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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 40 


「あったかい」
 惠の頭を抱え込むようにして引き寄せる。
「……ん」
 返事とも吐息ともつかない声を出しつつ、惠も僕に抱きついてくる。ごく自然に甘えてくれるのが嬉しい。
 するするとした髪に指を通すたび、ほのかに甘くとろりとした香りが鼻をくすぐる。二人の素肌が密着し、鼓動とぬくもりを分けあう。何度となく、癖のように唇を合わせ、呼吸までも溶けあわせる。
 水の中をたゆたうような、まろやかな触れ合い。欲望を満たした後に訪れる幸福なまどろみに浸され、飽きることなく抱き合い続ける。
 力を抜き、僕に身を委ねる惠。無言のうちに浮かべる微笑みは、ありのままに近い心の現れなのかもしれない。
 二人分の体重を乗せ、ベッドが小さくきしむ。
「ベッド、安物だから音が気になるかもしれないけど」
「許容量以上の負荷をかけてるからね」
「まさか誰かと一緒にベッドを使うとは思わなかった」
 なんだか感慨深い。好きな子と自宅で触れ合うなんて、想像したことすらなかった。そもそも、好きな子が出来ること自体ありえないこと。こんな身の上じゃ、スタートラインに立つ権利すらないも同然だった。
『好き』という気持ち……それ自体、持ってはいけないことのような気がしていた。
 それが今はこんな状態。紆余曲折、曲がり道くねくねではあったけど、『好き』が身体の隅々まで染み渡っている。僕以上に恋愛を避けたかっただろう惠も、二人きりのときだけではあるものの、自分の気持ちに従うようになった。
『素直』。嘘つきな僕たちが、ずっと禁じられてきたこと。今も嘘に囚われているものの、それを知り、苦しみを分け合い、許しあえるお互いがいることが嬉しい。
「ここで二人で寝るのは初めてかな」
 世間話の体で、惠がふと問いかける。答えを予想した、確認みたいな質問だ。
「うん、う……?」
 彼女の望みどおり、初めて……と言いかけて、言葉につまる。
 ……あれ?
「どうしたんだい?」
「えー、と……」
 急に思い出す。そういえば、ここに僕以外が寝るの、実は初めてじゃない……。
 蘇る、数ヶ月前の出来事。全ての発端にして第一アトラクション。
 ……るい。
 そうだ、単にこのベッドを使ったという意味なら、るいが初めてだ。焼け出されて行く所をなくして、放っておけなくてうちに呼んで……。
「智?」
「えーと、うーんと……あぅ」
 忘れたくとも忘れられない刺激的な光景が、ページを捲るように鮮明な映像として浮かび上がる。嗚呼、あの日の裸族は目の毒でした……なんて言えるはずもない。
「……こういう意味で連れ込むのは初めて、うん」
 裏ありありの肯定。しれっと嘘をつき通せないのは惚れた弱み。熟慮してない言い方で、中途半端な隙が丸出しになる。
「使った子がいるんだ?」
 案の定、ツッコミが入る。
「……あれは不可抗力です」
 切なさにため息。
 うん、あれは不可抗力だ。部屋に招いたのは僕だったけど、ちゃんと距離を保とうとしてた。単にるいの力技が激しすぎただけだ、うん。あの時はいろんな意味で生きた心地がしなかったな……懐かしい。
 いや待て、懐かしいとか言ってる場合じゃない。
 一緒に寝たっていったら大抵はそういうことを想像する……しない方がおかしい。
 心の端をひきつらせつつ視線を噛ませると、惠が微笑みのまま頬に触れてきた。
「色々大変だっただろうに」
 かけられるのは、もっと根本的な部分の心配。
 泊めた相手のことなんか蚊帳の外、予想に反して、全然気にしていないみたいだ。
 ……むぅ。
 そこまであっさり流されると、逆にちょっと物足りない気がする。やきもち妬くタイプじゃないかもしれないけど、いざ妬いてくれないとなると、なんか悔しい。
「やきもち妬かないの?」
 というわけで、聞いてみた。
「え」
 惠は一瞬驚いたような顔をして……すぃ、と表情を険しくする。
「……妬くような子を泊めたのかい」
「うばっ!?」
 しまった、墓穴掘った!? 
