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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act3 『誰かのために』 


 クリック音のたび、形容しがたい衝動が噴き上がってくる。それは今までに感じたことのある感情のどれとも違う、はらわたをスプーンでえぐりとられるような気味の悪さだ。腹の底に煮えたぎるものは、吐息を焼けつくほどに熱くする。
 ……これは、怒り、なのか。
 久しく忘れていた、もう枯渇したと思っていたものが内奥から吹きこぼれ、体中に広がっていく。
 無機質なフォントが紡ぎ出すのは、この世の理不尽を捨て値でさばくような滑稽な計画。
 ――屋敷の、明後日の襲撃予告。
 裏SNS内だからと安心しきっているのか、単に抜けているのか、詳細には必要十分、いやそれ以上の情報が並んでいる。住んでいた人間からすれば、相手の侵入経路から内部の移動まで全て予想できるほどだ。お粗末すぎて笑う気にもならない。こんなに詳しく書いて大丈夫なのかと逆に心配になる。
 ……きっと、この程度は裏の世ではよくあることなのだろう。だから誰も気に留めない。
 悪意に食い散らされる無辜の民は、ここではただの一要素。
 無遠慮に吐き出された情報を凝視する。僅かな誤字すら見逃すまいと、目を凝らし、神経を研ぎ澄ませ、一文字一文字、表も裏も全てをほじくり返すつもりで読んでいく。
 そのたび脳に侵入してくるのは、触れることすら汚らわしい程の下衆の思考。
『あんだけデカイ屋敷なのに今まで誰も目をつけなかったとか、バッカじゃねーの?』
『住んでるのってババアとメイドだけだろ? まさに最高のカモだよな』
『下見に行ったら『主人は長期出張中です』と来た。誘ってんじゃね?』
『誘ってるよなー。テキトーに答えりゃいいのに』
『空家に二人も雇ってんだ、相当溜め込んでんだろうな』
『まあ、ババアはさっさと殺るとして、メイドはどうするよ?』
『そりゃヤるだろ。さすがに処女じゃねーだろうが、せっかくこっちから訪ねてさしあげるんだからそれぐらい当然だって』
『メイド、結構胸でかかったぜ』
『マジで! 超期待』
『意外と欲求不満かもな。喜んで腰振るんじゃね?』
『既に主人に調教されてたりとか?』
『お前それはAVの見すぎだろ』
『んじゃ俺達が調教するってことで』
『頭いいな』
『それ採用』
『女なんて脅せば黙るしな。おとなしくしてれば命は助けるなんて信じてくれるんだからマジちょろい』
『暴れても暴れなくても結局殺されるってわからないあたりがもうね』
『ヤッベー明後日が超楽しみになってきた』
『犯してみていい塩梅だったら連れて帰ろうぜ、どうせ逆らわねえし』
『金もペットも同時にゲットかよ、俺たちチョーついてね?』
 自分の心音がうるさい。
「……ざ」
 ずるりと、自分の中から何かが這い出してくる。
 粘っこくて、熱い――いや、焦げる、肺と腹の中間地点の粘膜が爛れる錯覚。
 口の中が乾く。拳の中に爪が突き刺さる。身体のあちこちから得体の知れない靄のようなものが流れ出て、肌の隅々まで感覚を鋭敏にする。
「……ざ……けるな……」
 噛み締めていたはずの歯から零れるのは、声のようで声ではない、もっと別種のものだ。空気に溶けて消えるのではなく、足元に落ちて溜まっていく。吐き出しても消えることはなく、むしろより強烈になって絡みつき、浸透していく。
 ――ふざけるな。
 あの屋敷に、佐知子に、浜江に、何を――!
