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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 38 


 手を繋いで街を通り抜ける。走るわけではないけれど、のんびりもしていられない。万が一誰かに出くわしたら最悪だ。弱っている今の惠に余計な負担はかけたくない。みんなの態度が想像できるからなおさらだ。
 幸い、みんなの家の位置や帰るときの道順は大体把握している。彼女たちも、まさか僕が惠を連れ出すとは思っていないだろう。そもそも、今日もみんな花鶏の家に集まっている。早い解散にでもならない限り、会う可能性は限りなく低い。
 でも、もし、万が一……不安が僕らをかすめる。そのたび、固く手を握り合う。
 からめ合わせた指の冷たさに胸が締め付けられる。平熱の低下は危険信号だ。まともにエネルギーを摂取していないことがまるわかり、本当にギリギリだったんだと痛感する。多分、歩くのも決して楽ではないはずだ。ときどき突っかかりそうになっては慌てているのが手を通して伝わってくる。隣に並ぼうとしないのは、急ぎ足だけでポーカーフェイスが崩れるのを見せたくないからなんだろう。
 実は最初、タクシーを呼ぼうとした。その方が安全で確実で見つかりにくいからだ。
 けれど、他でもない惠自身がそれを拒んだ。車に乗ることそのものがひっかかるらしい。それが何故なのかは教えてくれなかったけど、浜江さんの目が『無理もない』と言っていたことからするに、車での移動に何かしらのトラウマがあるんだろう。
 ……教えてくれないのではなく、教えられない。呪いという意味でも、過去の壮絶さという意味でも、惠は『隠す』ことで自分を守っている。彼女にとって、隠蔽は命を守るための絶対的な手段だ。
 今まではそれでよかった。完全に隠しきれていた。おそらく、向き合うことになっても耐えられると思っていただろう。
 ただ、今の惠にそれだけの力は残されていない。今の惠に、呪われた世界は渡れない。
 ……そこまで彼女を追い詰めてしまった原因のひとつが、他でもない僕たちだ。惠自身が仕掛けた結果だし、どちらか片方だけが悪いということはないと思う。けれど、みんなの状態と惠の状態を比べると、嫌がうえにも罪悪感がこみ上げてくる。
 僕たちに無関心だったなら、出会ったころの彼女だったなら、喧嘩しようが絶交しようが揺らがなかっただろう。惠がみんなとの日々に意味や安らぎを見出した後だからこそ、断絶が深い傷になってしまっている。
 彼女を本当の意味で立ち直らせるにはどうしたらいいか―― 
 答えは出ている。
 みんなのところに戻ればいい。
 だけど、今はそれが何よりも困難なこと。本人も望んでないし、みんなも了承しないだろう。
 ……答えが出ているのにたどり着けないのが、もどかしい。
 なんて、分析ばかりしていても仕方のないこと。大事なのは今どうするかだ。二人きりの時に何ができるかで、これからが決まる。
 というわけで、手をつないだまま僕愛用のスーパーに足を運ぶ。
 ひょいっとカゴを取って、わざと惠の隣に並ぶ。
「では、これから夕飯の買い物を始めます」
「……え」
「メニューは僕にお任せでいい?」
 まず、第一にすべきこと。腹が減っては戦はできぬ。
 暗に『食事抜き』という選択肢を奪いつつ、ちょっと上目遣いをする。
 少し顔を赤らめてから、惠は首を縦に振った。
「そーれでは、では」
 にやりとひと笑い。
 歩くスピードをさらに落とし、じっくりと品定めしつつ、のったりとスーパーを回り始める。
「ここにはよく来るのかい?」
「よく、どころかほとんど毎日。家に一番近いのがここなんだよ」
 野菜に鶏肉、豆腐……お腹に優しそうなものをチョイスし、ぽんぽんとカゴに放り込んでいく。特売品につられそうになりつつも、しっかり鮮度と品質のチェック。見切り品は今日はやめておこう。すっかり板についた主婦のまなざしで食材ハンティングにいそしむ。 
 惠はというと……僕の隣に並びながら、物珍しそうにしきりに辺りを見回していた。全国展開の超メジャーな系列のいたって平凡なスーパーなんだけど、惠には異世界にすら見えるらしい。肉のパックに魚の量り売り、幅広水槽のアサリの山、タイムサービスのマグロ解体ショーまで、お上りさんのようにきょときょととあっちこっちに視線を散らしている。
