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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 48 


 足が、地面を踏んでいる感触がない。
 目が、この景色をはっきりと見ている感覚がない。
 胸が身体の半分ぐらいまで膨張して、今にも割れそうな風船みたいだ。
 吸い込む空気が喉を砂漠のように乾かす。肌はもうとっくに干からびて、チリチリと不快なしびれを訴える。
「め……ぐ……?」
 一歩が遠くて近い。近づきたいようで近づきたくない。
 会いたかった。
 ……だけど、だけど……こんな彼女を見たかった訳じゃ……!
「惠さん、智さんですよ。智さん、が……来て……くださいましたよ……」
 佐知子さんが惠の頭をなでて声をかける。最後は涙でかすれてほとんど聞こえない。
 その声が引き金となり、転びそうになりながらベッドに駆け寄る。崩れ落ちるようにひざをつく。
 間近にある惠の顔は真っ白だ。明らかに病人、それも末期状態の色。崩れてしまいそうで、恐怖すら覚える。
「智さん……」
 促され、惠の頬に触れる。
 ――つめたくは、ない。体温は、まだ、ある。
 だけどそれは、今にも消えそうな心許ないぬくもり。
 惠の頬に、ぽつんと涙が落ちる。僕が零したんだと気づいたのは息が苦しくなってからだ。
 何が、あったのか。
 この間の事件から、まだたったの三日しか経ってないのに。三日前は元気……じゃなかったけど、でもこんな、命にかかわるような状態じゃなかった。
 それに、彼女は人並み外れた再生力の持ち主だ。ちょっとやそっとでここまで悪くなるはずがない。
 ちょっと目を離すだけで、どんどん追い詰められていってしまう惠。
 ……ここまで、どうしてここまで……!
「……と、も?」
 人形のようだった身体が僅かに動いた。
「!」
「惠さん!」
 惠がうっすらと目を開ける。焦点すらぼやけた、滲んで力のない瞳。普段の……ううん、普段の姿を思い出すのすら辛い。
「あ……ぁ、ともだ……智だぁ……」
 力のない、ろれつも回らない小さな声。
 死に削られていく魂。赤の他人にすら限界のラインがはっきりと見えてしまう、痩せこけ、生命力を失った姿。
 問答無用で掻き抱きたくなる。だけど身体は反応しない。
 ……恐れている。
 惠の現状をこれ以上知ることを、本能が拒否している。
 ふざけた弱さ。
「智……どう、したんだい……もう、来て……くれな」
「来るよ! 来る、来たよ、会いたかったよ……!」
「……こんな、姿、で……」
「そんなのいいよ、いいからっ……!」
 なんとか手を握る。かろうじて握り返してはくれるものの、込められる力は弱々しい。
 涙があふれそうな気持ちなのに、目の水分は枯渇して痛い。泣くのももちろんダメだけど、今の僕には泣く余裕すらない。
 渦巻く疑問と無力感。できる限りはやってきた、そんな僅かな自負さえ鼻で笑いたくなる。彼女の運命が強すぎるのか、僕が弱すぎるのか。きっと両方だ。やることなすこと全てが後手後手で、急斜面を転げ落ちる彼女を止められない。下支えしたところで、その足場自体が崩れてしまったら元も子もないのに、足場まで手が届かない。
 慰めも励ましも浮かばず、ただただ黙って手を握り続ける。気力を振り絞ってようやく出る細い息遣いが胸に刺さる。
 重々しく寝がえりを打ち、身体全体でこっちを向く惠。僕の手を両手で包み、壊れそうに儚い笑みを見せる。
「……」
 言いたいことは沢山あるんだろう。けれど、惠の口は動かず、ただ微笑み続ける。
 ……言えないんだ。
 こんな状態で嘘がつけるはずがない。僕が来たことを素直に喜んだりすれば、最悪の上に最悪が重なってしまう。極限状態ですら、呪いは容赦なく僕らを狙い続ける。いや、極限状態こそ、呪いを最も踏みやすい。