「……こんな、奴らに……」
 なんで、こんな奴らに、あの二人が。
 理不尽は今さら嘆くことじゃない。諦める以外ないほどに向き合わされ続けたそれは、もはや僕の知る世界の前提にすらなっている。運命は老若男女、誰にだって牙を剥く。似たような状況が溢れていることは目の前のSNSが証明している。世界は徹底的に平等で、徹底的に不平等だ。
 ……だからって、なぜ彼女たちなんだ。
「惠……すっごい怖い顔してる」
「……ああ、そうなのかもしれない」
「気持ちはわかるけどね」
 ちらりと僕の顔を盗み見た智は、それだけ言って視線を戻し、客観的な必要情報を読み上げる。
「……人数は3人。時間は深夜2時、各自屋敷近くのゴミ捨て場に集まって、2階の窓から侵入。早急に住人を片付け、金庫や調度品を強奪。所要時間の予定は20分程度」
「3人か……」
「多いね」
「ふむ」
 確かに多い。屋敷の規模を見て仲間を募ったのか、最初から3人でつるんでいたのか。
 ……まあ、そんなことはどうでもいい。振りかかる火の粉は払う、何人たりとも容赦はしない、それだけのことだ。 
 ――許さない。
「……いい、度胸だ」
 煮えたぎる激情に煽られ、思考が加速度的に回転していく。
 理解すらできないうちに葬るのか、断末魔の悲鳴をあげさせるのか。どんな処し方が適切か。侵入前に片付けてしまったほうが簡単か、そのためには何が必要か。
 展開をシミュレーションする。積み上げてきた経験から、いくつかの抵抗パターンと対処法を導き出す。それは智が見せる直感ではなく、過去から導きだす傾向性。この身が知り得た多くの経験は、これから起こることにも活用が可能だ。多人数相手の戦いは初めてだけど、一対一に持ち込みさえすれば十分に勝算がある。問われるのは実力の差ではなく、思い切り、開き直りの差だ。
 大多数の人間は、命の取り合いを最終手段と定義付けている。
 僕は、僕たちは、違う。
 この世で最も『殺し屋』にふさわしい適性、それが僕の背負う咎。
 最初から命を狙う者と、切羽詰まるまでそれを考慮に入れない者では、前者の方が有利なのは言うまでもない。
 ……思い知らせてやる。
 二人を狙う愚行を、悔いることすら出来なくさせてやる――
「惠」
 低い低い智の声。
「……行くの?」
 それは問いかけのようであり、念押しのようでもある。僕の答えなどわかりきっているだろうに、それでも智はあえて問うてくる。
「これ、条件良くはないよ。正直、一発目としてはかなりハードル高い」
「それが」
 どうかしたのか……そう言いかけたところで、ふと気づく。
「智?」
 智がこっちを見ている。
 ……何かを抉り出そうとするかのような、重力を引きずるような視線。瞳をかちあわせると、その暗くも真摯なまなざしが僕を鷲掴みにする。
「本気なの?」
「……え……?」
 最低限に絞り込んだ台詞は、その奥に山ほどの意味を孕む。
 疑問ではなく、拒絶――「行くな」と、智の瞳が告げる。
 ……何故?
 疑問が浮かぶ。
 だって、佐知子と浜江だ。あの二人なんだ。二人が狙われているのに、どうして黙っていられるのか――
「惠。君はそこに何をしに行くの?」
 戸惑う僕に、あくまで淡々と問う。突きつける。
 ……ごまかすな、と。
 発言の裏側で、呪うように智は伝える。
 ――欲しいものは、そっちじゃないはずだ、と。
「条件がいいの、探せば一杯出てくるよ」
「……智」
「僕ね、君に必要以上の危険を冒してほしくない。選択肢はたくさんあるんだし」
 智は言い切る。
 ぞくりと、背筋を冷気が駆け抜ける。融点まで達していた熱が急速に引いていく。
 ……智の意見は、冷酷だけど一理ある。
 二人で生きていくだけならば、安全牌を選び続ければいい。わざわざ多人数戦闘なんて無茶をする必要はない。
 佐知子も浜江も過去の人と割りきってしまうのも、また一つの選択だろう。
 ……実際、僕たちは割り切るためにあの街を出た。
 あの日、智が『もう戻ってこれないと思います』と言ったのは、つまりはそういう事だった。
「……」
 激情に流され、忘れかけていた現実が手元に戻ってくる。
 ――何のために、あの街を離れたのか。
 ――自分たちは、どういう存在なのか。
 あり方に立ち返るなら、屋敷を選ぶのは愚行だ。裏SNSには多種多様な候補者が溢れている、人数が少ないものも、処しやすい件も山のようにある。
 生きるために摘むという目的を優先するなら、今回の件は見逃した方がいい。
 僕たちは既に田松を、関わった人を、思い出を、積み上げてきた全てを振り捨ててきた身。
 今さら帰ってどうするのか、それは単に未練がましいだけじゃないのか――
 智の言葉は、二人きりの生き方として、どこまでも正論だ。
「……っ」
 けれど。
 知ってしまったからには見逃せない。
 警察の手なんか借りられない。叩けば埃に隠れてしまうほどの秘密を溜め込んでいる家だ、外部を関わらせるなんて愚の骨頂。
 仮に狙われている旨を連絡したとしても、あの二人と真耶では手の打ちようがないだろう。せいぜい当日に無血開城し、好きに荒らさせるぐらいだ。そんなものは対処ではなく、単なる屈辱。
 しかも決行日は明後日、計画を頓挫させるには時間が足りない。形としてはよくある襲撃予定、予想外の乱入など期待できるはずもない。
 誰かが止めなければ、計画は実行される。理不尽な暴力はあの屋敷を襲い、喰らい尽くす。
 そして、その『誰か』になりえるのは、僕たちしかいない。
 けれど、選択は僕たちに決定的な破滅をもたらしかねない――
「……まさに踏み絵だね」
 完全に黙りこんだ僕を見て、智は小さくため息をつく。
 ああ、確かに踏み絵だ。離れるために敷いてきたレールが、背を向けたはずのものの前まで伸びている。
 訪れた危機に手を差し伸べるか、知らん顔して通り過ぎるか。
 命は命。屋敷を狙う強盗団だろうと、他の有象無象の犯罪者たちだろうと、得られるものは同じ。
 同じならば、どっちでもいい――本当に?
 二人を助けるのは利害の域じゃない、ただ自分がそうしたいというだけだ。
 ……それだけで、いいのか?
