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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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狭い夜、広すぎる朝に 


狭い夜、広すぎる朝に


「おはよう、智」
 ふわんとした暖かさに、意識が浮上する。半分まどろみながら、睫毛を気にしながら目を開ける。
 おはよう、と言われたはずなのに、随分暗い。あと、身体が横ではなく、机に突っ伏している格好だ。顔を上げて辺りを見回すと、どうやら教室の、窓際の席にいるらしいことがわかる。ガラス窓の向こうには夜、ううん、闇色がひたすら広がっている。
 ……?
「起きたんだね」
 もう一度声がかけられて、体温がほっぺたに。横を見ると、薄明かりの中で僕を見ている子。誰だろう、と思うなり、降り積もった記憶から答えが飛び出す。
「惠? ……惠なの?」
「ああ」
 その一言で、これが夢なのだと悟る。だって、惠が嘘をついていない。
 おはようと言われたのに、目覚めたのは夜の夢の中、どうにも不思議。
 教室とおぼしき空間は、二人以外には気配もない。明かりはぼくらの机のところだけ、それも電気や炎の明かりではないみたいだ。ぼやぼやと、切り離されたようにして、ふたりだけが暗闇に浮いている。
「っくし」
 小さくくしゃみをする。
「寒い、かい?」
 ブランケットだろうか、肌触りのいい布が肩にかけられる。ほとんど反射的に、それをぎゅっと掴む。
 寒い……のかな?
 ちょっと考えて、首を振る。今感じているのは、おそらく身体的な寒さとは別物だ。
「特に寒いわけじゃないんだけど……なんかね、心の奥が震えてる気がする。吹きっ晒しの風に体温取られちゃってる感じなんだ」
「……ああ。きっと、みんなもそうだよ」
「みんな?」
「今日、ここにはいないみたいだ。だけどいるよ」
 相変わらずの謎掛け。この空間の中では本当のことが言えるみたいなのに、それでも曖昧。
「じゃあ、どうして惠はここにいるの?」
「さあ、なぜだろう? あの時、君が僕を招待してくれたからかもしれない」
 あのとき。
 そう言われて思い出すのは、幻に限り無く近い、けれどたしかにあった時間。
 出しようもない答えを探して二人でいろんなコトを語り合った、可能性のどん詰まりでのできごと――目覚めた瞬間に、現実にかき消されてしまったはずの記憶。
 それが僕にも戻っている。おそらくは、今隣にいる惠にも。
 ……じゃあここは、いわゆる夢じゃなくて、あの空間の延長線上なのか。広義には夢に含まれても、脳の記憶整理の副産物とは違う、現在と未来の隙間を埋める『観測所』――僕の能力の結果。
「でも、今日は僕は力は使ってない……と、思うんだけど」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。力は意識的に使うこともできるし、無意識に使われることもあるんじゃないかな。君の力は心に連動するものだからね」
「……そうだね。僕、『君』にまた会えて嬉しいな」
「喜んでくれるかい?」
「うん」
「それなら良かった」
 微笑みかけてくれる。それだけで、なぜだかとても安心する。自然と顔が緩む。
「……笑ってくれたね、智」
 そんな僕を見て、惠がさらに目を細める。
「さっきまで、とてもつらそうな顔をしていたから」
「そ、そう?」
「ああ。自分の顔は自分では見えない。だから、思っていたのと違う表情をしていることもあるんじゃないかな」
「そっか……ごめん」
「いいや。想いが顔に出るのは良いことだ」
 今度はふわっと抱きしめられる。色ではないぬくもりが、おぼろげに伝わってくる鼓動が、ごく近くで時間を刻む。辺りは相変わらず暗く、なぜかうねうねと動いているように思える。牙も毒もない、むしろそれを奪うかのような黒さは、まるで僕らを飲み込もうとしているみたいだ。
