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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 52 


 見たことがない表情だった。
 眉はつり上がり、口はきりぎりと引き結ばれ、目からは普段とは比較にならない熱量が溢れ出す。内側に溜められた負のエネルギーをそのまま映しだしたかのような憤怒の顔。
 粘り気のある怒りが渦巻き、惠に絡み付く。穏やかで温厚な普段の仮面など欠片もない。
 それが本来の彼女のあり方ではないことは一目でわかる。そして、芝居や演出ではないことも明白。惠というキャラクターに触れたことがあるなら、十人が十人違和感ではなく異常を悟って驚愕する、それほどの落差。 
 後ろに立つみんなの空気が震えている。矢継ぎ早に訪れる予期しない展開に戸惑っているんだろう。
 何が起こったのか、自分たちは、何を見ているのか。
 無意識に手にしていた命綱を知り、そこに繋がれた人物の、ありえないに等しい豹変を目の当たりにする――心ある人間ならば、ざわめかずにはいられない。積み重ねてきた行動を振り返らずにはいられない。
 さすがに、惠との再会が円満とは思っていなかっただろう。だけど、こういう形も想像してなかったはず。
 なんだかんだいいつつ惠は折れて言うことを聞いてくれる、あるいは、聞かなくても聞かせるように説得できる――希望的観測を確定的な未来と信じこみ、それ以外の可能性には蓋をし続けてきた。
 だから動揺する。自分たちの決めつけた枠を飛び越えてしまった姿に呆然とする。
 僕の話が与太ではなかったと、受け入れざるを得なくなる。
 険しさに尖る動きから感じ取れるのは、日常だけでは到底たどり着けない、沸点を超えた沸点。その背後にあるのは惠の心を喰らい尽くした深淵だ。虚ろな瞳の向こう側から次の獲物を探し、ゆっくり、じんわりと舌舐めずりする。
 何ヶ月ぶりかでみんなの前に姿を表した惠は、みんなが敵だと信じた彼女とも、一緒に笑い合っていた頃の彼女とも違う。
 同一人物のはずなのに、壊死寸前の心が見せる彼女は別人のよう。
 なぜなのか、いつなのか。自分たちはそれに関係したのか、していないのか。
 ……言わずとも、みんなわかっただろう。
 呪われし僕たちが、僕たち以外に心を動かされることなどないのだから。
「……めぐ……む……?」
 誰かが惠を呼ぶ声がする。惠はそれに眉一つ動かさず、僕だけを凝視し続ける。
 まるで、自分の前には僕一人しかいないかのように。
「……」
 ぐっと、押し込むように奥歯を噛み締める。歪な悪意を引きずる惠を待ち受ける。
 本当は、こうなる前に止めたかった。けれど今さらそんなことを言っても始まらない。
 後悔先に立たず。どのタイミングで何をすればうまくいくかなんて誰にも分からないし、わかったところでその通りになんてならない。『現在』はいつでも移り気で、レールも轍も飛び越えて、迷い道も袋小路も空さえも渡っていく。
 ひとりひとりの想像は狭小で偏っていて、現実には到底追いつけやしない。あらゆる展開を考え抜いたとしても、それは当人の思考の限界をはみ出すことはない。
 それは誰もが同じ。
 姉さんであっても、惠であっても、僕であっても――同じ。 
 ……だからこそ、逆転の目がある。
 一見すれば手遅れだ。覗いた未来の可能性は、打つ手なしを突きつけた。
 けれど、僕は知っている。
 姉さんから引き継いだ能力を駆使してなお、未来は定まらない。
 惠の命が尽きるその瞬間まで、可能性は潰えることはない。
 僕はバカだ。物分りがいいフリをして、もがいてあがいて抵抗する。
 僕は姑息だ。地団駄を踏むぐらいなら、下手な鉄砲を撃ちまくる。
 ……だから、この場を作った。
「智……ッ」
 荒々しい威圧感にまみれた靴音がコンクリートに響く。品がなくて耳障りな、惠には全然似合わない音だ。
 その不快な音を撒き散らす姿を、自棄になった惠を魂に焼き付ける。意味は違えど、彼女も視線は逸らさない。投げつけるように、尖った想いを眼に乗せる。
「よく、ここがわかったね」
「そんなことはどうでもいい」
 声色は刃物のように鋭く、円滑なコミュニケーションを端から切り飛ばす。
 目の前に立たれる。彼女の方が背が高いから、少し見上げる格好になる。至近距離で覗き込むのは、絶望の枯葉剤に負け荒れ果てた魂。刺々しく苛立った様子は、実りを焼き尽くされ烟る荒野。
「なぜ話した」
 震える低い声。
「なぜだと思う?」
「……答えろ」
 さらにトーンが下がる。即刻、突っぱねる。
「やだ」
「答えろっ!」
「!」
 いきなり胸ぐらをつかまれた。服が喉に食い込みかけ、慌ててかかとを上げる。
「トモ!」
「来ないで、るい!」
 条件反射的に動いただろうるいを、制止する。
 惠の予想以上の荒っぽさに恐れが湧く。けれどここでひるむわけにはいかない。
 ……こんなチャンスは、二度とないんだ。
「話したかったからだよ。それだけ」
 腕をつかみ返し、強く握る。痛いのか、僕の抵抗に感じるものがあったのか、さらに表情を険しくする惠。
 無数の蛇が這いずるような、乾いた中に薄気味悪いツヤの宿る瞳。握る手のひらに伝わってくる鼓動も体温も、一度は預けてくれたものだ。でも、あの日々ですら、今や惠の中で意味を失いつつある。