 唇を噛み締め、さっきとは違った意味で拳を握る。
 二人に会いに行くわけじゃない。気づかれずに去ることだってできなくはないだろう。気づかれたとて、立ち止まらずに帰ればいい。
 ……それはただの理屈だ。思い出の残る地に足を踏み入れれば、どうやったって心は反応する。
 記憶は簡単には消えてくれない。二人を忌み嫌っているわけではないからなおさら。
 あの日僕が何も告げなかったのは、別れを嘆く自分がいたから。朦朧とした意識の中、感謝の一言が浮かばなかったといえば嘘になる。それを口にしなかったのは呪いのせいではなく、その一言が余計な引き金を引きそうだったからだ。
 智の手、智の肩、智の想い、そして罪……それを信じて生きていこうとした僕に、彼女たちに何かを残す権利などなかった。
 そう決めたのに、二人を振り捨ててきたのに、今さら――
 ……どうするのか。手の届く範囲で起こるものに、僕はどう相対すればいいのか。
「……よく、考えて。どっちにしろ、僕は惠についていくから」
 智はそう言って、今度は別の候補者を選別しにかかる。
「他、やりやすそうなのの詳細も出しとく。発作起こした後だし、横になってたほうがいいよ」
「あ……ああ」
「……知らなければ、迷わなかったのにね」
 智の呟きは僕宛のようでもあり、自分宛のようでもある。
 知らなければ――それは、とても甘美な逃げ口上。
「……」
 ふらふらと倒れこむように横になり、まだ全快とは言えない身体の疲労をベッドに預ける。
 瞳を閉じるなり押し寄せる、果てしない自問自答。
 ――明後日。襲撃予告。よくあること。相手は3人、こちらは2人。現場は入り組み隠れる場所もふんだんにある屋敷。相手の実力は未知数、初犯ではない。不可能ではないが、リスクは高い。
 そこに居たという現実。そこを捨てたという現実。過去というラベルを貼り箱に押し込んだはずの日々の残滓は、些細なきっかけで胸を埋め尽くす。
 ひょっとしたら――怒ること自体、過ちなのかもしれない。
 二人が狙われていると知って激怒した自分は、言ってしまえば過去の奴隷だ。未来を見据えるのなら、前しか見ないなら、過去に関わった人々の現在も未来もどうでもいいこと。そうやって引きちぎってしまうことだって一つの選択だろう。
 だけど、佐知子と浜江だ。散々に迷惑をかけて辛い目に合わせたのに、嫌な顔ひとつせずに支えてくれた二人だ。
 その二人に迫る危機を見逃して、自分は何を得るつもりなのか。
 何を選ぼうと、終着点は罪深い。救いなど求めることすらおこがましいこの身。
 けれど、罪と血に濡れたこの手にもできることがあるなら――そう思うことは、傲慢なのだろうか。
 答えは出ないまま、意識はゆっくりと沈んでいく。
 
 ……久しぶりに、夢を見る。
 夢とはレム睡眠中の脳の情報整理の副産物。考え事をしながら眠ったから、脳が刺激されたのだろう。夢だという自覚があるあたりがとても僕らしい。
 現実感はないけれど、映像はなかなか鮮明だ。覚えがあるようなないような風景は、かつて通ったどこかの雑居ビルの廊下。終えた後らしく、洋剣には血を拭った筋がある。耳ではなく脳に直接響くのは靴音。僕のものと――あと、もうひとつ。
「あ、の……」
 怯えきった声が僕の背中に向けられる。足音がぎこちないリズムを刻んでいるのは、たった今命を摘んだ罪人に付いていくべきかを迷っているからか。
「どう……して、どうして私を……」
「さあ、何故だろうね。運命の歯車がたまたま君と噛みあった、というのはどうかな」
「で、でも……! あなたがあんな、あんなことする必要は……!」
「必要を問うことに意味はないんじゃないかな。そこに答えを出したところで、地獄へ導かれた男たちが蘇るわけでもない」
「だってあなた、私よりも若い……まだ、子供じゃ……!」
「おそらく、今日起こった全ては君の常識の範疇外だったんだろう。君がそれに違和感を覚えるのは自然なことだ。けれど、現実でもある……そうは思わないか?」
「……現実、そう……ですよね、私……」
 ……ああ、わかった。
 これは過去の繰り返しだ。
 真耶の託宣に従い、下劣な男を摘み取った、数限り無い一日の一欠片。
 一欠片ではあったけれど……同時に、とても印象的な、現在に繋がる一歩になった日。
 彼女の扱いを真耶から聞いていたかどうかは、正直覚えていない。おそらく聞いてはいなかった。仮に聞いていたとしても、従ったりはしなかっただろう。どちらにしても変わりない。
「過去が現実であるのなら、君が体験している現在もまた、そう言えるんじゃないかな」
「……わた、しは……助かっ……」
 背後にこもる、嗚咽を堪える音。混乱と恐怖と、歓喜が混じり合った現在認識。
 訪れたイレギュラー。その日の舞台にあったのは、潰えた命と潰れかけた魂。
 理屈ではなかった。僕が初めて手に掛けた少年など比較にならないほど深い絶望の真っ只中に居たその人を、僕はごく自然に助けていた。見られたから消そうなんて発想、一瞬たりとも出てこなかった。
