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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 31 


 口の中に広がるエビの甘み。酸味とスパイスの程良い刺激とクリームのまろやかさが溶けあい、顔をほころばせる。ビネガーの比率やハーブの風味からして、間違いなく自家製ソース、それも作りたてだ。パンはライ麦だろうか、一噛みごとに感じる香ばしさと柔らかさ、麦の味わいを堪能でき、レタスの歯ごたえがうまみをさらに引き立てる。ほのかに漂ってくる香りは食べる先から食欲をそそり、次の一口を誘う。具の重ね方にコツがあるのか、ボリュームたっぷりなのに、食べる際にこぼれてくることもない。そして、どんなにボリュームがあっても、あくまでサンドイッチ。栄養も味わいも満点だけど軽食、お腹にそれほど負担はかからない。
 激しい運動……と言っていいのかどうかはさておき、色々燃やした後の身体にはこのぐらいの食事がちょうどいい。
「……おいしい……なんか、すばらしくおいしい。サンドイッチが五臓六腑に染み渡るなんてすごい」
 思わずため息が漏れる。
「浜江の得意料理だからね」
「どれぐらい得意料理持ってるんだろう」
「たぶん、二、三回作れば得意になるんじゃないかな。あらゆる料理の下地が既にできてると言っていた」
「弟子入り志願したい、それなりに本気で」
「きっと厳しいよ?」
「……頑張ります」
「あはは」
『はむ』とか『あむ』とか、そんな感じのまるっこい効果音を背負いながら二人でサンドイッチをぱくつく。
 たかがサンドイッチ、されどサンドイッチ。味とボリュームと食べやすさと片付けやすさを全て満たすとなると、実は相当に困難だ。経験者談。
 トレイの上にはエビサンドの他、ローストビーフサンドにシンプルなタマゴサンド、BLTサンドと種類豊富に並べられている。当然のように食べやすいサイズにカット済みだ。サンドイッチだけじゃなく、保温容器に入ったミネストローネに、食後のコーヒー、デザートまである。
「浜江さん、いつもこんな感じで用意してくれるの?」
「何かと緊急事態が起こりやすいからね。いつも屋敷の状態に気を配ってるし、呼ばなくてもこちらの要望を汲んで対応してくれる。佐知子も働き者だけど、どっしり構えて頼りになるのは浜江だよ」
「……なるほど、年の功」
「若いとああはいかないんじゃないかな」
「信頼してるんだね」
「彼女は、この屋敷を支えているからね」
「なるほど」
 ローストビーフサンドをぺろっといって、スープを一口。ほどよい温かさだ。テーブルについて食べる場合ははふはふ熱い方がいいのかもしれないけど、こうして座り込んで食べるにはほんのり湯気が出てるぐらいがちょうどいい。
 本当によく考えられてる。
 ……よく考えられてるんです、これが。
 あまりにも完璧、あまりにも見事。
 それが逆に怖い……というか、ひっかかる。
 望んだものが即座に出てくる、そんな都合のいいポケットは現実にはない。「扉を開けたら食事が出てきました」なんてファンタジーの中だけの話。
 つまりこれは、浜江さんの気づかい。それも、状況を明確に把握したうえでの振る舞い。
「……ねえ、惠」
「ん?」
「浜江さん、ものすごく空気読めてるよね」
「それが浜江だからね」
「いや、そうじゃなくて、いやそうなんだけど」
「……?」
 言いたいことが飲み込めないのか、不思議そうに視線をこちらに向ける惠。彼女にしてみたら浜江さんの対応の良さは日常で、さして気にすることでもないのかもしれない。しれないんだけど……。
「……その、さ。ここまで考え抜かれた食事が用意されてたってことは、その」
 普通、許可もなく来客の食事を軽食にするなんてありえない。浜江さんのように専属料理人がいるならなおさらだ。
 にも関わらず、部屋の前に用意されていた軽食。加えて丁度良い量、丁度良い温度、ニーズに合ったメニュー。
