理不尽で、イレギュラー。誰もが抱く、暗黙の了解。
 だから呪いを解こうとした。本来ならあり得ないはずの、僕らだけのペナルティを取り去ろうとした。
『呪われた世界をやっつける』。
 ……僕の宣言。言わずとも、みんなの心の中に刻まれているだろうスローガン。
 そこに潜む『呪われた世界は悪だ』という思い込み。
 間違いかもしれないと、ほんの少しでも疑っていたら、展開は違っていたんだろうか?
 呪いには能力が付随する。みんながその能力で恩恵を受けている姿も何度も目にしてきた。能力という視点から考えることだって、できなくはなかっただろう。
 ただ、僕は普段能力を持っていなかったし、使ってもいなかった。 
 自分自身が持たないものは、所詮は他人事、思考の中心にはなりえない。能力を持たず、呪いで痛い目を見た記憶だけがある僕は、呪いばかりをクローズアップし、こだわり続けてしまった。
 ……僕の大事な、大好きな彼女の核は、能力にこそあったというのに。
 達筆が視界に入っては消えていく。読む気には到底なれない。ただ、手を動かしでもしないと胸がはちきれそうになる。現実逃避なのはわかってる、だけど、こんな状態で先なんか選べない。
 大したページ数もないノートは、ゆっくりめくってもすぐに終わりに近づいてしまう。めくるごとにページが増えればいいのに……無意味な逃避が頭をよぎる。
 けれど当然、最終ページは訪れ――
「……!」
 手が止まる。
 最終ページをめくった先、裏表紙との間――封筒が、ひとつ。
 考えるより先に手が伸びる。
 表面には――『和久津智様へ』
 裏面には――『才野原惠より』
「……ッ!」
 引き破るようにして封を開ける。文字を追う。

『親愛なる 和久津智様へ

 とても陳腐で煽情的な、けれど避けられない書き出しから始めよう。
 君がこの手紙を読んでいるということは――』

 地鳴りのような鼓動。
 唇が震える。
 ……惠が、ノートを佐知子さんに託した理由。僕に返すようにと指示した理由。
 息すらままならないほどの緊張と衝撃の中、したためられた彼女の想いを、拾っていく。


『親愛なる 和久津智様へ

 とても陳腐で煽情的な、けれど避けられない書き出しから始めよう。
 君がこの手紙を読んでいるということは、恐らく僕はもうこの世にはいないのだろう。
 覚悟はできている、いや、しなければならない。

 全てが終わり、君も、同盟のみんなも、勝ちとった幸せを謳歌していることだろう。
 そんな光に満ちた未来に、こんな冷や水を残してしまう僕をどうか許してほしい。

 恐らく、呪いを解いた際に判明しているだろうが、
 僕は呪いに付随する能力によって生きながらえている存在だ。
 言ってしまえば、生きていることこそがイレギュラーであり、ルール違反。
 呪われし者に普通が手に入ったその時、僕は普通という名のもとに死を迎えることになる。
 
 生きていること自体が普通ではない――
 そんなことは、とっくの昔から知っていた。
 僕には、最初から未来がない。
 誰かから奪わなければ、明日のひとつも得られない。

 大貫という男は、僕を散々殺してきた。
 しかし、同時に、生きるためには何をすべきかを教えた。
 人殺しという行為に正当性はないけれど、選択の自由には含まれてしまう。
 
 そして僕はそれを選択した、今も選択し続けている。
 対象者には自己弁護と保身、社会的影響を加味し、害をなす可能性が大きい人間を選んではいるけれど、やっていることは昔と変わりない。
 人間を消化する化け物。それが僕だ。
 それを君に言えずに終わったことは、申し訳ないと思っている。
 一度や二度、教えようとしたこともあったけれど、タイミングが合わなかったり、あと一歩の勇気が出なくてそのままにしてしまった。
 ……いや、それは言い訳だろう。
 僕が命を食らう存在だと知った時の君の反応を見たくなかった、結局はそういうことだ。

 この手紙を書いている今現在、みんなは呪いを解くことに夢中になりつつある。るいが呪いを踏み、命の危機に瀕している以上、それは当然のことだし、また、今後のことを考えても、いつかはやらなければならないことだ。

 麻耶から、明日書斎で智の父親がしたためた研究日誌が見つかるという話を聞いた。
 これほどのチャンスはない。この一回限りの機会を、最大限に利用させてもらおうと思う。

 明日、僕は君たちの裏切り者になる。
 裏切り者として君たちの憎しみを一身に受け、その果てに死ぬように話を運ぶ。

 このノートが君の手に渡るとき、君の僕に対する評価は『裏切り者』だろう。
 手紙は怒りと共に読まれる……いや、読まれることすらなく捨てられるかもしれない。
 それでもいいと思う。いや、その方がいいとさえ思う。

