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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act10 「聞かない想いとルール違反」  


 こよりが僕を見ている。
 僕はこよりに見られている。
 二人の間にあるのは真空のような硬直だ。息苦しくはないから呼吸はしているのだろうけど、意識の部分が根こそぎ止まってしまった脳はそれすら知覚できない。でも、目の前のこよりは暗がりだというのにハッキリと認識できる。釘付けだ。否、磔にされたよう。身じろぎ一つできやしない。
 まるで運命の壁のように立ちはだかる、可愛らしい少女。こぼれ落ちそうなほどに目を見開いて、固まっている。彼女から見た僕は、さしずめ暗闇に沈みかけた思い出の残り滓と言ったところだろうか? ひょっとしたら、視界にいるのは僕でも、思うのは後ろにいる智かもしれない。いや、その可能性の方が高いか。
 関係があるようでないことが、からりからりと回り続ける。大事なのはそこではないとわかっているのに、現実逃避が表に出てきて思考を埋め尽くす。お互い動かない、動けない。
 けれど、この場にいるのは事態に縛り付けられた僕とこよりだけではない。
 時間は、進む。物語も、運命も、容赦なく、次を捲る。
「どうしたのこよりちゃん? 何かいた……」
 花鶏が。
「ほ? なになにー?」
 るいが。
「どうしたの? 後ろがつかえちゃってるから、何かあるならここを抜けてか」
「……なんというサプライズゲスト、むしろラスボス」
 伊代が、茜子が。
 僕の姿は、彼女たちの視界に現れる。驚き戸惑う、きっと今までに見せたことのない素の姿。
 視線はまずは前衛に、そして、後衛――怯え控える、僕の恋人に向く。
「……め、メグム……!? って、後ろにいるの……!」
「智!? 智なの!?」
 ぴったりと寄り添っていた身体がびくりと震える。
 ――智。和久津智。
 その存在は、彼女たちに嵐を巻き起こす。
「智センパイ……智……センパイ……!」
「う、嘘……こんなことって……!」
「流石は猫レーダー。全十回のドラマの中盤中だるみ部分を華麗にすっ飛ばしてくれました」
 耳に入る声が脳内をかき乱す。胸を掻きむしりたい衝動、突き抜けた現実感が空気を薄くする。反応ができない。僕も智も計画や見立てをベースに行動する分、突発的なアクシデントにはすこぶる弱いんだ。いや、例え強かったとしても、この状況には対応できなかっただろう。
 彼女たちは敵ではない。それよりもっと恐ろしいもの。
 この再会は、僕たちにとって世界が終わるぐらいにありえないことのはず。これを起こさないために、二度と出会わないために、僕は、智は、田松を離れて、遠くに行こうと――
 ああでも、ここは田松市。戻ってきた以上は、いずれ。
 そして、であってしまったのなら、そこからさきは。
「トモー! 会いたかった、会いたかったよー!!」
「のきゅぁー!?」
 叫んだ、と思ったらるいが智に飛びついていた。ほとんど押し倒すようにして上に乗って頬ずりし始める。
「んもう、もう、もうもうもうもう! すっごい、すっごい心配したんだからぁ! どこに行っちゃったのかって、どうしてるのかって、るい姉さん頭ちぎれそうだったんだから!」
「ちょっと皆元! あなただけ先にずるいわよ! 再会の熱いキスは私がもらうわ!」
「ふみゅああぁぁぁ!? 待ってよ二人ともいきなりテンション上がりすぎゅわ」
「これがテンション上がらずにいられるかー!」
「あう、センパイ方ずるいデス! 鳴滝も混ぜてください!」
「えっ、ふわ、ひゃああぁぁんだめだめだめだめいやぁぁぁいきなり襲うのらめなのおぉぉ!」
 いきなり大惨事。思索なんか何の意味もないぐらいの賑やかしい声が路地裏に響く。
 ……智には申し訳ないけど、その光景はとても微笑ましい。
「ほんっと自重しないんだから、この子たち」
「まあサカリのついたメス猫みたいなものですから。こういう言い方は猫を侮辱してる感があって非常に腹立たしいですが」
「主観は猫の方なのね……」
「当然です。生類哀れみの令が悪法だったのは犬をメインに据えたからです」
「あなたはまたそういうことを」
「……でも、よかった。あの子、無事だったのね」
「……」
「智! 本当に智だわ! このぺったんこな胸! すべすべの髪! 怯えるまなざし! そしてスカートの中の小宇宙!」
「やめてぇええぇぇそれだけは! お願いそれだけはやめてえぇお代官さまぁぁぁ」
「よいではないか、よいではないか、ほぅれほぅれ」
「くぉら! 独り占めは許さんぞ花鶏ぃ!」
「鳴滝だって智センパイとくっつきたいデスようぅ!」
「いやぁいきなり三人はだめぇぇひにゃうんはぅぅみきゃあぁぁぁ」
「……既に言語じゃなくなってるわね」
「おお、恐ろしきは貧乳ブルマリアンマジック。危機感も感動もカラータイマーカップラーメン仕様星雲の彼方に」
「……本当に、智は愛されているね」
 再会の感動を露にする彼女たちの姿は輝いてすらいる。伊代も茜子も駆け寄りこそしないけれど、瞳には喜びが灯っている。
 活動的な三人にもみくちゃにされる智。呪い云々という危機感も彼女達のテンションにはかなわない。ぽっかりと空いた時間という穴を埋めるかのように、騒ぎが広がっていく。
 五人分の愛情を一心に浴びる、同盟のリーダーであった人物。彼は呪いというあまりにも大きな枷を背負った七人を結びつけ、同盟という輪を創りだした。きっと、智でなければ達成できなかった。彼こそが同盟の核であり、最も愛情を受けていた存在。僕が同盟に在籍していた時間は短くても、その間に十分に感じ取ることができた。同盟は彼の想いで始まり、彼に集うもの。
 そう。和久津智とは、同盟の代名詞。僕は同盟の中の、一番小さなパーツ。
 ……彼が遠く見えるのは、きっと気のせいだ。
「それにしても、どうしてここに?」
 気持ちは盛り上がりつつも震源地には近寄れない風で、伊代が話しかけてくる。
「それは、僕が君たちに聞くことじゃないのかな。一人ふたりならともかく、なぜ全員揃っているんだい?」
 問で返す。口にしてようやく疑問が形を結び、思考回路が現実に即して動きはじめる。
 ……なぜ、彼女たちが今日、このタイミングで、しかも揃ってここにいるのか。
 冷静に考えれば、田松市内である以上、再会の危険は常につきまとっていた。僕が彼女たちと央輝の仲介役になったこともあるし、そもそも彼女たちの出会いが円塚のどこかだったらしいから、ありえてもおかしくはない程度には可能性のあることだった。ただ、五人揃ってとなると状況が変わってくる。トラブルがあっても切り抜けられるだろうるいや花鶏はともかく、幼いこよりや戦力にならない伊代、触れられるだけでアウトの茜子まで一緒なのはかなり特殊な事態と言えるだろう。おまけに、今は普通なら大通りにさえ出る気にならないような時間。わざわざ出歩くなんて、よっぽどの理由があったはずだ。
「ああ、それはね……」
「ブルマリアンを失って欲望のはけ口を失ったエロペリアンが仁義なき性暴走の果てに怪我の功名を立てました」
 説明しようとした伊代の口を封じるがごとく、独特の解説を加える茜子。相変わらず、手の込んだ物言いだ。
「失礼ね、それじゃ私が節操ないみたいじゃない!」
 そして、きっちり聞いている花鶏。智から少しだけ身を離して話題に乗ってくる。その隙にささっとスカートを戻して正座する智。……涙目だ。
「花鶏は見境ないっしょ」
 半分抱きついたような状態でるいがツッコミを入れる。花鶏は暗がりでさえはっきり分かるほどにいらだった表情を見せる。どうやらこの二人の仲の悪さは相変わらずのようだ。
「バカなこと言わないで。ターゲットはちゃんと顔と体型をチェックして吟味してるわよ」
「あっちの子はBカップ、そっちの子はDカップ、いっつもそんなんだよね」
「宝石はいつどこに転がってるか分からないのよ。ちょっと気を抜いた隙に逸材を逃したら大問題でしょう」
「……そういう問題じゃないと思うデス」
「ただ、アーケード街はいただけないわね。化粧が濃かったり不必要に寄せてあげてたりで、素材の美しさが引き立ってないことが多すぎる」
「最近、あの辺で雑誌の撮影とかやってますからねー。スカウトされたってクラスで騒いでる子がいました」
「しかも男とデートしてる子が多くてイヤになるわ。消しゴムであの男消したいって何度思ったことか」
「……横暴な」
「だって、美少女がケダモノに喰われるのよ? 世界の財産が男ごときに汚されるのよ? それを黙って見過ごすしか出来ないなんて世の中間違ってると思わない!?」
