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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act4 「怪物の帰還と選択肢」


 懐中電灯の光が突き刺さり、思わず眼を閉じる。開いたら何もかもなかったことになっていたらいいのにと、馬鹿げた現実逃避に走りたくなる。そんなことがありえないのは、ぬめり、滑り、乾く手のひらが思い知らせる。逃げ出そうとする矮小さへの嫌悪感もまた、止めどなく溢れてくる。
 再び目を開けば、もちろん何も変わらない、生々しい隠蔽の夜がはびこる。闇と言うには明るく、現状をごまかせる程度には暗い部屋。境界線にも似た扉の前には、寝間着姿とおぼしき影が一人。直線的な光は僕だけを狙う、他を照らすことを恐れるかのように。
 いや、実際恐れているのだろう。本能が、知識が、体験が、一条の光の持ち主とこの部屋を引き離そうとする。
 こんな惨劇、常人に耐えられるわけがない、当然だ。
 ……たとえ、それが佐知子であっても。
「あ……あぁ……!」
 こちらを照らす影の口からは、ただただ驚愕が零れ落ちるのみ。
 逃げないのは、逃げることすら忘れてしまっているからか。あるいは恐怖に縫い止められてしまったのか。
 いずれにせよ、好ましい状況じゃない。
 僕から何か言うべきだ。骸からは死臭が漂い始めているし、彼女をこんな悪夢と向きあわせても百害あって一利なし。早く部屋に戻ったほうがいい。
 それに、智の状態を確かめなければ。夜目程度では怪我がどこなのかも分からない、一刻も早く連れ帰って、しかるべき手当てを――
 ……手当て……?
 違和感。ごく当然の思考展開のはずなのに、なぜか異常に据わりが悪い。
 ……手当て、って……?
 ――それは、恐ろしく素朴な疑問。なぜ疑問なのか分からないぐらい明白なはずなのに、その一念が思考に楔を打つ。
 手当てって、何を、どうするんだ……?
 混乱する。現状把握と拒否反応と違和感がぶつかり合って神経を断絶させ、沈黙と無為な時間ばかりを作り出す。間違いなく焦りはあるのに、それが身体に伝わらない。
 急がなくては、でも何を? そうだ、よくテレビで見ていた、傷を塞いで止血をして、どうして? 怪我なんか放っておけば治る、治る? 僕は治る、智は治る? 本当に?
 何かが変だ。おかしいところはないのに、僕の考え方……どこ、が?
 違和感と拒絶反応がぶつかり合って火花を散らし、思考回路を断線させていく。
 声帯を震わせることのない言葉の群れが頭を蹂躙する。そのどれもが気持ち悪いほど現実的なのに、その一方で非現実的。
 傍から見れば、ただの沈黙、時間の無駄遣い。一瞬の判断ミスが危機を招くというのに、『何をもって考えたらいいのかわからなくなる』。
 ――僕は、一体何を、智を、この状況を、どうすればいい……?
 答えが出ない。出し方が分からない。空回りの音が脳内に虚しく響き続ける。
 時間だけが、『何もしない』という、この世で最もおぞましい失敗だけが積み重なって――
「……さ」
 混沌とした膠着状態を動かしたのは、扉の向こうの彼女。
 感情と思考が一周回って繋がったのか、震え掠れた声を発する。
「惠……さん……?」
 選ばれたのは、呼びかけ。
「惠さん……ですよね……? そのお面は、その姿は……惠さん、なんですよね……?」
 見慣れていたがために、彼女は恐怖を踏み越え、侵入者の正体を言い当てる。
「……」
 それに導かれるように、まだあまり機能していない手で面とフードを外す。
 冷たくも爽やかでもない、記憶のままの匂いが顔全体にかかる。むせ返る血の海の中でさえ感じ取れる、僕と現実を繋ぐ糸がある。
「……惠さん……!」
 今度ははっきりと、僕を認識して呼びかける。
 僕を呼ぶ。時を隔てても何ら変わらぬ、昔のままの距離で語りかけてくる。
 その声が、そこに込められたものが、僕の身体に糸を通す。
「……さち、こ」
 思うより先に、唇が震える。
 感情よりもっと奥のところで、ようやく理解する。
 ――帰ってきた。
 そこでようやく、身体と精神が繋がる。
 頭が回りだす。現状把握と対応の準備が整う。
 佐知子がいる。
 そして今、ここに傷付いた智がいる。
 ならば――