 人は、見たくないものから無意識に目をそらしてしまう。正気のはしごを外された人間を直視できないのは嫌悪感のせいだ。それは理屈の及ばない、条件反射にも似た行動。おかしくなる前の姿を知っていれば、拒否反応はより強くなる。僕のように臆病者ならなおさら。なけなしの勇気を振り絞り、自分に鞭打って、ようやく惠の今と向き合える。
 そして見えてくるのは、ここまで崩れてもなお止まらない転落。こんなに近くにいても、触れていても、今の僕と惠の間には底知れない距離が広がり続けている。身体がここにあるのに、『才野原惠』がいなくなろうとしているのを痛感する。
 惠の背負う影は、姉さんの作った蜘蛛の巣。もがくほどに自由を奪い、意志を喰らい尽くしていく毒の糸。振りほどく力を失った惠は、形にならない悲鳴と共に運命に溶かされていく。
「何をしているんだ君は! あのまま黙っていれば、これ以上誰も傷つくことはなかったのに!」
 滑り出る叫びは、惠自身の結末を排除したもの。一番の犠牲者が口にするにはあまりに重く、かつ軽率な発言だ。けれど、惠にその自覚はない。
 今の彼女にとっては、みんなを止めようとする僕の方がよっぽどおかしいんだろう。
 その心のあり方が、ただただ悔しい。
 ……悔しいから、僕は動く。他でもない僕自身のために。
「僕は僕の思ったとおりにする。君の言うとおりになんか動かない」
「つまらない意地を……!」
「今まで僕が自重したことがあった?」
「……っ……!」
「甘く見ないで、惠。確かに僕は小心者で根性なしだけど、言われたとおりに動く人形じゃないんだ」
 あえて挑発するかのような言い方を選び、惠に揺さぶりをかける。
「だからって、わざわざ他人を巻き込むなんて」
「ここにいるのは他人じゃない。それは君が一番よくわかってることでしょ」
「……いや、他人だ。他人でしかないんだ」
「それは君の思い込みだよ」
「智だって、同じじゃないのか」
「そうだよ。だから引かないし、君に僕の説得はできない」
「……」
 空虚な睨み合い。
 意外というか、やはりというか、この期に及んでも惠の頭はきっちり働いている。思い通りにならないからとわめき散らすことも、暴力に訴えることもない。言語全てが呪いに縛られる彼女だからこそ、最後の最後まで理屈を手放せない。
 ……最後の最後まで、己を完全に失うことはできない。
 どれだけ自分自身の価値を過小評価しても、自責の念に染まっても、存在意義を捨て去っても、それでもまだ、彼女は彼女であり続ける。
 ある意味で、それはとても残酷だ。
 同時に――僕にとっては、ありがたいことでもある。
「準備ができたなら、笑って解けばそれでいいじゃないか。つまらないアクシデントで水を差してどうする」
「笑えない。僕は、笑えないんだよ」
「短期的リスクに気を取られるな。長期的スパンに立って考えれば、こんな足枷は何の問題にもならない」
「なんでそれを君が言うの」
「君が分かっていないからだ」
「分かるわけないでしょ? 僕が君をどう思っているか、知らないわけじゃないのに」
「姉の敵をどう思うかぐらい、誰でも分かる」
「……っ」
「醜い言葉は人を腐らせる。だから君はわざわざ恨み言を口にする必要はない。結果がついてくれば、遅かれ早かれ満たされる。ならば早いほうがいい、違うかい?」
「……違う、僕は君を」
「八人の利害が一致した。次にやることは決まっているだろう」
「……メグム……」
 るいの小さな声を背中で聞く。続きの台詞はない。
 黙っていられないのに、うまく言葉にならない……じわじわとしたもどかしさが、光を知らないコンクリートの空間に広がっていく。
 会話に溶けて発散されたのか、惠からは現れた当初の尖った雰囲気は薄れてきている。代わりに際立つのは、呪われた八人ならば絶対に考えられない、ねじれたベクトル。
 呪いを解いたときに訪れるのは、七人の解放とひとりのおしまい。
 今や、みんながそれを知った。
 だからこそ、みんなは惠と僕の言い争いにショックを受ける。そこから零れる考え方に拒否反応を示す。ああ言えばこう言う惠の言葉から染み出す、僕らには天地がひっくり返っても思えないはずの願いに慄然とする。
 僕らがすべてを賭けて打ち破ろうとした理不尽な死を、惠は自ら被ろうとしている。それも当たり前のこととして。
 ……不思議はない。
 もし彼女の立場だったなら、僕もそう願っただろう。
 ――みんなに言われるぐらいなら、自分から――
 惠が語る正当性や合理性は後付だ。彼女は単に、自分が望んだ結果を導くために手を打っているだけ。その選択が幸せかどうか、その先に自分は何を見出すのかではなく、ただ『決めたこと』を実行しているだけ。
 ……今までの彼女なら、そんな裏の意味すらも隠しきれただろう。本心を煙に巻いたまま、完璧な舞台を演じきり、緞帳が落ちると共に一生を終えただろう。いや、今もそうしようと躍起になっている。脅しでダメなら理論武装、あの手この手で台本通りに進ませようとする。
 ……させない。
「僕はわがままなんだよ。どちらかを諦めるなんてできない」
「まだそんなことを言ってるのか」
「いつまでも、何回でも言う」
「往生際が悪いよ、智。みんながどれだけ迷惑すると思ってるんだ」
「……そうだね、迷惑かもね」
 説教と説得と自己主張の混ざった物言いに、思わず苦笑い。
 実際、一面から見たら大迷惑だろう。僕がこの手に出なければ、みんなは何も知ることがなかった。背負わされるものを受け止めることなく、必然をアクシデントと捉えて、知らなかったという逃げ口上を携えて、置いてけぼりになる命に知らんぷりができた。はっきり言えば、それが一番楽だ。