「……惠、ひょっとしてスーパーに入ったことない?」
「それじゃただの世間知らずになってしまうよ」
「だよね……でもなんか、あれこれ珍しそうに見てるから」
「行動範囲は限定されるものだよ。君だって興味のない売り場には立ち寄らないだろう?」
「……あ、そういうことか」
 納得。確かに、料理をしない子は精肉や鮮魚コーナーには立ち寄らないよね。浜江さんというプロ顔負けの料理人に気配り名人の佐知子さんを擁するんだ、惠が食材の買い出しや料理をするはずがない。スーパーは初めてじゃなくても、食材コーナーを歩くのは初めてってことか。
 ……カゴを持って野菜やら肉やらを買い回る惠を想像する。
 うん、ないな。まずないな。
 なんていうか、イメージが崩壊する。
「……」
 ちろっと見上げると、目が合った。顔色はあまり良くないものの、柔らかく微笑み返してくれる。その動作一つで、胸の内から温かさが湧き出す。気恥ずかしい表現だけど、愛しいってこういうことなんだろう。
 だからこそ、強く思う。
 早く、一刻も早く、彼女を助けて、またみんなで一緒に笑いあいたい。
 僕にだけ向けてくれる笑顔も、元をたどればみんなとの日々が創りだしたものなんだ。


「たっだいまーっ」
 意味もなく大きな声で、誰もいない部屋に挨拶。
「……おじゃまします」
 恐縮した控えめの挨拶がそれに続く。
「どうぞどうぞ、遠慮なく。ちょっと狭めだけど」
 ささっと中に招き入れつつ、ざっと横目で部屋の状態を見極める。……うん、大丈夫。それなりにきれい。
 るいが泊まりこんでいたころから今までずっと、整理整頓にはかなり気を使っている。何せ、いざとなったら土足で踏み込んで来かねない皆様方。しっかりと片付けておかないと何が起こるか分からない。
 ちなみに、最後の一線的な気持ちで持っていた男性用下着も断腸の思いで処分した。プライドと命だったら命を取ります、悲しい現実。
 まあ、今は僕を男の子と認識してくれている女の子がいるからいいや。
 ……見た目は逆だけど。
 振り返ると、男の子の姿をした女の子、もとい惠は部屋に入ったはいいものの、なぜか玄関先で立ちっぱなしだ。
「とりあえず、ソファーに座って」
 ソファを指差すと、こくんと頷いてソファまで歩き、座る。
 ぼふん、といい音。丁寧に座ったというより転がった感じだ。
 そのまま背もたれに体重を預け、焦点を定めることなく視線を天井に向ける。
 ため息……だろうか? ほっと一息つく。
 違和感を覚える。そもそも彼女はソファにダイビングするより、浅く腰掛けて優雅に背筋を伸ばしているタイプだ。それが今は、沈み込むようにして背もたれに寄りかかっている。
「……ひょっとしなくても、疲れた?」
「一週間でも人の筋力は衰えるらしいからね」
「……ごめん、無理させちゃって」
「君が謝ることじゃない。予想外のことはいつだって起こり得る」
「……」
 ……本人も、買い物で疲れるのは予想外だったということか。想像以上の不調に不安を覚えるのか、惠は眉を下げて考え込もうとする。
「駄目」
 肩に手をおいて意識の方向を変える。
「難しいこと考えちゃ駄目」
「……でも……っん」
 唇をふさぐ。角度を変えつつ、触れ合わせるだけのキスにたっぷりと時間を費やす。
「……ね?」
「君はキス魔なのか」
「会えなかった期間の精算中」
「律儀だ」
「せっかく僕の部屋に来てくれたんだもん。ごちゃごちゃ考えないで楽しもうよ」
「……また、気を使わせてしまったのかな」
「困ったときはお互い様です」
 無理やり元気なパフォーマンスをさせたところで、そこに想いは宿らない。惠が笑うと僕の心は躍るけど、それは微笑みの裏にある揺れが嬉しいからだ。削られ痛む惠を癒して初めて『笑って』とお願いできる。
 今の惠が見せる笑顔は、すべからく奥底に沈めたはずの悲しみを含んでしまっている。事実を知った僕だからそう見えるのか、余裕がすり減った故に隠せなくなったのか……きっと両方。どっちにしろ、過去を超えなければ永遠に抜け出せない。
 そのために彼女を連れだした。ここへ連れてきた。
『惠さまを救えるのは、智さまだけです』
 浜江さんの願いを噛み締める。