「惠さん……!」
「待ってくれ」
 佐知子が駆け寄ろうとするのを手で制す。ぴったりと僕に寄り添うひとの鼓動と体温が、思考を飛び越えて指示を生む。
 理性がようやく働き始める。ためらっている余裕はない、なりふりかまっている場合じゃない。いや、そんな行動制限自体が意味をなさない。
 まず、僕がすべきことは――
「話は後だ。智が、智が怪我をしているんだ、手当てを頼めないか」
「え……あ、はい! わかりました!」
 問答無用で無茶な要求にも関わらず、佐知子は即座に行動してくれる。僕の件で慣れているんだろう、こういう時の行動は早い。まず何が必要かを判断して、必要な助力を求める。
「すみませんが、惠さんは智さんをご自分のお部屋へ運んでください。あのお部屋はいつもどおり、毎日綺麗にお掃除しています。2階で一番状態が良いのはあのお部屋です」
 求められたのは場所移動。
 確かに、まずは智を安静にするのが第一だ。ベッドがあるならまず横にしないと。
 かつての僕の部屋……感傷は後だ。今はとにかく智を治すことが最優先事項。
 無言で頷くと、佐知子も頷き返し、階段を駆け下りていく。
「智、立ち上がれるかい?」
「……ぅ、なんと……か……」
「掴まって」
 様子からして、手や肩では到底足りなさそうだと判断し、ほとんど背負うような体勢を取る。
「ぐぅ……っ!」
 しかし、それでも立ち上がった途端、智の口から苦悶の声が漏れる。
「智……少しの間だけ、我慢してもらえるかな」
「う……うん、大丈夫……じゃないけど、だいじょうぶ……」
「……ああ」
 智の全体重を背中で受け止めながら、引きずるようにして廊下を移動する。
 ……こんなことが前にもあった。あの時は僕は背負われる側で、智が背負う側だった。そう遠くない、数ヶ月前のこと。
 その数週間前、生きてきた時間で割れば瞬き程度の、けれど僕を根本から作り替えた、遠ざかれど色褪せない日々。それは未だ、僕の内側で輝き続けている。
 ――人の身体は重いんだな、と、あまりにも遅すぎる実感を抱く。

 報告と事後処理の依頼を終え、ぱたんと携帯を閉じる。事後処理と部屋の掃除は今夜中にやってくれるとのこと、ずいぶんと対応が早い。悪事千里を走る、朝まで血の匂いが残るのは避けたいのか。
 知らず緊張していたのだろう、廊下に小さなため息が広がって消えた。
 起こったことは明確に、包み隠さず。SNSの情報と人数が違ったこと、一人取り逃がしたこと……口にするとやはり気分は良くはない。事実上、組織内で動き始めて初の失敗。ただ、電話口の男はあくまで淡々と情報を処理し、追及も感想も一言も口にしなかった。よくあることなのか、興味ないのか。いずれにしろ、その熱のない対応が逆にありがたかった。
 ……だから、智の怪我については何も言わずにおいた。言ったところで隙を見せるだけだ。あくまで僕たちは駒、使えなくなれば捨てられる。
 ……ひょっとしたら、そう思い知らされるのが嫌だったのかもしれない。
 一貫している相手の態度を肯定したり否定したり、僕も随分とわがままなものだ。
 部屋の中では佐知子と浜江が智の治療に当たっている。状況が状況だからと、佐知子が浜江を起こしてくれた。確かに浜江の方が医療知識は深いだろう。彼女に任せれば上手くいく、そんな不思議な安心感がある。
 ともあれ、血濡れの一夜はこれにて幕を下ろす。絶たれた男たちは誰にも顧みられることなく、食物連鎖の要素と化すだろう。
 ……命を、怪物に盗まれたまま。
 それは報いでも天罰でもなく、ただの理不尽だ。同じような行動を繰り返している輩は星の数ほどいる。彼らは単に運が悪かった、生死の運命に抗う怪物に見つかってしまった。そういうことだ。
 ただ、彼らは怪物に一矢報いた。それも最悪で最大に効果的な方法で。
「……っ」
 歯噛みする。
 胸に広がる苦々しさは宇田川や三宅のときとは全く違う。あの時は焦りが中心だったが、今は後悔のほうが圧倒的に大きい。通算3度目の失敗……成功率なんてどうでもいい数値を弾きだしたくなるのは、少しでも気を紛らわせたいという浅はかな逃避衝動か。
 以前の2回とは状況も結果も違う。前2回が目的すら達成できなかったのに対し、今回は完璧ではなかったものの、目的は達成、欲しかったものも手に入れた。