 ……つまり、浜江さんは僕たちが「食堂に行きたくない」かつ「声をかけてほしくない」と把握していたことになる。
 要するに。
「……バレてる、ってことだよね」
「バレてる?」
「……僕たちの関係、というか、さっき何してたか」
「…………」
 長い長い、空気の薄い沈黙が延びる。
「……」
「…………」
 事態を把握し、否定が不可能と悟り……惠の顔が真っ赤に染まっていく。
色白な肌がみるみるうちにゆでダコモード。
「……う、うわわわわ……」
 せわしなく、ぺたぺたと自分のほっぺたを触り出す。控えめでバラバラとした、彼女にしては珍しい意味をなさない動き。
「あれだ、家政婦は」
「鍵、閉めただろう!?」
「うん。だから多分見てない。家政婦は見てない」
 こくこくと頷く。
「……でも、声は聞かれちゃってると思う」
「!?」
「そうでなければ、こんな風に用意しないでしょ?」
 面白かったので、ちょっと追い打ち。
「……そ、そういうことわざわざ言わなくてもっ」
 微妙につっかえる制止、しかも声が裏返ってる。
 ……これは本気で想像してなかったな……。
「結構大きな声だったもんね」
「だから、言うなって……ううぅぅぅ」
 過去最大規模の大赤面で大動揺。耳とほっぺたを覆うように両手を顔に当て、体育座りの膝に頭をくっつける。湯気まで出そうな感じだ。身体をしっかり丸めて縮こまり、小刻みに首を振る。
 ……言っちゃなんだけど、かわいい。
「……楽しんでる、智」
 知らずににやけていたらしく、惠が恥ずかしさをこれでもかと放出した目で睨んできた。でも、目が潤んで顔は真っ赤じゃ威圧感ゼロだ。むしろもっとおちょくりたくなる。
「へへー、ごめんね」
「謝ってない」
「嘘つきですから」
「……ずるい」
「ずるいって言われても……ずるいっていったら惠もずるいよ、こんな格好して」
「わっ!?」
 膝に手を当てると、ぴょっと肩があがった。
「大胆なんだからー」
 すべすべの膝を手のひらで包み、くるくると擦る。高級和菓子を思わせるしっとりさらさらの感触。おいしそうな手触りってこういうのを言うんだろう。
 今の惠の服装は、下着とブラジャーの上にブラウスを羽織っただけ、素肌とシャツの割合が6:4ぐらい。その上、両膝を立てた、いわゆる体育座りなんかしてるから、足もおへそも見放題。目の保養とも言うし扇情的とも言う。いつもぴっちり自分をガードしている分、ギャップがとんでもない。
「これは……その」
「襲ってくれって言ってるようなものだよ、食事中はしないけど」
「……食事終わったらするんだ」
「できるなら夜通しでも堪能したいです」
「狼だ」
「狼です」
「開き直った」
「開き直りました」
「……手強い」
「必殺、応報戦術」
 いばってみる。
「……もう……」
 反撃の意味なしと思ったか、苦笑いしながらスープを口にする惠。
「ダダ甘だ」
「のろけは減らないから大丈夫」
「……はぁ」
 溜息。とはいえ、その表情は穏やかだ。
「……本当、君って奴は……」
 食後の展開はともかく、こんな風に直球を投げ込まれるのは嬉しい……態度からはそう読み取れる。諸々の事情を取っ払った、素直な反応そのものだ。
 それは、彼女を縛る鎖が緩んでいるという証。
 瞬き程度の時間、針の穴を通るような僅かな自由を、惠は今だけ自分自身に認めている。
 葛藤の嵐から、ほんの少しだけ顔をのぞかせている。
 ……今だけ。
 お互いを通じ合う熱情が色濃く残り、手を伸ばすまでもなく確かめられる今だけ、彼女は素直の階段の前に立てる。
「クローゼットの中、見ただろう」
「うん」
「……ああいう服しか、ここにはないんだ。だからちょっと、その」
「うん、わかってる」
 以前見せてもらったクローゼットの中には、徹底的に女性性を廃した服ばかりが並んでいた。色にしても地味を通り越して暗いものばかり。それも、渋さやスタイリッシュさを出すための色とは違う、一言で言えば影をまとうような色。女の子が好みそうなパステル系どころか、緑や青すらなかった。柄物なんて論外。