「……いや、さすがにそれは花鶏の方が間違ってるんじゃ」
 こっそり智がツッコミを入れる。聞いているのかいないのか、花鶏はぐわっと拳を握りしめてぶるぶる震わせる。
「あんなヤツラじゃなく、私ならもっと丁寧に丁寧にぐちょぐちょのとろとろに可愛がってあげられるのに!」
「……結局それなのね」
「他にないでしょう、筋金入りのレズ菌培養装置ですから」
「そんな装置はいらない」
「……ええと」
 花鶏の相変わらずさに安心はするものの……見事に脱線していて、話が見えない。
「つまり、どういうことなの?」
 焦りからか三人娘の攻撃を逸らすためか、智も話の続きを促す。
「えと、五日ぐらい前でしたか。そんな調子で花鶏センパイが街中で美少女チェックしてたら、センパイの美少女チェッカーにヒットした女の子が見るからにくらーい表情で裏路地に入ってくのを見かけたのデス」
「でまあ、当然のように追いかけたら」
「そこに広がるはまさにテンプレ展開、一人の女生徒に複数で詰め寄るどう見てもかませです本当にな安っぽいチンピラ共」
「だもんだから、るい姉さんが気持ちよーく成敗」
「なかなかいいおっぱいだったわ……」
「揉んだのか」
「等価交換よ」
「理不尽だ……」
「叩きのめしたの私なんだけどなぁ」
「発見したのは私だもの。拾得物は第一発見者のものなのよ」
「それとこれとは話が別だと思うの。確かにあの子はお礼をしたいとは言ったけど、それはあくまで常識の範囲内のことであって、あなたのセクハラを受け付けるって意味ではなかったし、そもそも犯罪行為を止めた見返りに身体を求めるっていうのは一般常識的な面から見て」
「まあそれはいいとして。せっかくだからと、一難去って大災難な薄幸の美少女に詳しいことを聞き出したんですね」
「そしたら……」
「そしたら?」
「……」
 するすると話していたのに、突然こよりが口ごもる。察したのか、るいが繋ぐ。
「そいつら、トモの名前の入った制服の写真を持ってた。それを使って南総の生徒を脅してたんだ」
「――――!」
「な……!」
 横っ面を殴られるような衝撃。
 本題に近づき、和気藹々とした空気が徐々に詰まってくる。
「そんなの知ったら、黙ってるわけにはいかないでしょ。奴らを逃がしちゃってたもんだから、伊代の能力フル稼働で探したのよ」
「他でもない、あなたの制服だもの。しかも、連絡はないのに制服の写真だけだなんて怪しすぎるわ。もちろん写真が本物か偽物かなんてわからないし、その人達が偶然手に入れただけかもしれない。でも、どっちにしろ放っておけなかったの。能力を使うのって好きじゃないんだけど、今回ばかりは例外だから」
「んで、奴らのアジト突き止めて、特攻かけようと思ったらこうなった」
「……」
「……なに、それ……そんなこと、あるの……?」
 明かされたのは、鮮やかすぎて憎らしくなるほどの偶然。まるで悪魔の手品を見ているみたいだ。
 よく言えば、導かれるように、悪く言えば、操られるように、この狭い路地に、弾丸のように集まった七人。
 盗まれた制服。そこから始まった次の運命。
 盗人共は智の制服を活用し、何の関係もない南総学園の生徒に魔の手を伸ばした。佐知子の予想は寸分の狂いもなく的中していたんだ。相手が既に積極的に行動していたのは意外だったが、出来事そのものは想定の範囲内ではある。
 そして、僕たちは犯人グループを潰して制服を取り返し、奴らの計画を止めることに成功した。
 これは、一つの物語。きちんと成立し、完結している。
 だけど……その裏には、もうひとつの物語があった。
 制服による脅し。その被害者に関わったところから始まった、五人による第二の物語。
 考えもしなかった。
 自分たちの他に、あの制服を必要とする誰かがいる可能性。制服を起点として、また別の選択が、道が繋がる可能性。
 この街には、みんながいる。この街で起こる事件は、みんなが知ることになる。
 だったら――そこに介入してくることだって、十分にありえる。
 ……なぜ、思いつかなかったのか。
 鍵になるのが制服だったから? 舞台が裏社会だったから?
 ……違う。
『考えたくなかったから』だ。
『すっぱいレモンを思い浮かべないでください』と言われれば、脳は指示内容より先にレモンを思い浮かべる。それと同じことだ。『みんなに会わないように』と考えた段階で、望む望まざるに関わらず、再会の様子が描かれてしまう。
 だから、仮定そのものを拒否した。
 ――会いたくないから、考えなかった。考えなかったから、避けられなかった。
 だって僕たちは――こよりの声を聞く瞬間まで、彼女たちのことを『意図的に忘れていた』のだから。
「さて、んじゃこっちの話はしたところで……なんで二人はここにいるのかしら」
 花鶏が立ち上がり、今度はこちらの番だと険しい表情を見せる。
 ……視線を向けられたのは、僕だ。花鶏の目に宿るのは敵意に似た疑念。隠す気など微塵もなく、むしろ無言の圧力としてアピールしてくる。
 二人は、というのは、便宜上の言い方に過ぎないだろう。
 目でわかる。
 花鶏はこう問うているのだ。
 ――自分たちの大事な人を、何故連れ去ったのか、と。
 再会と共に表出するのは強い感情、おそらく、彼女は智に愛情を、僕には疑惑の目を持ったまま過ごしてきたのだろう。時間と共に慕情は熟成され、疑念は淀む。となれば当然、何事か問いただすのは僕になる。
「君たちが探そうとしたものを取り返しに来たということで、どうかな」
 なるべく真実に近い上澄みを返す。ただ、真実の欠片であるがために、どうしても断定はできない。
 それが何故なのか明確に理解しているのは智だけだ。つまり、彼女たちから見れば不真面目。
「どうかなって……あなたこの期に及んではぐらかす気なの? 確かに突然のことだし後ろめたいことはあるのかもしれないけど、でも話の最初からそんな疑惑に満ちた態度を取ったら本筋が見えなくなる上にわかることもわからなくなっちゃうし、何よりフェアじゃないから対話の意味そのものが失われかねな」
「惠は嘘はついてないよ」
 伊代の詰問に智が口を挟む。るいとこよりの襲撃を払い、僕の隣へ戻ってくる。
「……みんなの目に、僕と惠がどんな風に映ってるのかはわからない。突然消えて、制服の情報だけ出てきて、こんな場所でまた出会って、疑わしいことばっかりだと思う。怒ってると思う。許せないかもしれない。でも、惠を責めないで」
「……トモちん」
「僕が悪いんだ。全部僕が悪い。でも後悔はしてない。だから、責めるなら僕を。怒るなら、憎むなら僕にして」
 さっき大騒ぎしていたときとは全く違う、昏い力の秘められた言葉。
「みんなにまた会うことになるとは思わなかった。だから今、正直混乱してる。みんなも同じだと思うけど……頭がうまく回らないんだ」
「……」
 茜子がじっと智を見る。自らの能力を発動させる。
 どこまで見えるのかは知らないけれど……それが能力と呼べるほどなら、智の異常に気づくのはわけもないことだ。
「……まったく」
 案の定、茜子の表情が変わる。口調こそ呆れているが、瞳には真剣さに険しさ、寂しさがある。
「『会えると思わなかった』ではないんですね」
「……」
「私たちと会いたくなかった、と?」
「!」
 ほとんど無意識だっただろう、智の表現に切り込む茜子。素早く反応したのはるいだ。
「そんな! そんなことないよねトモちん!? トモちんはずっと私たちの友達だって、そう言ったもんね!?」
「やめなさい、皆元。あんたの意見は聞いてない」
「だ、だって!」
「……どうなの、智。茅場の言ってることは正しいのかしら」
 泣きそうなるいを抑え、鋭く問う花鶏。
 気に入らない、と視線が僕らを刺す。
 疑わしき存在である僕、寄り添う智、求める答えは与えられないのに、感情は牽制される。おそらくは、彼女が最も嫌う構図。
 それに、当時と今では決定的に違うことがある。
「しかも、才野原はあのとき死にかけてたのにピンピンしてるじゃない。一体どういうカラクリよ? 病院に行ったとか見え透いた嘘つかないでよ、それならあの時に救急車呼べば良かったし、姿をくらます必要がないんだから」
「……」
 智は下を向いてしまう。
 沈黙は、秘密と溝をいたずらに深くする。
 ……答えられるはずがない。それこそが、僕たちが同盟を離れた最大の理由であり、原因。語るにはあまりにおぞましく、かつ逃れようのない、ねじ曲げようのない運命。
『仲間』という鮮やかで美しい言葉に含めるには、僕の、智の背負った罪は重すぎる。教えれば巻き込む、痛みだけを刻みつけてしまう。だって、真実を知ったところで彼女たちにはどうすることもできないんだ。絶対的な無力を前に打ちひしがれて一体何になるだろう?