 うぬぼれでもなんでもなく、それは事実だ。屋敷の人々では惠をトラウマから引き剥がせないし、何も知らない同盟のみんなは言わずもがな。
 文字通り、僕が最後の砦。
 嬉しいわけではないけれど……彼女に選ばれるようなところにいるんだと思うと、自然と肝が据わる。できることがあるんだという確信が、僕を支える。
「あのね、惠。お願いがあるんだけど」
「何かな」
「えー、と」
 言いかけた言葉を飲み込み、一瞬迷う。
 明らかに疲労が濃くなってるのに、頼みごとなんかしていいものだろうか? 本来なら頼まなくてもいいことだし、休んでいてもらった方が体力もキープできるだろう。
 ……ただ、これをやらないと片手落ちになってしまう危険がある。ものごとはタイミングが大事、結果はともかく一発目から勝負する必要がある。
 後ろめたさに似た罪悪感を覚えつつ、気を取り直して頼む。
「うーんとね……料理作るの、手伝って」
「……え?」
 案の定、困惑する。
「大丈夫。野菜洗ってもらったり、お鍋用意してもらったり、スープかき混ぜてもらったり、そんな程度だよ。もちろん途中で辛くなったら休んでもらっていいし」
「料理……僕が? 正直、役に立てるかどうかは」
 体調ではない部分で、ためらいを表情に浮かべる。迷惑をかける、そんな懸念が見て取れる。
 もちろん、スーパーの食材売り場さえ行ったことのない惠に料理の心得があるなんてこれっぽっちも思ってない。浜江さんは惠をキッチンに入れるなんて絶対しないだろうし、調理前の野菜を触るのも初めてってオチも考えられる。料理におけるビギナーズラックは迷信、斜め上をきりもみ回転するのが初心者のスキル。
 ただそれは『料理をさせる』のが目的なら、の話。
 僕の目的は別のところにある。
「手伝いというより、見物がメインかな。僕が作るのをじーっと見ながら、必要に応じて手を貸してほしいの」
「……ああ、そういうことか……君らしい」
 合点がいったらしく、頷く。
「ん、じゃあよろしく」
「お手柔らかに」
 手を取って立たせる。とりあえず詰め襟の上は脱いでもらって、ブラウスの上に予備のエプロンをかけさせる。僕は僕で愛用のエプロン着用。
 またもや珍しそうに、今度は僕をじーっと見る惠。
「……智、主婦みたいだ」
「じゃあ惠が旦那さん?」
「どこまでいっても逆になるんだね」
「うー、む」
 複雑な気分でキッチンに立つ。その構図が似合ってしまう自分たちがなんともおかしくて、ちょっと切ない。
 まあ、惠が僕の作るご飯で元気になってくれるなら、主婦でもなんでもどんとこいだ。
『……惠さまは』
 生々しい、耳にこびりついた一言一言を思い返す。
『……惠さまは、思い出してしまったんじゃろう』
 浜江さんが教えてくれた。
 なぜ、惠が『食事ができない』状態になったのか。
 かつて、惠は大貫氏に毒を盛られたことがあるのだという。食事の直前、大貫氏が誰にも言わずに勝手に入れたらしく、惠が苦しみ出すまで誰も気づけなかったという。
 大貫氏の目的は、実験。どれだけ外傷を負っても治る惠を見て、中から壊したらどうなるか知りたくなった……そんな、信じる気すら起きないような鬼畜な理由だった。
 そんな畜生の遊びのせいで、惠は苦しんだ。三日三晩地獄を見た。
 そして―― 生還した。
 けれど、生き残りはしたものの、しばらくはまともに食事もとれず、やせ細る一方だったという。
 それでも、当時の惠はそれを乗り越えた。恐ろしいまでの精神力―― おそらくは『こんなところで死んでたまるか』という意地によって、奇跡に近い復活を遂げた。
 けれど、立ち直ったからといって、当時の記憶が失せるわけではない。
 孤立し弱っている中であの写真という追い打ちに合い、惠は再び当時のトラウマに囚われてしまったのではないか―― それが、浜江さんの意見。
 おそらく、九割方当たっているだろう。
 今更、というのは簡単だ。部外者の驕りだ。
 惠自身、こうなるまで自分の傷の深さに気づかなかっただろう。
 まして、今の彼女は感受性が育った状態。情緒が豊かになれば、喜怒哀楽の全てを強く感じるようになる。自身のマイナス感情を、なんでもないと切り離すことができなくなる。
 正常な状態に、素のままの彼女に近づいているからこその苦しみ。
 ……じゃあ、そこから引き上げるにはどうしたらいいか?