 そう思うからこそ、惠は僕を遠ざけようと、隠そうとし続けた。
 正しい道など存在しない。問われるのは、どこに自分の心を置くかだけ。僕の選択と惠の選択、どちらにも理があり、どちらも間違いであり、どちらにも真摯さがある。
 だから、ここで負けるわけにはいかない。運命に敗れた惠のためにも、僕のためにも、みんなのためにも。
「でもね、惠。たとえ迷惑だったとしても、それは悪いことじゃないよ」
「……何?」
「だって、僕たちは他人じゃない」
 ……僕は思う。
 最も苦しく厳しい現実を見ないこと、見せないことこそ、一番の裏切りなんじゃないか。
 呪いはいつだって理不尽だ。制限も発動も代償も、逃れる術すら理不尽。
 僕らはみんな呪われている。いつまでも、どこまでも呪われている。鎖は僕らを繋ぎ、一種の癒着を生じさせた。
「迷惑掛けないで生きていくなんて、机上の空論だよ。誰かと関わった時点で、良いことも悪いことも全てはギブアンドテイク。誰か一人に押し付けることも、誰か一人が背負いこむこともできるわけがない」
 かつて、僕は言った。
『呪われた世界をやっつける』。
 この数ヶ月は、そのための道だった。そう信じて、思い込んできた。
 ……ひとりひとりの弱さから目をそらすために。
 同盟がやってきたことはなんだったか。惠がやってきたことはなんだったか。
『呪いを解く』行動の裏側にあった動機。
「僕は腹黒だからね、目的のためなら手段は選ばない」
 僕はどこまでも優柔不断だ。最後まで、惠を選ぶことも、同盟を選ぶこともできない。
 だから……きっと、誰よりも強烈に痛感している。

 ――僕たちは。
 ただ、一生懸命逃げていただけだ。
 
「君はここに来た。避け続けていたみんなの前に姿を現した。僕の狙い通りに」
「……!」
 胸ぐらを掴んでいた手が離れる。竜巻が起こるように、惠の怒りが焦りに変わる。
 走りださないようにしっかり腕を捕まえて、揺れ動く瞳を見据える。
「もう、逃げない。君もみんなも、誰一人逃がさない」
「っ……!」
 ひきつった、悲鳴のような息を飲み込む惠。
 ようやく気づいたんだろう。
 ――僕にはめられたことに。
「こうでもしなければ、呪いを解く瞬間以外で八つ星が揃うことはなかった。拒絶しあう両者を出来る限り同じ立場で集合させるには、これが一番だったんだ」
「トモ……」
「惠センパイ……確かに、もうずっとずうっと会ってなかったデス」
「……そういうことなら、確かにここが一番かもしれないわ」
「相変わらず八方美人ですね」
「公平な判断だと思う」
「面倒なことをしやがって」
「……こんな調子で相変わらずバラバラだけど、でも、みんなここにいるよ」
 六人の視線が惠に集中する。
 数ヶ月ぶりの再会。偽りの悪意でも、姉さんのレールの上でもないところで、僕たちは集う。
 惠は戻る。
 同盟の一人という位置に、強制的に連れ戻される。
「……あ、あぁ……!」
 それを悟り、自分の立場を理解し――惠の顔から血の気が引く。
「……っ、るな、僕を見るな……! 考えないでくれ、お願いだから、僕のことは考えないでくれ……!」
「そうはいかないよ、惠。決断は誘導ではなく、みんなで下すものなんだ」
「しなくていい! そんなことしなくていい、ただ解いてくれれば、それで……!」
 怯えた声で首を振る惠。腕が、全身が震えている。さっきまでぬるぬると溜まっていた悪意が一瞬にして乾ききる。
『真実を知られた上で、みんなの判断を待つ』……惠が命がけで避けていた展開の訪れ。
 彼女は真実を隠して死ぬ気だった。そのために芝居を打ち、場を乱し、振り回し、みんなを散々に怒らせた。
 その真の動機を一言で表現するなら――恐怖。
 頭の回転が良く、現実の非情を叩き込まれてきた彼女だからこそ、常識的な判断を、合理的な絶望を、勝ち目のない戦いを自覚してしまった。
 生まれて初めて出会った、心を許せる仲間たち。制約の荒野に種を撒き、芽吹かせ花開かせた魂の繋がり。もはや『才野原惠』は同盟なしには語れない。出会ったその日から、彼女は仲間たちに育てられて生きてきた。
 その日々が、得られた絆が、己の生命以上に大事だからこそ――『選ばれない』未来を受け入れられなかった。受け入れられないから、自分で招いたという言い訳をするために、誤解を呼び、みんなを空っぽの怒りに駆り立てた。
 ……惠は想像できなかった。
 自分が生きられる未来を、信じることができなかった。
 考えれば考えるほどに、惠が選ばれる可能性は低くなる。七対一の多数決、諸条件を勘案すればパーセンテージは1%にすら満たないだろう。そんな爪先ほどの可能性に縋りつくなら、諦めてしまった方が楽だし、99%に乗れば物事はうまく運ぶ。
 それが惠のたどり着いた答え。生きたいという願いを押しつぶした根拠。
 大事な人に切り捨てられるのは、死ぬより辛い。それが生きる喜びを教えてくれた人たちならばなおさら。
 惠にとって、自ら死に向かうことは救いですらあった。少なくとも、自分が最も恐れる事態は避けられるのだから。
 けれど――僕はその計画も意図も気づいていて、あえて全てぶち壊した。
 残念ながら、僕は惠に比べるとバカだ。
 バカだから、諦められない。
 だって、未来は決まっていない。
 どんなに低くたって、ゼロじゃないなら、やってみる価値はある。
