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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 37 


 死体の写真――
 そうとしかいいようのないものが、封筒から次々と現れる。
 虐待のレベルを超えた、明らかに死を与えるための行為の果て、犠牲となった少女が転がされている。
 ある時は頚動脈からの血の海に倒れ、、ある時は百舌鳥のはやにえのように剣に貫かれ、ある時は全身に杭を打ち付けられ。出血の代わりに身体が不自然に曲がっていることもある。かろうじて人の形は保っているものの、そこには彼女と言う存在に対する気遣いなど微塵もない。むしろ、彼女の死に意味があるかのような弄ばれ方だ。
 少女は殺されている。白い無地のワンピースを血しぶきで汚しながら、玩具のように命をもぎ取られている。
 視線はうつろだ。カメラの方を向いていることもある、虚空を見つめていることもある。助けを求めるように歪めているものも、諦めたように閉ざしているものもある。
 ……まだ、完全に死んではいない……らしい。でも、それは生きているという意味ではなく、数瞬後にそれを控えているというだけの意味だ。
 どれもこれも、命が尽きる寸前の、霞のように弱々しい視線。
 そんな写真が何十枚も。手を変え品を変え虐殺され、この世の地獄を味わわされる一人の少女の記録。
 ……そう。
『一人の少女』。
『何度も何度も殺される、一人の少女』。
「……」
 セメントを流し込まれたみたいに、全身が重い。それでいて奥歯はずっと鳴っている。目から吐き出される涙はそのままカーペットに落ち、汚い染みを作っては消えていく。
 吐き気と頭痛。さっき食べたクッキーが逆流しそうになる。
 目の焦点が定まらない。視界がクリアになった時に目にするものへの恐怖心が、本能的に視界をぼやかせる。
 よくできたコラ画像だと思いたい。どこかの頭のおかしい奴が冗談で作ったものだと思いたい。あるいは行き過ぎた嗜虐趣味の人間の脳内映像だと思いたい。
 これが、これが現実だなんて、かつてあったことだなんて……信じたくない。
 信じたくない―― すがるような現実逃避の祈り。当人ですらないくせに、ありえないと切り捨てたくなる。そんな自分の矮小さへの苛立ちに、歯を押し込むように噛み締める。
 これは、現実だ。
 ……認めざるを得ない、地獄の看板のような写真たち。
 ひどい、なんて軽い言葉じゃ到底足りない。僕の持っている言葉の全てを総動員したってこれっぽっちも足りやしない悲惨さ、この世のものとは思えない絶望のカタログ。顔だけは毎回無事なものの、そんなの何の慰めにもなっていない。
 写真には、律儀にも日付が入っている。現実時間に合わせているらしく、殺され方が変わる度に日付も変わっている。
 少女の衣服も白ワンピースであるものの、微妙に形や材質が違っている。少女の髪の長さも変わっている。身長も、体つきも、日付が進むごとに女性的な膨らみを帯びていく。
 すぐに気付く。
 ……少女は、成長している。
 殺されているはずの少女が、成長している。
 それだけじゃない。
 少女の身体は異常に綺麗だった。服から覗く肌はいつだって白く透明感に満ちていて、そのとき命を奪われる致命傷以外は無傷だ。
 ある写真では頸動脈を切断されているのに、他の写真では頚動脈に痕ひとつない。全身に打たれた杭の痕も、別の写真では影も形もない。そのときそのとき、まるでリセットでもされたかのように綺麗な姿で……違う形で、死の前に立たされている。
 本来なら、そこに違和感を感じるべきなんだろう。人の命はひとつきりで、死は誰にでも平等に一度だけ訪れるものだ。写真に写っている少女のように何回も死に、あげくその都度完全に回復するなんて、常識的にはありえない。
 ……だから、わかってしまう。
 この写真の少女が誰なのか。
 どれほど死を叩きつけられても這い上がる―― おそらく、この世界でたった一人だけが持つ能力。
 その持ち主を、僕は知っている。
 今、胸の奥底に沈めただろうトラウマと戦わされている、僕の――