 僕の出した解決策は、シンプルかつ単純だった。
「こうしてね、野菜は同じぐらいのサイズに切り分けるのがコツなの。サイズが違うと火の通りに差が出ちゃうからね」
「へぇ……」
「あと、根菜は水からが鉄則。逆に小松菜とかほうれん草とかの葉っぱ物は最後の最後に入れてすぐ火を消す。お葉ものは色が肝心」
「豆腐を傾けて重しを乗せるのは?」
「水切りだよ。いきなり焼いたらぐずぐずに崩れちゃうでしょ?」
「よく知ってる」
「だてに一人暮らしやってません」
「頼もしいな」
「でね、スープを煮込んでる間に次の一品を作るの。出来上がりのタイミングが揃うようにするんだ。料理は作る順番も大事なのです」
 ひとつひとつの行程を丁寧に解説しつつ、料理を進める。気分は国営放送のきょうの料理。3分クッキングじゃないのがミソ。手順をきちんと追って、時間をかけつつ手早く。
 ちなみに今日のメニューは野菜たっぷりスープに豆腐のステーキ、ほうれん草のしらす和え。普段はまずやらない和風料理づくしだ。気分的には腕によりをかけてフルコース、といきたいところだけど、洋食はあまりおなかに優しくない。油もたっぷり使うし。それに、行程が複雑だったり、調味料を多種類使ったりするレシピは本末転倒になってしまう。できる限りシンプルにおなかに優しく、でも単純すぎない料理……となると結局和食に落ち着く。ヘルシー万歳。
 惠は僕の料理教室を受講しつつ、それぞれの食材の行方やら調味料の入り方やらをしっかり目に焼き付けている。手伝いはとっくに終わっているものの、ソファに移動するそぶりは全く見せず、僕の目的を達成すべく、時々流しに手をついたりしながらも料理の行方を見守り続ける。
 まるで、何かに挑むように。
「君は人を動かす天才だね」
「天才は言い過ぎだよ。手段は選ばない腹黒ってだけ」
「将来はカウンセラーを目指したらどうかな」
「嘘つきカウンセラー?」
「……難しいか」
「難しいね。君のためならありとあらゆる手段を講じるけど、他人じゃねー」
「……ノロケ?」
「です。あ、そっちの鍋の火を弱めて」
「このぐらいかい?」
「ん、オッケー」
 立ち話しつつも、目線は調理工程をガン見。でないと意味がない。
 僕の目的――『料理に毒が入っていない』と、惠に証明してみせること。自身も料理に関わることで、作られていく行程を全て見ることで、彼女の奥底にある食事への恐れを取り除くこと。もちろん、彼女は僕が毒を入れるなんて考えてもいないだろう。けれど、記憶は時として思考を飛び越える。せめぎあいになったとき、勇気を振り絞るために必要なのは『絶対に大丈夫』と言える証拠だ。
 過去と全く繋がらない場所で、過去と繋がらない人間が料理を作る様を自らの目で確かめる。限りなく完全に近い証拠。
 今、それができるのは僕しかいないし、それができるのは僕の家しかない。
「後は豆腐を焼いたフライパンでソース作ってかけて……はい、できあがりー!」
 できあがりと共に、ちょうどいいタイミングで炊飯器のアラームが鳴る。うん、計画通り。
 盛りつけてテーブルに運び、ご飯もよそってきれいに並べる。
 自分で言うのも何だけど、シンプルながらに見た目はかなりいい。
 豆腐ステーキにはきのこのソース、スープはにんじんやじゃがいもの根菜メインに卵でアクセント。ほうれん草としらすのお浸しはパキッとした青さを保っている。味つけは醤油ベースにしてあるから香りもぶつからないし、彩りも完璧だ。
「では、いっただきまーす」
「いただきます」
 手を合わせて一礼。まずは僕が自分の分を口に運ぶ。
「ん、かなりいける」
 ぐっと小さくガッツポーズ。これなら自信作と言えそうだ。
 ……残る問題は、ひとつ。