 知らないほうが、いい。
 けれど、知らないからこそ彼女たちは踏み込んでこようとする。広がる奈落も絶望も、見えなければ軽い障害物でしかない。好奇心、猜疑心、探究心、丑三つ時の魔に飲まれた高揚感が、超えるべきでない線を超えさせようとする。
 智に聞いても埒があかないと思ったか、花鶏は再び僕に狙いを定める。
「才野原。そのバッグ、何入ってるの」
「……智の制服だよ。取り返しに来たんだと言わなかったかな」
「そう。でも、一着だけでそんなに膨れないわよね。他に何が入ってるのかしら」
 追撃の手は緩まない。その態度には、言葉で駄目なら力づくという選択すら見え隠れする。
「ちょっとあなた、そんな高圧的な言い方しなくても」
「優しくしてもしゃべってはくれないでしょ。だったら無理にでも聞き出すしかない」
「完全に頭に血が昇ってますね」
「花鶏センパイ……そんな」
 仲間たちの制止の声も届かない。花鶏が僕に詰め寄る。
「そのバッグを開けなさい」
 首を横に振る。
 冗談じゃない。この中には制服だけでなく、戦闘の際の血に各種の臭いが染み付いたコート、武器が入っている。語る以上の爆弾だ。こんなものを見られたら、百聞は一見にしかずをそのまま体現することになってしまう。
「なんでよ? 制服しか入ってないんでしょ。それなら見せられるはずよ」
 さらに首を振る。
「じゃあ制服以外の物が入ってるのね。だったら尚更ここで開けなさい、智を連れて、一体何してたのよあなた」
「教える必要があるのかな」
「教えなさい」
「君の怒りはもっともだ。だが、怒りで開ける扉ばかりとは限らない」
「だったらそれよこしなさい! 私がこの場で全部バラしてやるわ!」
「花鶏、やめなよ!」
 るいも止める。止められれば止められるほど、花鶏はエスカレートする。
「どこまで人をバカにすれば気が済むのよ!? 元々あなた怪しかったけど、勝手に智まで連れだして逃げ出して、見つけたと思ったらだんまり決め込む気!? 私たちの智に何をしたのよ! やましいことがないなら堂々と言えばいいじゃない!」
 ……。
『私たちの、智』。
「やましいことがあるから言わないんだよ」
「な」
 割って入った智の声は今までよりもさらに低い。
「やましいことがあるから勝手に出て行った。やましいことがあるから会いたくなかった。やましいことがあるから開けられない。何か問題がある?」
「と、智センパイ」
「ちょっと、あなたまでそんな」
「……本気で言ってますね」
「智……」
 どうしても答えられない僕を庇おうとしてくれる智。けれど、この状況でその行動はまさに火に油だ。
「花鶏。僕、惠を責めるなって言ったよね」
「言ったわね。でも私は聞くとは言ってないわ」
「そうだね。でも聞いてもらわないと困るんだ。最悪、実力行使にだって」
「智、やめるんだ」
「何よ、やる気? 悪いけど、私は手加減しないわよ」
「僕だって」
「やめ、やめてくださいっ」
 完全に悪循環。狭い空間に密集していることもあるのだろう、不安がどんどんと煽り立てられ、対立を生んでしまっている。可愛さあまって憎さ百倍状態の花鶏に、もはや引き下がれないところまで来てしまった智。両者の心は平行線どころか、精神を削りあうつばぜり合いだ。
「どういうことよ、智。あなた消えるちょっと前からおかしかったわ。私たちを結びつけたのはあなたなのに、勝手に放り出して出ていって、再会したら一番疑わしいのをかばうわけ?」
「僕が何をしたって僕の自由でしょ? 花鶏にとやかく言われたくない」
「なっ」
 花鶏の表情に憎悪めいたものが生まれる。
 ――まずい。このまま行けば、二人は完全に決裂する。
「智、いくらあなたでも、いい加減にしないと」
「花鶏が何を言おうと、僕は屈しない。花鶏の思い通りにはさせない!」
「この――」
「――やめろ二人ともっ!」
 ほとんど反射的に、声が出た。多分、今まで出した中で一番大きな声だ。
「頭を冷やせ! こんなところで争うんじゃない!」
 僕が見せた、おそらく今までで一番激しい反応に、二人の感情の流れが止まる。
 その隙に、智と花鶏の間に割って入る。まさに眼と鼻の先で花鶏と向かい合う。
 覗き込む、彼女の瞳。もちろん僕に心を読む力などはないから、何を考えているのかはわからない。
 ただそこに――強い、葛藤を見る。
「……」
 携帯を出し、プロフィール画面を開く。月明かりも街灯も遠くおぼろげな中、異常なほど輝く小さな液晶画面。
 花鶏の前にそれを突き出す。
「新しい番号とメールアドレスだ。居場所を知りたいなら屋敷に来るといい。浜江と佐知子は嘘はつかない、僕たちの寝床まで通すだろう」
「この場は引け、っての? 随分と勝手じゃない」
「……信じてくれ」
「はっ、何を今更。そもそもあんたが疑わしいことをしてたのが」
「信じましょう」
「なっ!」
「短絡思考絶賛沸騰中のあなたに、脱走組を動かすことはできません」
 クールダウンを促すのは茜子だ。
「茜子さんジャッジ的に、エロペラーは非常に不利な状況です。勝てない勝負は嫌いでしょう?」
「……」
 勝てない勝負という言葉に、花鶏がぐっと怒号を飲み込む。
 間ができたのを確かめ、茜子は僕を指さす。
「さっきから、被疑者の心を読んでました。倒錯嘘つき仮面は本気です。信じる価値はあります」
 能力に裏打ちされた言葉は、この場において誰の説得よりも強い力を持つ。
「信じる、って言ったって……こいつのどこを」
「だったら、戦略と言い換えてもいいです。少なくとも、今ぶつかるよりは仕切りなおした方が有利ですよ」
「それは本当なのね? 茅場」
「こういう状況で嘘を付くほどクウキヨメナイザーではありません」
 迷いなく言い切る。茜子の真剣な態度というのは珍しい。
 花鶏の感情の激流が一旦緩まる。
 彼女が聞く耳を持ったことを確認したのか、茜子はさらに説得材料を出す。
「……それに、あの人との約束もあります」
「あの人?」
「……ああ、あの子ね」
「ここで話をこじらせて腹黒組と決別なんかしたら、あのデカパイにどうやって顔向けするんですか」
 説得に使われたのは、ここにいない誰かだ。僕には誰なのか見当もつかないその一手によって、ざわめきが同調に変わる。
「……確かにね。トモちんに会えなかったらきっと悲しむよね」
「すっごい、すっごい心配してましたもんね……会わせてあげたいデス」
「そ、そうよ。あの子がここにいないのは家庭の事情なんだし、そんな偶発的な条件で不利益を被るのはフェアとは言えないわ」
「確かおさわりの前払いも貰ってましたよねエロペラー。先走って契約不履行に終わらせるわけにはいかないんじゃないですか」
「……」
 花鶏が苦虫を噛み潰したような顔で黙る。
 他のみんなの反応といい、茜子の出した『あの人』は、切り札になり得るほどの人物らしい。他者との関係を拒絶してきた同盟にしては意外だ。
「……わかったわよ」
 射ぬくほどの強さで僕を睨み据えた後、花鶏はようやく妥協する。
「明日の放課後、例のビルの上の溜まり場。それでいいわね?」
「……いいよ」
 智も後ろで矛先を収める。
 かろうじて……本当にかろうじてではあるが、この場は切り抜けられそうだ。
 花鶏が携帯を出し、僕の出した番号とアドレスを登録する。念の為にと他のメンバーにも登録させる。
「逃げるんじゃないわよ」
 杭を打つように、念を押す。
「……この状況で、僕たちが逃げると思うのかい?」
「前例があるわ」
 前例……花鶏には、そう見えるのか。いや、条件はだいぶ違うけれど、結果から見たら似たようなものかもしれない。
 全てを曖昧にしたまま、忽然と姿を消した二人――彼女たちの中で、僕たちはそこで止まっている。
 数ヶ月の期間は、それぞれの歯車を錆びつかせるには十分すぎる時間だっただろう。あげくこんな再会の仕方では、疑うなという方が無理な話だ。
 生じたきしみが歯車そのものを壊すのか、なんとか回り続けられるのか……きっと誰にも分からない。
 それでも、一旦頭を冷やすことには意味があるはずだ。
 何より、僕は智がみんなと争うのを見たくない。思い出せる光景にヒビを入れるような事態は引き起こしたくない。
「……必ず来なさいよ」
「この激昂仮面はこちらで押さえておきます。まあ、ある程度は吐いてもらうことになると思いますが」
「きっと、彼女も一旦休めば少しは気持ちも落ち着くと思うの。睡眠には感情をリセットする効果があるっていうし、あの子にも連絡取らなきゃいけないし。何から聞くのかとか相談してからの方が物事はうまく運ぶと思う」
「待ってます、智センパイ、惠センパイ」
 疑念、戸惑い、不信感。ぬるりとした寂寥感を残し、五人が去っていく。
 僕たちはただただ、それを見送る。
 再会の喜びは一瞬だった。味わうことなど許されなかった。