 そう思うからこそ、みんなを呼び出し、事実を明かし、壊れかけの惠を引っ張り出した。
 突きつけたかった。一人ひとりに問いたかった。
 ――無意味な憎しみと希望を胸に、惠の息の根を止められるのか、と。
 案の定、みんなは動揺している。自分たちの行動に迷い始めている。
「どうしてなのかな……メグム、どうにかならないのかな……?」
「両立しえないってあたりが悪趣味すぎるわよ。さすがは呪い」
「選ばなきゃいけないんですか? 鳴滝、そんなことしたくないですよぅ……!」
「才野原自身はどうでもいいが、人殺しの片棒を担がせられるのは腹が立つな」
「……」
 ひとりひとりが動揺を口にする。答えの出ない過程が放たれていく。
 呪いは八人で共有されるもの。僕の意見も惠の意志も、あくまで一票に過ぎない。
 だから、変わるかもしれない。
 ひょっとしたら、ひょっとしたら、みんなが――
「……っ、い、いいから、もういいから……っ!」
 誰もが考えあぐねる様に、惠の怯えがますます激しくなる。
 切り捨てられる――
 自ら引き寄せた絶望を前に、泣き出しそうな声で叫ぶ惠。
「君たちは考えなくていい! 何もいらないんだ、忘れてくれ、僕のことなんか忘れてくれ!」
「そうはいかないよ。まだ君は生きてる、みんなだって」
「やめてくれ! もう、もうやめてくれ!」
 甲高い悲鳴。
 誰の目にも明らかな狂乱の形相。ただでさえ焦点が合わなかった目が、焦点すら存在しないものへと変わる。
「っ!」
 その変化に気を取られた隙をつき、惠が僕を振りほどく。
「しまっ……」
 慌てて捕まえようとして――
 異様な空気に、釘付けになる。
 目に映るのは、常軌を逸した雰囲気を纏う優雅な立ち姿。逃げようという意志はまったくない。
 真空を思わせる荒々しい虚無感を、身体に、心に詰め込んで、惠は微笑む。
 悪寒が走るほどに美しく、恐ろしい――至ってはいけない穏やかさ。
「……ああ、そうか、最初からこうすればよかったんだ」
 カーテンコールをする孤高の演者のように手を広げ――
 ゆっくりと。
 彼女は紡ぐ。
「僕はね――今、心の底から、死にたいんだよ」
 たどり着いてしまった本心を。

 ――それは。
 死より恐ろしいものから逃れるための、最悪の――

 惠の声に応え、世界に二つめの亀裂が走る。
「嘘っ!?」
 みんなの後ろ、捨てられていたテレビのブラウン管が砕ける。同時に、全員の本能に働きかけるシグナル。
 心臓が喚く。緊張が走り抜ける。
 呪い――
 迂闊だった。
 そうだ、今の惠なら、死を希求する惠なら、自ら呪いを踏むことも――
「惠、あなたなんてことを……!」
「君の感じている通りのことをしたまでだ。ここで争うのは時間の無駄だからね」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
「これから解放されるんだから、一つが二つになろうと構わないさ」
「構うよ! なんでそこまでして……そこまでしてっ!」
「迷うのは苦しいだろう? だったら迷う必要もない状態にすればいい。メリットがリスクを大幅に上回る決断なら、踏み込むことに抵抗などない」
「そんな……惠センパイ、こんなのおかしいですっ!」
「おかしくなんかないよ、こより。君たちは当初の予定通りに動けばいいだけだ。余計な邪魔が入ったけれど、やるべきことは変わらない」
「だからそれがおかしいって……」
「逃れるのは簡単だよ。ただ、今までやってきたとおりに動き、呪いを解けばいい」
 仲間たちの言葉を聞き流し、無表情と同義の笑みを浮かべ続ける惠。
「何をためらう? これで全部、君たちの思い通りじゃないか」
「バカ、惠……!」
 思考もへったくれもない、強制執行。文字通り最悪のカードが切られた。
 今度こそ……今度こそ本当にとりかえしがつかない。
 やってくるのは、こよりに加えて惠、二人分の制裁。まして、今回は完全に惠の故意だ。その報いは他の誰でもなく、惠に対して降り注ぐもの。
「これで、解こうと解くまいと結果は同じになった。すっきりしただろう?」
 勝ち誇ったような口ぶり。僅かな可能性に賭けようとした僕の行動を完全に叩き潰す一手。
 ……言葉もない。
 彼女は死に魅力を感じているわけじゃない。死に未来も希望もないことは当人が一番良くわかっている。
 それでも、仲間に選ばれないよりはマシだと、幸せだった日々を汚されるぐらいなら自殺した方がいいと――自ら選んでしまった。
 屈辱に近い挫折感に襲われる。
 ……もう、ダメなのか。それしか道はないのか。
 惠の生命を手放すしか、振り落とすしかないのか。僕の願いは、想いは届かないのか。
「さあ、もう立ち止まることはない。君たちを、輝かしい自由が待っている」
 僕たちに手を差し伸べる惠。救いのない絶望に溺れたまま、呪いのない世界を声高らかに迫り――
「――……いい加減にしてくださいっ!!」
 諦めたくないのに、諦めそうになったその時。
 割って入る声があった。
 ――茜子。
 声の主は自ら進みでて、惠の前に立つ。両手をきつく握りしめ、両足でぐっと地面を踏みしめて……立ち向かう。
「茜子さん、今回ばかりはマジ切れしました。そんなにボロクソになってグズグズの粉々になって、地獄出張所状態の心を晒しておいて、何偉そうなこと言ってるんですか!」
「……偉そう?」
「偉そうですよ。とどのつまりは負け犬が地べたに這いつくばって『俺の屍を超えていけ』とかカッコつけた台詞吐いてるだけです」