 それは、随分と自然な衝動だったように思う。
 ――同じ命。だけど、彼女は摘まれた男とは違う。その不公平を、当たり前のように信じた。
「……名前を聞いても良いだろうか? このまま付いてくるのなら、紹介の必要があるかもしれない」
「あ……は、はい」
 理不尽の嵐に弄ばれ、潰えそうだった魂の火。
 ひょっとしたら、当時の僕は彼女と似ていたのかもしれない。死の連鎖に、怨嗟の幻聴に千切れかけていたがために、彼女に自分を見て、意味を求めたのかもしれない。
 星の導きが本当にあるのなら、彼女と僕が出会ったことは運命だったのだろう。美しくはない、血と泥と悪意にまみれた――それでも、奇跡だった。
 彼女は名乗った。
「……佐知子。芳川、佐知子です」
「そうか」
「……あなたの、お名前は……」
「あの星空に、才野原惠と名付けてみてはどうかな」
「……?」
「見えもしない空に、明日に。君がそこに生きることを、始まりの祝辞としよう」
 そう、思い出した。
 咎人として誰かに名乗ったのは、あれが初めてだった――

 煩悶の果てに眠ったはずなのに、起き抜けの気分は悪くはない。朝日が存分に差し込む部屋だからか、朝は大体同じような時間に目が覚める。非常に健康的だ。
 もぞりと寝返りを打つと、智が既にキッチンに立っているのが見える。漂ってくるのはしょうゆの匂い。昨日の夕食がおかゆだったから、今朝は和食になったらしい。
 気配で察知したか、こちらが声をかけるより先に振り返る。その微笑みはいつだってあたたかく、背負う荷を軽くしてくれる気がする。
「おはよ、惠」
「……ああ、おはよう、智」
「気分はどう?」
「おかげさまで」
「そっか、よかった」
 短いやりとりの中に詰め込まれた想いは、紐解かずとも心に染み渡る。あれこれと詮索しないのは智の気遣いだろう。
「智、今からシャワーを使うのは料理に差し支えるかい?」
「ううん、大丈夫。煮物ができるのにもうちょっと掛かりそうだから、浴びといたほうがいいよ」
「君はいつもタイミングがいいね」
「一緒に暮らしてるうちにパターン読めてきたのかも」
「それは、双方にとって助かることかもしれないね」
 許可が出たのでバスタオルを用意し、バスルームへ。髪を泡立てて洗いつつ、夢と思索を混ぜあわせる。
 ……佐知子との出会い。三年以上前のことだというのに、脳は律儀に記憶を保管していたらしい。
 夢で見た光景の後、彼女は屋敷まで付いてきて、なんだかんだで住み込みメイドとなった。浜江も最初は反対したけれど、佐知子の覚悟に押し切られたんだったか。屋敷は理解のしようもない世界だっただろうに、彼女はそこに自分を捧げ、自らの価値観すらねじ曲げ、文句も言わずに勤め続けた。
 それが忠誠心からだったのか、義理だったのか、感謝だったのか……僕にはわかりようもない。
 わかるのはただひとつ。絶たれるはずだった命が、あの屋敷で息を吹き返したということ。
 ……正しい選択など、僕たちには存在しない。どう立ち回ろうと前途は暗く、汚泥に満ちている。
 屋敷は、いわば穏やかな破滅のゆりかごだった。そこを捨て、僕たちは獰猛さと容赦のなさでもって荒れ野を切り開いている。
 ……それは、ゆりかごに残った人々を否定するものではない。
 だとするならば――
「……愚かな話だ」
 シャワーから出る温水で身体を叩きながら、苦々しい実感を漏らす。
 迷いは、選択そのものにかかるときだけでなく、出ている答えを否定するときにも陥る。後者の不毛さは言うまでもない。誰もが最後は感情で動く。幾千幾万の理屈も説得も、想いを断ちきる力にはなりえない。
 そして、僕が抱える悩みは――まぎれもなく、後者。
 答えなど、最初から出ている。
 智に『行くの?』と聞かれるまで、行かないという選択があることすら忘れていたのだから。
「めーぐむー、ご飯できたよー」
「あ、ああ」
 考えこんでいたら予想以上に時間が経っていたらしい。慌ててシャワーを止め、身支度を整える。
 鏡に映る自分の顔は、相も変わらぬ無表情。
 ただ、瞳に僅かながらも意志が点っているように見えるのは……おそらく、気のせいではないんだろう。

「智」
 食事のコーヒーを飲みながら切り出す
「……昨日のこと、なんだけど……話しても構わないかな」
「うん」
「そうか」
 小さく深呼吸。
 決めたのならば、まずは智に同意を得なければならない。諸条件からも、昨日の態度からも、智が気乗りしないのは明らかだ。その理由は十分に分かるから、無理強いは出来ない。けれど、付いてこなかったとしても、理解だけはしてもらわないと。
 少し逡巡してから、一気に話し始める。
「君の意にそぐわないことを言うことになるのかな。意見の衝突という事態はあまり前例がない分、いかにして最適解を導き出す議論を行えるかが非常に重要な命題となるかもしれないのだけれど、言語というのは深遠なようで浅薄であり結論を導き出すに至った種々の要素を全て展開することが事実上不可能かもしれないという前提のもとで」