 ぎゅっと目を閉じて、惠を、一緒にいてくれる存在をより強く確かめる。耳に届くのは穏やかな、だけど少し張り詰めた息遣い。
「あったかいね、智」
「……惠こそ」
「そうなのかい? 自分のことは、自分ではわからない」
「お互い様だよ」
「ああ、きっと」
 ゆっくりと深呼吸。内側の震えは消えはしないけれど、二人分の体温が少し忘れさせてくれる。
 ……けれど、それは一時しのぎでしかない。
 おそらく長くはないだろう時間が経って、二人は自然に身を起こす。目を閉じて抱き合っているだけでは、この教室の暗さには立ち向かえない、お互いが、無意識にそう感じたんだろう。
 止まることは、すなわち――
「ここ、出ようか」
「ああ……違う景色を見たほうがいいかもしれない」
「違う景色……どこがあるかな」
「ここは君の作る世界だ。君が望めば、きっと出口はあるよ」
「んにゅ……」
 ちょっと考える。気分を変えたい時に行く場所、僕が安らぐ場所……くるくると思考を回せば、かちん、と歯車が噛み合う。
「決めた」
 視線を動かすと、まっくろな教室の出口に、非常灯のような四角い緑の明かりが灯っている。惠の言うとおり、ここはある程度は僕の願いを反映してくれるらしい。僕らの周りとあの出口以外は暗いから、全部が全部というわけにはいかないみたいだけど。
「よし、行こう」
 立ち上がって、惠の手を引く。彼女は何も言わずについてくる。てのひら同士だけの、ほんの僅かな繋がりを頼りにしながら、一歩一歩前へ踏み出す。
 こん、と足に机らしきものがぶつかる。痛くはない。けれど、硬さに触れるたびに肺が締め付けられる。
「……」
「……」
 暗い中の一歩はやけに小さくて、明かりは永遠に遠い気がして、お腹の中が震え続ける。お腹は空いてないけれど、空洞になっているような奇妙な空虚感。ぎゅっと唇を噛み締めて、足を止めないように、それだけを考える。
 惠は何も話さない。時折、手がぎゅっと強く握られる。彼女も歯を食いしばっているんだろう。静かな中で、湧き上がる想いをこらえているんだろう。
 語らないことで生きてきた彼女は、それが許されたからといって、一気に感情を解き放つことなどできない。日々という名の魂は降り積もり、人格というかたちを作る。何に制約されたものであっても、重ねてきたことは事実。過去が作った現在という名のガラス瓶は、そう容易には形を変えられないのだ。
 僕が、呪いが解ける可能性を引き当てた先ですら、男の子に戻るのに相当な時間を要したように。可能性のある世界で、僕が女の子の姿を、惠が咎を背負う姿をしているように。
 ここは、僕の能力が創りだした場所。だから僕が嘘と知っていることを反映することはできない。
 ようやく、扉に辿り着く。ドアノブは痛いほどに冷たい。思わず弾くように手を離すと、反対の手を後ろでぎゅっと握られる。
「うん」
 振り返らずに、頷く。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 ぎりっと奥歯を噛んで、身体全体で扉を押す。体温が吸い取られる。重力に横殴りにされる錯覚、きしむ金属音すら恐れを増幅させる。隙間から吹き込む風は、緩やかなのに吹き飛ばされそうな錯覚を起こす。半分目を閉じながら、一歩と言えないほどの歩幅で、じり、じりりと進む。
 冷える身体に、ぬくもりがかぶさる。歩幅が広がる。惠が一緒に押してくれているらしい。目を開けられないから、彼女なのかそうでないのかはわからないけれど……惠なら、こういうときに寄り添ってくれる。
 ともかく、扉を開けることに成功。顔を前に向ける。
 ――その先は、やっぱり真っ暗。
「あれ……」
 思わず呆然とする。
 暗い部屋の扉の先には、あの明るい場所だと思っていたのに――広がるのはただ、風通しのいい夜。かろうじて見える床は覚えがあるものだけど、居並ぶはずのビルの電気は一つも付いていない、ただひたすら、ほんとうの意味での夜景だけ。
 ぶるり、と、今度は身体全体が震える。肩にかかったままのブランケットを握りしめる。誰もいなくて、視界はひらけているのに見えなくて、涙は出そうで出ない。泣いちゃいけないと首を下げて、身を縮こまらせる。