 震える手で惠の頭を撫でる。さらさらの髪、思いだすのは二人で睦み合った日のこと。幸せの断片はおぞましい現実をさらに引き立て、心をえぐる。
 僕たちはただ、好き合って、一緒にいたかっただけだ。そのために今まで頑張ってきた。
 なのに、全てが空回りする。全てが、惠を追い詰めていく。
 まるで、彼女の生そのものをせせら笑うかのように、事態は悪化の一途をたどる。
 息苦しい間。切なさがかまいたちのように心を切り裂いていく。
「……呪い、は」
 かろうじて、惠が話題を選ぶ。
「え……」
「……呪いは、とけそう、かい……?」
 出たのは……僕らを苛む元凶。考えたくないのに、考えずにはいられない悪魔のこと。
「……」
 答えられず、口を閉ざす。
 僕たちがずっと求めてきたもの。僕たちの、同盟の最終目的。
 ……そして、仲間と彼女を引き裂いたもの。
「そろそろ、なんだね……はは……」
「……惠……」
 力なく、喜びとも落胆とも諦めともつかない乾いた笑い声を出す。
「……きみが、ここに来られたんだ……そういうこと、だろう……?」
「……うん……」
「じゃあ、もたせない、と」
 荒い息に混じる言葉は途切れ途切れで苦しげなのに、どこか悟ったようですらある。
「きょう、かな、明日……か、な……」
「今、最終調整に入ってる。今日中か……遅くても明日には、準備が整うと思う」
「そっ、か……これで、みんな、は……ッ!」
「!」
 惠が咳き込むなり、血の匂いが飛ぶ。
「かっ、は……! っ、とも、はなれ」
「離れない」
 佐知子さんから濡れタオルを借り、吐き出した血を拭く。よく見ると、シーツの上には既に何枚もバスタオルが重ねてある。 恐らく、吐血するたびにシーツを替えるのでは間に合わないから、苦肉の策としてタオルを敷いたんだろう。
 そんなこと、今まで一度もなかった。
 ……それだけ、惠の容体が悪化してるんだ。
 本来なら入院……いや、集中治療室に直行だろう。
 だけど、惠にはそれすら許されない。
 理由が何であれ、惠は病院に行くことができない。呪いだけならまだしも、再生能力は治療の妨げになる。惠が薬を飲んでいるのを見たことがないから、ひょっとしたら薬すら効かない身体なのか。
 この部屋にはタオルと消毒薬はあるけど、薬や治療器具と思しきものは何もない。多分、お手伝いさん二人にも治す術はないんだろう。
 つまりは……文字通り瀕死なのに、打つ手なし。ただ苦しむに任せるしかない、生き地獄のような状態。
「智……」
 掠れた囁き。口に出せない色んな思いが瞳の中で揺れている。
 僕が茜子だったら、少しは惠の想いを汲みとれたんだろうか……そんな、どうしようもないことさえ考えてしまう。
「……しんぱ、いらない……あした、なら……きっと」
「そっちじゃないよ惠……今考えるのはそっちじゃないよ」
「いや……こっち、呪いの、こと……大事、だよ……」
 この期に及んでなお、呪いのことを気にし続ける惠。
 確かに、それも大切だ。僕がここに来たそもそもの理由も、惠に呪いを解くよう説得するためだった。
 だけど、だけどこれじゃ元も子もない。この状態を超えないで呪いがどうのこうの言ったって何の意味もない。
 ……惠が元気になってくれなきゃ。
 惠が生きてくれなきゃ、僕が頑張る理由がないのに……!
「惠さん……」
 佐知子さんが自分の涙をぬぐっている。疲弊しきった表情に、さらに隠しようもない絶望が混ざる。
「惠さん、いいんですか……? 呪いを……本当に、本当にそれでいいんですか……?」
 震える声で問いかける。質問の形を取っているけれど、実質は懇願。
 ……呪いを解かないでくれという、懇願。
「……わかりません、私には……私は、呪いは……」
「……いいんだ、よ……これが、きっと、最善、だから」
「思えません、私には……私には、これでいいなんて思えませんっ……!」
 泣きながら、悲鳴を絞り出すように佐知子さんが言う。
 ……?