「緊張しすぎ」
 ……いきなりツッコまれた。
「……っそ、そう……かな。しかし、コミュニケーションギャップは意思疎通の妨げとなり誤解を生む結果に繋がりかねない、そのような視点に立ったときに両極端な結論からの歩み寄りという難題は両者にとって非常なストレスの源泉となりうる危険性を孕んでいるという現実を勘案した上で会話内容には細心の注意を払うことが」
「何もそんなに気負わなくてもいいのに」
「い……いやでも、その」
 なんとかことを荒立てまいとする僕の様子が滑稽なのか、智がくすくすと笑い出す。
「惠、可愛い。普段はあんなに冷静沈着なのに、いざ感情が触れるとものすごく動揺しちゃうんだもん」
「えぁ……だ、だって、それは」
「僕が怒ると思ってるの?」
「……」
 あっさり図星を差される。
 だって、怒らないわけがない。田松は智にとってもかけがえのない思い出の詰まった地だ。それは僕の過ごしてきた田松とはまた違う、窮屈にも充実した、太陽の輝きを受けとめるような鮮やかな日々。
 呪われた面々を繋ぎ<同盟>と定義付けしたのは智だし、仲間たちとの日々を創り上げたのも智。
 途中参加の僕とリーダーであった彼では<同盟>への思い入れは全く違うだろう。個性豊かな呪い持ちたちをまとめ上げるのがどれだけ大変だったか、その困難を乗り越えるにどれだけのエネルギーと精神力を要したか、僕には想像がつかない。
 ……それほどの労力を払ったものを、時間を、思考を注ぎこみ、文字通り死力を尽くして作り上げたものを、智は自ら捨ててしまった。
 是非ではなく、それが智の選択だった。
 ……あの屋敷に行くということは、捨てたはずのものに再度触れるということ。
 僕たちがいなくなった今、屋敷に彼女たちが訪れる可能性は限りなく低い。けれど、無関係ではない以上、記憶のトリガーは容赦なく引かれるし、置いてきた心は戻るだろう。それがようやく落ち着き始めた自分たちにもたらす影響は計り知れない。
 ……それに、今の智は<同盟>にいた頃の彼とは違う。
 事実上、僕の状況は以前とあまり変わりない。もとより命を継ぎ足すという罪を重ね続けてきた身、居場所が変わっただけという極論もできなくはない。
 けれど、智は。
 ……自称前向きに卑屈、その実ひたむきで誠実な、無実であった彼はここにはいない。
 今の智は、肉を割く感触を、服が血で濡れた時の重さを、命が潰える瞬間の様子を覚えてしまっている。
 それは決定的な変化だ。一度踏み越えたなら二度と戻れないし、目を逸らすこともできない。智の心に撒かれた種は狂気として芽を出し、ことあるごとに顔を覗かせている。
 本人も、それは少なからず自覚のあることだろう。
 自分はもう、かつての自分ではない――過去との決定的な溝。
 そうと知りながら、無理やり帰還させようとしているのが僕だ。智のことを考えれば、行かない方がいいのは分かりきっている。
 二人だけで生きていくなら、それだけのためなら、僕の結論は間違いだ。
 ……それでも、答えを決めなければならないのなら、行き先がひとつしか選べないのならば、僕は――
「……怒らないよ」
 意外にも、智は微笑む。
「行くんでしょ?」
「……智……」
 言いよどんでいたことを率先して口にしてくれる。見せる表情は妥協ではなく、理解と同意を露にする。
「昨日はごめんね、止めたりして。惠が怒りに任せて先走っちゃいそうでちょっと怖かったんだ。でも、僕が惠の立場だったらって考えると、やっぱり行くと思うんだよね」
「……そうなのかい? けれど、君は」
「『助けたい』って気持ちは強いよ。大事な人のためなら、人はなんだってできる。不可能を可能に、境界線を超えることだってできる。『助けたい』って気持ちを見失わなければ、きっとどんな障害だって乗り越えられる」
 熱っぽく語る姿は、確かに、僕を助けてくれた、認めてくれた智そのものだ。
 文字通りの本心から、僕の決して賢いとは言えない答えを受け止めてくれている。
「惠は、佐知子さんと浜江さんを助けたいんでしょ? 理由なんて、それだけで十分だよ」
 笑顔と共に語るそれは、智を貫く信念なのだろう。
 ――誰かのためなら。
 どことなく現実感のない、不思議な言葉。
 僕は、ずっと自分の為だけに摘んできた。得するのは僕だけで、他の誰にも良い影響を与えなかったし、与えようもなかった。その可能性を考えることすらしてこなかった。
 …‥でも。
 夢で振り返った、出会いの日を思い返す。
 佐知子のためではなかったけれど、あの日がなければ今の佐知子はない。それは紛れもない事実だ。
 かつて、智に語った自己弁護がある。
『いずれ何かを奪うだろう命を先に間引けば――奪われるはずだった命を、ひとつ増やしたことにはならないだろうか』
 あれはただの詭弁で、言い訳だ。
 ……けれど、実例も存在した。