 自ら火に飛び込んだと気づくも後の祭り。言葉が一気に研ぎ澄まされる。
「え、えと」
「一人暮らしという環境は、厄介ごとの一時避難場所に使われやすい。そういう意味ならば気にすることでもない……そんな見立ては甘かったのかな」
「あ、いやその、その……!」
「ベッドとソファで別々に寝れば、特に触れ合うこともないだろうし」
「あ、あーのですね、その」
 指摘のとおりだというのに、しどろもどろ。そこをさらに突っ込んでくる。
「何故、動揺する必要があるのかな」
「あーうあーあー」
 視線が、痛い。
 そ、そうか、僕は女の子で通してるし、女の子連れ込んだからっていきなりやきもちには繋がらないのか!
「いつ、どんな子を泊めたのか、聞いても良いかな」
 にこやか笑顔。でも目が笑ってない。
 逃げだ……せない。ここで逃げたら誤解が真実になる。いくらなんでもそれは願い下げだ。
 そりゃ、やきもち妬くような相手って言われたら気になるよね、そうだよね……藪をつついて蛇を出すとはまさにこのこと!
 惠に全力で追求されたら敵わない。特にやましいことがある身としては、いややましいことなんかないんだけど、あう……。
「沈黙は肯定」
「ぎゃー!」
 追及の手は緩まない。
「……まさか、君が不安材料になるとは」
「違うのー! 濡れ衣なのー! 僕は無実です! 潔白です! えっちしたのは惠が初めてです!」
「……その前段階は?」
「うわぁぁぁぁぁ」
 頭を抱える。ぼ、ぼくだってもっと清い存在でいたかったです……単に、るいのガードの緩さと花鶏の手の早さが異常だっただけです……うぅ。
「……」
 無言の圧力。
 間近で覗きこんでくる瞳には疑念といたずら心、そして不安が混ざっている。単にからかってるだけじゃないのが胃に痛い。
「……あ、あの、ね」
 もうこうなったら、洗いざらい白状するしかない。ベッドで寝っ転がってる体勢なのに、気分はお寺で正座。
「ああ」
 相槌、とても不機嫌。僕、懺悔状態。大丈夫悪いことはしていない、カミサマタスケテ、心で涙。
「……る、るいを泊めまして……うん、まあその、捨て犬を拾う的なあれでして、でもるいは非常にグラマラスなお犬様でして」
「……」
「……お風呂入る前にいきなり脱ぐし、別々に寝ようって言ったのに聞かないし、パジャマも持ってないでブラウス一枚だし、ほんとにきつかった……で、でも潔白だよ! るいは刺激的だったけど手は出してないよ!」
 弁解するはずが、しっかり本音というか男の本能が出てしまう。悲しいかな、脳に刻み込まれた衝撃映像は鮮明の一文字。男はかくも即物的、でも耐えたよ、そんな気にしてる余裕もなかったよ!
「……何もしなかったんだ?」
「しません! 古今東西世界全土宇宙規模の神様仏様全てに誓ってしてませんっ!」
「彼女は触り心地良さそうだけど」
「知らないよそんなの! 触ってないもん!」
「唇とか」
「してないってば! 花鶏は問答無用だし!」
「……花鶏とも?」
「うぎゃあああぁぁぁ」
 自爆。ほんのちょっとの引っかけにはまる自分が情けない。
「智……手が早かったんだね」
 惠の顔に『そんな奴だと思わなかった』と書いてある、気がする。
「違うんです、ほんっとに違うんです……花鶏は見境ないんです……」
 リアルに泣きたくなってきた。自分で種を撒いてしまったのが痛い。関係性の深さと身体的接触のバランスが取れてないのは事実だからさらに痛い。ちょっとからかってみようとしただけなのに、思いっきり地雷踏んづけた感じ。
 ただ、二人の行動はあくまで僕を『女の子』だと思っていたからだ。二人とも、僕を異性としては見てないし、見られたいとも思わない。僕を男の子として見ていて、その上で全部預けてくれたのは一人だけだし、僕をそういう風に見て欲しいのも一人だけだ。という本音すら言い訳っぽくなる現状。
「……」
「……」
「……ごめんなさい……」
 青菜に塩、しょげかえる。
「謝るようなことなのかい」
「いや、そうでもないと思うんだけど、でもほら、気分というか、空気的に」