 彼女たちと向きあうことを考えてさえいなかった僕たちにとって、今の流れは胸に刺さる。
 例えるなら、戸棚の一番いいところに飾っておいたガラス細工を落として割って、その破片で手のひらを切るような、そんな尖った不快感。
「……っ」
 僕の手を握る智の手は、ひどく震えていた。

 屋敷に戻り、佐知子にバッグを渡して軽く指示を出した後、襲い来る疲労に身を捧げるようにベッドに転がる。睡魔が一気にやってくるかと思えば目は冴えていて、身体の重さが妙に印象に残る。
「惠……」
 同じような状況なんだろう。智もぐったりとして疲れきった表情なのに、ちっとも眠そうには見えない。
 今眠ったら悪夢にうなされてしまう、そんな強迫観念が鼓動と共に浮かび上がっては消える。
 何故を問うても仕方ない。あまりにもできすぎたタイミングだとは思うけれど、偶然が生まれる素地はあった。追うものが同じなら、道が交差する可能性は十分にある。追うものが数年単位ではなく、数日で決着をつけなければならないものならなおさらだ。言ってしまえば、今回の智の制服は時限爆弾。解除しようと動いた二者が巡りあうのは、むしろ自然なこと。ましてや今回、同盟のみんなは巡りあう可能性を手繰り寄せようとしていたように思う。仮に今日出会わなかったとしても、いずれは追いつかれてしまったんじゃないか。
 振り返れば、物事を繋ぐ線は見えてくる。けれど、できるのはあくまで『過ぎた事』の分析だ。刻一刻と迫り来る明日への対処法は全くと言っていいほど思いつかない。
「どうしようか……明日……」
 すがるように指を絡め合いながら、苦い現実を噛み締める。
 猶予は与えられた。それは言い換えれば苦悶の時間だ。
 ――僕たちは何を語り、何を隠すのか。
 洗いざらい全てぶちまけてしまえるなら楽だ。けれどそれはあまりに投げやりだし、何の解決にもならないどころか、さらなる悲劇を引き起こしてしまうだろう。
 あの頃、智がみんなに僕の正体を隠したのは、僕と智のためだけじゃなかった。何もかもを共有し、一蓮托生になることは理想的なようで、その実過酷な試練。覚悟もなくその道に踏み込めば、襲い来る現実の荒波にさらわれてしまうことは想像に難くない。不幸になるとわかっていてカードを切るほど智は愚かではなかったし、僕も彼の判断に賛成だ。少なくとも、僕にまとわりつく運命は明かすべきではない。
 かといって、中途半端な説明ではみんなは納得しないだろう。止まっていた時間は動いた瞬間に洪水となり、心から溢れ出す。その激しさに見合った種明かしが訪れなかったら、行き場をなくした感情は爆発する。さっきの花鶏はまさにそんな感じだった。
 溢れ出す『なぜ』を解決させまいとすれば、感激は可燃性のフラストレーションに変化する。けれど、僕たちは『なぜ』を明らかにすることはできない。
 ……では、どうしたらいいのか。
 逃げるという手はなしだ。現在無一文状態の僕たちでは逃げ切れないし、逃げたとなれば彼女たちは全身全霊で追ってくるだろう。その時に心を埋め尽くすのは裏切りへの憎しみであり、生まれるのは修復不能の不毛な関係。断ち切ろうとした縁は消えるどころか、末代までの恨みとしてこびりついてしまう。そんな結果を作ってどうするのか。
 智を見たときの、同盟のみんなの喜び方を思う。結果的には答え合わせが不発に終わり険悪になったものの、最初の反応は間違いなく歓喜に染まっていた。
 多分、あれこそが正直な反応だ。あの空気を呼び出すべきなんだ。
 ……あの場に智しかいなかったのなら。こよりが最初に見つけたのが僕でなかったなら、別の展開があったのかもしれない。
 智は、みんなに求められている。同盟の誰より愛され、必要とされている。
 対し、僕は同盟にとって『後から加わった一人』だ。中心となり組織してきた智とは存在感も役割も違い過ぎる。
 そんな縁薄い僕が、智と同盟を引き離した。笑いあいじゃれあい駆けまわる光の日々を、智から、みんなから奪ってしまった。
 呪い持ちにとって、心を許しあえる仲間は夢見ることすら出来ないほどに遠く、狂おしく求めてきたもの。同盟は、智という核によって生み出された唯一無二の希望の集いだ。
 それを壊したのは誰だったか。
 その集いから核を抜き取ってしまったのは誰だったか。
 全ての元凶は、誰なのか。
 裁かれるべきは。弾きだされるべきは、討伐されるべきは――
 ひとつの選択が浮かぶ。
 それはみんなに対するものであると同時に、智への――
「智……聞いてもいいかい」
「なぁに?」
 頬を撫でながら、できるかぎり淡々と問う。
「君は……みんなのところに、戻りたい?」
「……え……?」
「気づいていただろう? 再会したとき、みんなの視線は君に集中していた。君が同盟の核だったのだから、当然のことだ。みんなが君を待っていた。君を歓迎していた。彼女たちはきっと、君を探していた」
「惠……」
「戻りたいと思わないか? あの温かい、青空のもとで仲間たちと笑いあい語り合う、たわいなくかけがえのない道を、もう一度歩きたいとは思わないか?」
「……それは、どういう意味?」
 流れに不穏なものを感じたのか、僕の言わんとすることを想像したのか、智の表情が変わる。
「君は、花鶏に僕を責めるなと言った。けれど花鶏は僕を疑った。彼女は同盟の中でも特にそういった面が強いからあからさまになっていたけれど、みんな多かれ少なかれ、似たようなことを思っているんじゃないかな」
「……」
「……彼女たちの想像に、肉付けをしてみたらどうだろう? 全てを明らかにできないのなら、せめて『彼女たちが考える真実』に近い物語を作る。敵がいて、黒幕がいて、そこに悪意が渦巻いているという、ある意味で優しい答えを用意する」
「……騙すってこと?」
「納得できるような話を作る、ということだよ」
「あっちには茜子がいるよ。そんな簡単にはごまかせない」
「何も真っ赤な嘘をつく必要はない。少しだけ強調箇所を変えればいい。彼女たちの心にどんな印象を持たせるかを念頭に、事実の分解再構築を行えばいいんだ」
 真実とは事実の地層のようなもの。たった一つではあるけれど、どこを見るか、どこを切り取るかで解釈が無限に広がっていく。解釈とは人の心が生み出すもの、性格と情報量で、いかようにも操作できる。
『嘘ではないけれど、真実でもない』――そういう抜け道は、世の中に溢れている。そして僕たちは、その抜け道の作り方を知っている。
 そう……例えば。
 智が三宅を手にかけたのは、僕にそれが必要だったからとか。
 智と僕が今も一緒にいるのは、僕に生活能力がないからだとか。
 彼はあくまで手を添えているだけで、命を奪ってはいないとか。
 嘘は言っていない。そういう側面は確かにある。
 真実はパーツに分けられる。その分け方、提供方法は真実の持ち主、つまり僕たちに委ねられている。断片的な情報を意図的に並べていけば、印象を操作することはできる。
 そう。
 やりかた次第では、智は巻き込まれただけの哀れな被害者なのだと思わせることができる。
 僕と智の関係は加害者と被害者で割り切れるのだと、加害者側を排除できれば、全てが元通りになるのだと――
「みんなは、君が帰ってくることを望んでいる。元々同盟は彼女たちと君の六名だったんだ、その形を取り戻せるなら、きっと喜んで飛びつくよ」
「……惠は、どうするの?」
「……それは、彼女たちの判断に任せよう」
 怨嗟の幻聴が聞こえる。
 返して、と。私たちの智を返して、と。
 潮時なのかもしれない。誰にも、誰かを不幸にする権利などはない。
 僕に、智を不幸にする権利はない。
 ……不幸を味わわせてしまった分、幸福へ進ませる義務がある。
 当然、僕が悪役となれば、彼女たちは僕を攻撃するだろうし、同盟から追放するだろう。といっても、それは単に失った立場が戻らないだけの話だ。きっと耐えられる。
 同時に智も失うことになるけれど……それも、受け入れよう。
 だって、彼は僕と一緒にいたって、いいことなんかひとつもない。
 人の世に背き、その身体を危険に晒し、繰り返される死を見せつけられ、安息の地を奪われ……全ては、僕と共にいるから起こったこと。裏を返せば、僕といなければ起こらなかったこと。
 だったら、苦しいだけで意味のない日々なら、なくしてしまったって構わないじゃないか。
 五人分の愛情と、化物。どちらを大切にすればいいかなんて――
「嘘つき」
 たしなめるような智の口調。
「本当のことが言えなくても、そういう嘘は僕は嫌だ」
 いつになく尖った言い方で、彼は断言する。
「惠は自分に嘘をついてる。自分になら嘘ついたっていいと思ってる」
「……また、はっきりと言うね」
「惠のことは、僕が一番良く知ってるもん」
 するりと、智の手が僕の顔の輪郭をなぞる。
 優しく、甘く……淫靡な手つき。