「……」
 惠は困った顔で食事を見つめている。お箸を手に取るものの、少し逡巡して再び降ろしてしまう。
 ……おそらく、怖いんだろう。
『自分の身体が食物を受け付けるかどうか』が。
 ただでさえ、一週間何も食べていない身体だ。食事をエネルギーと取るか異物と取るかわからない。加えて、過去の拘束力の強さも相当なもの。
 何より、万が一受け付けなかったらどうなるか……惠にとって、それが最も恐れることだ。僕の気持ちを汲み取っているからこそ、自分の反応に自信が持てなくて躊躇する。
 あらゆる手段を講じていても、全面的に信頼していても、100%大丈夫とは言い切れない、そんな心の隙間に惠は迷う。迷っていても仕方ないと知りつつも、あと一歩が踏み出せずにいる。
 ……こういう時は、考えれば考えるほどドツボにはまるもの。
 というわけで、次の一手を打つ。
「惠」
「……」
 不安げに顔を上げる。
「せっかくだから、あーんとかする?」
「……は!?」
 斜め上すぎる提案に思わず目を見開く惠。気にせずニヤニヤして続ける。
「ほら、恋人同士がよくやってるでしょ? あーんってやつ。どう?」
「いや、『どう?』じゃなくて」
「どう?」
「どこまでのろける気なんだ君は」
「どこまでも」
「どこまでもって」
「どこまでもです」
「……っ」
 真っ赤になって動揺する惠。
 要は、惠が自分で食べないなら食べさせてやるってことなんだけど……刺激が強すぎるか、いろんな意味で。
「……君は時々とんでもないことを言う」
「予想を超えるのって楽しいよ」
 ちょっといじわるっぽく返す。
 もちろん、僕もそんな展開になるとは思っていないし、自分で言っておいてなんだけど、甘いを通り越してイタいと思う。実はやる気はあまりない。
 ……やる気がないのに言い出したのは、別の意図があるからだ。
 すなわち、『食べない』という選択肢をなくすこと。
 僕のバカ丸出しの提案のせいで、惠の取れる行動は『自分で食べる』か『僕に食べさせてもらう』かの二択になった。『食べない』という選択肢が事実上消滅したというわけだ。
 身体が受け付けるかどうかは、結局のところやってみなければわからない。リスクを考えていたらいつまでたっても先には進めない。でも、食べろと強制するのは逆効果。惠が自分の意思で踏み出さない限り、現実は変わらない。
 だから、少しだけ後押しをする。
 ここから先は、惠の戦い。彼女自身が越える壁。
 ひとりで背負うにはあまりにも重すぎる、高すぎるハードルだけど……どんなに代わってあげたくたって、僕は惠にはなれない。手を添えて支えて、見守るだけ、待つだけ。
「……」
 ぎゅ、っと目を固く閉じる。ちょっと震えて、緊張に身を縮めて……意を決し、再び、お箸を手に取る。
 コマ送りのように時間をかけて、スープに手を伸ばす。小さめのどんぶりみたいな器だ。ちょっと手に余るサイズのそれをしっかりと持って、中の具をお箸でつかんで……本当にゆっくりと、口に運ぶ。
「……」
「……」
 感じたことのない緊張が二人の間を走る。パラパラ漫画を一枚一枚めくるような時間が流れる。
 こくん。
 惠の喉を食べ物が通る。
 沈黙。
 時計の音。
 蛍光灯の光を揺らすスープの水面。
 音のない、密度の濃い一瞬一瞬。
「……おいしい?」
「……」
 自分の身体に問いかけるように、瞳を閉じ、深呼吸し……じっくりと時間を置いて、ようやく惠が答える。
「……さすがは、智の料理だ」
 笑った。
 こぼれたのは、安堵の笑顔。
「……よか、った……よかったぁ……!」
 思わず泣きそうになる。
 受け入れた。越えられた。あくまで一歩かもしれないけど、踏み出せた……!