 僕らしいといえば僕らしい、呪われた行き先――自分で自分に泣けてくる。
「智」
 声がする。連れてきた、付いてきてくれた惠の声だ。
「どうやら、溜まり場のようだね。夜だから見慣れない景色になっているんだろう」
「……惠にも、そう見える?」
「ああ。間違いなく、僕たちが集ってきた場所だよ」
 間違いない、なんて彼女らしくもない言葉。それが僕を勇気づける。
 僕は夜を重く見た。惠は溜まり場であることを重く見た。静かで確かな差がそこにはある。一人では気づかないことを、二人がそれぞれ見つめている。
 手を引いて、恐る恐る一歩、二歩。革靴ごしに伝わってくる硬さは、まぎれもなく溜まり場のコンクリートだ。
 次第に目が慣れ、輪郭が捉えられるようになる。なるほど、黒一色に見えた世界は、目を凝らせば様々なものが居並んでいた。溜まり場だけがあるんじゃなくて、周りの建物もきちんとある。
 そのどれもが光を持たず、寝静まっているけれど――景色があることに、ほんの僅かだけ安堵する。
「それにしても、どうして夜なんだろう。いつもは昼にみんなで集まってるのに」
「僕が君を好きだからじゃないかな。言い換えるなら」
「……好きだと、言えるから?」
「そう」
 いつの間にか隣に並んでいた惠の顔を見る。目が慣れた今なら、明かりがなくてもおぼろげに表情が分かる。
 ――寂しそう。
「太陽の下で『僕』が語らう未来は、そんな簡単に得られるものではないんだろうね」
「……うん……」
 昼間――現実の惠は、伝えたい想いを伝えられない。気持ちが強ければ強いほどに、押し込めて、押しつぶさなければならなくなる。ちょっと口を滑らせただけで終焉がやってくる、綱渡りの一日一日。
 それでも彼女は、危険を承知でみんなと居ようとする。嘘つきのままで生きようとする。
 ……だから、ここは夜なんだ。
 真実を許される惠とみんなが集う溜まり場は相反する。可能性の旅路、望むゴールをまだ見つけられない僕は、真実を語る彼女を呼ぶことはできても、陽のあたる場所に招くことまではできないんだろう。
 それは僕の力不足なのか、それとも――
 よぎる諦めを振り払い、端まで歩いてみる。見下ろせば、底の見えない闇がたゆたう。昼間訪れるときはあんなに輝いて心地いい場所なのに、今はどこまで落ちるのかすらわからない深さに取り囲まれている。
 いや、もともとそういうものかもしれない。仲間と手を取り合っている間は忘れそうになるけれど、僕たちが呪われている事実は決して揺らぐことはない。呪いを解くことは結末にはなっても解決にはならないんだ。惠を呼ぶ僕は、答えのなさを知っている。
 どん底まで落ちれば這い上がれる、そんな言葉をよく聞く。
 けれどもし、どん底が存在しないのだとしたら? 
「……っ」
 その果てしなさに心が縮み上がる。
 叶わぬ願いなんて口が裂けても言いたくないし、信じたくない。だって、僕は呪いなき惠をここに引き寄せることができる。ここから現実への道を拓くことも、できないって決まったわけじゃない。やり方が解らないだけで、やり方自体はきっと存在するんだ。
 そう思わなきゃ、やっていけない。こんな希望そのものの能力を持ちながら、本当にやりたいことに届かないなんて――
「智」
「ふにょ!?」
 腰に手が回された。と思ったら、ぽてん、と後ろに尻餅をつく格好になる。背中は体温に支えられ、安定する。優しく、あやすように頭を撫でられる。
「君は想いが強いね。その分、絶望も強く引き寄せてしまう」
 不安の羽を掬うような、穏やかな音色が耳に届く。
「どうしたら……って、考えちゃうんだよね、やっぱり。半端にできるからなおさら」
「最善を選り好みすることは、正しいとは限らないんじゃないかな」
「僕は君を諦めないよ」
「……招かれざる客のはずの僕が、こうして君と一緒にいる。それが何よりの証拠なんだろうね」
「うん」
「どうしても、僕を手放したくない?」
「もちろん」
「じゃあ、暫くはこのままで」
「はーい」
 おしりは冷たい……けど、抱きすくめられているからか、それほど気にはならない。
 ……抱きすくめられてる?