「……」
 和久津智、口は災いの元。沈黙は金なり。
 ……でも、沈黙も胃に悪い。
「あの、色々あったんだけど……でも、僕から手を出したのは惠だけだよ。必死になって追いかけたのも、離したくないと思ってるのも君だけ」
 抱き寄せている腕にさらに力を入れて密着度を上げる。……浮気な男の常套手段っぽくてアレだけど、こういう方法ぐらいしか思いつかない。
 惠は抵抗なく受け入れ、溜息と深呼吸を繰り返す。
「……」
 追及がピタリと止む。それが逆に怖い。
 後悔先に立たず。冗談通じる子だし、このぐらいはと思ったけど、時期が悪かった。単なる言葉遊びで相手に不安を与えてしまうようじゃ、何の意味もないどころかマイナスだ。いや待て、こうやって僕が逆に動揺するのを楽しんでるとかはないかな? それだったら嬉しいんだけど……流石にそれは楽観的過ぎるか。不安で頭が高速空回りする。
「……彼女たちは」
 肺と胃が雑巾絞りされるような緊張に満ちた間を経て―― 惠がぽつんと呟いた。
「彼女たちは恵まれている」
「へ?」
 意味がわからず、間抜けに聞き返す。
「……智に、簡単に好意を示せる」
 こぼれたのは、またも予想の斜め上。
「るいも花鶏も、感情を隠すことを知らない。あるがまままっすぐ生きる姿は、それだけで比類なき価値がある」
 ぽろり、ぽろりと口にする。
「……めぐ」
「君ほど可愛らしければ、二人の眼鏡にかなっても何の不思議もない。彼女たちは単に正直なだけだ、違うかい?」
 持って回った言い回しに秘められるのは―― やきもちとは似て非なる、羨望。
 浮ついた焦りが鳴りをひそめ、締め付けられる感覚に変わる。
「眩しいね」
 それは、惠の本音であり、弱音。
 二人を羨ましいと言うことさえできないが故の、婉曲表現。
「君は受身だったんだろう?」
「あ、まあ……うん」
「人生にアクシデントはつきものだよ。気にすることでもないし、心配も要らない」
「……うん」
 僕を責めることも、るいや花鶏を軽率だと言うこともなく。
 冷静めいた感想を述べ、こらえるようにして瞳を閉じる。
「惠……」
 沸き上がってくる悔しさに煽られ、さらに強く抱きしめる。
 ……僕の馬鹿。
 彼女は、やきもちすら満足に妬けない。妬くより前に、妬かせるような行動を羨んでしまう。
 自己表現を封じられた惠には、自己表現を許された全ての人々が輝いて見えるんだろう。
 ……きっと、それは憧れにすら近い、届かないものへの焦がれる想い。
 胸元に頭を引き寄せる。あやすように、優しく頭を撫ぜる。
「安心して。誰が何をしても、僕は惠ひとすじだから」
「どこまでノロケる気なんだ君は」
「どこまでも」
「……胸焼けしそうなほど甘ったるいね」
「僕もそう思う」
「……はは」
 顔を見合わせて笑い、唇を重ねて味わう。幸福感が身体を駆け巡る。素肌の滑らかさを感じるたび、愛しさが増す。切なさが充足感に拍車をかける。言わずとも伝わる想いの強さ、そして……非情な現実。
 僕たちが今いるのは、隙間だ。呪いと理不尽にまみれた世界の片隅、ほんのひとつまみの平穏。どれだけ深さを感じても、時計の針は容赦なく進み、太陽は夢を吹き散らす。
 また、すぐに僕らは離ればなれになる。
 過ぎていく一分一秒が惜しい。明日が来てしまうことが、恨めしい。
 明日。
 ……そうだ。
「惠、しばらくここにいたらどうかな?」
 無理を承知で提案してみる。
 幸せを手放したくないのももちろんだけど……色んな事を知ってしまった今、惠をあの屋敷に帰すのは躊躇われた。もちろんずっとは不可能だけど、せめてあと二、三日でも、こうやって過ごしたい。それに、惠がご飯を食べられたのは屋敷じゃなかったからという部分が大きいだろう。すぐに戻ってしまったら、元の木阿弥になる可能性だって否定はできない。
「……できると思うかい?」
「やってみないとわからない」
「君に茜子を欺けるのかな」
「あー……それは難しい、かも」