「負け犬……なるほど、そういう言い方もできるかな。多数に入れない時点で負けかもしれない」
「そういう意味じゃありません!」
 茜子は踏ん張る。
「今のあなたの心は茜子さんに筒抜けです。ビビリまくるあまり独りよがりな理論武装してその場を乗り切っちまえという魂胆が丸見えです。確かに、あなたを犠牲にするのが最も合理的でしょうし、普通に考えればそういう結果になります。それは否定しません」
 淡々と、けれど感情を凝縮して言葉を紡ぐ茜子。
 自動発動し続ける彼女の能力は、相当量の惠の心を拾っているのだろう。僕には予想でしかない彼女の心も、茜子なら事実として掬いあげられる。ある意味で、今の惠に最も近づけるのは茜子だ。
 見えてしまうから、わかってしまうから――我慢ならない。
「こういう煽りは好きじゃないですが……あえて言わせてもらいます」
 茜子は立つ。七対一のうちの七の一人として、そして仲間の一人として。
「――私たちの幸せは、あなたの逃げ場じゃありません」
「……!」
「勝手に夢見て、勝手に逃げこまないでください。この状況で呪いを解いて私たちが幸せになれるとでも思うんですか? あなたはただ、自己犠牲に酔おうとしてるだけです。私たちが、呪いを解くという使命にベロベロに酔っていたのと同じです」
 全員の心が読めるがための、当事者であり部外者にもなりえる視点。「誰の味方でもない」という独自の立ち位置で茜子は自論を創りだす。
「私は嫌です。こんな状態になったあなたにとどめ刺してヘラヘラするなんて嫌です。どうしても死にたいというなら、かつてのあなたに戻ってから出直してきてください。もっとも、かつてのあなたならこんなバカな真似はしないでしょうが」
「……」
「茜子さんは屈しません。同情もしません。もちろん――殺してなんか、やりません」
 導きだしたのは、今までの行いを180度ひっくり返す結論。先陣を切り、揺らぐはずのなかった一票を覆す。
 それは、小さな風。ささやかな抵抗。
 けれど――茜子の言葉は、渦の起点になる。
「……そうね。やっぱり、おかしいと思う」
 呼応するように続いたのは伊代。
「私たち、なんにも知らなかった。自分たちがアンフェアなことをしてるって自覚さえもなかったわ。仲間内で何かを選ぶなら、みんなが同じ情報を知った上で決めなきゃ。私たちはまだ出発地点に立っただけよ。だったら、今すぐ決断なんかすべきじゃない。今はまだ、行動する時じゃないと思う」
 伊代が出したのは、保留の意志。何よりもフェアを重んじる彼女らしい選択だ。
 ……伊代と茜子。二人の判断に、空気が変わる。
「……結局、私たちは操られてたってことよね」
 不満を隠さない表情の花鶏、腕を組んでふんぞり返り、惠を見て、名前を呼ぶ。
 ――久しく使っていなかった、惠の名前。
「私は誰かに指示されたり命令されるのが大嫌いなのよ。理由がどうあれ、誰かの意志に動かされてるってのが許せない。今回だってそう。私は私の意志で動いてた気でいたけど、結局は惠の思い通りだった。こんなに長い間踊らされてたなんて、正直はらわた煮えくり返る」
 喧嘩を売る気満々の態度で惠に対峙する花鶏。
 けれど、その唇から紡ぎだされるのは、本人にとっては当然で、意外な決断。
「悪いけど、全力で抵抗させてもらうわ。あなたが呪いを解いて欲しいなら、絶対解かせない。あなたが死にたいと言うなら、何が何でも生かしてやる」
「……花鶏……」
 気高い自信家であるがゆえに、花鶏は常に折れず、説得もされず、自分の意志を貫く。そのプライドの高さは時として亀裂を生み、また時としては起爆剤に、車輪になった。
 そんな彼女のあり方が――数十分前の自分と真逆の選択をする。
 崩れていく七票。
 ただ呆然と――予想できなかった、けれど心の底から欲しかった展開を目の当たりにする。
 理由は様々だ。けれど、答えは……
「……ごめんなさい、惠センパイ」
 こよりが申し訳なさそうに頭を下げる。
「鳴滝、センパイのこと誤解してました。死ぬのが嫌で、センパイが何考えてるか全然わかんなくって……センパイのこと、恨んでました。どうして助けてくれないのって、自分のことだけしか考えてませんでした」
 溢れ出る思いが涙に変わる。拭いながら、しゃくりあげながら、たどたどしくこよりは紡ぐ。
「でも、でも……違ったんですよね。私なんかより、センパイの方がずっとずっと辛かった。鳴滝がみなさんにおんぶに抱っこで逃げてる間、センパイはひとりぼっちで、誤解されたまま頑張って……っ」
 こよりが両手を握りしめる。
「鳴滝は、鳴滝は……死にたくないです。でも、惠センパイがいなくなっちゃうのも嫌です。イヤイヤ言ってもしょうがないケド、でも、嫌なんです。鳴滝は……自分が死にたくないのと同じぐらい、センパイに生きていて欲しいんです。それができるなら、鳴滝は何だってします。だから、自分から死のうとしないでください。鳴滝のためにも、生きてください」
 こよりの言葉はあどけなく、そして素直だ。理屈や打算ではなく、思いのままが形になる。こよりの抱えた葛藤を余すことなく乗せた声は、あれこれ飾り付けした台詞より遥かにまっすぐ心に届く。
 ……逆転。
 多数決は、票の動きで結末が真逆になる。意志の集合は、今までありえなかった可能性を一気に引き寄せる。
 一度も見えなかった未来が、能力すらさじを投げた第三の選択が――生まれる。
「……正直、あたしは才野原がどうなろうと構わない。単に、こいつらのやってることにメリットがあったから乗っただけだ」