 その姿に、疑問を抱く。
 佐知子さんは惠の世話をしてきた人だ。呪いのことだって当然知ってるだろう。
 ……知っているなら、なおさら解いてほしいと願うものじゃないだろうか。
 呪いがなくなれば、惠に本音が許されれば、佐知子さんや浜江さんと今以上にわかりあえるようになる。それは三人にとって嬉しいことのはずだ。
 ノート事件以降、積極的に協力はしないけれど、邪魔もしなかった惠。
 きっとそれは、呪いに対し、表立って動けない何かがあるから――そう思ってきた。
 大きなデメリットがあるなら、それをみんなになんとかして伝えるか、解かせまいと動くはずだ。同盟には僕というアキレス腱がある、僕を動かしさえすれば、解呪計画そのものを頓挫させることだって可能だ。実際、僕自身がそれを提案したことさえあった。
 だけど、惠は一回だって、呪いを解かない道へ向かわせようとはしなかった。むしろ、僕に呪いを解くように薦めた。
『いつも一緒にいることだけが、誰の目にもわかるかたちで同じ方向を向くことだけが、想いの証明かい?』
 惠は確かにそう言った。
『君がやらなかったら、いつまでたってもみんな呪いに苦しんだままだ。そんなのを僕が望むとでも?』
 そうやって、ためらう僕の背中を押した。
 だから僕は惠を信じて、呪いを解こうとしてきたんだ。
 彼女に何らかの理由があって動けないのなら、僕がその代わりになろうと、彼女の分まで頑張ろうとしてきたんだ。
 ……でも。
 佐知子さんの様子は、そんな惠のスタンスと僕の信じてきたものに全く合わない。
 まるで……まるで、呪いを解くことが惠の不幸の決定打であるかのような……そんな態度。
 ただでさえ惠の様子で頭がまっ白なのに、さらに混乱の種を撒かれ、わけがわからなくなる。
 ……この病気と呪いに、何か関係があるんだろうか? いや、そんなことはないだろう。呪いは病気の形はとらないはず、それに奴は一発勝負をかけるんだ、長時間苦しませたりはしない。
 呪いを解く儀式のために出歩くのが危険? あり得る話だ、佐知子さんは呪いの解き方を知らないから、身体に負担がかかると思いこんでるのかもしれない。
 でも、だったら期を改めてとか、今じゃないとかそういう方向になるだろう。解くことそのものは否定しないはず。
 佐知子さんは呪われてないから、呪いが彼女に直接のメリットやデメリットをもたらすこともない。
 ……じゃあ、一体何?
 この期に及んで迷う。
 呪いを解かせようとする惠。解かないでほしいと願う佐知子さん。両方、本気で真剣だ。
 三者三様の、葛藤の渦巻く沈黙が流れる。
「……惠さん、お願いがあります」
 停滞を破ったのは佐知子さんだった。
 涙をぬぐい、決意を秘めた表情になる。
「……何、かな……」
「はい」
 ぐっと涙をこらえて、身体を小さく震わせて……佐知子さんが、感情を押し潰した声を出す。
「……私から、智さんに全てをお話しさせてください」
「……な……!?」
 全身で驚愕の反応を示す惠。肘をつき、よろよろと身体を持ちあげるようにして佐知子さんを見る。
 膝をつき、惠を真正面から見つめる佐知子さん。ありったけの勇気を振り絞っているのが、僕にも伝わってくる。
「わかっています。智さんに一番知られたくないということも、智さんを迷わせてしまうだろうことも、わかっています」
「……佐知子」
「……でも、私が智さんの立場だったら、後で絶対後悔します。知らずに全てを終わらせてしまったことを、取り返しのつかない決断をしてしまったことを、永遠に悔やみ続けます」
 佐知子さんは両手を握りしめている。歯をくいしばるようにして、できる限り言葉を選びながら、けれど譲らないという意思をもって惠に相対する。
「智さんは、ずっとここに来てくれました。皆さんが惠さんを捨てて、この家に火が消えたようになっても、惠さんが皆さんに憎まれても、惠さんのお身体が悪くなっても、智さんはここに来てくれました。時には、つらい思い出の詰まったここから連れ出しさえしてくれました。智さんは、智さんだけは、惠さんを愛し続けてくれたんです」
「……佐知子さん……」
「そうまでしてくれた人に隠し続けるのは、失礼だと思うんです。知ることは智さんにとっていいことではないかもしれない。きっと、聞いたら智さんは苦しみます。わかってます。でも、いいか悪いかじゃないと思うんです。智さんの想いに応えるためにも、惠さんの目的を、抱えるものを伝えるべきだと思うんです」
 一気にまくしたてて、一呼吸を置く。深々と頭を下げる。
「……だから、お願いします。話させてください。智さんに、教えてあげてください」
「……」
 惠の表情が苦悶に変わる。小さく首を振り、シーツを握りしめ、枕に横顔を押し付けるようにしながら、煩悶する。
「……教えて、惠」
 自然と、口が動く。呟きめいた声はなぜか震えている。
「……とも」
「知りたいよ。佐知子さんがここまで言うほどの理由なんだ。たとえ結論が変わらなくても、全部知った上で決めるのと、知らないで決めるのとは全然違う。こんな状態じゃ決められないよ、決めたくないよ」
 直感がおぞましい何かを訴える。聞かない方がいいと指示を飛ばす。それを無理矢理、意志で押さえつける。
 惠の手に再び触れる。温かさはあるものの、普段より体温が下がり気味だからか、骨ばってすら感じる手。身体のあらゆるところから生命力が失われ、今やかろうじて命を繋いでいるかのよう。