 痛いところを突かれる。小手先小細工には慣れっこだけど、茜子の能力を上回れる自信は正直ない。茜子の反応からして、惠以外の心はすんなり読めてしまうみたいだし、隠そうとすればするほどバレやすくなるのは世の常。
 気合いと根性でどうにかしたいところだけど、そうそう楽観的に考えられるような状況じゃないのも事実だ。なにせ、みんなの辞書に自重の文字はない。
「僕がここにいて、みんなが乗り込んできたらどうする?」
 言われて想像、十秒足らず。
「……修羅場ですね」
 どんな応酬になるのか、るいや花鶏はどう出るか……凄惨という言葉がよく似合う予想が駆け巡る。
「それ以前に、バレた時点で君の立場が崩壊するだろう。そんな危険を冒すほどのメリットはない」
 理屈立てて、すぱっと拒否される。
 正論すぎてぐうの音も出ない。
 ……わかっては、いる。
「でも、やっぱりもっと一緒にいたいよ」
 説得できない代わりに、わがままが口を衝いて出る。凛としなきゃと思えば思うほど、言葉は本心を映し出す。
 伝わらない気持ちは、抱えているだけの気持ちは、世界にとってはないも同然。だから僕たちは言葉を、証を求め、想いを口に出したがる。それができるのは僕だけだから、なおのこと直接的な表現を使いたくなる。
「みんなとは毎日会えるのに、惠には会えない。どうしようもないとしても、苦しいよ」
「想像以上に重傷だね」
「好きなんだもん」
「……そうして君は、人を惑わせる」
「もっと惑わされて」
「危険な誘いだ」
「一緒にいられるなら、悪魔に魂売りたい気分」
「こういうときの悪魔は、神様以上に便利な存在になるのかな」
「代償さえお支払いすれば、思い通りにしてくれるんだもんね」
「だから、この世には神も悪魔もいないんだ」
 ゆっくりと、お互いという存在へ逃避する。
 ころころと言葉を転がすたび、二人だけの砂の城ができていく。現実から目を逸らし、瞬き程度の時間を引き延ばそうと試みる。疲労を感じながらも、おやすみなさいは口にしない。
 融け合うように絡み合いながらも、二人は二人。運命の肩代わりも分け合いもできないし、心の中は覗けない。みんなとの溝は深まるばかり。どこかに突破口があるはずなのに、その気配すらつかみとれずにいる。
 逃げたいのに、逃げ切れない。現実は不可分で、障害は鎌首をもたげて舌なめずりするばかり。
 僕たちの始まりは同盟。だからこそ、同盟からは逃げられない。
「……みんなに、僕たちの関係を認めてほしい」
「花鶏二号と三号になってしまうよ」
「それもまた人生。みんな全力でからかうだろうけど、最後は見守ってくれる気がする」
「さすがに楽観的すぎる」
「知ってる」
 みんなの仲がいい頃ならいざ知らず、今この状況で僕たちの関係がバレるのは百害あって一利なしだ。
『好き』はえこひいきという先入観を生み出す。『好き』は何にも勝ると同時に、最も説得力がない理由。もちろん、僕は惠が好きだからというだけで惠を信じているわけじゃない。でも、どんなに理詰めで説得しようとしても、『好き』という情報が入った瞬間に公平性はゼロになる。惠に同盟に帰ってきてもらうためにも、二人の関係は絶対に隠し通さなきゃいけないんだ。
 こうしてまた、板挟み。選択すること自体が間違いなのに、選択を迫られ続ける。
「……ん?」
 急に、惠の腕に妙な力が込められる。
「……みんな……そうだ、みんな……」
「惠?」
「……時間が、ない……」
 スイッチを切り替えようとしているのか、滲んでいた甘えが引いていく。
「……ことは一刻を争う。待ちの一手が事態を悪化させる」
 独り言にしては力の入った声を押し出す。名残惜しそうなゆらぎを含んだ台詞は、やがて本音と意志の境目を繋ぎ始める。
「安らぎだけでは、悪意は止まらない。現実は行動にしかついてこない」
 一言ごとに、声のトーンが落ち着いてくる。低く抑えた声がつむぎ出すのは、歪みの混ざった前進の意欲。仮面とも鎧ともつかない、惠ならではの心の装いが作られていく。
「智」
 惠の瞳から、まどろみがシャットアウトされる。
 身体は絡めつつ、真剣な眼差しで僕を見つめる。