 それもまた、彼女が世界にどう相対しているかの現れ。
 たとえば、自分の好みの服を着て「その服好きなの?」と聞かれる、それだけで彼女は地雷原に立たされてしまう。自分から言い出すのはもちろん、答えることもできない。 言葉の支配下におかれたこの世界で、呪いは惠に『自己』を禁じる。
 だから、真実を要求されないために、真実への興味そのものを失わせる。主張もなければ気も引かない、あるいは近寄りがたい格好をすることで、他者の興味を遮断し、自分を守る。誰かを相手にする以前に、呪われた世界に対し、己を隠す。
 ……そんな服、今着る気にならないのは当然だし、僕だって着せたくない。
「僕、惠がこういう格好してるのも好きだよ」
「……そう、よかった」
「健全な青少年的には少々刺激が強うございますが」
「……ますますよかった」
「いいの!?」
「さあ、どうかな」
「そういうこと言うと本気にしちゃうぞ」
「してみる?」
「……後で本気出す」
「負けず嫌いだね」
「この路線ではぐらかされると困るのー」
 言いながら、ぐいっと肩を引き寄せる。惠は逃げることもなく、肩に頭を乗せてくる。
 顔の輪郭をなぞると、指先が雲に溶けそうな錯覚を起こす。見上げる表情を脳に写し取り、軽く唇に触れる。全身がわたあめになったみたいな、味ではない甘さに満たされる。確かにダダ甘だ。
「こんな状態の君を見たら、浜江さんや佐知子さんはどんな顔するかな」
「卒倒するかもしれないね」
「そこまでいきますか」
「他者に興味すら持たなかった人間がいきなり同性愛に走ったら、普通はひっくり返るよ」
「ど、同性愛ですか」
「そうとしか見えないだろう?」
 困ったようでもあり、それを楽しんでいるようでもある小さな反撃。
 同性愛……そっか、傍目に見たら僕たちガチレズに見えちゃうのか。
 それはそれで……よくないけど、その方が助かる。……現実は斜め上に厳しい。
「我らがエロペラー花鶏で見慣れすぎて感覚マヒしかけてるけど、一般的にはレズに見えるのはまずいよね」
「彼女にすれば愛に性別は関係ない……いや、あるのか」
「大ありでしょう、ズレた方向に」
「君が相手ならどっちでもいいって言うよ、きっと」
「……どっちでも良かったんだ、惠」
「今となっては、神のみぞ知る」
「人の心は複雑怪奇」
「ああ」
 ほどけて絡み合う視線。隙だらけ、というより、色をたっぷり含んだ編目に誘い込むような穏やかな表情。
 見るほどに吸い込まれ、包まれる。それもただ柔らかいだけでなく、男性を引き付ける色香が混ざる。恋する女の子が自然にまとう、甘くて強い魅力。
 ……うう、こんな身近でアイコンタクトされたらまた自制が効かなくなる。
「と、とりあえず、ご飯全部食べちゃおうよ。スープ冷めたら申し訳ないし」
 無理矢理感漂いまくりの提案で、ちょっとだけ甘美さを小休止させる。
「あ、そうだね」
 我に返ったのか、ひょいと身体を離され―― 逃がすまい、と軽く引き寄せる。逃げはしないと知っていても、念のため。
 ぴったりくっついた状態から、軽く肩が触れ合う体勢へ変え、再びサンドイッチに手を伸ばす。
 まどろむような静かさが訪れる。
 味わうのは食べ物と、二人寄り添う温かさ。乾きに喘ぐ心に注ぐのは、両想いという優しい滴。鼓動と体温を架け橋に、じっくり、じんわりと染み込ませていく。
 二人きりの時間。嘘を必要としない時間。
 ……こうなることを、惠は望みながらも望まなかったんだろうな。
 彼女がみんなと離れようとしたのは、疑いようの無い事実だ。
 佐知子さんまで巻き込んでの一芝居、単なる思いつきではないはず。意地でも断絶したい理由がきっとある。その理由そのものを聞き出すのが一番確実なんだけど、実際はそれが最も難しく、彼女を苦しめる。
『言いたいけれど言えない』状況が増えれば増えるほど、惠は追い詰められてしまう。そうと知っていて口を割らせるなんて愚の骨頂。