 こんなになるまで、一体何に苦しんだというのか。こんな状態になるほどの何かが、惠にあるというのか。
 ……佐知子さんの様子からするに、僕は根幹部分を隠され続けてきたんだろう。
 その感覚自体はおぼろげにあった。呪いの制約以上に、惠が何かを黙り続けているのは薄々感づいていた。でも、それを惠に問いただしたところで答えてはくれないだろうし、下手をすれば呪いを踏む可能性すらある。だから見て見ぬふりをし続けてきた。
 惠としては、そのまま知らずに終わらせる気だったんだろうけど……こうなっては、僕だって知らんぷりはできない。
「惠」
「……」
 残されたわずかな力を注ぐようにして、僕の手を握り返す。過度な動きを伴わなければまともに息も吸えない状況の中、惠は選択に迷う。
 僕と佐知子さんを交互に見て、押しつぶすように瞼を閉じて、また開いて、二人を見て、目をつぶり、考える。
 ……そして、ゆっくりと口を開く。
「……わかっ、た……」
「惠さん……!」
「……佐知子の、好きにするといい……」
「は、はい……ありがとう、ございます……」
 ありがとうという言葉も何か引っかかるのか、複雑な表情をしながら何度も頭を下げる佐知子さん。
「……では、ここではないほうが」
「……ああ、そうして、くれ」
「はい……その間は、浜江さんにお願いしておきます。では、智さん」
 促され、立ち上がる。
「……智」
 背中にかけられる、弱々しい願い事。
「……どうか、気に病まないで……」


 がらんとした食堂に、一人座って待つ。出してもらった紅茶に口を付ける気にもなれず、ひたすら下を向き続ける。
 佐知子さんは僕を案内した後、心の準備が必要なのか、一旦姿を消してしまった。すぐ戻りますと言っていたから、数分ぐらい待てばいいだろう。
 ……その数分が異常に長く感じる。ここに来てからまだ三十分も経ってないだろうに、何日も詰めていたような気になる。
 両手を膝の上で握る。爪が食い込んで痛い。
 今までを振り返る。してきたことを、起こったことを、交わした言葉を一つ一つ確かめ、必死で組み立てる。
 一体、どこで間違えたのか。この道は誰が望んだものなのか、ここからでも逆転はできるのか。
 ……惠は、助かるのか。
 出口の見えない道を、それでも僕たちは歩いてきた。呪いにさいなまれ、不幸を嘆くことを通り越して諦めながら、かろうじて許されるささやかな平穏を探して生きてきた。
 そんな中で出会った仲間たち。そんな中で出会った、大事な人。
 出会いは展開を呼び、見えなかった、あるはずないと思っていた希望が手に入った。紆余曲折はあったけど、呪いで繋がった仲間たちは、理不尽の中の幸せを謳歌した。僕と惠は結ばれ、想いを重ねてきた。この数ヶ月は間違いなく、僕の短い人生の中で最高の時だった。
 ……『だった』なんて言いたくない。今までもこれからも、色々ありつつ最後はみんな笑いあえる、そんなこの世の春を謳歌したい。呪いをやっつけて、陽気な声に満ちた未来を手に入れたい。
 それが叶うと信じて走ってきた。呪いさえ解ければ、全てが丸く収まるんだと夢見てきた。
 ……だけど。
 惠の状況を見て、悟らざるを得なかった。
 僕たちが選んだ道は、例え間違っていなかったとしても、決して、望んだ未来には繋がっていないんだと――
「……お待たせしました、智さん」
 佐知子さんが入ってくる。普段の明るさは影をひそめた、重苦しい、けれど強い意志がにじみ出た姿。
 手には何かを持っている。
 なんだろう? どこかで見たような色合いの、四角くて薄い、紙でできた……
 ――紙。
 ――四角くて薄い、どこかで見たことのある――ノート。
「……!!」
 佐知子さんが口を開くより先に、それに目が釘付けになる。
 ……まさか。
 ……まさか……!?
 僕の視線の動きに気づき、きゅっと口を引き結ぶ佐知子さん。椅子には座らず、僕のすぐ傍まで歩いてくる。
「お話しをする前に、智さんにお返ししたいと思います」
 心臓が跳ね上がる。みっともなく手が震える。両手でかろうじて受け取る。
 古びてはいるものの、日焼けはしていない一冊のノート。新品ではなく、使いこまれた感がある。
 表紙の状態も厚さも重さもはみ出たスクラップの切れはしも、記憶にあったそれと完全に一致する。
 ……惠が燃やしたはずの、父さんの研究日誌。
「ど、どうしてこれが」
「……惠さんが、本物を燃やすと思いますか? そんなことをする人だと思いますか?」
「……」
 重力が身体に染み込んでいく。
「あの日燃やしたのはダミーです。本物はずっと私に託されていました。全てが終わったら智さんに返すようにと、それまでは絶対に隠しきってほしい、と」
「そん、な……」
 呆然とする。
 このノートが燃やされたことが、惠の同盟離脱の最大の原因だった。みんなが惠を憎み、蔑む根拠だった。そこから惠は苦難の渦に叩きこまれ、みんなは惠への敵意や対抗心から呪いを解く作業に没頭していった。
 全ての始まりが、このノートだった。
 ……なのに。
 なのに……これが無事だということは……。
「どうして、ですか……? 本物を燃やさなければ意味がないのに、そんな手の込んだ真似して」
「何故だと思いますか」
「……」
 首を振る。わからない、わかりっこない。
 だって、何の意味がある?