「ど、どうかな、もうちょっと食べられそう?」
「一人分用意されているからね」
 自信と暗示の混ざった言葉を紡いで、惠が次の一口に挑む。あんまり見ていてもおかしいからと、僕も自分の分を再び食べ始める。
 二口、三口。ゆっくりではあるものの、惠はしっかりと食事を続ける。続けられる。
 ……ご飯を食べてもらうことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
 メニューも味付けも質素、ボリュームも控えめ。豪華とは遠い、きらびやかさとは遠い夕食。
 けれど。
 今日の食卓は、きっと今までで一番の、そしてこれからでも一番の食卓になるだろう。 


 名前も覚えていないようなお笑い芸人の雑音をBGMに、二人で寄り添う。
 結局、惠はよそった分を全て食べきることができた。元々少なめにしてあったとはいえ、予想以上の滑り出しだ。食後二時間ぐらい経ってるけど、今のところ特に変調はないみたいで、僕の肩に頭を乗せるようにしてぴったりくっついている。
 二人とも視線はテレビに向けているものの、意識は全く違うところにある。かといって深刻に考え込んでいるわけでもない。不思議なことに、二人してソファに背中を預けていると、ぐちゃぐちゃと坂を転がるマイナス思考が霞んでいく。代わりに訪れるのはまどろみに似た充足感と安心感。何もしなくても、いや、何もしないからこそ存分に味わえる平穏だ。
 大事な人が傍にいて、ただただお互いの気配を感じながら過ごす、形は残らないけれど降り積もっていく穏やかさ。少し身体が軽くなったような気がする。身体の隅々まで行きわたった幸福感がそう思わせるのかもしれない。
 惠の肩に手を回す。食事が早速功を奏したのか、顔色が良くなってきたし、身体の震えも収まってきた。ほっぺたに触れれば温かい。この調子でいけば、数日のうちに回復できるだろう。根本的な問題は残るけれど、そこに立ち向かう力を取り戻せるだけでも大きな差だ。精神力は体調と密接な関係がある。元気じゃなかったら頑張ることなんかできない。
 時々まどろみつつ、雰囲気に溶ける。ぼーっと過ごす時間は浪費ともいうけど、贅沢ともいう。僕たちにとってはこの上なく贅沢だ。
「……智」
 ふいに、惠が呼びかけた。
「あの、今日は……その」
 選ぶべき言葉を探してもごもごする。言いたいことは至極単純なのに、その一言を口にできず、回りくどさに捕まってしまう。素直になろうとして遠回りする姿は可愛いけれど、切なくもなる。
 軽く抱き寄せて、答える。
「……どういたしまして」
「……わかるんだ」
「僕が惠の立場なら、そう言うかなって思って」
「あはは」
 あれこれ考えるまでもない、とても単純な予想。でもそれが嬉しいらしく、顔をほころばせる。
 惠は自宅にいるよりもリラックスしているみたいだ。身を寄せるしぐさに、等身大の女の子としての顔が覗く。痛みのない、傷のない場所は彼女をくびきから解き放つ。
 ……連れてきてよかった。芯の芯から、そう思う。
 抱き寄せて頭を撫でつつ、せっかくだからと聞いてみる。
「惠、何か僕にしてほしいことない?」
「え?」
「ここは僕の家だからね。お客様のご要望にお応えするのが主人の務めです」
 おどけつつ、さらに引き寄せる。
 せめて今日ぐらいは、ありったけのわがままを言わせてあげたい。そのわがままを伝えるのがこれまた一苦労という難点はあるけれど、食事以外にもここでしかできないようなことをさせてあげたかった。まあ、具体的に何があるかと言われると思いつかないんだけど。
「ご要望をどうぞ」
「……ええ、と……」
 またもや言葉を選ぼうとして―― 弊害に気づいたか、口を閉ざす。
 代わりに、とんとん、と僕の胸を指で小突く。
「?」
 思わず首をかしげる。
「心臓の音」
「……へ?」
「他人の心臓の音を聞く機会は、なかなかないだろう?」
「……僕の心臓の音が聞きたいの?」
「おかしいかな」
「んー……」
 そんなことないよ、とすぐに頷けない。ていうか結構かなり変わってると思う。心臓に悪いことをすれば自分の鼓動はうるさいぐらいになるけど、鼓動を意識するのはそういうときぐらいだ。ましてや他人の鼓動なんて、普通はあまり興味を持たないだろう。
 ……でも、惠の目に浮かんでいるのは冗談やとりあえずの提案的な軽いものではなく、深々とした色の揺らぎだ。
「駄目かな」
「いいよ、もちろん」