「……あぅ、また逆だ」
「ふふっ」
「どうしてそう、惠が主導権取っちゃうかなぁ」
「逆だったら珍妙な光景にならないかい?」
 想像してみた。
「……このほうがしっくりきます」
「適材適所だよ」
「むー……」
 分かっていてもなんか悔しい。個性と言えばそれまでなんだけど、こう、オトコノコらしく振舞いたいという気持ちはあるのです。
 ……まあ、惠にはもともとオンナノコらしく振舞おうという気がないしなぁ。二人が誰も誤解しない姿になる未来は、いうなればハッピーエンドの後のエキストラ。一足飛びにそこまで行こうなんて現実逃避にも程がある。
 今の僕たちは、今の僕たちだから意味がある。
 静かな時間。夜になお残るはずの雑踏の音も、車の音もない。風は耳に残らず流れていく。
 世界に二人きり――
 ううん、違う。景色の中に、世界の中に、二人がいる。
 そのことに何よりも安心する。夜ならではのしぃんとした空気すら、なんだか心地いい。
 目が冴えていて、でもどこか夢見心地。いつまでもこうしていたいとちょっと思う。
 と――藍色に染まった灰色の腕が、空を指す。
「智。上を見てごらん」
「上……あ……」
 言われたとおりにして――思わずぽかんと口を開ける。
「星……」
 間抜けな声が出る。とても子どもじみた、素直な感想が零れ落ちる。
「あんなに……いっぱい……」
 圧倒される光景があった。
 散り散りの光の粒が、形をなさない、無数の形を結べる点が一面に広がっている。満天の星空、天の川――空の色を変えるほどには強くなく、けれど飲み込まれるほどには弱くなく――ただ、己の光を放ち続ける星々の連なり。数えきれない姿が暗闇に散りばめられ、じっと、じっと輝いている。
「綺麗だろう?」
「うん、綺麗……」
 僕たち以外を招かない溜まり場は、自然の沈黙に微睡んでいる。その上に広がる、人々が『暗闇』と名づけ恐れる空間を彩る生命。
 手の届かないところで、それぞれにそっぽを向きながら、自分たちの出来る限りを見せてくれる星々。星が生きていると言われても普段はピンとこないけれど、今日は、この空間では別だ。
「いくつあるのか、数えてみようか」
「……さすがにそれは無理だよ」
「そうかもしれない。それぐらい多くの生命に、僕たちの触れ合いが見守られている」
「月が見てる的なこと言わないでっ!?」
 なんかものすごく恥ずかしい。星に知り合いはいないけど、その……あう。
「大丈夫。星の方だって、数えきれないほどの生命を見ているよ」
「っそ、そもそもこんな遠くにいるんだから見えてないんじゃないかなぁ」
「僕たちには見えているのに、かい?」
「うっ」
「見せつければいいじゃないか」
「趣味悪いよそれ!?」
「ダメかい?」
「……見られるのは、ダメです」
「多分、動かぬ証拠は押さえられているんじゃないかな」
「ひにゃー……」
 自分の行動を全力で取り消したくなる。もちろん僕だってバカじゃない、星に僕たちと同じような意志があるなんて欠片も思ってない。けど、誰かに、何かに見られているということが恥ずかしい。
 世界に自分たち以外の生き物がいるなんて、常識以前に当然のことだ。あまりにもありふれているから忘れてしまう。思い出せるのは、ここが夢とも現実とも違う、境目だからかもしれない。