 偽物の暴挙で誤解を自ら呼び寄せて、せっかく得た仲間を手放して、あげく憎まれて。
 仲間たちとの触れ合いを、たわいもない、かけがえのない時間を本当に大切にしていた惠。みんなと一緒にいる中でゆっくりと心を育て、その生き方に喜びを感じていた惠。
 ……ノートを燃やさなければならない理由があって、その結果こじれたとするならまだ納得はできる。
 でも、実際はその理由すらなかった。
 理由がないのにあんなパフォーマンスをして何になるというのか。
 傷つくのは自分なのに。追い詰められるのは、多くを失うのは惠自身なのに。
「……惠さん、言ってました。『仲間を失う悲しみより、敵を倒すカタルシスの方が気持ちがいい』って」
「……」
 一見、繋がりのない台詞。
 仲間を失う悲しみより、敵を倒すカタルシス……それは当然のことだろう。誰だって仲間を失いたくはないし、敵を倒した時には気分が高揚する。
 だけどそれは本来全く別のもの。仲間は仲間で敵は敵。その枠は動かない、どちらかを選択するなんてことにはなりえないはずだ。
 そう、仲間が敵にでもならな――……
「……!!」
 脳が、ひとつの仮定をはじき出す。
『仲間』が『敵』になる。
 人はそれを、裏切りと呼ぶ。
 ……惠は僕らを裏切った、そう、みんなに思いこませた。
 つまり――
「……お気づきですか」
「……」
 佐知子さんが、やるせなさに顔を歪めながら明かす。
「惠さんの目的は『敵になること』そのものです。実際はどうかではなく、皆さんに自分は敵だと思いこませ、呪いを解く過程を敵を倒す行為と重ねさせること、それこそが惠さんの望みだったんです」
「そんな……なんで……?」
「……」
 佐知子さんは視線を逸らす。また涙が出そうになるのか、目のあたりを押さえている。
 だって……だって、理解できない。
 本当に敵だったならまだしも、敵のフリなんて百害あって一利なしだ。仮にハッパかけるためだったとしても、あの時既にるいが呪いを踏み、みんなの意識は呪いを解くことに向かっていた。放っておいても解呪に向かっただろうし、悪役なんか作らなくったって、いくらでもやりようはあったはずだ。
「……不思議ですか?」
「不思議です……どうして、悪者の真似なんか」
「……」
 佐知子さんの目を涙が伝う。手のひらで涙をぬぐい、二、三度しゃくりあげるようにしてから、一呼吸置く。
「……智さんは、惠さんの能力を何だと聞いていますか?」
「え、えっと……傷が治る、いわゆる超再生力……死にかけても復活できるぐらい強烈な」
「……それだけ、ですか?」
「あ、はい……惠は本当のこと話せないから、見ただけですけど」
「……そうですか……それなら、わからなくても仕方ないですね」
 納得したようにため息を漏らす佐知子さん。一旦天井を見上げ、軽く頭を振って戻す。
 ゆっくりと、けれどしっかりと僕の目を見据える。
「お約束通り、全てお話しします」
 悲しみに濡れた決意。背筋を伸ばし、緊張感を漂わせる姿には、裏側の苦悩がはっきりとにじみ出ている。
 一言一言、僕の中に染み込ませるようにして語りだす。
「今、智さんがおっしゃったのは、半分正しくて半分間違いです」
「半分?」
「はい」
 頷く。
 一瞬だけ視線を下げて、戻す。
「惠さんの能力は再生力ではなく『命の上乗せ』……奪った命を、自分の命に変える能力です。再生力は上乗せした命の使われ方の現れです」
「……奪った命……?」
「はい。惠さんの再生力は無限大ではなく、殺した人数分だけ発動します。だから惠さんは悪党殺しを生業としています、せざるを得ないんです」
「せざるを得ないって、どうして? 呪いさえ避けていれば、そんな簡単に死んだりしないですよね?」
「普通はそうです。でも惠さんは違います」
「違うって、そんなはっきり」
「……智さん、覚えていらっしゃいますか? まだ皆さんがこの屋敷に来ていたころ、惠さんが発作を起こして倒れたこと」
「……はい」
 今度は僕が頷く。
 忘れられるはずがない。想いを伝え合った翌日に見た、紅の溜まりを散らして倒れる惠。今日の惠の状態に良く似た、けれど今日よりはまだ軽そうに見えた姿。
 あの時は深く考えなかったけど……確かにケガや急性の症状には見えなかったし、佐知子さんと浜江さんの対応も手慣れていた。発作だったとするなら納得がいく。
 ……でも、本人は命に別条はないって言ってたはず。ああいう状況で嘘を――
「――……」
 ……そこでようやく、僕は気づく。
 自分の考えの足らなさに。
 惠が『命に別条はない』と言った。