「……っく、しょぉ……っ!」
 拳を叩きつける音が、カーペットに吸い込まれた。
 許せない。この過去が許せない。もうとっくに過ぎてしまったことでも、その道を通らせてしまったことが許せない。彼女が体験した現実が、地獄が、その時そばにいられなかった、助けられなかった事実が胃を肺を押しつぶす。絶対零度で凍った花を砕くような乾きが全身を突き刺し、肺の半分以上が機能不全に陥る。手が震えて写真がうまく持てない、そんな無意識の拒絶反応。僕の矮小さに惨めさに、磨きをかける。
 怒りの奔流が全身に満ちる。ぐずらぐずらと吹きこぼれる。彼女をこんな目に合わせた奴を、今更これを突きつけた奴を、この事実を、彼女が沈められた悪夢も知らずに過ごしていた僕を、引き裂いてやりたくなる。
 もう一度。さらにもう一度。やり場のない怒りをカーペットに叩き込む。
 ……こんなものを見せられたら、いくら惠だって耐えられるわけがない。傷が消えるのはあくまで能力でしかなく、過去もその時の絶望の苦痛も、惠の中に今も厳然と残り続けている。
 ただでさえ、みんなから孤立して弱ってるのに、こんな追い打ち……。
「何をしてる!」
 びくっと肩が跳ねる。
 振り返ると、いわゆる鬼の形相状態の浜江さんが立っている。扉は開きっぱなしだ。探すのに気を取られて閉めるのを忘れていたらしい。
 焦るべき状況。でも、何の言い訳も出てこない。
 むしろ僕は……浅ましいことに、この場に自分以外の誰かが現れてくれたことにどこかほっとしていた。
 ……それがまた、僕の自己嫌悪に拍車をかける。
 視線を交わす。僕の表情と持ち物に気づくものがあったのか、浜江さんは声高に僕を責めず、トーンを落とした。
「……何を、見つけられましたか」
「……」
 黙って封筒を差し出す。
 浜江さんも黙ってそれを受け取り、中身を取り出して―― 表情が、驚愕と憐憫、絶望に染まっていく。
「……これは……」
「……」
「……これは、どこに」
「惠のベッドの下です。たぶん、お二人に見つからないようにと隠したんだと思います」
「……部屋に入るな、との指示は、このためでしたか」
「そんな指示が……」
「……」
 浜江さんが目を伏せる。記憶をたどっているのか、封筒を抱えたまま、深々とため息をつく。
 じわじわとした無言が砂時計のように積もる。
「……惠さまは」
 静かに、努めて平静に、浜江さんが語り始める。
「ここ一週間ほど、ほとんど何も食べておらん」
「!」
「飲み物すら、水以外は飲まれない。命をつなぐための最低限の栄養をサプリメントで補っている状態が続いている。無論、そんなもので人間の身体が維持できるわけがない。体力は減退する一方、その上、睡眠すら満足に取ろうとしない」
「……」
「今の惠さまは、文字通り精神力だけで立っていらっしゃる。けれどそれも限界が見え始めていた」
「……そんな……」
「突然の不調に、なぜなのかと思っていたが……こんなものを見せつけられていたとは」
 お腹がぐるぐるする。食べたものが息を吹き返して暴れているような嘔吐感がこみ上げてくる。
 笑って出迎えてくれたその裏で、どれほどの苦しみを押し殺してきたのか。
 浜江さんは、嘘やいたずらだとは一言も言ってくれない。それがあの写真の真実を確定させてしまう。
 惠のここでの生活は、どれだけ苦渋に満ちていたんだろう。広くてお洒落で壮麗な屋敷に隠された生き地獄を、どんな思いで耐えてきたんだろう。
 まして、惠は呪い持ちだ。辛くても苦しくても、助けを求めることもできなければ、痛みを訴えることもできない。
 ……よく壊れなかったと思う。よく踏みとどまれたと思う。
 そうして、やっと立ち直ったのに……また、かつての亡霊に苦しめられて、やせ細って震えて、強がるしかない状態に追い詰められている。
「……」
 身を起こし、しっかりと浜江さんの方に向き直る。
 空気を飲み込んで、重心を下げて、悪夢に浮つく意識を鎮める。
「浜江さん、聞いても良いですか」
 カーペットを握り、臆病と恐怖が組み合わさったためらいに逆らいながら、浜江さんに問いかける。
 おそらく、彼女は惠の過去を知る唯一の生き証人だ。惠の苦しみを見てきた人だ。