「君は時々、そうやって呪いとは関係ない嘘をつく。分かっていることに蓋をしようとするんだ」
「感情のコントロールなら、多かれ少なかれ誰もがやっていることじゃないのかな」
「惠のは違う。たちが悪い」
 怒っている……のだろうか。でも、手は優しい。
「僕は知ってる。惠が寂しがってるのも、それをごまかそうとしてるのも、思い出を守ろうとしてるのも知ってる」
「智……っ、ん」
 一つのベッドを二人で使っているから、身体と身体の距離はとても近い。キスをしようと思えばすぐにできる。させまいとする行動は間に合わない。
「……んぁ、は」
 唇が熱い。割り込まれる舌も、伝う唾液も、いつもよりずっと熱を帯びている。
 ぞわりと鳥肌が立つ。パジャマのボタンが外され、素肌と智の手のひらが触れ合う。
 ……何、を。
「……駄目だよ、智。まだ話が終わって……ぅ」
「いいじゃない。二人きりの夜なんだから、もっと確かめ合おうよ」
 見つめ合う瞳は、とろりとした愛欲で潤んでいる。本気なのをその目で悟る。
 智が自分のパジャマのボタンを外す。男と女、心臓を包む二つの形が触れ合い、熱を分かち合う。
「智、今からしたら、その……朝……」
「惠、眠れないでしょ? 頭の中空っぽにして、中からあったまればきっと眠れるよ」
「そういうことじゃ……あ……はっ」
 背筋を這うのは期待。こうなったら、後は理性が削られるのみ。
 普段はさして意識しない肌の触感が、抱かれる喜びを堪能すべくフル稼働する。
「僕は、惠がいなきゃ嫌なんだ。始まりが何人だろうと、後から来ようと関係ない。みんなが僕をどう思っていたって、僕は」
「と、っぁ……」
 何時の間にやら、下着に智の指が滑り込んでいた。小さな水音に、自分の身体の状況を知る。
 息が荒くなる。こうなるのはいつものことなんだけど、話を遮って始められるとは思わなかった。
「あ……んぁ、ふ……あぅ……っ!」
 素肌を滑る手のひらは温かくも淫靡で、しかも的確に感じるところを狙ってくる。
 のめり込んだら、後はもう何も考えられなくなる。わかっているのに、条件反射のように身体は反応を示す。
 まともに計画も立てない状態で明日を迎えてどうする気なのかと非難しようにも、これじゃ説得力がない。それに、きっと考えても答えは出ない。だったら不毛な思索と不安に駆られる一晩より、智だけを見ていられる時間の方がいいかもしれない。そんな風に思ってしまう自分は、ひどく刹那的で愚かだ。だけど、智はそんな僕でも求めてくれる。
 ……それも、今日が最後なのかもしれない。
「僕を手放さないで。僕のためなんて考えないで。ずっと一緒にいよう、ずっと」
 本心からの囁きが身を焦がす。ずるずると引きずり込まれるように快楽の園へ連れていかれる。
 ……わからなくなる。
 僕は何がしたいのか。どうすれば智をより良い道へ向かわせられるのか。
 ここで智と離れれば、彼は二度と手を汚すことはない。命の削り合いをすることもないし、住処を奪われることも、勝てない勝負を繰り返す愚かさを見続けることもない。通った道は消えないけれど、光ある世界の記憶はやがて罪を僕との日々ごと地中に沈めてくれるだろう。何より、智との再会をあんなに喜んだ仲間たちがいる。彼女たちに智を渡すことは、きっと間違ってはいない。
 ……智とは、離れたくない。だけど、それが彼にとって絶望の旅路であるのなら――
 行為になだれ込む。肌が泣くように震える。上がり続ける体温はやがて本能と結びつき、冷静さを吹き払う。繋がった部分から迸る激情を何度も受け止めては、はしたなく腰を振る。
「と……も、ともぉ……!」
「惠っ……あ、いい、よ……!」
 不幸しか渡せないくせに、媚びきった声で智を求めてしまう僕。どこまでも浅ましい。

 ――結局。
 無策に近い状態で、その時はやってきた。
 延々と続く階段は、まるで法廷への道のようだ。
 智曰く、かつてこのビルの屋上をみんなで『溜まり場』として使っていたのだという。ここが閉鎖されたことが、彼と僕が今に至るキッカケだったらしい。ヤクザの幹部を摘んだのは確か隣のビルだったから、完全にとばっちりだ。縁とは異なもの。
「結構、風が通るし、眺めも良好。いいところ見つけたって当時は喜んだんだよ」
「なるほど」
「……まさか、今もみんなが使ってるとは思わなかったけど」
「彼女たちにとっては思い出の地なのだろうね。だから手放せなかったんじゃないかな」
「そこで徹底追及されるってのが、また皮肉というかなんというか」
 智は努めて明るく振舞う。それが逆に追い詰められた焦燥感を煽る。
「しかし、一体どうするつもりだい? 意見の擦り合わせもしていない状態で彼女たちに太刀打ちできるのかな」
 僕が一番恐れるのは、引っ込みがつかなくなって洗いざらい話さざるを得なくなってしまうことだ。それは彼女たちを必要のない苦しみに引きずり込んでしまうことでもあるし、智に自らの罪を告白させてしまうことでもある。真実を求められれば、僕は口を閉ざすしかなくなる。流石にこの状況で呪いまで踏むわけにはいかない。となると自然、智が僕の代わりに語ることになる。智は僕と彼自身、二人分の罪で喉を震わせる羽目になってしまう。
 それで事態が好転するなら価値はあるだろう。しかし、どう考えても真実は事態を悪化させる。まさに袋のねずみだ。
「なんとかなるって。多分」
「それは、いつもの勘かい?」
「ううん、僕の願望」
「……危ういかもしれないな」
「当たって砕けろ。男も女も度胸です」
「最後の砦は根性論というわけだね」
 明るい返事、おそらくは空元気だ。わかっていても、そこに僅かながらの希望を見出したくなる。
「惠に変な計画立てられるより無策で突っ込んだほうがいいと判断致しました」
 表情を変え、ぷぅと膨れる。
「……昨日の話はそんなに君の機嫌を損ねたのか」
「問答無用で襲っちゃうぐらいには」
「……謝っておいたほうがいいのかな?」
「お互い様ということで」
「なるほど」
 ……あんな強引な方法で切りたいほど、僕の案は気に障ったのか。上策だとは思っていなかったものの、決して突飛ではないし、それなりに検討の余地はあると思っていただけに意外だ。
 確かに、結果的にみんなを騙すような真似だし、智としては誠意を尽くしたいという気持ちはあるだろう。ただ、誠意と真実の公開が全く重ならないのが現状。隠すという誠意もあるとなると、ますます話はややこしくなる。
 ……やっぱり昨日、行為にふけって思索を放り出したのは失敗だった。最善策というものがなかったとしても、せめて自分たちの結末ぐらいは予想しておくべきだっただろう。
 ……ここで、僕と智は永遠に別れるかもしれないのだし。
「――そういえばね、惠」
 扉が見えてきたところで、智が話しかけてくる。思い出したというよりは、言うか言わないか迷って言う事にしたという雰囲気だ。
「僕、夢を見たよ」
「夢……それは、屋敷に来る以前に見たようなものかい?」
「そう」
「……どんな内容だったのかな」
「今は教えない。教えれば、惠はそれに影響されるから。ただ」
「ただ?」
 ドアノブに手をかけ、智は一呼吸置く。
「――夢のとおりになりませんようにって、今はそれだけを考えてる」
「……」
「行こう」
 ノブを回す。歯車が噛み合うような金属音。
 続いて、油の切れた耳障りな音が耳に届く。刺すような太陽光は徐々に帯のようになり、視界を真っ白に埋め尽くし――
「――――」
 そこに広がるのは、近くて遠く、澄み切った青空。
 一歩踏み出すと、頭から足先まで全身を風が抜ける。まさに爽快。
 たどり着いた瞬間に、ここならずっといたいと思わせる……それぐらい居心地の良い環境がそこにはあった。
 視界には空と、他のビルの屋上と、見慣れた五人の姿と――あと、一人。
「……?」
 多分、初めて見る顔だ。南総の制服を着て、柔らかいウエーブのかかった髪を肩の辺りまで伸ばし、ちょろりと端だけを結んだヘアスタイルの、穏やかそうな女の子。
 一体――
「和久津様!」
「え!?」
 彼女は僕たち――いや、正確には智に気づくなり、駆け寄ってくる。
「和久津様! 良かった、本当に無事でいらしたんですね……!」
「み……宮っ!?」
 智が目を丸くする。
 宮……そういえば、智が学校のことをちらっと語ったときに、そんな名前が出てきたような、出てこなかったような。
「知り合いなのかい? 智」
「知り合いというか」
「初めまして。私、南総学園一の和久津様ストーカーをしておりました、冬篠宮和と申します」
 ぺこりと上品に頭を下げられる。
「ストーカー……?」
 物腰と雰囲気と自己紹介の内容のギャップの凄まじさにぽかんとする。
 ……いまどきのストーカーはこんなに礼儀正しいものなのか。驚きだ。いや、そういう問題でもない、か?