 それはつまり、嘘だ。惠が自分について本当のことを語るなんてありえない。
 心臓がにわかにけたたましく鳴る。
 ……大丈夫だなんて、嘘だったんだ。
 ただ僕が誤解しただけ。
 ……惠が助かったように見えたことに安堵して、こっそり告げられたSOSを見落としてしまっただけ、だったんだ。
 肝が冷えて凍りついていく。明かされていく事実に、根本的な間違いに、それを隠し続けた惠の苦悩に、よわっちい意識が悲鳴を上げる。
 佐知子さんは静かに続ける。
「惠さんの発作は、命にかかわります。夭折の家系に生まれた惠さんは、今やあの発作を起こすたびに死んでしまう危険な状態です。だから、命の上乗せをし続けない限り生き延びることができないんです。しかも、能力と発作は無関係です。惠さんの家系の方はみな、同じ病に倒れたそうですから」
「……じゃ、じゃあ……呪いが解けたら」
「能力は消え、夭折の発作だけが残ります」
 はっきりと、佐知子さんは断言する。
 ――呪いが解けたら、惠は死ぬのだと。
 僕たちの、同盟のしてきたことは……その全てが、惠を――
「……嘘、だ……!」
 意志より先に喉が震える。呼応するように佐知子さんも叫ぶ。
「私だって嘘だと思いたいです! でも、でもこれが現実なんです! だから、自分の運命を分かっているから、惠さんは……自分が死ぬ時、少しでも皆さんが辛い思いをしないようにと……敵に、憎まれ役に……!」
『仲間を失う悲しみより、敵を倒すカタルシスを』。
 惠の真意が突き刺さる。
 どうせ死ぬのなら、せめてみんなが悲しまないように――
 ……そんな決断があってたまるか。
 みんなのために、ありもしない罪を被って憎まれて苦しんで、挙句の果てに死ぬなんて……そんなの、そんなのあってたまるか……!
「……っ!」
 テーブルに拳を叩きつける。
 ……どうして、どうしてもっと早く気づかなかったんだ。
 ヒントはあった。発作も見ていた、惠が嘘つきだって知ってた、傷が治ることも、人殺しだってことさえ知ってた。真相に繋がる材料は揃ってたんだ、彼女の行動理由を深く探っていけば、真実そのものではなくても、それに近いところまではたどり着けたはずだ。
 なのに、僕はそれをしなかった。
 同盟の方ばっかり向いて、呪いを解くことに囚われて、表面的に現れる危機に軽く対処するだけだった。
 そんな対症療法、行き詰って当然だ。表に出てる芽を摘んでも、根を絶たなければ意味がない。
 どうして、根に目が行かなかったのか……。
 ……自分のことだ。なんとなく、わかる。
 ……怖かったから。
 惠が死ぬ可能性を、ほんの少しでも考えるのが怖かったから。
 死にかけた惠というのを、僕は何度か目にしている。
 発作の時。何者かに撃たれ血を流していた時。三宅から送りつけられた写真。食事が取れなくなった姿。
 いずれも、常人なら致命的。けれど、能力故に惠はそこから復活してきた。
 だから安心していた……いや、目を逸らしていた。
 普通に考えれば、いくら能力だって、無尽蔵の生命力なんてありえないことぐらいわかる。範囲や代償の制限があって当然だ。だけど僕はそれすら聞こうとしなかった。『傷ついても治る』という事実にすがるだけで、その裏側に横たわるものを見ようとしなかった。
 多分、無意識に避けていたんだろう。
『死』――僕たちが何より恐れるもの。
 僕たちが呪いに恐怖するのは、その先に死があるから。拒否したいのは呪いそのものではなく、結果として訪れる死の方だ。
 間接的に死をもたらす呪いでさえ会話に出したくないんだ、死そのものなんて考えたくないに決まってる。
 惠は最初から、その死の傍に立っていた。気を抜けば引きずり込まれそうになる中、懸命に耐えていた。
 ……だから、死を恐れ、目を逸らす僕には真実が見えなかった。
 惠が見せなかったんじゃない。
 僕が、弱い僕が、見られなかったんだ。
 ……その弱さが、今回の事態を招いた。
 良くも悪くも、呪いを解くカギは僕が握っていた。『ラトゥイリの星』は花鶏の持ち物だけど、呪いを解くには八つ星全員が必要になる。
 全員の協力が不可欠である以上、僕の行動ひとつで運命はいくらでも変えられたはずなんだ。
 だけど僕は……気づかないうちに自分の弱さに負けて、呪いを解く道を選んでしまった。
 みんなの選択は間違いじゃない。こよりが呪いを踏み、誰もが踏む可能性が残っている以上、呪いを解くことには意味があるし、最優先事項になるのが普通だ。その先に希望があるならなおさら。
 実際に、希望はある。呪いが解ければ制約もなくなり、理不尽に泣いた日々を捨てることができる。
