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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 35 


 しなやかな体躯が夜を駆ける。
 注意を怠ることなく、けれど恐れることなく。昼の熱を失い人工の光に塗れ光るアスファルトを軽くしっかりと蹴りつけて、前へ、前へ。
 広がる街は幾重の箱に切り抜かれ、欲望の主張激しい摩天楼のネオンサインを受けている。趣味の悪い月のようにまだらに輝く壁面に切り込まれる小さな影が、ならず者のたむろする地へといざ向かう。
 小さなメッセンジャーは身体に似合わぬ大きな役目を背負い、目指す一人を求めて繰り出していく。
 見送るは、五名。
 全員が不安と心配、希望に浸され、小さな息を吐く。
「大丈夫かしら、あの子」
「駄目なわけがありません。甘く見てもらっては困ります」
「今回はあくまで交渉のきっかけ作りよ。この程度の交渉にすら応じてこないような奴らなら、気にかけるだけ無駄でしょ」
「花鶏の言うとおりだと思うし、情報は興味を煽る程度にわざと抑えてある。央輝なら、いきなり交渉決裂には持ち込まないよ」
「いぇんふぇー、呪いのこと知ってるかな?」
「……たぶん、知ってると思う」
「やけに自信満々ですね」
「そんな気がするんだ。僕の直感は案外当たるんだよ」
「宝くじの一等を当てたことは?」
「ない」
「……あまり信用ならないわね」
「そんな超ド級の運だめしを引き合いに出されても」
 苦笑い。まあ、今はその程度だと思わせておいた方がいいだろう。99パーセント確かだけど、この目で根拠を見たわけではないし。
 央輝の痣……僕とは反対側の腕に刻まれた、消えようにも消えない、逃れようにも逃れられない運命のしるし。
 能力が導いた白昼夢は、央輝の痣を示した。そして、僕たちがあの場所で彼女と出会い、彼女を説得する未来も。
 とすれば、あの未来に向けて駒を進めるのが最善だ。夢で央輝とどう交渉したのかわからなかったのは痛いけど、彼女が呪い持ちならば突ける部分はいくらでもある。
 僕たちが集まっているのは、茜子に教えてもらった猫会議場……から少し離れたところにある公園だ。猫会議場は向こうの様子が見える反面、こちらに気づかれやすいという弱点がある。央輝たちはプロだ、いきなり対話のテーブルについてくれるとは限らない。。
 だから、とりあえずは餌で釣って相手の出方を見る、ことにしたけれど……。
「……遅いわね」
「まだ十五分しか経ってないです」
「待ってる時間って、どうしてこうも遅く感じるのかしら」
「私、待つのが大嫌いなのよ。こうやってじっとしてる一分一秒がもったいない。時間の浪費ほど非合理的なものもないでしょう」
「要するに『めんどくさいーはやくおうちに帰りたいよーぶー』というガキレベルのわがままなわけですね」
「茅場」
「まあ、この脳みそ茶碗蒸し百合仕立ての時間なんて無駄でしかないですけど。百合百合しい時間も浪費には変わりありませんし」
「失礼ね、かわいこちゃんに手を出すのは私のライフワークよ。ライフワークに時間を惜しむなんて、それこそ人生の損失でしょ」
「いやなライフワークだ」
「……というわけで智、このつまらない待ち時間を黄金の価値に変えるわよ」
「え」
「うっふふ……逃がしてあげない」
 暇を持て余した花鶏、スイッチオン。今宵のターゲットは僕……え、僕!?
 いつものこととはいえ、とても危険、激しく危険!
「ぎにゃー! だめだめだめらめぇっ! おまわりさーん!」
 抱きつこうとする腕から逃れた、と思ったら足をかけられてつんのめったところを下から支えられそうになる。慌てて足をふんばって前のめりのイメージ……って先回りされてるし!
「うふふ……相変わらずふくらみの足りない身体。そこがまたいいわ〜」
「やぁのー! お助けー!」
 両手をばたばたさせる。うっかり裏拳入ったりすると最悪なので加減……すると逃げられないから二重に困る。
「あんまり声出すと気づかれちゃうよ、トモ」
「そんな斜め上のアドバイスはいらないぃ」
 なぜか浮かれた風のるいの助言。緊張をほぐしたいのはわかるけど、でもお願い今は助けてー!