 でも、そんなものはなんの慰めにもならない。前の2回より今回の方が遥かに胸を抉る。
 智が怪我をした。それだけで、僕の選択は愚かしい過ちにしか思えなくなってしまう。
 ……智。
 壁に背をもたせかけ、天井を仰ぐ。目が乾ききって痛い。
 思えば、不思議な縁だ。智に出会うまでの僕は失敗の存在すら信じていなかった。目撃者が発生する可能性も、そのことにおののく自分がいることさえ、考えたことがなかった。自分の行いに魂を腐らせながら、諦めを多分に含んだ平静さを生み出しつつあった。
 そういうものだと、考えることすらやめていた。
 考えたところで絶望に切り刻まれるだけで、何も得られやしない。自己の行いを肯定したことなど一度もない、けれど、思いとどまったことも一度もなかった。
 走り続けるのが怖いのに、止まるのはもっと怖くて、運命にただただ身を委ね、汚れ続けた。
 ……それでは駄目だと、真っ向から言ってくれたのが智。
 彼は、この屋敷の中でずるずると崩壊する僕を見つめてくれた。僕を支配する定めを受け入れられないと、やっつけると言ってくれた。
 存在自体が過ちの僕に手を差し伸べ、抱きとめてくれた。
 しまいには、生きるという選択肢さえ与えてくれた。
 その智をこんな目に合わせて、僕は……
「惠さん、智さんの手当て終わりました」
「!」
 部屋の扉が開き、佐知子と浜江が出てくる。表情は暗くはないが明るくもない。
「……智の状態はどうだい」
 恐る恐る聞いてみると、2人は曖昧な表情を見せる。
「大きな傷が太股に……かなり深い傷です。命に別状はありませんが」
「今日のところは、あくまで応急措置です。明日、専門的な縫合の器具を調達して参ります」
「浜江はそんなこともできるのかい?」
「かつて過ごしたところで鍛えております。医師免許こそ持っておりませぬが、智さまが病院にかかれない以上、やむをえますまい」
「ああ……智にとっても、それは助かることだろうね」
 2人が病院を勧めないのは、智が呪い持ちであると知っているからだ。智の呪いの内容までは知らなくても、同じく呪い持ちである僕の状況を見ていれば、部外者を関わらせるリスクの高さは自ずと分かる。暗黙の了解を心得ていてくれるのは非常に助かる。
「とりあえず、2人はもう休んだほうがいいんじゃないかな。これ以上夜を邪魔されては明日に差し支えるだろう?」
「……しかし惠さま、あちらのお部屋は」
 佐知子から大まかな事情を聞いたのだろう、浜江が心配そうな顔をする。
「心配は要らない。朝になれば、あの部屋は何事もなかったことになっているよ」
「……そんなことが?」
「世界は君たちの常識の範疇を超えている。あったことをなかったことにする、そんな生業の者もいるんだ」
「……わかりました。では」
「惠さんも早くお休みになってください。お疲れのはずです」
 引き際もしっかり心得ている2人は、必要以上の追求はしない。聞きたいことは山とあるだろうに、生きやすい距離を優先してくれる。
 2人は静かに頭を下げて、自分たちの部屋へと戻る。その背中をじっと見つめて……振り返った佐知子と目が合う。
「……惠さんは、明日もここにいらっしゃるんですよね?」
 それは、質問ではなく確認だ。
「……」
 ずきりと胸が痛む。
 できるなら離れたい、長居しない方がいい……それは分かっている。けれど智を今連れ出すのは愚の骨頂だし、組織による後処理があるし、逃げた一人がどこで罠を張っているとも限らない。今晩はここにいるのが最善だろう。
 ……こんな形で戻ることになるなんて。
「……そうかも、しれないね」
 脆弱さから生まれる矛盾を抱えつつ、曖昧に肯定する。
「はい」
 佐知子も曖昧に、けれどどことなく喜びを含んだ表情で微笑む。
 ……人は、そういうものなのだろう。
 合理的判断と感情は連動しない。理屈は気持ちを抑えられない。感情任せの行動は転落への第一歩。
 こんなおぞましい形であっても、僕が帰還したことを喜ぶ佐知子。
 喜んでくれたことに、どこかで安心してしまう僕。
 捻れた感覚。それを否定することはできても、かき消すことはできない。

「……智」
 佐知子が部屋に戻るのを見届けて、部屋に入る。当然電気は消してあるけれど、夜目に慣れているし、勝手知ったる部屋だし、位置の関係か、先程の部屋より月明かりが入ってくるから、それほど不便は感じない。