 目的がよく掴めないけど、本人が希望するならその通りにするのが一番だろう。
「……じゃあ」
 惠の手が僕の服に伸びる。
 ラフな普段着の胸元をはだけさせて、素肌を蛍光灯の前に晒させる。
 ……脱がされてる感じでなんか恥ずかしい、これ。いや脱がされてるのか。反射的に顔が赤くなる。
 惠は僕の変化には気付かない、あるいは気にとめない風で、そのまま自分の耳を僕の心臓のあたりに持っていく
 耳が当たる―― なんとも不可思議な感触だ。固くて柔らかくて形はしっかりしてて、熱を持っているかと思えばちょっと冷たかったりもする。バランスを取るために軽く回されている腕のすべすべ滑らかな触れ心地とは大分違う。
「……どきどきしているね」
「え、いやそりゃまあ」
「……ふふ」
「……?」
 反応に困る感じの自己完結を何度も繰り返しつつ、惠は耳で僕の鼓動を確かめ続ける。
「……鼓動は、生きている証だ。ごくまれに心臓のない生物もいるけれど、大多数の生命体は心臓を持ち、脈を打つことが生存の絶対条件になる」
 回りくどい独り言。
「……だから、相手が生きているかどうかを知りたければ、鼓動を確認すればいい」
 常識中の常識をぽろぽろ零しながら、耳と頬を僕の胸に擦り寄せる。
「智は、生きてる。今この時、この場所で……生きてる。鼓動を刻んで、生の輪の中にいる」
 生の輪。
 ……惠のやりたいことがおぼろげに見えて、思わず抱き寄せる。
「惠だって生きてる。今こうして、僕の傍で生きてるよ」
「……その生は、君と同じものではないかもしれない」
「同じだよ。生きてることにいいも悪いも質もへったくれもないでしょ。君が今ここにいるのは、君が生きてるからだよ」
「……」
 惠は、何度も何度も生の輪から弾きだされた。その度、半ば強制的に輪の中へと戻ってきた、戻されてきた。
 彼女にとっての『生きること』は『養父から与えられる死を乗り越えること』でもあっただろう。
 たび重なる自身の死の中、生きることを諦めなかった。諦めなかったからこそ、何度も何度も死に叩きこまれた。僕や同盟の仲間たちが呪いを踏んで死におびえる気持ちを、とっくの昔から体験し続けてきた。
 死の恐怖、生への渇望、自らが玩具のように消費されていく悔しさの渦を泳いできた。
 そんな彼女が、僕という『他人』の命を確かめる。共に生きる存在を確認する。
 ……ひとりじゃないんだと、確かめる。
「智」
「……ん?」
「君は、神様を信じるかい」
「僕たちの出会いが神様のいたずらなら、そりゃもう拝み倒しちゃうよ」
「……そういう飾り方もありなのかな?」
「ありだよ。運命でも過去世の因縁でも神様の思し召しでも単なる偶然でも何でもあり。どれが一番箔がつくかな」
「つけなくたっていいんだろうけどね」
「どうせなら、一番価値の高そうなのがいいなぁ。こんなに心が満たされるんだ、よくあることで片付けたくないもん」
「はは、贅沢だ」
 特別な日、特別な時間、特別な誰か、特別な出会い。人はかけがえのない大事なものに理由と名前をつけ、胸の内に飾る。
 名付けを望む―― 自分の中に相手を刻み込みたいという願いの現れ。
 求めるものが通じ合っていると確かめて、二人して恥じらう。
「僕も、君の音を聞いていい?」
 惠がそうするように、大事な人の鼓動を知りたくなる。
「え」
「この体勢で耳を寄せるのは難しいから、手で」
 穏やかに笑みを咲かせる惠。
「……どうぞ」
「やった」
 二つ三つ、ブラウスのボタンを外し、手を滑り込ませる。柔肌の向こうから届く小さな音を手のひらで掬う。
 思ったよりも緩やかな鼓動だ。それに、控えめだけど力強い。
「……惠もどきどきしてる」
「してなかったら大問題だよ」
 手のひらで聞く音は、他人のものとは思えないほどに馴染んでくる。
「僕のリズムに合ってるっていうのかな。子守唄みたい。しっかりしてるのに、なだらかで和む感じがする」
「……それはきっと、君によるイレギュラーだ」
「僕と一緒だから穏やかってこと?」
「……言わなければ、わからない?」
「わかってるから聞いてる」
「相変わらず、ちょっとずるいな」
「人間は良くも悪くも環境と意志で磨かれるものなのですよ」
「……僕の相手は疲れるだろう?」
「全然。確かに山あり谷ありアクロバティックメンタルトレーニング状態だけど、こういう時間が得られるんだったら頑張れる」