「僕たちはいつも、無数に近い生命に囲まれて生きている。その中には僕たちを認識している生命もあれば、そうでない生命もある。だが、いずれにせよ、世界は生命で作られている。僕たちもそのひとつ」
 惠がほろほろとつぶやくのは、お芝居の台詞の様な言葉の羅列。浮世離れした表現は気取るためのものではなく、伝えるためのもの。
 揺りかごのように身体を揺らしつつ、惠は続ける。
「君と、君が招いたこの僕には、仲間のある日々の喜びが刻み込まれている。もし僕たちが孤独しか知らなかったら、空を見上げることもできなかっただろう。下を向いて歯を食いしばって、見守る光に気づけなかっただろう」
「僕は、惠が教えてくれたから」
「僕が一人であったなら、君と同じ行動をしていたよ」
「そうなの?」
「空も星も、一人で見上げるには遠すぎるんだ。手の届かない美しさは、恐れにも繋がる」
 腕に力が込められ、身体の密着度が上がる。
「ここは、君の能力が作った可能性の世界だ。だから、パーツは揃わない。もし君がみんなをここに招くなら、その中に僕はいないだろう。それが『今は』なのか『永久に』なのかは、誰にもわからない」
「永久ってことはないよ」
 根拠も何もなく、即座に否定する。
「だって、そしたらここは僕の逃げ場所になってしまう。ここは叶わぬ夢を詰め込むところじゃないんだ」
「ああ。だから、ここには無数の星がいる」
「真っ暗闇だと思ってた。僕が見てないだけなのに」
「僕らの生きる世界に、触れられる生命がいくつあるかはわからない。触れないものが大多数だろう。しかも、ごくわずかの触れた生命の中に、僕が摘んでしまうものが、踏みにじってしまうものが沢山ある、山ほど、数えるのをやめてしまうぐらいに」
 細く長いため息。惠が惠自身に抱くやりきれなさが、温度を残した小さな風になる。
「ねえ、智。どうして僕が、今まで生きてきたのだと思う?」
「……」
 その問いは、額面通りの答えを期待していない。聞いているのはシステムや能力ではなく、それを使った、選んだ理由だ。
「生きていてもいいことなんか何も無い――そう語った生命は奪われた。けれど、彼の言葉は否定されなかったよ。あの日、彼が納得するような反論は落ちていなかった。少なくとも、あの日はね」
 あの日……惠が初めて生命を手にした日。
「ひとつに見える結果は、その実、幾重にも連鎖した因果関係の織物だ。君に出会うという事象の前には、連綿と続く原因がある。それを辿りにたどっていけば、やがて原点に行きつく。愚かな小娘の選択の根拠は、とても単純だった」
 その時の彼女はどうだっただろう。親を理不尽に失い、感情を吐き出すことも許されず、見知らぬ男たちに道具として連れてこられ、奴隷の扱いを受け、早過ぎる宣告に怯え、代償のおぞましさに震え――それでも投げ出さなかった。
 惠は生きることを選んだ、それは事実だ。生かされていたのではない、生きてきた。壊れそうになりながら、狂いそうになりながら、あえて苦しみの中で踏みとどまってきた。
 普通ならできない、と思う。理性も生命も手放さず、選択を続けたのは、続けられたのは――どうして?