 智はベッドの上に身を起こしている。脚を伸ばした長座の姿勢だ。黒タイツは脱いだのだろう、白い肌とさらに白い包帯がぼんやりと光をまとう。
「怪我の具合はどうかな」
「うん、大分落ち着いた」
 極力声を絞り込み問いかけると、智はやんわりと笑みを見せてくれる。決して良い状態ではないだろうに、その健気さが苦しい。
「怪我したとこが怪我したとこだったから、ちょっと危なかったんだけどね」
「太股だったね……確かに、危険な箇所だ」
「状況が状況だったし、まさか佐知子さんと浜江さん相手に『やぁの!』とか言うわけにもいかないもんね。でも、どっちかって言えば膝に近い位置だから、怪我した場所以外触らないでもらえれば大丈夫だと思う」
 見てみると、確かに包帯は膝上15センチぐらいのところから巻かれている。余計なことをしなければ、一応の安全は確保できるか。
「しかし、なぜそんなところに怪我を」
「一人相手してたときに、惠がピンチなのが見えて別な奴に飛びかかったら、相手してた方のナイフで切られちゃったみたい」
「……なるほど……」
 確かに、智が相手していた男は3人目がやられるなり逃げ出していた。あれだけ素早く対応できたんだから、ほとんどノーダメージだったのだろう。
 それ自体は責めることじゃない。人の状態は数値化できないし、徐々に弱らせるのは意外と効率が悪い。昏倒させるのが目的なら、その瞬間まで無傷というのはよくあるパターン。
 問題があるとすれば、僕の方。もう少し気配を探っていれば4人目がいることにも気づけたはず。情報を信じすぎ、直感を鈍らせたのは僕の落ち度だ。
「智、その……」
 ……謝りたいのに、たった一言を許されない。佐知子にも浜江にも、謝罪と感謝を伝えたいのに、伝えないことで伝えることしか出来ない。
 言うべき言葉は単純明快だ。そして、それが僕にとって最大の禁忌になる。
「あの、その」
 なんとかひねり出そうとするのを、智がやんわりと制止する。
「謝らないの」
「でも」
「……わかってるから」
 柔らかな表情に心をまるごと揺さぶられる。情けなさに悔しさ、そして僅かな安心が合わさった空気の塊がお腹の真ん中辺りから湧き出してくる。
 そろそろと近寄り、頭を撫ぜる。と、いきなり抱きつかれる。僕は立っていて智は座っているから、ちょうど胸の下辺りに智の顔がくっつく。
「惠……心配しないで」
 しっかりと手を背中に回し、引き寄せてくる。黒尽くめの衣装を通してなお伝わる熱に、混ざりぶつかる感情の熱が一層高まる。
 少しためらってから、智の頭を抱えるようにして抱き返す。
「……でも、痛かっただろう? 怖かっただろう? 何も君がこんな目に」
「平気だよ。軽い怪我じゃないけど、惠が青くなるほど重くもない」
「いや、大事なのは怪我の程度じゃないんだ。まさかこんな、君に危険が及ぶなんて」
「慣れないことしたんだからしょうがないよ。入院とかオオゴトにならなかったし、太股なら後遺症も残らないし、よかったじゃない」
「しかし、これが罪に対する報いだというのなら、振りかかるべきは君ではないはずだ」
「理不尽さんはアバウトなんだよ。因果応報とは言うけれど、完全に一対一で対応したりしないでしょ」
「そうだとしても、どうして君に」
「惠も危なかったじゃない。お互い様」
「なぜ……君は、僕の身代わりになってしまったんじゃないのか」
「そういうこと言わないの」
 優しいからこそ、心を許しているからこそ、弱音とも懺悔ともつかない言葉が零れてきてしまう。目の前にいるだけで彼は僕の心をこじ開け、圧縮したり覆い隠したりしてきた想いを引っ張り出す。
 見せられるからといって、弱さをまき散らしていいなんてことにはならないのに、坂を転げるように意識が傾いてしまう。
「あのね、惠。君はそんなに背負わなくていいんだよ」
 しおれている僕に対し、智は何故か嬉しそうだ。いつもどおりの、穏やかに気持ちをほぐす笑みを見せてくれる。
「だって」
 その表情のまま、断言する。

「こうなることは、わかっていたから」

「――――……」
 反応ができなかった。
 冗談……にしてはあまりにも趣味が悪い。揺さぶりだったとしたらタチが悪い。
 けれど、本当だとするなら……。
 まさかそんな、智は、自分が危険に晒されるとわかっていて……!?