 ここにあるのは平穏。呪われし二人が、嘘つきの二人が求めてやまなかった、ありのままが許される幸せ。たどり着くのは並じゃなく、一度見つけたら永久継続なんて甘い話でもない。世界はいつでも僕らの首を狙い、油断は一瞬にして全てを瓦解させる。危うい危うい、針の穴に糸を通すようなギリギリの隙間に見出す安らぎ。
 僕らに安定なんてない。いつだって一寸先は闇。
 それでもいいから傍にいたいと願ったのは僕だ。大変だけど、この選択は間違いじゃなかったと胸を張って言える。
 対し、惠はまだ罪悪感を抱えているんだろう。表情に影が差す。
 心を開けば、過去を晒せば、他人に重荷を背負わせることになる……呪いとは別軸の懸念。
「物事は全て因果で繋がっている。何も求めなければ何も得られない、けれどそれだって平穏だ」
 不安を隠さずに伝えてくる。半分ぐらいは警告だ。
 ……かつては、99%が警告だった。離れてくれという意思表示だった。
 でも、今は違う。
 離れないで欲しいという願い。抑えきれない想いが膨らみ、理性的な部分を押しのけている。それでも完全に想いに身を委ねてしまえないのが彼女の彼女たるゆえん。
 それを否定する気はない。
 だけど……もうちょっと、楽になってほしいなと思う。
「それって、諦めるってことでしょ」
「……そうとも言う、のかな?」
「僕も君も、色んなことを諦めてきたよね。同盟のみんなも同じだと思う。呪われた八人は諦めることに慣れて、選択肢の一番上に『あきらめる』が来るような生き方をずっと続けてきた」
「……」
「でもね……君に出会ってわかった。諦めるって、簡単なことじゃないんだ」
 空いている手で惠の髪を撫ぜる。
「君を諦める辛さと諦めない辛さを天秤にかけたら、諦める辛さの方が圧倒的に強い。だから諦めなかった。僕はボランティア精神なんか持ってないし、自己犠牲精神に溢れてるわけでもない。ただ、君を諦めるのは耐えられなかった。だから食らいついた。君からは異常に見えたかもしれないけど、僕は自分の願うまま、当然のことをしただけ。その先に、この瞬間がある。お互いがお互いの鼓動を聞ける時間がある」
 実際には比べたことなんかない。必要さえないからだ。惠に二度と会えなくなるなんて、考えるだけで身が引き裂かれる思いがする。
 のめり込んでいるとは少し違う。例えるなら、そう、半身のような存在。
 コインの裏表のような僕たち。存在を知ることすらなく別々の人生を生きてきたのに、奥底には通じる意識の流れがある。
 多分、無意識に探していた。探し続けていた。
 嘘という衣を知る人。生きていたいがために積み上げた、嘘の城の暗さを知る人。
 ……やっと巡り合えたんだ。奇跡みたいだ。手放すなんて考えられない。
「僕、諦めたりしないから。何があったって、絶対諦めたりしないから」
「……止めたって、止まらないのかな」
「止まらないよ。君に邪魔されたらますます突き進んじゃうよ」
「物好きだなぁ」
「好きって、そういうことだと思う」
「……」
 ため息が、小さく空気を震わせる。
 手から伝わる鼓動は、まるで自分が奏でているかのように心地いい拍子。お互いが補完しあうかのような脈の打ち方だ。元々はひとつだったかのような錯覚を起こさせる。
 元々は、そう――
「智、こっち向いて」
 偶然か、通じ合うものがあったのか。惠が艶めいた色を浮かべる。言われた通りに惠の方を向き―― キスを受ける。
「っ、ん……ふぅ、ん……ちゅ」
 迷わずに、重ねた唇の隙間から舌を差し入れてくる。僕も舌を動かして応じる。混じり合う水音が耳元で甘さに変わる。
 ……惠からキスしてくるのは初めてだ。それがなんだか嬉しい。
「ふぁ……っ、ん、んんぅ」
 鼓動を読んでいた手を少し上にずらし、愛撫へと変える。敏感になっているのか、ちょっと触れただけで身を震わせた。
 その姿に、欲情と愛しさの混ざった衝動が吹きあげてくる。重ねたい、繋がりたいと魂が訴える。
 ブラウスのボタンを全部外して肩を露出させて―― ふと我に返る。
「惠、体調は大丈夫? これ結構体力使うけど」
「変なところで心配性だな、君は」
「大事だと思います」
 だって、無理させたらまずい。始まっちゃったら多分止まらないし。
 という心配は、挑発で返された。
「求められるのは苦手かい?」
「……ごめん、大歓迎。そっちがその気なら」
 隣り合っていた姿勢を正面にし、抱きよせる。
 胸と胸で感じ合う体温は、明らかにお互いへと走り出していた。