 僕が今すべきこと。それは、知ることだ。立ち向かうことだ。
「何かね」
「惠は、ここでどんな生き方をしてきたんですか」
「……」
 浜江さんはすぐには答えず、じっと僕の目を見る。僕もしっかりと見返す。泣きはらしてるような状態なのは恥ずかしいけど、そんなつまらないことはどうでもいい。
「教えてください、お願いします」
「……」
「助けたいんです。人に言えるようなことじゃないのはわかってます。知られたくないってこともわかってます。ひょっとしたら、知られることで惠はさらに傷つくかもしれない。でも、僕は支えたいんです。物知らずの薄っぺらい言葉じゃなく、励ましでもなく、彼女を癒したいんです。力不足かもしれない、無理かもしれない、だけどわからないまま放ってなんかおけない。最善を、ううん、最善以上のありとあらゆる方法で、彼女の痛みに触れて、その欠片だけでもわかりたいんです」
「……」
 浜江さんは沈黙を続ける。もともと不機嫌な顔がさらに険しくなった気がして、頭の隅っこがちょっとだけひるむ。
 彼女からすれば、僕は勝手に先走って泥棒まがいのことを働いた不届き者。そんな人間がいきなり惠の過去を聞きたいと言い出したって、はいそうですかで答えるはずもないだろう。仮に僕たちの関係がわかっていたとしても、惠が辛い時期に突然来なくなったような状態なんだから心象は悪い。
 たっぷりと焦らせるほどの間が置かれる。浜江さんは仏頂面のまま、僕をじっと値踏みするように見る。動じずに、浜江さんに視線を定め続ける。
「……あんたは」
 ややあって、口が開かれた。
 飛び出したのは、意外な質問。
「あんたは、惠さまの何だね?」
「……へ」
 一瞬、何を聞かれたかわからずにぽかんとしてしまう。
 でも、浜江さんは至って真剣だ。からかう気など微塵もなく、真摯に問いかけてくる。
「答えられないのかね」
「……僕は」
 表情から、声の調子から、浜江さんが何を聞きたいのかを理解する。
 質問に答えろ、と言ってるわけじゃない。
 彼女は、僕に意志を求めている。
 意志……惠への、誓約。話で終わらせるのではなく、そこから何を生みだすかを表明しろ、と。
 しっかりと正座に座り直す。
 伝えるべきは、誓約。
 甘さでも、ときめきでもない意味で、浜江さんに、惠を見守ってきた人に宣言する。
「僕は、惠の恋人です」
「惠さまの呪いを知ってのことか」
「はい」
「……自分が惠さまに何をしているか、わかってのことか」
「はい」
「あんたみたいな存在が、惠さまにとって最も恐ろしいのだと知ってのことか」
「はい」
 頷く。そして、さらに続ける。
「呪われた世界の中で、彼女の心はいつも呼吸困難になっている。毎日毎日、数えることすら憚れるほどの嘘を重ねて、その上でギリギリのバランスを取って、怯えながら生きている。どんなに慣れたって、嘘だけで生きていく辛さが消えるわけじゃありません」
「あんたに、その苦しみがわかるのか」
「その近くにはいます。形は違いますが、僕もまた、呪いのために嘘の上でしか生きられない人間です。だからわかるなんて馬鹿なこと言うつもりはありません。でも、近づくことはできると思います。彼女の心に近づき、その傷口からこぼれるものを掬い取ることはできると思います。だから」
「……」
「……だから、お願いします。僕に、惠の背負うものと戦わせてください」
 まるでプロポーズだな、頭の端っこでそんなことを思う。
 けれど、この誓いに浮足立った気持ちもこそばゆさもない。呪われし世界への、呪われし者としての宣誓。
 言外の意図を探り合う時間が流れる。
「……よう、わかった」
 納得してくれたのか、浜江さんが頷く。
「惠さまは、あんたに命を賭けておられる。あんたにもその覚悟があるのなら」
「あります」
「……良い返事だ。惠さまは、智さまのような方を待っておられた」
 僕の名を呼びつつ、浜江さんが相好を崩す。しわくちゃの顔に浮かび上がる、いとおしげなまなざし。
 そして、それはすぐに哀しみに満ちたものへと変わる。
「一度しか言わん」
「はい」
 ゆっくりと、浜江さんが語り出す。