「あー、いやまあ、ストーカーっていうのは彼女の照れ隠しというか、なんというか。要は、僕の友達なんだ」
 智が慌てながらも説明してくれる。困惑はしていても驚いてはいないから、彼女は元々こういうタイプなのだろう。説明を受け、彼女は何故か顔を赤らめる。
「照れ隠しだなんて、そんな。宮は和久津様を愛しております。愛しているがゆえのストーカー行為ですわ」
 ……ストーカー行為とは、こんな風に堂々と言っていいことなんだろうか? 違う気がする……けど、そういう常識もあるのかと納得してしまうぐらい、宮和は悪びれない。
 まあ、そういうこともあるということにしておこう。
「初めまして、と言ってもよいかな? ひょっとしたら、君とは前世で会っていたかもしれないが」
「えー、えとね、宮。この子は才野原惠っていうんだ。その」
 智は僕を彼女に紹介してくれる。僕と視線を合わせた宮和は花がほころぶような笑みを見せる。
「はい、お話は存じ上げております。和久津様の駆け落ち相手様でいらっしゃいますね」
「か?」
 ……口調も声も穏やかでおとなしいのに、言葉のチョイスが過激だ。駆け落ちってこんな堂々と……まあそういうこともあるんだろう、多分。
「あー、あう……宮、そういう表現は、その……」
「素晴らしいと思いますわ。愛にすべてを捧げられた和久津様……童話の姫君のような在り方に、宮は感激致しました」
 戸惑う智に、満面の笑みで返す。
 ……一般的な性格などという線引きは無意味だが、彼女はなかなか特異なタイプらしい。。呪い故に学友を望めない、むしろ遠ざけようとしてきただろう智のガードをくぐり抜けての『友人』だとするなら、さもありなんといったところか。
「……やっぱすごいわ、宮和ちゃん。伊代に勝るとも劣らないおっぱいを持ってるだけのことはある」
 おそらく、僕に関する悪い噂を散々聞かせたのだろう。それでも僕を前に全く動じない宮和に、花鶏が感嘆の溜息を漏らす。
「その判断基準おかしくないかしら」
「まあ、こっちの眼鏡おっぱいは空気が読めないですが、あっちのおっぱいは空気を読む気すらないですからね。そういう意味では似たもの同士かと」
「おっぱいなら、どっちも別の味わいがあっていいわ、ハリと柔らかさの個性の主張がそれぞれ違って揉みがいがあって……ムフ」
「花鶏センパイがおっぱいソムリエに……」
「なんて破廉恥な称号」
 なんとも妙な空気だ。緊迫感に溢れて針のむしろかと思っていたのに、宮和の反応はそんな予想を見事に吹き飛ばした。しかも、後ろに控えている五人もそれに意義を唱える様子が全くない。彼女がここにいることは予定調和ということだろうか。
 宮和は胸の前で両手を重ね、智をまっすぐに見つめる。その瞳にあるのは歓喜と安堵。
「宮は和久津様が居なくなられてから、寂しさを感じつつも和久津様の無事をお祈りしておりました。ある日突然、夢の泡のように姿を消されて……和久津様は私に、物語の姫君の心の痛みを、消えぬ愛の炎と共に刻みつけられました」
「……宮……ごめんね、連絡も何もしなくて」
 すまなさそうにする共に、宮和は首を振る。
「いいえ、構いません。宮はいつだって和久津様の味方です。何もおっしゃらずとも、足取りが掴めずとも、宮は和久津様が元気にしていらっしゃるだけで良かったのです。便りがないのは良い便り、そう信じておりました。そして、今ここに和久津様がいらっしゃる……私は、それだけで満足なのです」
 語る言葉はその言葉通りの想いを込められ、さざ波が広がるように屋上に溶けていく。尖るはずだった空気が、宮の言葉でほぐれていくようだ。
「で、でも宮。どうして君がここに?」
「もちろん、愛の奇跡ですわ」
「……いや、それじゃわかんない……だって、宮はみんなと接点自体がないはずでしょ?」
「いいえ、和久津様。和久津様が宮と皆様を結びつけてくださいました」
「……?」
 どうにも、曖昧だ。僕を含め、智の元に集う人間は婉曲表現や独自解釈が必須なんだろうか。それはそれで面白くて価値的だと思うけど、こういう時は少々難儀する。
 と、宮和は一旦智から視線を逸らし、苦痛を思い返すように眉をひそめる。
「……和久津様のお名前の書かれた制服の写真を見せられたときは、心臓が抜き取られたかと思いました。見間違えるはずもない、和久津様の字、身体のラインに沿って僅かばかり伸縮したブラウスのライン、丁寧に袖口にまでご自身でアイロンをかけ、丁寧に畳んだ折シワ……それがぞんざいに扱われた姿、そして和久津様の安否に、宮は文字通り眠れない夜を過ごしました」
「……!」
「じゃ、じゃあ、僕の制服の写真をダシに脅されてたっていうのは」
「はい、私です」
 智の顔から血の気が引く。驚愕と恐怖が彼の心を埋め尽くすかのようだ。
 南総の生徒――その中には当然、宮和も含まれている。智と接点があった子は多くはないだろうし、相手方がやみくもではなく少し調べてから行動したとするなら、彼女が狙われたのは偶然ではなく必然と言えるかもしれない。智ならそこに思い至ってもおかしくはないけれど……やはり、同盟との再会同様、考えたくなかったのか。
「宮……ごめん、辛かったよね」
「いいえ」
 気遣う智に、宮和は迷わず首を振る。
「脅迫を受けた際、宮は皆元様に助けていただきました。それが縁となり、この屋上にお招きいただいたのです」
「ミヤ、ほんとに真剣にトモちんのこと聞くしね。なんか他人と思えなくなっちゃって」
「智の学校生活なんて貴重な情報、彼女からしか聞けないし。着替えの時とかプールの時とか身体測定とかお弁当によく入ってるおかずランキングとか」
「……何聞いてますのん」
「その天然ちゃんもエロペラーに負けず劣らず変態でした。見事な等価交換」
「知らないところで恐ろしい取引が!」
「和久津様のお美しさと愛らしさを心ゆくまで語り合える方に出会えるなんて、宮は幸せです」
「まさに類友」
 智を中心とした接点の欠片は、何も呪い持ちに限らない。宮和は呪い持ちではないのだろうが、この空間に見事に溶け込み、ひとつのパーツとして存在し得ている。呪い持ち以外との接触を極力絶ってきた同盟が宮和を受け入れるにはためらいもあっただろうが、出会いの状況と智という核がそれを超えさせたということか。つくづく智は大きな存在だ。行動だけでなく、彼がいるということが大きな意味を持つ。
 ……やっぱり、彼がいるべきところはここなんだろうな。これだけ智への好意にあふれた場所はそうそうない。悪魔の囁きに騙されて、背を向けさせられたものが、今眼前にある。智は帰るべきところへ帰る。当然のことじゃないか。
 今までが恵まれすぎていたんだ。生きることさえ罪深い僕が、智という幸福を味わえたことが間違いだ。だからここで間違いを正して、あるべき姿に、僕は独りになるべきなんだ。
 宮和は智を熱っぽい目で見つめ、微笑む。
「和久津様に再びお会いできた……宮は今、無上の喜びを感じております。ですから」
 だから、ここにいて欲しいと、宮和はきっとそう言うのだろう。五人はそれに同調し、智はその熱い想いに揺り動かされる。ねじ曲げられた縁の輪は元に戻り、招かれざる客を排除する。それでいい。
 ああ、それで――
「……ですから、和久津様が今どこで何をしていらっしゃるのか、宮は問いません。これからどこへ行くのかも、問いません。和久津様は和久津様の願う通りに、生きていてくだされば良いのです」
「……宮?」
「……え?」
 宮和の表情に、覚悟を伴う寂しさが灯る。けれど、それだけじゃない。彼女に宿るのは……諦めとは違う、広く深い想い。
「かつて、和久津様が宮に問うたことがあります。愛しい者の罪を知ったとき、どうするべきか」
 懐かしさに目を細め、宮は本心を奏で続ける。
「その時、宮はこうお答えしたのです。『宮は、愛を信じてしまいます』と」
「……うん、そんなこともあった……ね」
 智の表情が曇る。おそらくは、僕について悩んでいる頃のことなのだろう。明かすわけにはいかないから、曖昧に曖昧に喩えをふんだんに盛りこんで聞いたのかもしれない。そして宮和は、そんな智の話を与太とせずに答えたのだろう。