 僕はずっと、佐知子という実例を傍に置き続けていたんだ。
 佐知子を失うということは、救ったはずの命をまた捨てるということ。せっかく繋いだ未来を断ってしまうということだ。
 誰にだって理不尽の拒否権はある。それは一度きりではなく、二度も三度もある。
 どこまでも浅ましい、身勝手な理由ではあるけれど……やっぱり僕は、佐知子を、浜江を、奪われたくない。二人のためなら、危険を冒すことも厭わない。
「惠」
「……ああ」
「助けに行こう、二人を」
「智には不思議な力があるのかな。僕が考えていることなど全てお見通しなのかい?」
「んーにゃ、そんなことはないよ。ただ、自分に当てはめて考えてみたってだけ」
「その発想ができるということそのものが、君の魅力なのだろうね」
「誉められた」
「……ふふ」
「……へへ」
 曖昧にも確かな笑みは、双方了解の合図だ。
 道は決まった。
 自分たちの手で選んだ最初の相手は、大事な人に迫る脅威。
「それでは、智。準備を始めても良いのかな? 今までとは事情が違う、慎重を期す必要があるかもしれない」
「うん、もちろん。十分とは言えないけど、時間はまだあるからね。なるべく完璧に、確実に、容赦なく」
「……ああ」
 ファイリングしてあった資料を取り出し、早速情報を整理し始める智。僕は渡された紙に屋敷の間取り図を書き、相手の行動パターンを絞り込んでいく。
 ……守るための戦い。生まれて初めての、誰かのための一手。
 欺瞞かもしれない。言い訳かもしれない。罪の意識を薄れさせたいだけなのかもしれない。
 それでもいい。二人が助かるのなら、それはきっと意味のあること。
 ――その『誰かのため』が、愛する人が壊れる原因だったとしても。

「組織には連絡が付いている。死体は後で引きとってくれるそうだよ」
「なんてきめ細かなアフターフォロー」
「どうやら、彼らは目立ちすぎているらしいね。ルール無用で暴れまわるせいで、あちこちが迷惑してるんだとか」
「そこで脅迫とか通告で済まないんだから怖いよね」
「通告はしているそうだよ。いきがっている愚か者に賢明なアドバイスは届かないんだろう」
「要は自業自得かぁ」
「連絡係曰く、『いいところに目をつけた』だそうだ」
「だからフォローしてくれるってこと?」
「持ちつ持たれつ、なのだろうね」
 襲撃当日、深夜。闇夜に紛れる格好をした僕たちは最後の打ち合わせをし、現地へ向かう。
 この時間にもなれば住宅街は眠りの闇、通行人もいなければ、猫の一匹も現れない。いつもより若干増えている荷物はコートの裏側、万が一誰かに呼び止められたとしても気づかれることはないだろう。
 万全を期すため、今日は明るいうちから田松に入り込み、ホテルで準備を整えた。もちろん組織の息のかかったところだ。裏社会には裏社会なりの秩序もあればシステムもある。無論、表のそれに比べれば大分危ないけれど、礼節を重んじるという点では似通っている部分もある。役目の割に暴れない僕たちはいわゆる『礼儀正しい』一員なので、頼めば使わせてもらえるというわけだ。
 ……もちろん、失敗すればその特典も消えるのだろうけど、そのときはまたそのとき。
 まずは今を。考えるべきは、今日の大一番を乗り切ることだ。
 身につけた歩き方は、アスファルトを鳴らさない。空気に溶けるように、理不尽の申し子が静けさの中を通り抜ける。
 当然ながら、屋敷に連絡はしていない。中途半端に刺激しても利はないし、終わったら立ち去るんだから、わざわざ声を掛ける必要もない。
 惨劇によって汚れる部屋の処理も組織に頼んである。おそらく、クリーニングの際に僕たちが来たことは知られてしまうだろう。けれど、その時既に離れていればそれほど影響はないはず。二人なら、きっと追ってはこない。
 ……守れればいい。新たに縁をつなぎ直す必要は、ない。
「……」
 しばし行くと、久しく目にしていなかった屋敷の影が視界に現れる。
 ……思うことは、よぎる感傷は噛み潰す。
 あの屋敷は今日の舞台、ただそれだけのことだ。
「……惠」
 珍しく、智がきゅっと腕を握ってくる。思わず立ち止まりかけたところで、抑えに抑えた声で確認される。
「……後悔、しないよね?」
「……なぜ?」
 思わず聞き返す。
 智は一瞬だけ口ごもると、小さく首を振った。
「ただ確かめたかっただけ。心配要らないよ、二人は助かる」
「それは、君のいつもの予感なのかな」
「そう」
 話はそこで切り上げられる。
 沈黙が広がる夜中では些細な音も危険を招くから、やりとりはどうしても簡素になる。本当はしない方がいいぐらいだ。
 ……それでも声をかけてきたということは、何か思うところがあるのだろう。
 できればしっかり確認したい。しかし、鉄の門は眼前に迫り、奴らが来るまではあと30分。詳しく聞くには時間が足りなさすぎる。
 ……きっと、終わればわかることなのだろう。それならば、運命を待つだけだ。