「ああ、でも暗闇じゃよく見えないわね。ターゲット変更」
 と、ぱっと手が離された。気まぐれ花鶏はするっと生贄を変更する。
「きゃー!?」
「ああ、いいわ……柔らかい……」
 上がる悲鳴に恍惚の声のコラボレーション。
 ロックオンされたのは伊代。控えつつも甲高い悲鳴が公園に拡散する。
「んふっふー、いいわ、視界が不十分だと感度が上がるのよね」
「ちょ、ちょっとあなた、こんな時にっ……!」
「あれ、イヨ子の声がちょっとえっちぃ」
 やっぱり乗り気のるい。何かに目覚めつつある……なぜ。
「感度200パーセント、百合色の賽は投げられた」
「もっ……ほんと、だめだって……っ! あっ、あ」
 何がオコナワレテイルノカ、暗くてヨクミエマセン。見えません、ミテマセンったら!
「うふふふ〜、初めてが外っていうのもなかなかオツよね」
「……なんて不健全な夜」
「健全な夜などありません」
「その悟り方はせつのぅございます」
 とてもいかがわしい伊代と花鶏を横目に見つつ、深々とため息。
 止めないのは、その……反応したら困るから。花鶏はお子様お断りのイタズラ大好きだけど、仲間に危害を加えることはない。そこは安心していい。というわけで、ここは伊代に貴き犠牲になっていただこう。申し訳ないけど、変に関わって僕までピンチになるのはやっぱり避けたいのです。君子危うきに近寄らず。
「あ、脱がされた」
「なぬー!?」
 条件反射のごとく振り向く。
 視界に入るのは暗闇の中で仄かに光る肌、ではなく、マジ切れした伊代にノックアウトされて延びている花鶏。
 ……しまった……。
「おー、トモちんったらえっちなんだー」
 ニヤニヤするるい。
 反論の余地、ゼロ。なんという恥さらし!
「やはり腹黒は性的な意味でもむっつりスケベでしたか」
「いじめだ」
「本当のことを言ったまでです。茜子さんが保証します」
「そんな保証はいらないよ!」
 花鶏のターゲットは外れたものの、茜子にはしっかりマークされていたらしい。い、色々怖い……。
「くっ……い、今のは効いたわ……でもおっぱいダイブはできたからよしとす……ガク」
「どこまでやったの花鶏!?」
 そしてうっかり追加反応してしまう男の性。
「おっぱい」
「お!?」
「陰険むっつりスケベが混ざりたかったみたいですよ」
「ちっがーう!」
 見逃さない聞き逃さない茜子。
「そうね、智と二人なら羽交い締めにして……今度こそ……」
「ちょっと、あなたまでそっちの趣味なの!?」
「イヨ子のおっぱいは柔らかそうだよねー」
「るいまで!?」
「な……ななななな」
「レズフルエンザ拡大中、おっぱい逃げ場なし」
「恐ろしすぎる」
 本気のようで本気でない、冗談の絨毯の上を転がる僕たち。発言の毒も棘も悪乗りも、信頼というクッションに包まれる。それぞれが無意識に自分の立ち位置を認識し、その枠からはみ出さずに、着かず離れず手を取り合う。離脱や裏切りが影を落としても、同盟という穏やかなまどろみから抜けるなんて考えられない。だからみんな、ことあるごとにじゃれあう。
 悲鳴もスパイス、ちょっとだけ出過ぎた手も笑って許される。
 笑顔が絶え間なくこぼれてきて、困り顔すら心地いい。
 ……だから、思う。
 この輪の中にいられなくなった一人を、想う。
「あ、帰ってきた!」
 と、るいが野生の気配察知能力を発揮した。公園の奥に姿を見せた帰還兵にいち早く気付き、手を振る。それに気づいたか、本日の僕らの勇者が走り寄ってくる。
「おーっい! ガギノドーン!」
「……やっぱり、そのネーミングってどうなのかしら」
「まあ、茅場らしいといえばらしいわよね」
「おいでおいでー! よくがんばった! 感動した!」
「猫相手に大げさな」
「脳みその小汚い人間に比べたら猫の方がよっぽど信頼がおけます」
「……切ない」
 そう。
 僕たちが使者にしたのは茜子の忠実なる使い魔、じゃなくて野良猫のガギノドンだ。
 人間じゃないのはもちろんわざと。