 ……だからこそ、僕は彼女を連れ込んだ。腕の中に、暴走する熱の中に連れ込んだ。
 理由は後でもいい、最終的に聞けなくてもいい。
 ただただ、手放したくない。
 惠と過ごしてきた時間を、全身で知った彼女の心を、これからを、諦めたくない。
 放っておけば、惠は離れていく。それなら、対抗してでも、無茶な手を使ってでも、連れ戻したい。
 ここまで来たのは、結局そういうことだ。
 彼女の隣は、呪われた世界の中に広がる小さな庭。僕だけが知る花の庭。
 僕はずっとそこに座っていたい。惠という蕾が花開いていくのを、とりどりの姿を見せるのを、ずっと見ていたい。
 この瞬間を慈しむ、整った中にも緩やかな赤みを含む横顔。冬の終わり、春が駆け寄る季節の日差しのような、手触りの柔らかい微笑み。
 隠しきれない寂しさが、ときどきほろりと零れる。
 ……ああ、やっぱり。
 僕は、君をひとりぼっちになんかできない。
 食べ終えて、コーヒーで喉を落ち着かせる。
「これから、どうしようか」
「……『どうしようか』なんだ」
 さりげない一言にも反応するあたり、流石だ。
「離さないから」
「……」
 しょうがない、という風に笑う。その笑みには困惑と安堵が滲んでいる。
 一人になんかさせない―― 暗に伝える僕の意志。
『どうしようか』という言葉は、それ自体に聞き手と話し手の同調を内包する。
 僕が聞いているのは、惠がどうするかではなく、僕たち二人がどうするか、だ。
 正確には「みんなのところに戻るにはどうするか」。
 よほどのことがない限り、彼女は孤立の道を選ぼうとするだろう。でも、それじゃここまで来た意味がない。
 選択肢はいくつもある。今日のように、みんなの知らないところで二人会い続けるのもひとつの選択肢だ。
 ただ、できるなら―― いや、絶対、惠には同盟にいてほしい。
 また一緒に笑い合いたい。たわいもなくかけがえのない日々を、七人で過ごしたい。まずいジュースを飲んでリアクション決戦をして、街に繰り出して変な名前の店をチェックして、おやつを持ち寄って、斜め上にきりもみ回転するネタ話を楽しんで、夕焼けを見送って、時には一緒の部屋で雑魚寝して、僕と、惠と、みんなで。
「……戻ってきて、惠」
 たっぷりの沈黙。時計の針がゆるゆると働く。焦らず騒がず、惠の体温に拠り所を見いだしながら待ち続ける。
 静かに―― 惠は首を横に振る。
「僕が頼んでも?」
 さらに首を振る。
「……このままでは、いたずらに君が板挟みになるだけだ。どちらかを選択しなければ駄目なんだよ」
「選択なんかないよ。僕は最初から、君がみんなのところに戻ることしか考えてないもん」
「……不可能だ、と言ったら?」
「可能にする」
「それでも不可能だと言ったら?」
「可能にする。絶対戻ってきてもらう」
「強情だなぁ」
「男には譲れない一念というものがあるのです」
「譲らなければならない状況だってあるよ」
「ない。少なくとも、今はない」
 断言。一歩も引かない。
 ……だって、あんなの嫌だ。
 脳裏に焼き付いて離れない、花鶏やるいの憎しみに満ちた顔。まだ全てが決まったわけではないのに、日々疑念を膨らませ、想像の中で惠を悪役に作り上げていく姿。氷より冷たくガラスより鋭いしこりは、傷つけあう結果しか導かない。
 同盟と惠が分かたれたあの日以降、僕は花鶏の屋敷に近寄れなかった。行動は迅速にすべきと言い聞かせても、動けなかった。
 ……行けば、惠を責められるのがわかっていたから。僕の大好きな子を、傷つけられるのがわかっていたから。
 なんとか今日は立ち直って、花鶏の屋敷に行ったけど……正直、息が詰まってしょうがなかった。覚悟していても、惠への悪口を聞くたび、鱗がはげるように心がささくれだっていった。
 本物の彼女に触れた今、なおさら強く思う。
 こんな断絶、間違ってる。
 いたずらに傷つけあって、誤解と先入観で絆を崩すなんて、間違ってる。