 央輝は苛立ち顔でライターを鳴らす。こういう展開は苦手なんだろう。彼女にしてみれば、もともと僕たちとの接点が多かったわけでもないし、乗ってみたら最後の最後でコケたみたいな印象かもしれない。
「――ただ」
 ライターを投げ上げて掴み、ポケットにしまう。
「おまえ自身は知らないだろうが、あたしはおまえにひとつ借りがある」
「借り? いぇんふぇー、なんかやったの?」
「三宅の件だ。あの外道馬鹿は三流のくせに情報収集力は見るものがあった。おまけにがめつくて、タブーだろうと捏造だろうと金になるなら迅速に容赦なく売っぱらう。あいつのパソコンを回収した組織のやつらによれば、あの日三宅が死んでいなければ、呪いの情報はかなりの部分が金になってばらまかれていたらしい」
「……は……!?」
「何それ……っていうか、てことは」
「才野原が何を考えて三宅を殺したかなんて知りたくもない。ただ、結果的にあたしたちを救ったのは確かだ」
「……そうなんだ……」
 三宅。感情の流れに巻き込まれた同盟の前に現れた、姑息で身勝手な敵。
 僕たちの最大の失敗は、一瞬でも三宅を信じてしまったことだろう。あれこそ、一歩間違えば取り返しがつかないところだった。仲間内の対立と、外の世界に狙われるのは違う。どれだけ結束が硬かったとしても、外部の圧力を跳ね返すだけの力は僕たちにはない。
 知らないうちに崖っぷちに立たされていた僕たち。そこから引き戻してくれたのは、すでに同盟から離れていた惠。
 ……覚えている。
 まだ危機を脱していない身体を抱えながら、みんなが危ないと焦っていた惠の姿。僕がのんきに寝こけてる間に手を下し、説明も弁解も一切しなかった。まともに連絡取れなかったというのもあるけど、仮に取れたとしても彼女は黙り続けただろう。惠はそういう子だ。
「あたしは借りは返さないと気が済まないんだ。ここで才野原に死なれて借りっぱなしになったら気持ち悪くてしょうがない……だから、猶予をやる。今回は見逃してやる」
「OK、茜子さん理解しました。なんか言わないと頭悪そうに見えるからとりあえず理由くっつけたんですね」
「そういう言い方するな! あたしがここで意地はっても結果は変わらないだろうが!」
「認めてるし」
「まあゴネられるよりはいいか」
「全員分の借りをまとめるってことで」
「ったく……」
 ちょっとだけ、場の空気が緩む。余裕があるわけではないけれど、そんなやり取りが挟めるようになる。
「……」
 惠はただただ、呆然としている。絶対にありえないと、夢見ることすらやめてしまった明日が近づいてきている感覚に戸惑い、反応できないでいる。
「……あのね、メグム」
 るいが歩み出る。困ったような、どこか恥ずかしそうな、切なげな表情だ。
「私ね……呪いが解けたら、お父さんのお墓参りに行こうと思ってたんだ」
「え?」
「お墓参り……ですか?」
 意外な発言に驚く一同。るいはちょっと顔を赤らめて、胸の前で指を交差する。
「うん。ほら、お父さんの手紙出てきたでしょ? あれ読んでさ、謝りに行きたいなって……お父さんが好きだったもの、もうほとんど憶えてないけど、お酒とか、チクマヨとか、おつまみとか買ってさ。そういうガラじゃないってわかってるんだけど、一回……行こうかなって」
「るい……」
「大人はチクマヨは食べないんじゃないかしら」
「空気読め」
「……いや、まったくです」
「……でもね、でもね……そういうこと考えてたら、すっごい悔しくなってきて。だって、お父さんもういないんだ。お墓の石に向かって何言ったって、もう、お父さんには届かない。私がそうやって気持ちを落ち着けたいだけで、お父さんには、もう……何にもできないんだって。死んじゃったら全部おしまいなんだ。死んじゃってから何言ったって、答えようとしたって、謝ったって、もう届かないんだ。意味がないんだ」
 きつく閉じたるいの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……トモからメグムの話聞いて、気がついた。私、お父さんにしたことと全く同じことを、メグムにやろうとしてたんだ。つい最近あんだけ後悔したのに、反省したのに、また同じ間違いを繰り返そうとしてたんだ」
 るいが惠を見る。かつて決壊するほどに溢れていた敵意は、もう微塵もない。
「私、もうあんな思いしたくない。同じことは繰り返したくない。だから、呪いは……」
 続きは飲み込む。制約に抵触する可能性があるし、言わずともわかる。
 ――七対一が、一対七に。
 それぞれが、それぞれの意志で選ぶ。誰に強制されるでもなく、操られるでもなく、バラバラの、自分自身の根拠で道を決める。
 あと一歩で手が届く、呪いなき自由の園。地図も鍵も手段も手に入れ、邪魔するものも誰もいない。制約のない日々は未だ魅力を伴い、僕たちを誘い続けている。
 それでもなお、僕たちは選択する。
 ……得られるはずの自由を捨てる道を。
「……」
 惠はひたすら押し黙っている。
 出された結論は、ある意味で今までの惠のあり方を否定するものだ。死に取り憑かれ、生から逃げようとした彼女に差し伸べられた、あまりにも予想外な救いの手。
 惠が信じた未来は、ここにはない。あるのは、心の奥で狂いそうな程求めながら、どうしても信じられなかった可能性。
 覚悟を決めるために手を尽くしてきた彼女だ、覚悟そのものが要らなくなった今、自分がどうあるべきかに迷うんだろう。みんなの決意が固まっても、惠自身がそれを受け入れなければ先には進めない。