「僕の能力は、発動した瞬間に最強の希望を見せるんだ。同時に絶望も見せるけれど、希望の方が遥かに強大だ」
 単純で大仰な比較表現。それがかえって、彼女の想いの強さを物語る。
「それは、あまりに大きすぎて人々は振り返ることすらしない、全ての土台だ。何よりも眩く深く重く、揺るぎない、僕を捉えて離さない至高の希望。その輝きたるや、付随するあらゆる絶望を霞ませてしまうほどだ。僕はずっとそれに焦がれてきた、求め続けてきた。そして、これからも焦がれ、心を灼かれ、すがり続けるだろう」
 きつく抱きしめられる。心なしか惠の身体が震え、泣いているような息遣いになる。
 黙ってそれを受け止める。数多の生命を奪った手のぬくもりを、刻まれ続ける鼓動を受け止める。
「我に帰れば擦り切れる。我を捨てれば意味を失う。幸福など求めるべくもない、許されない。明日が良き日であるようにと願うことすら虚しかった。まともな扱いを受けないことが罪滅しにすら思えた。それでも、希望は潰えなかった、僕を捕らえて離さなかった。君には、その希望の意味がわかるかい」
「――『生きること』」
「正解だよ、智」
 肩に顎を乗せられる。すり、とほっぺたを擦り合わせる。あったかくて柔らかい。
「希望は絶望の苗床、全ての始まりだ。どれだけ絶望が生い茂っても、覆い尽くしても、失われることはない。生はそれ自体、何ものにも侵されない至高の希望なんだ。そして僕は事あるごとに地に倒れ伏し、希望の大地を感じ取ってきた。君が何度でもやり直したように、僕は何度でも立ち上がってきた。咎の鎖に締め付けられながらも、進んできた」
「惠……」
「いかなる理性も倫理も、生きるという希望には勝てない。才野原の運命に生まれた僕はそれを知ってしまった。だから、君たちに出会うまで、ここまで僕は」
 失ったものがどれだけ多くても、払う犠牲がどれほど積み重なっても、心が金切り声を上げ続けても――それでも、惠は希望に憑かれる。
 異種族を相手取るがために僕たちが忘れられる殺の事実を、惠は自らに刻み続けなければならない。『生命は平等、でも異種族は別』という人間様のご都合主義から弾きだされ、自らの行いを悔い、罪悪感に喰われ続ける。それでも翻せない、捨ててしまえない、『生きる』という希望。
 惠は、生に呪われたのだ。
 そして――その呪いこそが、僕と惠を、みんなを出会わせた。
 彼女が希望に心を奪われなければ、希望が照らす絶望の旅路を歩き出さなければ、僕らは出会えなかった。惠が諦めていたら、僕たちは何もできなかった。
 希望が、僕らを出会わせた。希望が、僕らをかき乱した。希望が、僕らの背中を押し続ける。
 全ては、生きるという呪いから始まった。
「だから僕は、こうして君に招かれることができる。君の願いと僕の願いは重なり合っている。多分、僕たちはとても良く似ているんだ。形は違えど運命を変える能力を持ち、多大な犠牲と引換えにそれを行使できるのだから」
 誰かが聞いたら怒り出しそうなことをさらっという惠。それも、ここにみんながいないから。
 二人にあるのは『使うのを諦められない』能力であり、『使えば必ず誰かに影響を及ぼす』能力。惠の方がより直接的だけど、僕も同じような結果を引き寄せることはできるし、姉さんはそうしてきた。見てきた未来の中で、僕がそれを選んだこともあった。
「……君は、僕と一緒に剣を取ってくれた」
「うん。残念ながら僕はそういう奴なんだ」
「途中までは、あんなに必死で止めていたのにね」
「……僕には、惠だって希望なんだよ。希望を失う苦しさ、知ってるでしょ?」
 あいにく僕たちはちっぽけで、生き汚く、おまけに生きる楽しさまで知っている。だから逃れられず、この能力を手放せない。
 綺麗事など放り投げた、エゴ丸出しの二人。
「善悪も、正しさも、絶望と同じだ。希望の上に芽生え、風に揺れる」
「地面に寝っ転がる機会も減ったからね。僕たち、いつも二本足なんて小さなもので立ってる」
「ああ」
 身体がさらに傾く。ゆっくりと、僕を抱きしめたままで惠が寝転ぶ。視界いっぱいの星空。とても遠く、けれど力強い。