「……惠、どうしても戻ってこれない?」
 今度は首を縦に。意志は固い。
 ……それなら。
 小さく深呼吸をする。切るべきカードは、大分過激。
 理由はわからない。けれど、惠が離脱を選んだきっかけは見当が付いている。
 ……だったら、そのきっかけそのものを壊してしまえばいい。
 はっきりと―― 多分、惠が想像もしていない提案を口にする。
「……呪いを解かないよう、僕がみんなを説得するとしても?」
「な――……!?」 
 目を見開く。
「智、君は今なんて」
「僕、呪いを解かないように皆を説得する」
「何をバカなことを」
「バカじゃない。君が戻ってきてくれるなら、僕は何でもする」
 空耳だと信じたいとでも言わんばかりの、驚愕の表情。その両目をしっかり見据えて、意志を込めて告げる。
「呪いを解くって言い出したのは僕だ。呪いを解くためにあれこれしてきたのも、口八丁手八丁でみんなの意見をまとめたのも僕だ。言いだしっぺの上にリーダーが撤回するなんて、普通はありえないし、やっちゃいけないかもしれない。でも、そのせいで君が苦しむのなら、こんな風にみんなに嫌われるなら……呪いなんか、解かなくたっていい」
「そんな……」
「るいの呪いだって、ちっとも襲ってこなくなった。きっと逃げ道があるんだ。今までだってやってこれたんだ、これからも呪いと一緒に生きていこうよ」
「智」
「……だから、戻ってきて。同盟に、皆のところに戻ってきて、お願い」
 呆然とする惠。ちらちらと、瞳の奥が揺れ動く。
 両肩を掴んで、上半身全体をこっちに向かせて、さらに続ける。
「嫌なんだ、嫌なんだよ。君がみんなに憎まれて、暴言吐かれて―― あんなの、耐えられないよ」
「智……」
 言葉は数珠繋がりに本音を引きずり出す。説得でも何でもない、弱虫の自分が溢れてくる。
「君と僕は結ばれた関係でもあるし、それぞれが同盟の一員でもある。それは今も変わらない。二人きりの時間より、七人で過ごした時間の方が長いでしょう? こうしている君も、仲間と一緒にたわいないおしゃべりを楽しんでいる君も、どっちも大事なんだよ、分けて考えることなんかできない、割り切ることなんかできないよ」
「……選べない、と?」
 惠は見抜く。
 僕の優柔不断さを、八方美人で首が回らない愚かさを。
「……そうだよ、選べない。君のために全部かなぐり捨てられるほど強くない、君から離れられるほど強くない」
「……智らしくないよ、智はそうして選んできたんじゃないのか」
「そうかもしれないけど……僕、君が好きだから、誰よりも大好きだから。だけど、君を好きってことは、他のみんなが嫌いとか、どうでもいいってことじゃないんだ。どちらかを選ぶってこと自体、僕にはできない」
 人は、とかく身勝手だ。無意識層で周りの全てをランク付けし、優先順位を決めて仕分けていく。
 僕も例に漏れず、対人関係を、宮のように好意を向けてくれる子を、生命のために振り捨ててきた。
 ……なんでも捨てられた。それができる自分だった。
 だけど、今切り捨てを求められているのは、根底は繋がっているもの。僕と惠は共に、同盟の中で育ち、その中でたくさんのものを得て今に至っている。
 るい、花鶏、こより、伊代、茜子、惠、そして僕。
 七人は、分かたれることのない一つの輪。
 惠をそこからはじきだすことも、はじき出したと考えることも、僕にはできない。
「……」
 惠はじっと僕を見つめている。瞳の奥の奥まで見通そうとするような、力と芯のある視線。表情は真剣そのもの、包むでもなく、寄りかかるでもなく、隠すでもなく対峙している。
 答えは、なかなか返ってこない。
 肩を掴む僕の手に、惠が自分の手を重ねた。いたわるように撫でる。
 心臓が早鐘を打つ。感情が先走りすぎて言い方を間違えたか、そんな後悔もじわりと沸き上がってくる。
「……智」
 ややあって―― 意を決したように、惠が口を開いた。
「立場は、距離は、想いを失わせる?」