 ただ一人の犠牲を除いては、ハッピーエンドにたどり着ける。
 最終調整が終われば、みんな嬉々としてここにやってくるだろう。そして、迷うことも、罪悪感もなく、当然のこととして惠に協力を求めるだろう。
 そして……おそらく、惠は『敵』としてそれを受け入れる。最後まで嘘を貫き通し、歪んだカタルシスという置き土産を残して――
「……しい、よ……そんなの、おかしいよ……!」
 佐知子さんの前だというのに、ぐずるような声が出る。
 確かに、惠の望み通りにすれば、みんな大したショックを受けずに呪いの解けた世界に出ていけるだろう。たとえ目の前で惠が倒れても、敵だったからと割り切ってしまうことができるかもしれない。
 ……なんて、おぞましい未来。文字通り血塗られた、悪意のない悪夢。
 これだけ苦しんだのに、何一つ報われず、報われなかったことすら知らされずにいなくなるなんて……!
「……すみません、智さん……」
 僕の動揺ぶりに、佐知子さんがすまなさそうに頭を下げる。
「何で佐知子さんが謝るんですか」
「お話しすれば、智さんは迷ってしまわれるでしょう? 私は部外者ですから、いくらでも勝手なことが言えます。だけど、智さんは……他でもない、一番の当事者ですから」
 ぶんぶんと、派手に首を横に振る。
「……いえ、教えてくださってありがとうございます。知らなかったら、本当に取り返しのつかないことになるところでした」
 本当に――本当に、取り返しのつかないことになるところだった。
 惠の部屋で佐知子さんが言った通り、知らないままだったら僕は永遠に後悔しただろう。軽はずみではなくても思慮の足りない決断に、一生自分を責め続けただろう。
 いや、そんなことはどうだっていい。
 もし何も知らなければ、惠の思い通りに全てが運んでしまったら……考えるだけで、ぞっとする。
「……どう、なさいますか」
「……すぐには決められません。呪いは同盟全員に関わることです。それに、もう九割九分ぐらいのところまで来てしまっています。僕一人が喚くだけじゃ、どうにもならない状態になってるんです」
 そう。
 既に、事態は後戻りができないところまで来ている。
 こよりが呪いを踏み、追いかけられている。死の鬼ごっこによる全員のストレス、それを起因とする解呪への思いは覆しようがない。僕が今更声を上げたところで、六人がかりで丸めこまれるのがオチだ。
 できることがあるとすれば……惠の不調を理由に、延期を願い出ることぐらいか。一旦時間稼ぎをして、少しずつ意見を変えてもらう……六人まとめては難しくても、一対一ならできないことはないかもしれない。
 ……そうだ、時間さえあれば、まだ手の施しようはある。呪いに追われ続けるリスクには対策しないといけないけど、少なくとも今よりは事態を好転させることができる……はず。
「あの、佐知子さん」
「はい」
「惠の病状……どうなんでしょうか? 発作なら、明日にはまた治ってるんですよね?」
 当然首を縦に振ってくれるものと予想して、念のために聞いてみる。
「……」
「……佐知子、さん……?」
 けれど。
 佐知子さんは、頷いてはくれない。
 代わりに、両目をきつく閉じ、泣くのをこらえる。
 深呼吸をひとつ。
 できる限りトーンを落とした声で宣告する。
「……先ほど言った通り、惠さんの能力は『殺した人数分だけ』効果があります。迎える死の回数より、殺した人数が多くなければ意味がないんです。今の惠さんは、二つの数が同じ……つまり、上乗せがゼロの状態です。回復できないんです」
 ――言いたくもない、聞きたくもない、さらなる試練。
「そんな、なんで……!」
 思わず声を荒げる。
 是非はともかく、そういう仕組みになっているのなら従うしかない。惠自身、ずっとそうやって生きてきたんだろう。
 ……だったら、いくらか余分をみたり、発作の頻度を把握して対応することもできるはずだ。いや、惠ならそうしていたはずだ。事実上いつでも極限状態にあって、唯一の命綱でミスをするなんてバカな手落ち、彼女なら絶対やらない。
「……惠さんは、ちゃんと計算していました。発作のリズムが乱れることも、お仕事中に不慮の事故が起こることも織り込んだ上で命の調整をしてらっしゃました。何にも問題はなかったはずなんです。けれど……けれど、今回は」
 言葉に詰まる佐知子さん。
「……今回は?」
 続きを促す。両手を胸の前で握りしめ、佐知子さんが続ける。
「……今まで、二ヶ月に一回、多くたって月に一度ぐらいだった発作が、三日連続で……!」
「―――!」
 三日連続?