「なんかね、昨日変な夢を見たんだ。いつもの直感と似てるんだけど、それがもっと形づいてきたようなやつ。映像はちょっとぼんやりしてたけど、状況は掴めた」
 智は語る。何でもないことのように、見ていたものを言葉に変える。
「その夢にはいくつかパターンがあってね。最初は夢だからって気にしてなかったんだけど、夜が近づくにつれてどんどん確信に近くなっていって……屋敷に向かい始めたときには間違いないってわかってた。僕がここに来れば怪我をするのは、最初から決まってたんだ」
 ……確かに、行き道すがら智は警告めいた確認をした。そんなことをするのは珍しいとは思ったし、ひっかかりもあった。けれど、時間がなかったのと気が逸っていたのとで、深入りはしなかったんだ。
 取り返しの付かないことへの怒りに、胸にかかる重力が倍加する。自責で自分を潰したくなる。
 ……あの時にきちんと聞いておけば……!
「気にしないで、惠。これが一番いい選択だった」
「そんなはずはない。君が傷つく未来のどこが良い未来なんだ」
「……」
 ほとんど反射的な僕の反論に、智が一旦言葉を止める。
 深呼吸をする。言い難いのか、次の語り出しまでに少しだけ間が開く。
「……見えたのは3パターン。行かなかった場合と、惠1人を向かわせた場合と、2人で行った場合」
 あえてなのか、感情を抑え、淡々と続ける。
「行かなければ、佐知子さんと浜江さんは死に、それを知った惠は自責の念で潰れる。惠を1人で行かせれば、僕は2人の部屋で君の帰りを永久に待ち続けることになる。2人で行けば、ごらんの通り」
「……そん、な……」
 3つは、どれも禍根を残す未来。
 どれを選ぼうと、満足のいく結果が出ないのだと知っていて……それでも、選んだというのか。
「3つのうち、どれがいいかなんて、考えるまでもないでしょ?」
 智の表情に、言葉に他意はない。嘘も付いていなければ、事実を不必要に隠したりもしていない。
 選ばなかった選択肢が成立したかどうかなんて確認しようがない。けれど、選択の結果が智の予想通りであったのなら、別の選択もそのとおりになっていたと考えたほうが良いのだろう。
 ……もし、本当に智の言うとおりだとするのなら、確かに選択できるものはひとつしかないかもしれない。
 智が、本当は無関係なはずの智が傷つくのが最善――そんな馬鹿げた、運命。
 けれど、なぜ? そんなこと、今まで一回もなかった。この数ヶ月だって、2人共全くの無傷でやってこれた。危険を回避したって十分に成り立っていた。誰かを助けたら自分の大事な人が傷つくなんて、そんなこと――
 ……そんなこと、以前の問題だ。
 そもそも、僕は『誰かを助けるつもりで』行動したことがない。佐知子は偶然だし、パルクールレースは真耶の指示。
 僕が、僕自身の意志で誰かを助けようとしたことなんか一度もなかった。それは一昨日の時点で気づいていたことじゃないか。
 ……だから?
 助けようとしたから?
 この呪われた身が、誰かのためなんて過ぎたことを考えたから、智に、報いが――……?