「……」
「いつも一緒にいることだけが、誰の目にもわかるかたちで同じ方向を向くことだけが、想いの証明かい?」
「……」
 肩から手をはずし、指をしっかりと絡める。
「今日、君が確かめたものは、離れた瞬間に消えてしまう? 君の目に、僕はそんなにも移り気に見える?」
「……見えない」
「うん」
 惠が深く頷く。
「それなら―― 僕を信じて」
「……惠……」
「君が導かなくて、一体誰がみんなを導くんだい? そんな重責を、他の誰かに投げてしまうのかい?」
 声にこめられるのは、いたわりの想い。
 こんがらがった僕の心を編みなおすように、静かに、優しく言葉を重ねる。
「みんなの行動には、必ず意味がある。目に見える悪意や嘘に惑わされたら、先に進めない」
 手が離れた。
 体温が近づいてくる。
 ゆっくりと、しっかりと、惠が僕を抱きしめる。
「君がこんな風に揺れるのを、一体誰が望むと思う? 周りがどんなに波風立てても嵐に飲まれても、行き先を目指せるのが君じゃないか。あからさまな一瞬にひっかかってどうするんだい」
 体温を、重みを強く感じる。
 全身で、彼女が僕を支えようとしているのがわかる。
 ……何をやってるんだろう、僕。
 惠を支えるつもりが、駄々こねて、こんな風に支えられて……受け止められて。
「君がやらなかったら、一体誰がみんなを助けられる?」
「……」
「君がやらなかったら、いつまでたってもみんな呪いに苦しんだままだ。そんなのを僕が望むとでも?」
「……でも、惠は呪いを解きたくないんでしょ?」
「解きたくない、っていつ言った?」
「……」
「第三の選択肢というのが、この世には存在する。それを信じることはできないかな」
「第三の選択肢……?」
「そう」
 一瞬だけ、惠の身体がこわばった気がした。
 細い細い、糸のような綱の上を歩く惠。真実に限りなく近い曖昧さを紡いでいく。
「その正体が何なのかは、いずれ明らかになる。君もみんなも、いつかわかる日が来る。ちょっとの間の辛抱だよ」
 背中をさすられる。やんわりと、はっきりと、呼吸に従って手が動く。
 ……なんだか泣きたくなってきた。
 言えないこと、飲み込んでること、山ほどあるだろうに、それでも惠は僕に道を示す。
「だから、君は君の道を。僕は、僕の道を」
「……うん……」
「立場は、道程は離れても、信じられるものがあると……そう、誓ってくれないかな」
「……うん……わかった……」
 抱き返す。ひと固まりの、二つの身体。鼓動を感じ、身体に織り込む。
 わからないことばかり。
 惠が離脱を願った本当の理由も、第三の選択肢がどんなものなのかも、みんなのあの刺々しさが何になるのかも、全ては不透明な靄の奥、欠片さえも見えてこない。
 それでも、信じたい。
 恋人と仲間、そのどちらも選べない優柔不断の僕。
 ……不安、だったのかもしれない。
 立場を固められず不安定な自分が何よりも心もとなくて、さまよってしまったのかもしれない。
 惠はそこから僕を引きあげてくれた。突き放すのではなく、受け入れてくれた。
 僕は彼女の味方になりきれないのに。惠のために仲間を捨てることができないのに。
 もし惠が「呪いを解かないで」と言っていたら、僕はその通りにしようとしただろう。
 でも、多分それも完遂できなかった。場をぐちゃぐちゃに乱した揚句、何も残らない悲惨な結末を作ってしまっていた。
 呪いを解かないのは、みんなを切り捨てることと同じ。僕はきっと、そこまでの覚悟を持てない。
 答えは出ていて、道は決まっていて―― それでも迷って、ここに来た。
 僕は、ただ惠に背中を押して欲しかっただけなのかもしれない。
 僕の進む道が間違っていないと、惠を苦しめることにはならないと、確かめたかっただけなのかもしれない。
「……今日は、帰るのかい?」
「帰らない。一晩中、惠と一緒にいる」
「……あたたかい夜になりそうだね」
 ひとつにはなれない二つの身体に、赤い糸を結ぶように。