 ――こんなに素晴らしい景色、呪いたくたって呪えない。
「……僕なんかの弱音を聞かされて、気分が悪くないかい?」
「ぜんぜん。むしろ特権だよね」
「そういう考え方もあるのか」
「たとえ呪いがなかったとしても、みんなにはこんな話しないでしょ」
「……そうだね、確かにこれは、智だけの特権だ」
 ここではない僕――惠を選んだ僕でさえ、彼女の運命を真正面から受け止めることはできなかった。狂気の線を踏み越え、別の生き物になることでしか寄り添えなかった。秘密が明るみに出たときは、惠はあれほど焦がれた希望を捨て、自らを滅ぼした。
 それは、惠と皆の断絶だ。彼女を貫く希望の重みは、夭折の運命を持たない者には計れない。僕の理解だって、近いかもしれない勘違いに過ぎないだろう。
 だけど僕は彼女を呼ぶ。だから僕は彼女を呼ぶ。
 生きていれば、語り合うことができるから。
「あ……」
 藍色に、白が混ざり始める。
 朝だ。
「……ここ、時間も動いてたんだね」
「君がそれを望んだんだろう?」
「惠もね」
「……ああ。ここは居心地がいいし、君と愛を深めることもできるけれど、切り拓けるところではないからね」
「現実だって、うまくいくものでもないけど」
「けれど、希望だよ」
「うん」
「……また、会わせてくれるかい? 智」
「もちろんだよ。昼の溜まり場に『君』を招けるその日まで、僕は絶対に諦めない」
「ならば僕も、諦めないでいよう。また忘れてしまっても、それだけは続けてしまうだろうから」
「呪われた世界だけど」
「ああ――呪われてるけれど、生きているからね」
 空がどんどん白んでいく。それが現実の朝とリンクしているのを本能的に感じ取る。
「それじゃあ、またね、惠」
「おやすみ、智」
 振り返って、正面から抱きついて、キスをする。
 二人はそのまま、固く固くお互いを結び合って――朝へ、飛び込んでいく。


「ふみゅるる……」
 朝日の差し込みは春のそれ。体内時計が季節の移り変わりをきっちり反映してくれている。目覚まし時計を見れば鳴るまであと十分。
「むー……ん」
 二度寝するにも中途半端なので、ベッドから降りて大きく伸びをする。
 何やらいい夢を見たような気がする。内容は思い出せないけど――思い出さなくてもいい、のかもしれない。なんとなく、その記憶は胸の奥底にそっとしまっておきたい気がした。
 さっと部屋着に着替え、顔を洗う。冷たい水できゅっと気が引き締まる。お肌にはぬるま湯がいいらしいんだけど、個人的意は冷水の方が好みだ。
 肌を刺激しないよう丁寧に拭いて、化粧水をつけて。いつもどおりのお手入れに、ちょっとだけ気合を入れる。特に意味はない、気分の問題。お肌の調子がいいと嬉しいし、いいことありそうな予感がしてくる。根拠を問うのはナンセンス。今日はいい日になると決めたら、いい日を引き寄せることだってできる――最近、そんな気がしてる。
 姿見でちゃんと確認してから、勢い良くカーテンをオープン。日差しはまっすぐに顔を、身体を照らす。
 目を開けていられないほどに眩く容赦なく、力強くて温かい――希望の朝。
「希望の朝、って、随分熱血だなぁ」
 自分で思いついたフレーズに苦笑いしつつ、もう一度伸び。そのまま身体を横に曲げたり前後に曲げたり、ラジオ体操の真似事をしてみる。
 気分がいいし、朝ごはんにも気合を入れてみよう。フレンチトーストとかパンケーキもありかな。気合入れるとつい作りすぎちゃうんだけど……余ったら溜まり場に持っていけばいいか。いっそ全員に行き渡るように作るのも手かもしれない。うん、そうしよう。多分、みんな喜んでくれる。
 さっとエプロンをかけて、冷蔵庫や棚から材料を取り出す。自然と笑みがこぼれてくるのは、天気も上々だからかな。些細なことの積み重ねが、幸せを演出する。我ながら現金、それでもいいじゃない。
 一旦深呼吸して、太陽を見上げる。

 ――おはよう、呪われた世界。
 さあ、今日もまた、一歩目を踏み出そう――