 惠がこの家に来てからの生活は、一言でいえば『奴隷のような生活』だったという。奴隷というのは使用人という意味ではなく、屋敷の主人、大貫氏が虐げる玩具という意味だ。大貫氏は異常なほどの嗜虐趣味の持ち主で、惠が治癒能力持ちなのをいいことに散々にいたぶり尽くした。呪い故に抵抗も哀願もなくひたすら耐え続ける惠の姿は大貫氏をさらに駆り立て、暴虐はエスカレートし、やがては生死の境をさまよう惠をカメラに収めるまでになる。さらに、同じような趣味の持ち主たちに向けて写真を売りさばき、小金を稼ぐところまでいきついてしまう。
 今回送りつけられた写真は、おそらく、大貫氏が撮影し、金稼ぎに使ったものの残り。
 大貫氏の惠への視線は『壊れない玩具』。それ以上でもそれ以下でもない。人ですら、ない。
 ……ひょっとしたら、生き物ですらなかったのかもしれない。
 そんな人でなしに捕まってしまった惠。放り込まれたのは、屋敷という名の苦界。
 彼女は結局、逃げることすらままならず、擦りきれた身体と心を引きずりながら一日一日をかろうじて生き延びてきた。背負いきれないほどの痛みの連鎖の中、明日をも知れぬ命を繋いできた。
 ……大貫氏が亡くなる、その日まで。
「大貫さまが亡くなられた後、何かに逆らうように、惠さまはあのような姿をするようになった」
「……」
 惠があの姿をしている理由。いつもいつでも男の子のような服装を続け、スカートの一つも持たないと決めた理由。
 ……過去との決別。
 女の子としての姿―― 生命まるごと弄ばれていたころの格好を排することで、惠は自分を守ったんだ。
 性別がどうとか、趣味とかではなく、ただただ、離れるために、逃れようのない実態から少しでも距離を置こうとしたんだ。
 気休めにもならないと知りながら―― そうでもしなければ、自分を保てなかったんだ。
「痛ましいお姿だ……しかし、私には止める権利はない。私は結局、大貫さまには何も言わず、苦しむ惠さまのお手当をすることぐらいしかできずじまいだった」
「惠は、浜江さんを信頼してるって言ってました。浜江さんの気持ちは惠にも伝わってると思います」
「傍観者と何ら変わりはせん。惠さまをお助けすることも、その苦しみを和らげることもできなかった」
「……」
 懺悔。
 でも、そんな状況下で、誰に何ができたというのだろう? 話を聞く限り、大貫氏は情の欠片もない、畜生同然の人間だ。浜江さんが述懐している通り、下手な行動は逆に惠を追い詰めることになりかねない。年齢的にも、当時の惠が一人で生きていくなんて絶対に不可能だ。ここにいたって幸せは来ないけれど、ここを出たらさらなる不幸が待ち受けているとなれば、例え絶望的でも現状維持をする他なかっただろう。
「……惠さまは、今もなお、無意識のうちに当時に縛り付けられている」
 一息つき、浜江さんはさらにぱらぱらと語り続ける。
「書斎に、本を模した箱がある。大貫さまはいつもそこに惠さまの写真やカメラを入れておられた。書斎が惨劇の場となったこともあった。写真もカメラも大貫さまが亡くなってすぐ処分したが、惠さまは未だに書斎に近づこうとはせん」
「……あ……」
 記憶が繋がる。
 呪いについての書物がひしめいていた書斎。何も知らない僕たちにとっては宝の山以外の何物でもなかった場所。
 けれど、惠はそこに入ることを嫌がった。あれこれと理由をつけて、時には露骨な言い訳をつけてまで拒否した。
 今にして思えば、当然だ。彼女にとっての書斎は、かつての地獄が染みついた場所だったんだから。
 後悔が押し寄せてくる。
 僕たちは、過去を見なかった。知らなかったし、知ろうともしなかった。目の前にあるものだけで判断しようとした。
 ……だから、非協力的な態度に疑念を抱いた。
 過ぎたことを言ったってしょうがないし、言えるわけもない。
 でも、どうしようもなくても、悪化する一方のみんなの誤解が歯がゆくて、チリチリと僕を焦がす。
 知っていたら、こんなに険悪になることはなかったかもしれないのに―― それもまた、僕の希望的観測の域を出ないことだけど。
 手元に持ったままの、数枚の写真に目線を落とす。脳は慣れていないらしく、相変わらずよく見えない。
 当事者じゃない癖に、思考に沈むと涙が出る。唇が震える。
 首を振る。
 今、僕がすべきことはなんだ?