 でも、これならきっと……。
「……あれを」
「え?」
 唐突に、惠が空を指さした。
 誘導された方を振り仰ぐ。目が釘付けになる。
「……さっきからずっと、あそこにいるんだ。迎えに来たのかな……」
 その言葉に、そして、呪われた八人に備わった防衛本能に、招かれざる客の存在を悟る。
 ――どす黒い、あらゆる色を混ぜた果てに黒ずんだ影。明快な形を伴わず、だからこそ無限大の武器となって襲いかかってくる、僕たちだけが知る――死神。
 全身が総毛立つ。
 ――来た。奴が。
「こ……こんな時に!?」
「空気読みなさいよあの怨霊!」
「ある意味グッドタイミングではありますが」
「全然グッドじゃないだろうが!」
「あうう、やっぱりコワイですぅぅぅ」
 雰囲気を完全に変えるパニックの発生。
 奴がもたらす絶対的な終焉が心を千々に乱れさせ、僕たちを突き動かす。
 逃げろと本能が騒ぎ立てる。脳が勝手に命令を下す。一刻も早くこの場を去ろう、思考がそれ一色に塗りつぶされそうになる。
 みんなもきっと同じ。靴がコンクリートを擦る音が耳に届く。すぐにでも走りだそうと姿勢を変え――
「……っ!」
 でも、地は蹴らない。
 いつもなら、奴との追いかけっこが始まるところだ。散々追い掛け回されてる分勝手もわかりつつある、自信ではないけれど、逃げ切れる公算はある。
 ……『逃げる』のなら。
「おまえら、何もたもたしてっ……!」
「逃げるならさっさと逃げなさいよ。誰も止めないから」
「ふざけるな! あたし一人に恥をかかせる気か!」
「じゃあ止まってればいいじゃないですか。……私は逃げませんよ」
「鳴滝だってっ……だって、今逃げちゃったら、惠センパイは……!」
「決めたことを五秒でひっくり返すほどプライド低くないわ」
「一回ぐらい根性入れられるもん。喧嘩上等」
「呪いを解かないなら、同じことの繰り返しだものね……別の方法だってきっとある」
 足音は、鳴らない。代わりに、全員が胸を張る。
「トモはどうする? 怖いなら、逃げたっていいよ」
「逃げない、逃がさないって言ったのは僕だよ。リーダーは有言実行でないとね」
「よし、いい根性」
 誰もが共有する、呪いがもたらす死の恐怖。逃げれば離れられる、一時的にでも安息の時間が得られる。
 けれど……誰一人、その場を去ろうとはしない。
 振り返り、向き直り、呪いの影を睨みつける。
 怖いのは誰もが同じ。手立てがあるわけでもない、ひょっとしなくても、生命の危機に瀕するかもしれない。
 それでも――今だけは、今回だけは――逃げない。
 生まれて初めて、僕たちは呪いを直視する。
 革命を起こす名もなき市民のように、圧倒的な不利を十分に理解しながら、この瞬間に生命を賭ける。
 僕らの足は心もとなく、武器もなく、精神は強固とは言いがたい。招かれざる客は相変わらずの不気味さと圧倒的な存在感で僕らを揺さぶり、崩そうと、奪おうと舌舐めずりする。
 明らかに分が悪い勝負、いや、勝負ですらない。結局奴を倒す方法なんて見つかってないし、永遠に逃れる方法はたった今、自分たちで放棄した。
 冷静に考えるのなら、僕たちはとことん愚かだ。最大多数の最大幸福というこの世の法則に弓を引き、自分の身を守る手段すらとろうとしない。飛んで火に入る夏の虫、奴からすれば最大級に美味しいカモだ。
 でも、それが同盟の決断。姉さんが導けなかった、惠が信じられなかった僕たちの答え。
 逃げるのは簡単だし、誰かがそうしたって、責められることはないだろう。全ては自己責任、自分の意志で決めること。
 同じ行動を取ったということは……おそらく、みんな同じ想いを抱いているんだろう。
 ――今逃げたら、一生後悔する。自分が自分でなくなる。
 呪いで繋がれた八人。主義主張も、それまでの道のりも、呪いの内容も、あり方もバラバラだ。
 ただ、ひとつだけ共有するものがある。
 ……人はそれを、絆と呼ぶ。
 僕たちは呪いに戦いを挑む。ただただ、自分たちの絆を守るために。
 空気を焦がす緊張感。生命ですらない、運命という名がふさわしい横暴と真っ向からぶつかり合う。
 両者、動くことなく対峙し続ける。
 火花が散るわけでもない。派手なアクションがあるわけでもない。ひたすら睨み、相手を待ち受ける。
 ぎっちりと詰まった沈黙が重ねられていく。一秒の感覚を極限まで引き伸ばした時間が、歯車の音と共に運ばれていく。
 しばしの……実際の時間が長いのか短いのかもわからない時間が流れる。
「……?」
 妙なことに気づく。
「……襲って……こない……?」
「……よね」
 みんな同じことを思っていたのか、口々に疑問を呈する。
「ターゲット選定中にしては遅いですね。いつもはもっと迅速にズッコンバッコンやってきますが」
「何かしら……何か、攻めあぐねてるみたい……?」
「でも、間違いなくアレですよね……うう」
「まさかアレが怖気づくなんてことはないでしょうけど……明らかに変ね」
 髑髏を思わせる影は、空を捻れさせながらずっと一処にとどまり、動く気配がない。準備や作戦という雰囲気でもなく、伊代の言うとおり、攻めあぐねている様子だ。
 襲うための道具なら、この場所にも沢山ある。転がってる粗大ごみを飛ばすことだって出来るだろうし、いきなりバイクが走りこんでくるとかもあり得るだろう。そういう手段の問題でもない。
 何かの条件が、相手を止めている……?