「こんな時に、こんな状態で聞くことではないけれど……一つ、確かめたいことがあるんだ」
「何? 僕にできることなら、なんでもするよ」
「……」
 ためらいの間。作戦ではないのが様子でわかる。
 答えを恐れるように揺れる瞳。次の言葉を出すべきか逡巡している。
「……気を悪くしないでくれ」
 何度も深呼吸し、見つめ合い、指をしっかり絡め、お互いをはっきりと身近に感じ―― そうしてようやく、惠が問いを口にする。

「……三宅という男が、君たちに接触していないか」

 凍り付く。
 瞬間、僕の全てが凝固する。
「しているだろう?」
 僕の表情に確信したか、念を押してくる。
「……三宅さんが、何か……」
「……三宅さん、か……」
 僕の発言の些細な部分に反応し、一呼吸。
「たとえ身動きが取れなくても、方法はある。それに、ヒントが転がっているのに突き止めないのは怠惰というものだよ」
 一息に切り込んでくる。
 胸をかきむしりたくなるほどの激しい胸騒ぎ。
「既に、調べはついている」
 ……まさか。
 忘れかけていた、いや、忘れようとしていた部外者の存在。
 惠を調べようとしていた人。僕らとは全く違う価値観で動いているだろう人。
 崩れたブロックを積み上げるように、疑問と予想が形を結ぶ。
 どうして、惠が三宅さんのことを知っている?
 どうして、この状況で彼のことを口にする?
 ……三宅さんは……惠のことを調べて、どうする気だった?
 ゆっくりと、でもはっきりと、惠が疑問に答える。
「脅迫状に記されていた口座の現在の持ち主が、三宅という男だ」
「……!」
 血液が、一滴残らず驚愕に跳ねる。
「口座そのものはダミーだったよ。でも、あの程度の偽装なら突きとめるのは簡単なんだ」
 淡々と、よどみなく語る惠。
「最近、彼とおぼしき人物が屋敷のあたりをうろついていたし、ほぼ間違いないと見ていいだろう」
「……間違い、ないって、なにが」
「脅迫主だよ」
「……っ……!」
 すがる思いで確認した事実は、あっさりと肯定される。
 血の気がどんどん引いていく。体温が一気に下がっていく。
 口の中が干上がる。
 喉がふさがって、唾がうまく飲み込めない。
 ……三宅さん?
 あの口座の持ち主が、三宅さん?
 惠をゆすろうとしたのが三宅さん?
「彼は、それなりに悪名が知れ渡ってる人物だ。こういう手に出ても不思議ではない」
 悪夢のタネあかしに、心が金ヤスリで削られるような悲鳴を上げる。
 惠は嘘をついていない。言葉の選び方は明らかに『本当のこと』を伝えるためのものだ。
「……やはり、君たちのところに現れていたか」
 苦々しさに眉を寄せる。
「……」
 思い出すのは、人好きのするお調子者的な外面と、情報を引き出そうと切り込むときの鋭さ。
 感じていたはずだ。彼に乗せられていくみんなを見て、危機感を募らせたはずだ。
 ……どうして、彼を放置した? 釘を刺さなかった?
 部外者だからと甘く見た? お手上げだと困っていたから安心した? 
 ……お手上げだと言った彼に、きっかけを与えたのは誰だ?
 すばらしい情報が得られたと彼を喜ばせたのは誰だ?
 彼は、なぜ僕らに接触した?
 自分の力だけでは及ばなかったからだ。
 誰のせい?
 三宅さん―― 三宅が、脅迫できるほどの情報を得たのは誰のおかげ?
「……そん、な……」
 どんなに言い訳を考えても、導かれる正解は一つ。
 避けられない結論が出る。
 ―― 僕たち、が ――
 後悔に、胸がひしゃげる。
 軽率だった、なんてものじゃない。
 最悪だ。
 央輝の言うとおり、僕たちは最悪の選択をしたんだ。
 怒りが目を曇らせた。膨れ上がった疑念が危険を捏造して、見るべきものを見えなくした。
 疑念をぶつける先がなくて、不安を昇華する方法を探していた。そこに三宅が滑り込んできた。まんまと利用された。
 惠より、見ず知らずの部外者の三宅の方がよっぽど危険だって、ちょっと考えればわかることなのに、見抜けなかった。
 ……僕たちのせいだ。
 僕たちが、同盟が情報を売ったせいで、惠は……!