 答えはひとつ。惠の心を引き上げること。
 トラウマがぶり返し、食事すらできなくなった惠。能力ゆえに病院に行くこともできない彼女をこのままにしたらどうなるか……考えたくもない。
 でも、どうしてあげたらいい? どうしたら、惠を支えられる? 今なお膿み続ける彼女の傷口を、どうしたら塞ぐことができる?
 僕は、あくまで他人だ。僕にかけられる言葉なんて、彼女の生きた道の前では雑音も同然だろう。最後に決めるのは惠自身―― 残酷な現実。
 せめて、せめて―― そうだ、こんな真似をした大馬鹿野郎を突き止めてとっちめることができたら。
「浜江さん、その封筒の中に写真以外のものが入ってませんか?」
「何?」
「ただの嫌がらせにしては枚数が多すぎます。こんなことをした犯人からの文書みたいなものが入ってるかも」
「……ふむ」
 浜江さんが封筒に手を入れ、ごそごそと探り出す。少しでも手掛かりがあればと、すがるような気持ちでその様子を見つめる。
「……」
 一分も経たないうちに、浜江さんが一枚の紙を取り出した。
「大方、そんなことだろうと思っておった」
 広げられた紙には、味もそっけもないタイプ文字。
『この写真を撒かれたくなかったら一千万円振り込め』
「……っ……!」
 ふざけていると思うほどに直接的な脅迫状。
 怒りが一気に沸点に達する。
 金のため。まさに外道のやりそうなことだ。
 ……そんなことのために、惠は……!
 親の敵のような憎しみをこめて字面を睨む。
 脅迫文の下には銀行名と口座番号、口座名義はない。相手もバカじゃない、おそらく架空名義の口座だろう。
 でも、これは大きな手がかりだ。
 こっちには手段がある。伊代のパソコンスキルで探り出すこともできるし、央輝のネットワークを使わせてもらうこともできる。
 ……見つけたら、二度と顔も見れないぐらい殴ってやる……!
 精神の奥底さらに奥からの憎しみ。未だかつて体験したことがないほどの強烈な、突き上げるような憤怒の念に突き動かされる。
 少し身を乗り出す。
「おそらく、その口座番号があれば割り出せると思います。流石にそれが本人の口座ということはないでしょうが、そっちの知り合いというか、手立てはありますので」
「……お願いします、惠さまのためにも」
 深々と頷く。
 一応、原因を取り除く手掛かりはできた。後は……一刻も早く、広がっている惠の傷口を塞がないと。
「そろそろ、惠のところに戻りますね。こちらはこちらで進めるとして、まずは彼女の気持ちを楽にしてあげたい」
「頼みます。もはや、惠さまを救えるのは智さましかおらん」
「わかっています」
 もう一度頷く。
 胸元をぎゅっと握りしめて、一呼吸。
 ……助けてみせる。絶対、助けてみせる。


 食堂に戻ると、惠は寝息を立てていた。
 待ちくたびれた、というわけではなさそうだ。顔色は青白く、生命維持のための睡眠だと思い知らされる。
 ゆるゆると、真綿で首を絞めるように惠を追い詰める過去。思い出という単語を冠するにはあまりに凄惨で、取り返しなどつきようもない。
 惠の背負わされたものの重さに、また涙がこぼれそうになるのを慌ててこらえる。
「……」
 頬に触れる。ゆっくりと顔を持ちあげて、おでこに軽く口づける。
「……智?」
 うっすらと目を開ける惠。
「ん……」
 まどろみから戻ってくる前に、今度は唇を触れ合わせた。
 ……心なしか、惠の唇が荒れている。頬も少しこけたというか、弾力がなくなってきている。栄養失調に近い状態なんだから当然だろう。見るだけではわからない部分でも不調を突き付けられ、無力感と悔しさが肺を圧迫する。
「……遅かったね」
「色々あって」
「……見たんだね」
「……うん……」
 確信をもっての問いに、正直に答える。
 震える手で、惠が僕の身体を押す。離れてくれという意思表示だ。
 半歩だけ後ろに下がるものの、そこからは動かない。
 ……かといって、すぐに言葉が出てくるはずもない。