 引っ掛かりを覚えながらも、手早く門を超えて敷地内へ潜り込む。まずは僕が入り、次に智。彼の動きも大分板についてきた。もともと護身術の心得があったからか、教えたことをすんなり身につけてくれるので助かっている。
 ……一緒に奪うんだから脱落なんかしてられないとは、智の談。
 敷地内に入ったら、すぐに玄関に向かう。鍵の開け方は心得ているけれど、さすがに正面突破はしない。賊が入ってくるだろう2階の出窓に上がり、窓の鍵を解除し、そちらから部屋へ潜り込む。
 絨毯が足音をささやかに散らしてくれる。
 ……出迎えたのは、何から何まで記憶に違わぬ一室。
 全身が、覚えるより先に染み込んだ古めかしい匂いを感じ取る。一歩踏み入った瞬間から、襲うようにやってくる記憶の群れ。外の動きに神経を研ぎ澄まし、耐える。
「……」
 事前に打ち合わせした場所へ移動し、罠を張る。今回使うのはピアノ線だ。結びつけてピンと張れば、古典的で効果的な罠の一丁上がり。動揺させればいいだけだから、罠自体は凝らない。手を下すのはあくまで僕だ。
 夜目に慣らし、雑念を脇に置く。
 さあ、ここから先は、怪物の時間。


 ――音。
 集中しているがゆえに大きく聞こえる下世話な足音、続いて窓にヒビが入る。手馴れているのだろう、破裂音は殆どしない。
 睨む。
 窓に映る影は男3人。情報通り。
 なすすべなく、部屋に外気が侵入する。
 入り方、動きを見るに、それなりに慣れてはいるらしい。
 今のところ、こちらには気づいていない。気づくわけもない、彼らにとってこの屋敷は従順な家畜のようなもので、牙を剥かれる可能性すら考慮していないのだから。
 おそらく、彼らの頭の中は下世話な妄想と皮算用で一杯なのだろう。どこまでも下劣な奴ら。
 ……それも、今日で終わりだ。
 ここに来たのが運のつき。ここには、お前たち以上の怪物が息を潜めている。
 静かに、けれど素早く歩を進めるターゲット。
 ――来い。
「お……?」
 一人がピアノ線に掛かる。身体が傾いで――
 ――それは、人知れぬ開始の合図。
 床を蹴る。
「な!?」
 男の視界に僕が入る。おそらくは黒い影――ノロイのようなものとして。
 叩きつけられる理不尽のカウントダウンは、読み上げる間もなく終了する。
 狙うのは頚椎。
 動作は一回。断つのは神経、結果は即死。
「が――――……!?」
 他者には聞こえない音と共に、飛沫が舞う。
 ――ひとりめ。
 彼らの夢物語は、一瞬にして決壊する。
「――――!! お、おい……!?」
 いきなり絶たれた命に動揺するのが一人。
「……っざけんなぁぁぁ!」
 吠えるのが一人。
 どうやら残る二人は大分性格のタイプが違うらしい。最初の一人がどちらだったのかは、もう確かめようがないし、興味もない。
 ……次の相手は、吠えた方か。
「てめぇ……」
「……」
 ゆっくりと、彼らの前に立つ。
「よくもやってくれたな……」
「……」
 一応髑髏の面は着けているけれど、特に驚いた様子はない。恐怖を煽るには一定の効果がある面だけど、怒髪天を衝いた相手にはさすがに通用しないか。それならそれで構わない。既に次の手は打っている。
 ……わざわざ姿を現したのには訳がある。
 広くはない部屋、大の男一人が骸になれば、それだけで一気に移動が制限される。力技はできず、身軽さで作戦を組み立てている身としては、動きにくいのはかなりのマイナスになってしまう。
 だから、あえて姿を見せる。
 犯人として目の前に現れる……それは最大の挑発だ。敵を前に冷静になれる人間などいない。
 案の定――
「死ねやあぁぁぁぁぁ!」
 咆哮が響いた。
 吠えた一人がドスを抜き、僕目がけて突進してくる。もはや遠慮も何も無い。音を立てれば住人が起きてくるという思考すら投げ捨てて、恐怖と憎悪の弾丸と化す。
 ――かかった。
 それでいい。怒りに我を忘れた人間は、味方のサポートすら受け付けない。
 これで一対一。もう一人は隙をついて智が昏倒させる手はずになっている、僕は目の前の憎悪をさばくだけだ。
 視線を定める。
 開け放たれた窓から差し込む月の光にきらめく刃。一般人ならそちらに目を奪われるのだろう。
 けれど僕は……それに興味はない。
 直立姿勢から、すとんと重心を下げる。
「んのぁ!?」
 そのまま足払い。タイミング良く払われた男は前のめりに10センチほど浮き、首の後ろ、即死ポイントを僕の目の前に晒す。
 ……ほら、予想通り。
 シミュレーションに沿って、コートに隠しておいた2本目のナイフを取り出す。
 両手を添える。
 ――ふたりめ――
「――――……!」
 数十キロの塊が絨毯に転がる。
 昏い赤。悲鳴はない。
 むせ返るような血の匂いにくらりとする。首を締める時間がないから刺殺を選んだとはいえ、予想以上だ。でも、それにひるんでいる暇はない。
 さあ、残るはあと一人……
 
 ――そこで。
 気配が予想よりひとつ多いことに気づく。
 それは僕の真後ろ、いるはずのない場所。
 4人目……!?