「おそらく、彼は既に君たちの信頼を得ているだろう。そのぐらいはお手の物らしいからね。大貫のことも、三宅から聞かされたんじゃないかな」
「……うん……」
 力なく頷く。あまりの事態に頭が回らない。
「彼から、他に何か聞かなかったかい?」
「それだけだよ……だからみんな、惠だけが悪いと思い込まされてる」
「まあ、脅迫したと明かしては、せっかくの信頼が水の泡になりかねないからね」
「……」
「みんなは、あんなものまで知らなくていい」
「……うん」
 惠の言葉は、まるで台本を読むように平坦だ。感情を隠しているわけでも、無関心なわけでもなく、仮面の向こうに飲みこんでしまっている。
 生きていくための、理不尽な日々に立ち向かうための手段。痛々しさに彩られるそれに身を包み、無意識に、無理矢理に平静を保とうとする。
 できるはずもない無理を、続けている。
 本来なら、僕がここで支えるべきだ。何でもいいから声をかけて、気持ちを楽にしてあげるべきだ。
 でも……この状況で、張本人のくせして、どの面下げて惠を励ます気なんだ? 僕にそんな権利があるのか?
 自責の念が胸を食い荒らす。自分のしたことが認められなくて、言い訳すら出なくて、自己完結でいっぱいいっぱいになる。
 その間にも、話は続いていく。
「君たちが彼を信頼しているなら、謝らなければならないかもしれないね。たとえ事実でも、聞きたくないことはある」
「……」
「だが、警告の必要はある。彼は危険だ」
「……そ、だね」
 相槌すらぎこちなくなる。
「外界には、呪いとは別の方面からの罠が潜んでいるんだ。三宅もその一人だよ」
「……」
「人には人なりの恐ろしさがある。命ではなく、心を殺しにかかってくるからね」
「……」
「ふざけた話だ」
 惠は、ひたすらに三宅の危険、それだけを語り続ける。
 ただ一人に狙いを定めた話運び。
 そこから伝わる……やましいからこそわかってしまう、意図的な鈍さ。
 三宅との接点を確認しながら、惠は僕たちの行動には踏み込もうとしない。
 おそらくは……あえて避けている。
 気づいているのに、いや、気づいているからこそ、僕たちが関わったことを、三宅に力を貸した事実を、明かさせまいとしてる。
 そうさせてしまったのは―― 他でもない、僕。
 僕が惠の立場なら、きっと同じように背を向けただろう。
 紡がれなければ、物事は想像で終わる。確かめなければ、真実は闇の中に隠しておける。
 その代わりに不安も消えないけれど―― 事実を知って嘆くより、じりじりもやもやする方が幾分楽だ。
「起きてしまったことは仕方がないよ。問題は、これからどうするか」
 僕に、自分自身に切り替えを促し、瞳に力を宿す。
「脅迫の期限は来ていない。今なら、まだ間に合う」
 はっきりと言い切る。決意した、揺るぎのない宣言。
 直感が囁く。
 ……惠、また一人で何かやる気だ。一人で背負う気だ。
 直感は警告に変わり、脳に鳴り響く。
 駄目だ、絶対駄目だ! 
 惠は必要以上に自分を痛めつける傾向がある。彼女の好きにさせたら、多分また傷ついてしまう。
 止めなきゃ。
 止められないなら、せめて傍にいて、守って……!
 そこまで走った意識に、自責がブレーキをかける。
 ……何様のつもりだ。
 惠が追いつめられたのは同盟のせいなのに、同盟の人間が手を差し伸べようなんて、自分勝手にも程がある――
 違う、だからって何もしない理由にはならない。むしろ僕たちのせいだからこそ、惠を助けなきゃ。
 ……でも、惠はどう思う? 裏切りを知ってて黙ってるだけでも苦しいはずなのに、そんな彼女に甘えて差しのべる手に、一体何の意味がある?
 違う、そうじゃない、そうじゃない! 今僕が考えるべきは、そんなことじゃない!
 焦れば焦るほど、思い浮かぶのは自分のことばかり。
 その間にも、惠は次を積み上げる。トラウマに苦しみ、はいずりながらも見つけてきた思考の道筋を歩く。
「彼のような悪人は、キャッシュポイントをいくつも用意している。おそらく今回もそうだろう。脅迫の効果がない、あるいは薄いとなれば、即座に次のターゲットに移行する」
「次のターゲット、って」
「君たちだ」
「な!?」
 予想外の発言に、ぐずぐずの思考が切られる。
 ……まさか、そんな……惠だけじゃなくて……!?