 本人を前に、こみ上げる焦りと緊張感。
 何か、何か言わなきゃいけないのに。
 僕に言えることの全てが軽い気がして、口にする全てが軽はずみな発言の気がして、喉がぴったり閉じてしまっている。背伸びは禁物、等身大では浅すぎる。このままの僕でできる最善を尽くそうにも、その最善が既に意味のないものに感じられてしまう。この場合の沈黙は愚策だと知っていても、正答のない選択肢にためらってしまう。
 結局、哀しみと悔しさを隠しきれない顔で、見つめ合うしか術がない。
「……『運命』というのは、便利な言葉でね」
 情けない僕の代わりに口を開いたのは、惠の方。憂いを滲ませ眉を寄せ、独り言のように呟く。
「この世界に起こりうるありとあらゆるものは、『これが運命だ』という理由をつけられる。現状に甘んじたり諦めたりするとき、『運命』ほど使い勝手のいい言い訳はないよ。そう言っていれば世界に対して示しがつく、そんな風に誰もが思う。『運命』は諦めに伴う敗北感の免罪符さ」
「……惠……」
「どんなに走っても追いつけないし、どんなに走っても逃げ切れない。そして心が折れたとき、すがるものへと変わる。『これは運命、自分は悪くない』と、己の力不足にもっともらしい箔をつけるんだ。己の弱さを認めるより、運命様を頼ったようが気が楽だから」
 紡がれるのは、いつもの回りくどい言い回し。伝えたいことを二重三重のオブラートに包んで置いていく。
 目を細めて、閉じて、細い細い深呼吸。再び開いた両の眼は、僕の向こうの何かを見つめる。
「大貫は最期に吐き捨てたよ。『これが俺の運命なのか』って」
「……」
「散々に、散々に、『これがお前の運命だ』と嗤っていた男だった。『お前の運命は俺が握っている』が口癖だった。握っていたはずの運命にしっぺ返しされるなど、考えたこともなかったのだろうね」
 乾いた笑みを落とし、惠が椅子に腰かけなおす。
 視線が僕のところへ映る。痛みの鎖を鳴らすように顔を歪め、その上に笑みを貼りつける。いびつな、到底平常心とは思えない相貌。
 仮面のような笑み―― 得意としてきた演技すら、今の惠には満足にできなくなっている。
 そしておそらく、本人はそれに気付いてすらいない。耐えることに慣れ過ぎて、擦り減りすぎて、零れていることに気づけなくなってしまっている。
 だから、よくある調子で結論付ける。
「君が聞きたかったのはこのことだろう? 大貫という人物の末路と、その末路を与えた犯人の正体」
「……」
 ……ああ、やっぱり。
 茜子は言った。三宅さんの言葉に嘘はないと。
 暗に示された――『惠が大貫氏を殺害した』という調査は、事実だと。
 でも、それを知ったところで、僕の中には幻滅も恐怖も湧き上がってこない。
 ただひたすらに……痛々しい。
 綻んだ仮面から覗く惠の心。
 そこにあるのは晴れやかさでも自己弁護でも後悔でもなく……やるせなさ、かもしれない。
 惠が犯した罪。大貫という外道に押しつけられた運命への反抗と、そこに横たわる真っ赤な暗闇。彼女の決断は世間に認められるものではないし、発覚すれば当たり前のように裁かれるだろう。
 どんな理由があるにせよ、殺人は許されることではない―― 絶対に覆せない不可侵のルール。
 そのルールを否定する気はない。この世界がこの世界であるために、人が生きるために必要な規約だ。
 けれど、例外のないルールもない。裁く裁かれるや許す許されるの枠に収まらないことがこの世には存在する。
 大貫を殺害することで惠が己の運命を打ち破ったとするならば、それは褒められることではないけれど、杓子定規に責められることでもないと思う。
 少なくとも―― その時手を差し伸べられなかった僕が、どうこう言っていいことじゃない。
「……ふふ」
 自嘲的に笑って、惠は僕に手を差し出す。
「不思議だね、君は」
「……?」
「これでもまだ、揺らがない。傍目に見ても、そろそろ見捨てていい頃だよ」