 ……死を呼び寄せる発作が、三日も……続いた……?
「三日前、惠さんは命を三つ上乗せされました。けれど今回、それを全て使いきってしまったんです。しかも、発作は著しく体力を消耗します。連続発作はせっかくの命をあっさり奪っただけでなく、次を繋ぐ方法すら絶ってしまったんです」
 ……呆然と。
 まるで全身の血が抜かれたかのように、身体の力が抜けてしまう。
 ――そんなことって、あるの?
 あんな苦しい思いをして、せっかく乗せた命なのに、大事にする間すらなく浪費させられて。
 一日だけだって体験したくない死の苦しみを三日連続で味わわされて。
 しかも……次がない、本当に、今度こそ本当に死んでしまう状態にまで追い詰められて……。
「……どう、して……」
 今日一日、何回繰り返したかわからない言葉が回る。
 どうして、惠がこんな目に合い続けるの?
 悪意なんかなかった。ノートを燃やしてすらいなかった。ただ生きていたくて、ただ僕たちを助けたくて、必死で悩んで考えて手を打っただけだった。
 なのに、なんでこんな、割に合わない、辛いばかりの日々が続くの? 苦しみ抜いた果ての希望を片っ端から潰されなければいけないの?
 理不尽なんてもんじゃない。無茶苦茶だ。
 しかも、今回ばかりは解決策が見つからない。人殺しなんて、ただでさえ気を抜けば命にかかわる怪我をするリスキーな手段だ。起き上がるのすら難しい状態の惠にそんなことできるわけがない。しかも彼女は人とは違う身体の持ち主、加えて夭折の発作。命を上乗せする以外に対処法がない。
 ……三日続いた発作が四日目に突入しない保証なんかどこにもない。今日手を打たなければ、明日には手遅れになってしまうかもしれない。
 だけど、今日できることなんか……。
「智さん」
 佐知子さんの低い呼びかけに、絶望へ沈みかけた思考が断ち切られる。
「は、はい」
「お願いがあります。こちらへ」
 言うなり立ちあがり、玄関へ向かって歩き出す。慌ててついていく。
「……あれを」
 玄関ホールで立ち止まり、視線を上げる佐知子さん。
 つられて見上げると……そこには、一対の剣。
「惠さんの、お仕事道具です」
 様々な調度品が並ぶ中でもひときわ目立つ逸品。ただの飾りにしては磨きこまれた、刃がきらめく銀色の剣。
 ……あれが、惠の仕事道具。
 惠が、命を繋ぐために、命を奪ってきた道具。
 その様子を想像し、ぞわりと悪寒が走りぬける。
 わかっていても、覚悟していても、やっぱり本能的な抵抗感はぬぐい去れない。弱いとか強いとかではなく、きっとそれが人間本来の感情なんだろう。
 惠はそれを振り払って生きてきたんだ――そう思うだけで、痛みにも似た悔しさがこみ上げる。
「……」
 かちり。
 金属音を立て、佐知子さんが剣を外す。
 ……?
「佐知子さん……?」
「……」
 剣を両手に掲げるように持ち、佐知子さんは押し黙る。
 そう、まるで……処刑を待つ聖女のように。
「……智さん」
 僕に剣を渡すように、両手を差し出す。
「智さんは、惠さんを助けたいですよね? 生きていてほしいですよね?」
「そ、そりゃもちろん」
 異様な様子に気押され、思わず一歩後ずさる。
「だったら」
 佐知子さんは引かない。睨み据えるように僕を見て、はっきりと口にする。
「惠さんの明日は、ここにあります」
「……」
 その意味するところは――
「智さん、手伝ってください。惠さんに、私の命を」