「……っ!?」
 予想外の事態に、反応が遅れる。
 それを分かっていたかのように、招かれざる訪問者のナイフが僕目がけて振り下ろされる。
 狙われた急所はガラ空きだ。さっき仕留めた2人がそうであったように。
 目を見開く。
 コマ送り。
 ――まずい、今の状態で一撃受けたら、残りが――!
 身体が遅い。焦りすら遅い。反射が現実についていかない。
 心臓が危険に悲鳴をあげる。覚悟すら手遅れだ。
 ここで繰り広げられているのは、争いではなく、命の取り合い。
 慣れているのか、本能なのか、相手はそのステージで僕を狩りにかかる。
 避けられない、貫かれる、摘まれる――終わ――
 ――死――
「……っらあぁぁぁ!」
 刃が触れる――その間際、男に飛びかかる影がひとつ。
 ――智!
「うおっ!?」
 これは相手も予想外だったのか、バランスを崩して後ろにのけぞる。
 ――今だ!
 迷うより先に身体が反応する。ほとんど条件反射の、がむしゃらのようで的確な動き。
 一歩踏み出す。急所を捉える。それは能力ではなく、経験が生んだ呪われた実力。この体格ならば骨がどんな風についていて、どこを刺せばいいか、頭より先に身体が理解する。
 思考や感情の入る余地はない。けれど機械的な動きでもない。
 ――それは、怪物の所作。
 まっすぐに――刺されるはずだった怪物は、危機をそのまま跳ね返す。
「――――……!」
 手応えは、あった。
 肋骨にかすることすらなく、一撃は的確に心臓を貫く。
 ――さんにん、め。
 実感に、冷や汗が吹き出す。
 これで、これで終わるはず――だった。
「っひぃぃぃぃぃ!!」
「!」
 けれどやっぱり相手は4人。残された、予想外のひとつが情けない悲鳴をあげる。
 慌てて振り返ると、それは窓に足をかけ逃げ出す寸前。
「――待て!」
 反射的に声が出る。けれどそれは無駄な抵抗。
 こちらが動くのと相手が窓から出るのはほぼ同時。間に合わない。駆け寄って窓の外を見れば、走り去る影は既に小さくなっている。
「……っ……!」
 追おうにも、到底追いつけない距離が開いてしまっている。
 ――逃がした、しくじった――
 悪寒が背筋を走り抜ける。
 4人目がいるなんて聞いていない。直前で人数を変更したのか? 何の目的で? 逃げた奴の素性は? この失敗で、次の僕たちは――
「……ぐ、……」
 さらに、焦る僕に追い打ちをかけるように、小さく掠れた声が届く。
「……っ、う……うぅ」
 それは、聞いたことのない声。
 聞き慣れているのに、もう散々聞いている声なのに、覚えのない呻き。
「……と、も?」
「……っう……いた、いづ……」
 把握するのに時間がかかる。
「智……!?」
 3つの死体の間、絶対に居たくないような位置からから漏れる智の声。
 なんで、そんなところ……疑問より先に駆け寄る。
 暗がりに沈む姿を手探りで探し当てて――
 「智、どうしたんだ、何が……っ!?」
 確かめるまでもなく。
 智に触れた手が、ぬるりと滑る。温度のある、水ではない液体。
 流れ伝うもの、それは事切れた骸から出ているものと同じ、命のぬめり。
 量は少なくはない。
 これ、は――
「……あ……?」
 嘘だ。
 まさか、こんな、こんな、ことが。
 色んなものが剥げ落ちる。やろうとしていたことも、これからの手順も、全部吹き飛んでしまう。
 智、が。
 現実が、感触が、理性を奪い取る。
 智が。
 僕に全てを賭けてくれた智。罪深さを受け入れ、手を取ってくれた智。培った日々を捨ててまで僕を選んでくれた智。他のあらゆるものと引換えてでも守りたい、唯一無二の、僕の、智。
 それがどうして、どうしてこんな目に――
 僕の。
 僕の、わがままのせいで――……!
「と……も……」
 頭が働かない。ただもう抜け殻になるばかり。
 動けない。身体が重いのではなく、役目をなさない。電池が切れた機械のように、ただただへたり込む。
 現実感がない。心が拒否反応で埋め尽くされて、状況把握ができない。
 こちらへ向かってくる足音も。
 扉が開く音も、向けられる懐中電灯の光も。
「一体なにごとで――え……な、ぁ……!?」
 驚愕に目を見開く、会いたくなかったはずの人の顔も。
 今、自分が置かれている何もかもが、どうしようもなく、遠かった。