 今、みんなから離れなければ、
 僕はもっと最悪の形でみんなを裏切ってしまうかもしれない。
 智の父親の研究日誌に大した内容がないことは麻耶に確認した。
 その時点で抜け出せば、みんなの呪いを解く戦いに横やりを入れることも、妨害することもないだろう。

 人間の心とは弱いものだ。
 死ぬとわかっているのに、平然と呪いを解く過程を見ていられるほど、僕は厭世的でもなければ、死にたがりでもない。
 むしろ、みんなの中で一番生き汚いだろう。
 なにせ、何度も死ぬ機会がありながら、血塗れでそれを拒絶してきたのだから。
 
 ……それに、
 僕は君に出会ってしまった。

 どうしようもないほどに、君への想いに囚われ、
 君と共に生きる日々に、生きられる幸せに、がんじがらめに縛られてしまった。

 たわいもない言葉に潜む愛情を掬って、
 戯れに嘘の中に想いを込めて、
 手を取り合って、心音を感じる距離にいる。
 嘘つきな僕を受け入れただけでなく、さらなる嘘まで許してくれた。
 君は複雑怪奇なフリをするけれど、その実とてもまっすぐだ。
 そのまっすぐさを、僕に惜しみなく向けてくれている。

 生きていたい。
 君の傍にいたい。
 一緒に出かけて、色んなものを見て、触れ合って、共に過ごす喜びを味わっていたい。

 生きることすら罪の人間にとっては、
 あまりに過ぎた願いだ。
 わかっているのに止められない。

 君だけじゃない。
 みんなと過ごす日々は、確実に僕の中身を作り変えてしまった。

 るいの、底抜けに明るい声。
 花鶏の、不器用な熱意の表現。
 こよりの、幼くて可愛らしい走り方。
 伊代の、おろおろしながらも楽しんでいる苦笑い。
 茜子の、毒を被った言葉遊び。