「三宅が君たちに接触したのは、君たちを次のターゲットにするためだよ」
 真摯なまなざし。僕の背中を抱く、惠の指に力が込められる。悔しさを表情に滲ませ、搾り出すように予想する。
「あれだけ写真を集めたら、普通は疑問を持つはずだ。同じ人間が何度も殺され、毎回傷ひとつないなんておかしいからね。そこにカネの匂いを嗅ぎつけ掘り下げれば、自然、君たちの存在までたどり着く。交友関係を洗うのは基本中の基本だろう?」
「……じゃ、じゃあ……」
「三宅は、呪いや能力について知ってしまったかもしれない」
「っ!」
 恐怖と不安に、心臓を鷲掴みにされる。惠が熟考の末にたどり着いた、信憑性の高すぎる結論。だからこそ、その正確さと恐ろしさに身を震わせる。
「君たちと三宅が会っていないのなら、まだたどり着いていない可能性もあった。でも、君の三宅への反応を見るに、奴は君たちを利用する気で手を打ってきていると考えるべきだろう」
 ……仲良くなったふりをして、ガードを弱めて、言ってはいけない事を吐かせて―― 脅す。
 続きを聞かずともわかる、三宅の目的。
 そんな人だと思わなかった……そう知ったときには遅すぎる、残酷な手口。
 三宅には情の欠片もない。もしみんなの呪いを知って、利用しようとしたら……!
「させない」
 耳に響く、低く重い意志の声。
 思わず頼りたくなるような芯の強さと、それゆえの危うさを兼ね備えた声。
 惠の目つきが変わる。僕の向こうに、僕ではない誰かを睨み据える。
「そんなこと、させない」
 言葉を投げるのも、別の誰か。おそらくは三宅。
「……惠?」
 僕が見えていないのか―― 視線を噛ませることなく、ぎりりと明確な怒りを表す。
 溜めこんだ心が弾丸になる。
「あんなやつに……みんなを渡してたまるか……!」
「――――!」 
 一瞬。
 本能的な逃避衝動に、身を引きそうになった。
 全身に鳥肌が立ち、身震いする。
 研ぎ澄まされた、強烈な敵意。鋭利な刃物が数え切れないほど束になって向かってくるような錯覚を起こす。
 初めて見たわけじゃない。おそらく、初めて三宅に会った日に放ったものと同じ。
 あの時は背中を眺めていただけだったけど、それでも足がすくんだ。
 それを至近距離で浴びる。僕あてではないとわかっていても震えてしまう、質量を持つがごとく黒々しい意識。
 見るだけで射抜かれる。身体に穴が開くイメージが駆け巡る。撃たれるのではなく、ブラックホールに貫かれる。虚無に串刺しにされる。
 直視すら躊躇われる感覚―― これは、例えるなら――
「……あ」
 僕が怯えたのに気づいたのか、惠が我に返り、慌てて視線を下げる。
 途端、緊張から解放され、思わず小さなため息をつく。
 人は一瞬でここまで緊張するのか……そんなことすら考えてしまう。それぐらい、今の惠が出した気配はおぞましく強烈だった。
 ……それもまた、彼女が隠しているもの。僕がまだ知らない彼女の姿。
「……智じゃない。相手は三宅だ」
「う、うん……」
 何度も何度も頷く。そうして自分に言い聞かせないと負けてしまいそうだ。
 他者を圧倒するほどの、刺々しい悲痛な叫び。
 惠の背負っている業は、想像が届かないほどに深い。彼女が己を偽る姿をしているのも、業の自覚があるからだ。
 包み隠している、黒々しい日々。どんなに目を逸らしても、人は過去の上にしか立てない。今見せられたのは、惠の過去が作った深淵の一端。
 それが普通ではないことは、惠自身が一番よくわかっている。
「君の傍でこんな……怖かっただろう?」
 明らかに落ち込んだ様子で、触れ合っていた肌を少し離そうとする。そうはさせまいと、腕でがっちり捕まえる。
「大丈夫。ちょっとびっくりしたけど、条件反射だし」
「……無理してるんじゃないか?」
「してないよ。仮に無理に見えたとしても、メンタルトレーニングだと思えばいい」
「大分、刺激の強いトレーニングだね」