「もしかして、逃げたら追ってくるけど逃げなかったら大丈夫、とか?」
「それはないわよ皆元。逃げなくても襲ってきたことあったでしょ」
「そっか、そだよね……なんでだろ」
「こういう待ちの時間がイラ立つんだ、来るならさっさと来い」
「かませ犬発言キタコレ」
「おまえはあたしをどこまでクサしたら気が済むんだ」
「からかうと面白いってイイデスヨネー」
「そんなことしてる場合じゃないでしょ! 何ができるわけでもないけど、遊ぶのは後に」
「だって、意味分かんない……なんで?」
「……何か、特殊な条件があるのかな……」
 物事にはすべて原因が、理由がある。奴だって、呪いを踏んだら現れるものだし、呪われた人間しか襲わない。問答無用感ありまくりだけど、あれでも奴には奴のルールがある。
 出てきたのに襲ってこないのは、今の状況がそのルールに合致してないから……だろうか? とすれば一体どんな条件が?
 呪いを踏んだ当事者の惠とこよりはこの場にいる。奴が狙うターゲットである八つ星も全員揃い踏みだ。本来なら、この上なく奴にとって有利な状況のはず。
 あるいは逆に、揃っているとダメとか? でもそれなら出てくることさえないはずだ。惠は八人が揃ってる状態で踏んでいる。となると、出てきたはいいけど襲うには困った状況なのか? 
「……」
 少ない情報を手がかりに考える。膠着状態が続けば不利なのは僕たちだ。莫大な精神的負担を背負う時間が長引けば、全員の心に悪影響を及ぼしかねない。どれだけ意志を強く持ったって、死の恐怖との耐久レースには限界がある。何が何でも切り抜けないと、せっかく引き寄せられた未来がまた潰えてしまう。
 今までとの違いは何だ? 人数、タイミング、場所……どれもバラバラで統一感がない、今回と重なるところも重ならないところもある。明確な違いといえば『逃げていない』の一点だけ、みんながこうして一箇所に集まって――
 ――『一箇所に、集まって』。
 よぎる、新しい映像。
「……!」
 無意識のうちに能力を発動させたのか、一枚の絵が脳を通り過ぎる。
 前に見た画像とよく似た、けれど明らかに違う図。場所は今、ここ。
 直感が咆哮をあげる。
 ――これだ!
「……陣」
「は?」
「――円陣っ!」
 指示を飛ばす。
 ――僕たち八人に与えられた、戦わずに呪いをやっつける手段。
「円陣を組んで! 今すぐ!」
「え、何!? 何を急に!?」
「いいから! 説明してる時間はない! 一度だけでいい、僕を信じて!」
「本当に大丈夫なんでしょうね!?」
「わからない! だけど、やらないよりはマシなはず!」
 実際、思いついただけだ。筋は通ってるけど、確証は何もない。
 でも、そんなのいつものことだ。やるべきことがあるのならそれを実践するのみ。
 今しかない、今しかできない、試せない。とんでもなくバカげていて、けれど、今だけはみんなが納得してくれる方法。
「……おっけー、るい姉さんはトモちんを信じる!」
「わわわ、わかりましたですよぅっ!」
「素肌には触らないでください。これであと一つ踏んだとか言われたらマジ泣きます」
「くそったれが……茶番に付き合うのもこれ限りだからな」
「『一生のお願い』の乱打戦みたいになってきたわね」
「うるさい、ごちゃごちゃ言うな!」
 なんだかんだ言いつつ、肩を組む僕たち。七人が陣を作り、最後にるいと僕が惠を引っ張り込む。
 ガチガチに固まった、震えっぱなしの身体。ちょっと力をいれれば崩れ落ちてしまいそうな、痩せこけて、死に片足を突っ込んでしまった彼女。
 ――あと少しだから、頑張って――
 全員が陣に加わったことを確認する。必死の形相をみんなで付きあわせて、ぎゅっと奥歯を噛み締める。
 八人が固く結び合った姿。
 
 ――そう、まるで。
 八人が、『一つの生命』であるかのように。

 僕は奴を見上げる。
 人生でたった一度だけの、面と向かった宣戦布告。生まれたその日から僕らを監視し、支配し、縛り上げてきた存在への、ささやかな、けれど明確な抵抗。
「――さあ来い、呪い!」
 僕は叫ぶ。虚空に向かって、死に向かって、運命に向かって。
 ぎゅっと、みんなが腕に込める力が強くなる。その確かさを胸に刻んで、人生最大の大勝負に出る。
「仲間の咎は――僕ら全員で貰い受けるっ!」
 
 空が鳴いた。
 奴が応えた。
 僕たちにしか聞こえないおどろおどろしい叫びを上げて、黒い霧が逆巻き、まっすぐに上を目指して――

 僕は、確かに見た。
 僕たち八人の上――高架のコンクリートが、音を立てて崩れ落ちた――