「宮の気持ちは、あの時から全く変わっておりません。宮は愛を信じています。宮の愛を、和久津様の愛を、和久津様が才野原様に注がれる愛を、才野原様が和久津様に注がれる愛を、ここにいる皆様の愛を、信じています。だから、宮は何も聞きません。愛を信じていますから、和久津様という愛を」
 彼女は微笑む。本心から、それだけで十分なのだと露にする。
 何を言っているのか、即時には理解できない。あまりに抽象的すぎて、馴染みがなく、想像を超えた結論。
 ……聞くこと自体、自分の想いの前にはとるに足らない。確かめること、空白の時間を埋めること、理解すること――そんなものは、本当は瑣末なのだと、冬篠宮和は謳う。
 彼女は同盟の仲間以上に、智のバックボーンを知らないはずだ。智が呪い持ちだということすらきっと知らないし、脅迫を受けなければ、同盟の存在すら知らずにいただろう。
 それなのに……いや、だからこそ、彼女は知ることに重きを置かない。知ることでしか繋げない縁など縁ではないと、自分自身のあり方で訴えかける。
「……とまあ、朝っぱらからこの愛電波を大量に食らい、半ば洗脳状態にさせられまして」
「納得はいかないけど、私たちも二人のしてることについては聞かないことにしたわ」
「え……」
「……午前中からみんなでここに集まって、どうやって聞き出してやろうかと相談してたんだけど。宮和ちゃんの話聞いてたら、なんだかバカバカしくなっちゃった」
 花鶏が、同盟の代表として語る。
 ……それは、あまりに意外な、詮索の放棄宣言。
「考えてみたら、そんなことしたって意味がないのよ。二人が出ていったことは事実だし、生きてたことだって事実だもの」
「納得したところで、何が変わるわけでもないんだよね。トモちんが黙ってたってことは、それなりの理由があったはずなんだ」
「昨日、聞き出そうとしてケンカになりかけて……鳴滝は思ったデス。せっかくまた会えたのに、聞くことでモメるぐらいなら何も聞かない方がいいって」
「フェアじゃない……とは今も思ってる。だけど、私たちだって今まであったことを全部話してるわけじゃないものね。仲良い相手にだって隠したいことも、知られたくないこともある。手を貸せるなら貸したいけど、どうにもならないことだってあるわ」
「茜子さんレーダーの前には小細工は通用しません。だからこそわかりました。あなたたちに全部を聞き出すことは、決してお互いのためにならない。ぶつけ合ったって衝突が起こって無駄に消耗するだけです。そんな不毛な争いして何になりますか」
「……みんな……」
「午前中に皆様のお話を伺っていて、宮は確信致しました。皆様は和久津様を、才野原様を愛していらっしゃいます。それなら、その愛を信じればいいのです。それだけで、いいのです」
 ……そういうこと、なのか。
 やっと納得がいく。
 冬篠宮和は、説得ではなく、自らの在り方でみんなに突きつけたのだ。
 ――智を信じろ、と。
 理不尽な形で止められていたがために歪みかけていた歯車を、彼女はやんわりと正してくれた。
 知ることではない。真実を明かすことでもない。大事なのはそこではないんだと。
「……私たちだってさ、トモちんとメグムに会いたかったんだよ。いなくなってからずっと探して探して、情報もなくて、ここで待ち続けて……ただただ、トモちんとメグムにもう一度会いたかった。話がしたかった」
「聞き出した後何がしたいかって、結局それなのよね。だったら聞き出す過程をすっ飛ばしたっていいのよ。計画通りにいかせようとして結論まで捻じ曲がっちゃったら何の意味もないわ」
「最初にあったのは、驚愕でした。それはやがて怒りに変わりました。なしのつぶての不安をぶつける先を、私たちは探し続けていました。けれど、それは全部雑念だったんです。私たちが取り返したかったのはここでの時間。ひょっとしたら、私たちは随分前から、真実に惑わされ、大切なものを見失っていたのかもしれません。だからあなたたちは消えてしまった、当然の結果のように」
「考えてみたら、私たちはあなたたちに危害を加えられたわけじゃなかったのよ。そりゃ、色んなことがあったし、すれ違いもあったけど……でも、そんなの本筋じゃないわ。だって私たち、ここでずっと二人が帰ってくるの待ってたんだもの」
「宮は思います。皆様がここで待ち続けていたことが、愛なのだと。だから、皆様にも愛を信じて欲しかったのです。ここでお二人を待ち続けているという愛の形を。その愛が、お二人と私たちを再び巡りあわせたのだとしたら――それはきっと、とても素敵な奇跡なのです」
「だから、さ。細かいことは言いっこなし!」
「そうですよう! またここで、みんなでワイワイ騒ぎましょうよう!」
「気になることはあれこれあるけど、智の貧乳揉み一時間コースで全部帳消しにしてあげるわ」
「いやそれはちょっと」
「あら、せっかくこの私が妥協案を出してあげてるのに」
「それは明らかに妥協案じゃない」
「では茜子さんはその時の精神実況をするとしましょう」
「何その羞恥プレイ!?」
「実はね、たいしたものじゃないけど、今日はおにぎりを作ってきてあるのよ」
「宮もお菓子をご用意させていただきました。せっかくですから、ここでお二人の歓迎会をしてはいかがですか?」
「おおー! ミヤもイヨ子も気がきくぅ! いいねいいねぇ!」
 広がる光景と、弾ける笑顔。
 ……想像しなかった、できなかった光景がそこに広がっている。
 わけがわからないほどに幸福な形が目の前にある。
「……はは、あはは」
 智が困ったように笑う。
「変なの……こんなの、考えてもいなかった……すごい、すごいよ……」
「これは……現実なのかな、智」
「確かめてみよう」
 ぎゅっと手を握られる。確かな感覚。
 ――ああ、現実だ。
「すごいよ、減るどころか、一人増えてるよ。宮がすっかり溶け込んでる」
「雨降って地固まる、ということなのかな」
「それを言うなら、僕たちだって同じだよ」
「智は、神様はいると思うかい?」
「きっとね。とっても理不尽な神様が、ちょっと手を間違えちゃったんだ」
「ありがたいケアレスミスだね」
「うん、本当に」
 僕たちは、輪の中へ入る。
 たわいなく、かけがえのない時間をまた拾い集められる幸福に酔いながら、それをもたらした何者かに感謝しながら――止めていた時間を、歯車を、少しだけ動かす。
 歯車から奏でられるのは耳に心地よいリズムだ。ぎこちなさは残っても、軋みはしない。
 開けた空の青さが、心地良く目に染みた。

 上機嫌で屋敷に戻り、浜江と佐知子に報告した後、今後の予定を立てる。
 とりあえずは、組織が新しい住居を用意してくれるまでは屋敷に泊まり、溜まり場に足を運ぶことにした。依頼人の男の口調からするに、場所の目処は立っているようだし、おそらくそんなに長い期間ではないだろう。
 いくら認められたからといって、ずっと彼女たちと一緒にいるわけにはいかない。住む世界が異なってしまっているのは自明の理。今はあくまで道が交差しているというだけのことだ。
 だからこそ、この時間を大切にしようというのが僕と智の共通意見。幸い南総の問題は解決したし、僕も暫くは新たな依頼を受けなくて大丈夫だから、ここにいる間ぐらいならみんなに余計な心配をかけずに済むだろう。
 智は嬉しそうに顔をほころばせつつ、ベッドの上に体育座りをして枕を抱えている。特に意味はないんだろうけれど、妙に可愛らしい。
「へへ……よかった、よかったぁ。一時はもうどうなることかと」
 ぼよん、とベッドのスプリングが動く。
「そういえば、君は夢を見たと言っていたね。これは夢の通りかい?」
「ううん、ぜんぜん違う。夢にはこんな展開全く出てこなかった。だからなんだか嬉しくって」
 ぼよよん、と幼子のようにベッドの上で跳ねる。こういう姿を見るのは久しぶりだ。環境によって引き出される表情が変わるのだと改めて思う。
 跳ねながら、ベッドに腰掛けている僕に擦り寄ってくる。
「……あのね、夢の内容なんだけど」
「うん」
 気分がいいからこそ、今話してしまおうと思ったのか。