 僕たちはずっと、ただ抱き合い、お互いを聞き続けていた。


「はい」
「……え」
 手のひらにのせられた金属に目が点になる。
「……えーと、これは」
「合鍵」
「なーんですとー!?」
「毎回佐知子や浜江を通すのはやりくにいだろう?」
「お、おおおおお……史上最大のトップシークレットがこの手に」
「みんなには貸さないでね」
「貸すわけないでしょ」
「それもそうか」
 降り注ぐのは呑気に昇る陽の光。空気には次の季節の足音がほんの少し混ざる。緑多い屋敷の庭は、これからが本番とばかりに元気に空を目指している。
「……まあ、あまり頻繁に通って疑いをもたれても困るだろうし、使うのは最低限度にとどめておいた方がいいだろうね。一種のお守りみたいな感じかな」
「不可思議パワーが付加されそうだ」
「いわくはついてないよ、残念ながら」
「気持ちの問題」
 合鍵は年代物なのか、妙に味のある色をしている。色んな意味で最終兵器だろうに、こうも簡単に渡されるとドキドキを突きぬけてガクガクしてくる。
「……」
 惠は僕から視線を外し、緑の奥を見つめる。
「この家で君を待つのは、一人ではないよ」
「……あ」
「真耶も、君を待ってる。彼女に会いたいときはそれを使うといい」
 僕に瓜二つの、細い細い着物姿が頭をよぎる。
 忘れていたわけじゃないけど……ある意味、わざと気にしないようにしていた一人。
 何故なのかは自分でもよくわからない。惠とこういう関係にあるから気まずい、というのも一因だろうとは思う。
 でも、それ以上に―― 上手く表現できないけど、姉さんにはどこか引っかかるものを感じてしまっている。たった一回会っただけなのに早計だけど、持ち前の勘が姉さんと距離を置けと言っている気がした。
「姉さん、元気?」
「普段通りだね。君が来たらきっととても喜ぶよ。ただ」
「ただ?」
「……彼女に会う日は、僕に会わない方がいい」
 どこか忠告めいた提案。心の奥底で、かちりとピースのはまる感覚。
「気分的な問題だよ。何かと気まずいだろう?」
 怪訝な顔をしたのに気付いたのか、微笑んで補足したものの、納得と違和感の混ざった妙な認識は薄まることなくとどまり続ける。
 ……姉さんと惠の関係。これも僕が気になっていることのひとつ。話題に出しづらくてなかなか聞けないでいるけど、呪いを解くとなれば、いずれ詳しく知ることにもなるだろうから、とりあえずは焦ることないか。
「ん、わかった。気が向いたら使うことにする」
 なくさないように、カバンの奥のポケットの中へ。あとでキーホルダーでもつけておこう。
「いってらっしゃい、智」
「また来るね、行ってきます」
 手を振って送り出してくれる惠。
 足取りは、屋敷に来る時よりは軽い。
 結局、現状は改善していないけど、進むべき方向が定まっただけでもかなりの収穫だ。後はみんなのテンションが暴走しないように見張りつつ、呪いを解く試みを続けよう。
 アスファルトに音を立てながら、屋敷を後にする。かなり名残惜しいけど、玄関先で長居しても悪いだろう。変に誰かに見られても――
「――――……」
 ほとんど反射的に、後ろを振り向く。
 視界をかすめる中年男性の背中。早足で反対側の角を曲がり、すぐに姿が見えなくなる。
「……?」
 さして珍しくもない、一般的な中肉中背のサラリーマン風の男性……だったと思う。取りたてておかしなところはなかった……気がする。
 でも、僕の足は止まった。
 もう誰もいない曲がり角が、そこに消えていった誰かが、妙に印象に残る。
 会ったことのある人だったのだろうか? でも僕に中年男性の知りあいなんていないに等しいし……
「……まあ、いいか」
 口に出しては見たものの、喉に小骨が引っかかったような感覚が残る。
 ……あくまで、直感だ。根拠は何もない。
 けれど、もし僕の勘が正しかったのなら、あの男性は――
「……気をつけて、惠」
 届くはずのない言葉が、知らず口から零れ落ちた。