「負荷をかけなきゃ鍛えられないでしょ?」
「……」
 苦笑いの混じるはにかみに、キスで答える。
 ……惠の意志は固い。何もするなと言ったところで、止まってなんかいられないだろう。覚悟が求められる時ほど躊躇しないのが彼女の特徴だ。いや、彼女が行動を決意する時、既に彼女の精神は限界に達している。
 そうなる前に手を差し伸べられればよかったけど……今それを言ったところでしょうがない。
 僕にできるのは、惠が何をしようとも、傍で支え続けることぐらい。
「……今日はさ、もう細かいこと考えないで休もうよ。どうするかは明日考えればいい。学校休めば時間取れるし」
「優等生の名が泣くよ」
「大丈夫、先入観はそんな簡単に崩れないから」
「悪い子だ」
「夜更かしの時点で悪い子です」
「ああ、なるほど」
「……離れないでね」
 息苦しくなるほどに抱きしめて、顔を擦り寄せて、あたためあって―― 目を閉じる。
「……悪い子、だ……」
 おやすみの代わりに聞こえたのは、何故だか感慨深さの混じる、柔らかな言葉だった。



 ―― 詰めが、甘かった。
 明日すら待たない可能性を、忘れていた。
 眠ってしまえば、力は緩む。
 睡眠中は、人が最も無防備になる時間。
 ……手放したくないならば。間違いに走る彼女を止めたいのならば、意識を保ち続けなければならなかったのに。
「……」
 目覚めたのは、一人の肌寒さに震えたから。
 当たり前だ、寝巻を着ないで一人で寝てたら寒くもなる。
「……嘘、でしょ……?」
 朝の光が差し込む部屋に、僕以外の気配はなく。
 昨日の全てが幻だったかのように、見慣れた景色……一人だけの部屋が視界に広がる。
 痕跡は欠片も見当たらない。乱れたソファのカバーもクッションもきれいに直されている。
 シーツを叩けば、隣にあったはずのぬくもりはとっくの昔に失われている。
 惠は、いない。
「……惠……」
 手遅れだ、今から探しても間に合わない―― 本能が告げる。
 疲労が残っているせいか、自分の失策を認めたくないのか、思考が正常に働くまでに時間がかかる。
 どこへ行ってしまったのか―― 何をする気なのか。
 形をなさないエマージェンシーコールが全身に鳴り響いている。何かをすべきなのに、何をすべきなのかを導き出せず、焦燥感ばかりが空回りする。
「うぉぁ!?」
 そんな僕の使えないローテンションをぶっとばすかのような、携帯の大音声。
 慌ててひっつかむ。慌て過ぎて一回取り落とし、また掴み直す。
 かけてきたのは―― 花鶏!?
「……な、なんで……!?」
 あの、朝に弱い花鶏が、朝日が差し込むような時間に電話!?
 緊急事態。考えなくてもわかる。
 心臓が身体を震わせる中、どうにかこうにか通話を押して――
『智!? 智なのね!? 大丈夫!? あなたは大丈夫なのね!?』
「え、あ、うん」
 花鶏の声は今まで聞いたことがないほど興奮し、動揺している。こんなに取り乱すなんて珍しい。
『大丈夫!? どこも怪我してない!? アレに刺されたり切られたりしてない!? ああもう、やっぱり私たちがバカだった、智一人に任せるべきじゃなかった……!』
「ちょっと、どうしたの花鶏、落ち着いてよ」
『これが落ち着いていられますか! ヤバイわよ、ヤバイってもんじゃないわよ!!』
「だから、一体何が!」
『貸せ』
 ぱしん、と話相手が代わる。これは―― 央輝?
 どうして、央輝が花鶏のところに……?
『面倒なことになった』
 央輝の声は花鶏に比べて冷静ぶってはいるものの、やっぱりどこか落ち着かない。当たり前だ、彼女が花鶏のところに来ること自体、異常なんだ。
「……何?」
 来ていない服の合わせを掴むように拳を握る。
『三宅が殺された』
「……は?」
 いきなりの結末を告げられる。
 そして―― 最悪のさらに上を行く最悪を、突きつけられる。
『犯人は、才野原だ』