 あえて視線を絡ませないよう、そっぽを向いて語り出す。こういうときは大抵、後ろめたかったり残念な内容が話される。心だけ身構えて、聞く。
「今回の夢は、二つの未来だった。ひとつはみんなに何もかも話してしまって、みんなを悲しませる未来。もうひとつは、昨日惠が言いかけて僕が止めた、惠が全部一人で背負っていなくなって、僕だけが同盟に戻る未来」
「……」
「……その時にね、声が聞こえたんだ。『選びなさい』って」
「……声……?」
「そう。その声は、僕が見た二種類の未来を知ってるみたいだった。その上で『どちらかを選びなさい』って言ってた」
 初耳の上に、聞き捨てならない情報だ。
 今語られている夢が智の能力により導かれたものだったとするなら、それを知っている存在がいるはずがないし、ましてや智に指示などしてこないだろう。
「誰の声だかはわからないんだ。少なくとも、同盟の誰かとか、最近会った人の声じゃなかった。でもいつかどこかで聞いたことがあるような……けだるい、懐かしい気がする声だった」
「……その声は、他に何て言ったんだい?」
「……『嫌でしょう? みんなに嫌われるのは嫌でしょう? みんなのところに帰りたいでしょう?』って……好きな方を選べというより、片方を選ばせようとしてる感じだった」
 一旦俯き加減になり、言葉を止める。
 ……なんとなく、彼があえて言わなかったことを悟る。
 おそらく、その夢の声の主は智に迫ったのだろう。
 仲間を選べ、と。
 ――僕を、捨てろと。
「その時にね、思い出したんだ。屋敷に来る前の三つの夢の時も、同じ声がしてた」
「そうなのかい?」
 驚くと、智は困ったように笑顔を作る。
「うん。半分忘れかけてたんだけど、そのとき思い出したの。でもやっぱり、誰かはわからないんだけどね」
 そして、笑みを引っ込め、僕の目を見る。
「そのときも、三つのうちのひとつをすすめてた。『これがいいでしょう? これを選びなさい』って。ただ、どれだったかは覚えてないんだ。だから、その声の主の思い通りになったのかはわからない」
「……なるほど」
「……これって、変じゃない? 夢のカタチで見えたのは二回だけど、そのどっちにも僕じゃない誰かの意志が介在してる。しかも、今日のように夢のとおりにいかないことだってある」
「確かに、妙かもしれないな」
「この夢が僕の能力によるものなのか、それともその声の主の能力なのか、それとも能力ですらない何かなのか……なんだかよくわかんなくなってきちゃって」
 智は枕をぎゅっと圧縮しながら考える。
 結果的に想像もしなかった理想の形に落ち着いた、だからこそ整合性が気になるということか。
「君だけがその夢を見ているというのも、不可解なことかもしれない」
 暗に、僕は見なかったと伝える。もし見ていたとしたら、僕はきっと夢の通りの未来を作ろうとしてしまっただろう。溜まり場に行く前に夢の話をしてくれなかったのも、今から考えたら当然のことだ。夢はあくまで夢とはいえ、望まぬ行動に後ろ盾ができてしまうのは困る。そして、今日の展開を察するに、他の同盟メンバーも夢を見ていない可能性が高い。
 智が見る、誰かに選択を迫られる夢。
 しかもそれは、過去のことではなく、未来に関すること。
「……前回は、夢のとおりになったのかい?」
「うん。あの時は選んだからね。でも今回は選ばなかった」
「……選ばなかった?」
「どっちも絶対嫌だったんだよ。だから僕、夢に出てきた誰かに怒ったの。勝手に決めるな、こんなの選ばせるなって」
「……」
『選ばなかった』。
 それは、些細なことのようで、とても重要なファクター。
「……ひょっとして、僕が選ばなかったから、この結果になったのかな? 仮に選んでいたら」
「宮和が語る前にこちらがカードを切っていれば、その通りになったかもしれないね」
 ますます妙な話だ。
 智の夢に出てくる、選択を迫る声。それでいて、『選択しない』というルール違反が成立する不思議。智の夢のはずなのに、智は選択を『迫られる』側にいる。それだと、声のほうが立場が上ということになってしまう。しかし、立場が上なら選択肢以外は認めないことができるはず。なのに、智はそれに逆らい、夢以外の未来を手にした。
 どういうことだ?
 一体、誰が能力を持っているのか。智が持つなら声の主なんて存在しないだろうし、声の主が能力を持つなら夢以外の未来を選べたことの説明がつかない。そもそも、その夢とは一体何なのか。選ぶ、選ばないという行動に意味があるのか。
 まさか、智と声の主が同じ能力を持っているなんてことはないだろう。智の能力は呪いに付随するもの、呪われし者が八人と決まっている以上――
「――――」
 心臓が跳ねる。
 智が見た夢。それはパターン分けされた『未来』の形。
 未来を、視る。
 ……それは、『彼女』の能力。
「惠? どしたの?」
「あ、ああ、いや。混乱すると目線が定まらなくなるのは、智も経験があるんじゃないかな?」
「やっぱり、混乱するよね……何なんだろ、これ」
「もう暫く猶予はある。せっかくだから、突き止めてみるのも悪くないかもしれないね」
「そだね。前回来たときは花嫁修業でいっぱいいっぱいだったし」
「……智は修行しなくてよかったんじゃないのかな」
「惠に追い抜かれちゃったら悔しいもん」
「君ほどの素敵なお嫁さんに追いつくのには、何千年もかかる」
「……なんか前提から間違ってない? それ」
「言葉の解釈は人によって変わるものだよ」
「むぅ」
 じゃれあいながらも、ざわざわと、胸が、脳がざわめく。
 まとまらない思考の断片。しかし、そのどれもがある人物を浮かび上がらせる。
「とりあえずは、寝たほうがいいんじゃないかな。昨日の睡眠時間は十分とは言えないし、久々に笑い合って疲れただろう?」
「ここ二日間、密度濃かったもんね。休息は取らないとまずいかな」
「ああ。君の能力については明日ゆっくり考えよう」
「……今日は、しないの?」
「休息も大事だと、今君が言ったんじゃないかな?」
「わかった、じゃあ……おやすみ」
 キスをして、一緒にベッドに横になる。
 ――静かに、寝たフリをする。

 こっそりと起きだして、庭に出る。暗く入り組んだそこは、実際の広さよりも遥かに広く深く感じられる。実際の森とは比べものにならない小規模ながら、秘境と張るぐらいの異質な空気に充ち満ちた場所。当然照明などはない。暗闇にそびえる木々は、さながら行く手を阻む杭のよう。しかし、数えきれないほど歩きまわった記憶は、その障害の抜け方と、行き先への道のりを半自動的に選択させる。足音をたてない歩き方も慣れたもの、数ヶ月来ていないのが嘘のようにスムーズだ。
 そういえば、前回来たときはここには立ち寄らなかったと思い返す。智がいたからというのはあくまで理由の一つに過ぎない。要は、どう顔を合わせたらいいのかわからなかった。彼女にも何も言わずに出てきたし、反応を無意識に恐れたというのもあっただろう。彼女にとって、僕は時々能力を使わせようとする不届き者か使い勝手の良い道具、そんなところ。流石に飼い犬に手を噛まれたとは思っていないだろうが、心を病んでいる彼女が僕に対し親愛の情を持っていたかどうかは疑わしい、いや、多分持っていない。
 智の話がなければ、多分今回の滞在でもここには来なかった。そこに見いだせるものがないからだ。今ここにいるのも、僕自身のことというより、智についての疑問を解消するためというのが大きい。
 ……いや、それも言い訳か。彼女は僕の生き汚さを誰よりも知っている。彼女に向き合うとは、自分の罪に向き合うことに他ならない。しかも、彼女は絶対に僕を擁護しない。蔑みながら、嘲笑いながら、願いは叶える――そういう存在。
 離れには灯りがついている。まだ起きているのだろう。彼女はいつでも起きていて、いつでも眠っている、昔からそんな状態だった。
 ためらいがある。本当にいいのかと、脳の隅で危険信号が鳴り響く。
 だが――踏み出さなければならない。
 何かに背中を押されるように、僕は御簾の向こうの彼女に呼びかける。
「――久しいね、真耶」