「惠。僕、ここに来る前に君に確認したよね。後悔しないって」
「……」
 するりと伸びた智の声が耳に入り込む。半ば機械的に頷く。それは確かだ。だからこそ罪深い。
 智から見たら、僕は僕の意志で、智を危険に晒そうとしたことになる。知らなかったでは済まされない。そうしなければ佐知子と浜江が助からなかったとはいえ、智に怪我をさせたのは僕といっても過言ではない。
 そんなつもりじゃ、なんて後の祭り。
 罪そのものである僕が起こす事象は、傍にいてくれる人まで巻き込む。二重、三重に呪われるかのように。
「約束したんだから、後悔しないで。過ぎたことじゃなくて、先を見ようよ」
 だというのに、智はあくまでも前向きだ。起きたことから目を逸らすのではなく、ないがしろにするのでもなく、糧として先に進んでいこうとする。自分が引いた貧乏くじすら問題にしない。
 その強さが眩しく、また羨ましくもある。そして、贅沢と知りつつ憧れる。元々先が見えない中を歩いてきた僕だ、智のような発想に辿りつくまでにはまだまだ時間がかかるだろうし、そこまで行けないかもしれない。けれど、彼を見ていると、いずれはと希望を抱きそうにもなる。
 ……許されることではないけれど、智が受け入れたなら、いたずらに後悔し続ける方が逆効果かもしれない。妥協との違いが分からない程度に曖昧な感覚ではあるけれど、そういうものだと一旦は納得して、次を考えるべきなのか。
「と――」
 名前を口にしかけて、気づく。
 ――智の瞳の奥の、今までとは違うもの。暗がりの丑三つ時がもたらした擬似的な酩酊か、諸条件が引き金になったのか。次の展開を探した智が持ったのは、ただ涼やかでまっすぐな意志だけでなく――
「……じゃあ、そうと決まったら」
 するりと、智の腕が背中から外れる。手はゆっくりと僕の顎に伸びてくる。
 ……ねだられる。何を? 聞くまでもない。
 智の声に、甘みが混ざり始める。
「今の惠の中に、何人の命が詰まっているのかな」
 それは、理性を削る毒の味。
「そんなに多くを溜めるのは初めてだよね? 身体、苦しくない?」
「……そんな、ことは」
「それならよかった。負担になってたらどうしようって、ちょっと心配だったから……ったた」
 伸び上がろうとして、痛みに顔をしかめる。けれど諦めず、今度は正座しようとする。
「駄目だよ、智。そんな姿勢をしたら脚に負担がかかる」
「だって……キス、したいんだもん」
「……」
 直球。しかも、駄々ではなく実践する気満々、受けた傷よりもこれから得られるものを優先しようとする。
 仕方なく――危ういと思いながら、膝を付く。
 ……キスだけなら、大丈夫なはず。
 あくまで軽く触れて、すぐ離すつもりで唇を触れ合わせる。
 身体の中でもとびきり柔らかい感触。一秒と経たずに離す。
 ……はずが。
「っん……!? ん、ふ……んぅ、ふ……!」
 智は僕の頭に手を回し、がっちりと捕まえてしまう。
 舌が動く。唇をあっさりと割り、歯列をなぞり歯茎をくすぐり……開いてしまった歯の間に舌を入れ、絡ませてくる。慌てて逃れようとしても後の祭り、色欲を伝えるための口づけは深くなる一方。
 流されまいとしても、ちろちろと刺激され、煽られてしまう。
 身体は流れを覚える。どんな反応が心地いいかを記憶し、それを何度でも反芻させようとする。
 理性をフル稼働させ、身体を不感に追い込もうとする。
「っん!?」
 舌の反応に気を取られているうちに、智の手が胸元に入り込んだ。片手で頭を固定し、もう片方の手で黒いコートの下をまさぐってくる。まだ素肌までは届いていない、けれど――十分すぎる刺激が走る。
 ……いつも、命を摘んだ後は身体を重ねる。そうすることで、その夜の体験を分け合おうとする。
 だけど今日は別だ。智が怪我をしてる、絶対に安静にさせないと。
 そう思うのに、抑えようとするのに。
「……惠ってば、熱くなってきちゃってる」
 唇を離し、妖艶な表情を見せつける智。暗いはずなのに、瞳に宿る力は僕を捉えて離さない。
「……智、駄目だよ、君は……っ、ん」
「僕がしたいんだよ。いいでしょ?」
「だ……駄目だっ、て、っ、けが」
「体位とか選べば大丈夫だよ。ちゃんと応急措置してあるし」
「そういう問題じゃ……ぅ」
「ふぅん……じゃあ、その気にさせてあげる」
 今度は少し強めに胸を揉まれる。電流めいたしびれが胸から脳に響き、スイッチを切り替えさせようとしてくる。
 ……我慢、我慢しないと……!
「……ふふ、いい顔」
 智は笑う。その瞳に、蛇のように絡みつく愛情を宿して笑う。
「いいよ。我慢しなよ、惠」
 それは挑戦ではなく、分かりきった未来。経験が紡ぐ日々のパターン。
「……そのうち、欲しくなっちゃうんだから」
 智の宣言は、ほとんど託宣に近い。
 だって、僕は既に、半分以上融かされてしまっている――