 全てが僕の中に振り積もって、
 僕を作ってくれた。

 みんなが好きだ。
 君が、大好きだ。

 僕が我が儘を貫き通せば、
 みんなの命が危なくなる。

 そんな未来は、
 他でもない僕が許せない。

 だから、
 君たちを裏切ろうと思う。

 裏切って、君たちに憎まれることで、君たちが迷いなく呪いを解けるようにしたいと思う。

 ……

 ……いや、嘘だ。
 そんなの言い訳だ。

 僕は、多分……
 耐えられないだけだ。

 みんなに死を望まれる未来に、耐えられないだけだ。

 呪いを解くとは、僕が死ぬということ。
 それはどうしても避けられない。

 もし……
 みんなが全てを知った上で、呪いを解くことを選択したら。

 それはつまり、
 みんなが僕の死を望んだことと同じことになってしまう。

 多分、このままみんなの傍にいれば
 僕はいずれ限界を迎えてしまうだろう。

 みんなが僕の死へ向けて突き進んでいく現実に
 耐えられなくなってしまうだろう。

 今だって、考えるだけで血の気が引いて
 一睡もできなくなるんだ。
 進んだらどうなるかわからない。

 怖い。
 
 みんなに死を望まれるのが怖い。
 君に、死んでくれと言われるのが怖い。

 そして、その日は必ず来てしまう。
 呪いを解く日、みんなが理不尽から解放される日。
 輝いているはずのその未来は、僕にとっては絶望でしかない。

 ……だから、裏切ろうと思う。
 みんなには何も見せず、何も教えず、
 ただ憎まれ、恨まれ、死すらも笑われる存在になろうと思う。
 
 そうすれば、
 解呪による死はみんなが僕に与えるものではなく、
 僕が自分で引き寄せたものになる。

 僕の死はみんなが望んだものではなく、
 他でもない僕が仕組んだことになる。

 結果は変わらない。
 遠回りにすらならない。
 いや、僕が仲間にいるより早く進むだろう。

 仲間を失う悲しみより、敵を倒すカタルシスを。
 仲間に殺される恐怖より、敵として死ぬ達成感を。

 それが、僕の目的だ。

 この手紙を君が読むとき、
 君が僕を憎んでいてくれたら
 こんなに嬉しいことはない。

 そうであってほしい。
 そうなんだろう? 智。

 ……だったらこんなもの書かなければいいのに、
 君に見せようと思わなければいいのに、
 書かずにはいられなかった。

 誤解の中で死んでいきたいけれど、
 君にだけは、知っていてほしかった。

 けれど、これも僕の自己満足だ。
 読み終わったら破り捨ててくれていい。
 書いてある内容は、全て忘れてくれていい。

 僕のことは気の迷いだったのだと割り切って、
 他の誰かと幸せになってほしい。

 ……
 
 どこからが本心で、どこからが嘘なのか、
 もう、僕にもわからない。

 ただ、これだけは最後に言っておきたい。

 僕を好きになってくれて、ありがとう。

 才野原惠より』


 便箋が水滴で濡れていく。
 誰もいない、時計だけが音を刻む空間に、情けない嗚咽が小さく響く。
「馬鹿……ばか……ばかああああぁぁっ……!」
 紙が音を立てる。握りしめてしまって、皺ができる。
「っく……ひっく……めぐのばか、ばかぁ……!」
 両肘をテーブルについて、手の腹で目を押さえて、止まりようのない涙を流し続ける。
 惠はバカだ。
 自分で自分が不幸になる計画立てて、嘘っぱちの満足感で自分をごまかして、なのに割り切れてなくて。みんなの幸せと自分の生という理不尽な天秤に振り回されて、優先事項を間違えて。
 ……僕に、何にも言ってくれなくて。
 言えないのは知ってる。こんな内容相談できるわけないのも、知ってる。だけど、だからって一人で背負いこんで勝手に……死ぬ、なんて。
「嫌だよ……行かないでよ、死なないでよぉ……!」
 同盟が幸せを求めている中、惠は孤独に不幸を求めて走っていた。彼女には夢見る未来すらなかった。与えられなかった。
 ……彼女から、未来を奪うのは僕たちだ。呪いを解くのなら、そういうことになる。
 呪いを解かなかった場合も、惠がいつまで生きられるかわからない。結局のところ袋小路、彼女が必死になって求めた生も幸せも、とっくの昔に指から零れ落ちてしまっている。
 その大部分は、惠自身が振り落としたもの。望んだのではなく、望まされた結果。
 均一なようで、ところどころ揺れている字に込められた想い。
 やっぱり、僕たちが大事だったんじゃないか、僕たちが好きだったんじゃないか! 
 惠の気持ちはちっとも揺らいでなかった。この食堂で笑いながら食事をした日のままに、同盟の日々を芯の芯から大事にして、心の支えにしていた。
 骨が軋むような胸の痛み。喉がひきつれてせきが出る。水分を出し過ぎで頭が痛い。
 どんな気持ちで芝居を打ったんだろう。狙い通り自分を憎む仲間たちの視線を、どんな気持ちで受け止めたんだろう。奈落へまっさかさまの中、どんな……。
「……惠……」
 助けたい。
 惠を助けたい。
 こんな終わり方、あってたまるか!
 みんなのためを謳って運命に殺される、こんな理不尽があってたまるか!
 ぐらぐらと煮える激情。けれど、それは具体的な形をなさず、涙腺を刺激するばかり。
 再び便箋に視線を落とす。泣きすぎてにぎりしめすぎてぐちゃぐちゃだ。
 ……と。
「あれ……」
 最後の一枚と思っていた紙が、かさりと音を立てて二枚になる。重なっていたのに気づかなかったらしい。
 慌ててめくる。

『追伸
 
 もうとっくにやっていることだと思うけれど、
 真耶のことをよろしく頼む。

 呪いのない世界なら、彼女も外に出られる。
 少し時間はかかるかもしれないけれど、
 しかるべきところに行けさえすれば
 彼女もいつかは落ち着きを取り戻せるだろう。

 彼女には迷惑をかけっぱなしだった。
 僕が今まで生きてこれたのは、
 真耶の能力を活用させてもらっていたからだ。
 
 君がもしここまで読んでいてくれたのなら、
 僕が感謝していたことを伝えてほしい。
 彼女にも幸せになる権利がある。
 智、君と一緒に生きる権利がある。

 どうか、みんなが幸せでありますように』

「……」
 涙が止まる。
 一縷の望みが、頭の端で鳴り響く。
 ――姉さん。
 そうだ、姉さんだ……。
 今まで意識から抜け落ちていた、ミステリアスな姿が浮かび上がる。
 呪われし、本当の最後の一人。能力を使い続け、僕を導いてくれた人。
 急いで手紙を畳んでノートの裏表紙に挟み込み、置いたまま立つ。
 胸騒ぎがする。それが希望なのか警告なのか考えるのは後回し。
 ただ、予感があった。直感が指示していた。
 ……姉さんなら、何かができる。たとえ仲が悪くったって、命がかかってるとなれば協力してくれるはず。
 玄関を開け、離れに向けて駆けだす。
 ……終わらせない。
 可能性は、まだ、ゼロじゃない……!