 ……見捨ててくれとは言わない惠。らしくないほど明確な、『離れないで』という懇願。
 差し出された手を握り、また近づく。至近距離で見つめ合って、キスをする。
「なんかね、もう色々ありすぎて驚かなくなっちゃった」
「もしかしたら、まだあるかもしれないよ」
「うん、それでもいい。何があっても受け入れる」
「……強いな、君は」
「強いんじゃないよ。惠が好きなだけ。好きだから、してきたこともされてきたことも全部受け入れられる。小心者だからいきなりなんでもこいやー、ってわけにはいかないけど、ちゃんと受け止めてみせる」
 実際のところ、僕は決して強くはない。あの写真だってまともに見られなかったし、マイナス感情こそ持たないものの、大貫氏のことで動揺もしている。
 ただ、負けるわけにはいかないだけだ。大事な人が耐えてきた事実、歩んできた道。臆病風に吹かれてガクガク震えたとしても、悟ったふりして傍観者面したり、尻尾を巻いて逃げるのは嫌だ。
 既に終わってしまったこと、その苦しみを一緒に味わうことはできない。けれど、それを前にして踏みとどまることはできる。
 逆を言えば、僕ができることはその程度だ。ただひたすらに彼女に寄り添うこと、痛みに凍りつきそうな心を温めること。特効薬にはなりえないし、最終的には意味のないことかもしれない。でも、きっと無駄じゃない。
 抱きしめる。体温も下がってしまっているのか、少し冷たい感じがして、もっときつく抱きしめる。
 古い時計が時を刻む。無言に包まれ、浸る。
 体温と息遣い、震えと鼓動、重なり合う気配。表現という形には結びつかない部分で、二人は二人を伝えあう。
 ……ひょっとしたら、何かを言おうとすること自体が的外れなのかもしれない。一見万能に見えても、言葉には山ほどの限界がある。それを手段に使う時点で不自由に縛られる。
 今僕たちに必要なのは、あれこれ言うことでも考えることでもなく、傍にいること。
 そして―― もうひとつ。
 浮かんだ提案を舌に乗せる。
「ねえ、惠。うちに泊まりにおいでよ」
「……え……?」
「僕の部屋に招待するよ。ここに比べたら相当狭いけど、僕なりに居心地良くしてあるんだ。ソファもあるし、ベッドもある。僕の手料理もごちそうする」
「で、でも」
 あからさまにためらう惠。聞く耳持たず、さらに誘う。
「お願い。一晩だけでいいから、僕のところに来て。ここじゃないところで一緒に過ごそう」
「……」
 僕に今できること……惠をこの屋敷から連れ出すこと。
 場所には、意味が宿る。良いことであれ悪いことであれ、何かがあった時、場所はその出来事を背負ってしまう。文字通りの地獄が詰まったこの屋敷は、今の惠が生きていくには棘が多すぎる。ここにいる限り、惠の心が削れていくのは止められない。
 だから、場所を変える。まだ惠が知らない場所へ、彼女が痛みを連想しない場所へいざなう。
「……でも、僕と君が一緒にいるところを誰かに見つかったら」
「その時はその時だよ。正直に全部話しちゃおう」
「……それはできない」
「じゃあなんとか丸めこもう。大丈夫、なんとかなる」
 冷静に考えると、花鶏やるいがここを見張ってる可能性は高いんだけど……そんなこと気にしてられない。
「……どうあっても連れ出す気だね」
「もちろん。もう決めた」
 きっぱりと言い切る。
 ちょっとぐらい乱暴でないと、きっかけにはならない。縛る鎖は力を入れなければ外れない。
 抱きしめていた腕を離し、立ち上がる。まだ迷っているらしい惠の手をしっかりと握る。
「行こう」
「……」
 惠はすぐには立ち上がらず、じっと僕を見上げる。
「……君は、ここぞというときに強引だね」
「僕の彼女はそういうのがお好みでしょ?」
「さあ、どうだろう」
「そういうことにします。ほら」
 ぐっと手を引く。
「……全く……未知数だ」
 そう言って浮かべる笑顔は、響くほどに脆く―― 確かに、安穏を欲していた。