 こちらに敵意がないとはいえ、相手は裏の人だ。送り手の意図を汲む汲まないにかかわらず、間に立った人はかなりの危険にさらされることになる。でも、猫ならばこちらの伝えたい情報だけをピックアップできるし、あっちも情報を引き出せない。しかも、万が一手を出してしまえばその瞬間に交渉が決裂。
 何から何まで思い通りにいかない、それが動物。手数も力もない僕たちが間に立てるには最適だったというわけだ。
 ちなみに、今後の動きやすさを考え、こよりは自宅待機してもらっている。肝心な時に家から出られなくなったら困るし。
「よしよし」
 見事に大役を終えたガギノドンは一目散に茜子に駆け寄り、腕の中に収まって目を閉じる。緊張で疲れたんだろう、すやすやと眠り始めた。見た目、怪我はない。無事に帰還できたみたいだ。
「ご苦労様です。どうやら収穫はあったようですね」
 愛おしそうにガギノドンを撫でつつ、茜子は首に結びつけておいた紙を外す。
 僕たちからの、ちょっと危険な親書。
 ごくん、と息を飲む。
「……来ましたね」
 茜子が手早く目を通し、僕たちに向けて紙を広げる。
「……おお」
「……来たわね」
 全員で覗きこむ。
 僕たちからの親書の内容は、至ってシンプルだ。
 紙の上面には「尹央輝様」の宛名。その下に七割近い面積を使い、一枚の写真をプリントしてある。
 ……痣のある腕を晒した、僕の写真。
 ただそれだけ。よけいな説明は一切つけていない。
 わからない人には全くわからない、けれどわかる人にはこの上なく強烈なメッセージ。央輝が八人目なら、これだけで十二分に伝わる。 そして最後にはメッセージを書ける程度の空白。
 今、その白い面には数字があった。
 ……日時指定だ。
 明後日の、午後11時。
「この時間に来い、ってことね」
「場所は? 書いてないけど」
「例の場所で良いんでしょう。ガギノドンにはあそこで待てと言いました」
「明後日なんて、随分早いのね」
「焦ってるのかしら」
「焦るでしょう、それは。ロリ魔女が呪いについて知っているなら、早急に私たちをどうにかしないといけませんから」
 茜子の歯に衣着せぬ言い方に、緊張が走る。自分たちで撒いた種とはいえ、いざその日が決まるとお腹に冷たい重さが落ちる。対峙する相手と自分たちの世界の差に、始まる前から怯えかける。
 ……もちろん、引く気はないけど。
「なんにせよ、もう後戻りはできないってことだね」
「当たり前でしょう。ここまで来たら突き進むまでよ」
「こちらの計画通りですからね」
「なるようになる、大丈夫」
 言いながらも、手に冷や汗をかいている。完全に裏に身を置く人を相手取るんだ。一歩間違えればズドン、なんてこともあり得る。夢では血なまぐさい展開にはならなかった感じだけど、未来がああなると確定しているとは限らない。
 でも、行くしかない。僕たちが決めたことだ、日和ったら負けだ。
「いぇんふぇー、何て言ってくるかな」
「殺りにくるか利用しにくるか協力しにくるか……三択かしらね」
「できれば最後がいいんだけどな」
「そこは智の手腕にかかってるわよ」
「……だよ、ね」
 やっぱり、そこは僕の出番だろう。交渉術と言うほどのものでもないけど、誘導尋問やら心理誘導やら、会話の方向付けと操作はそれなりに身につけている。
 というか、このメンバーだと僕以外は特大の地雷を踏むような気がする。横やり一本もちょっと、いやかなり怖い。
「交渉は僕に任せて。みんなは見守ってくれてればいいよ」
「頑張れ、トモ! るい姉さんが応援してるぞ!」
「応援だけならサルでもできる」
「反省以上に簡単よね」
「なっ!」
「別に、皆元に話せって言ってるわけじゃないのよ? あなたが絡むとロクなことにならないってだけ」
「なーにをー!」
「だってあなた脳筋じゃない」
「花鶏みたいな超短気に言われたくないよ!」
「た、短気ですって!?」
「短気じゃん。花鶏ってば超短気。花鶏がトモの話に割り込む方が危険だよ」
「言ってくれるじゃないのよこの」
「がー!」
「……あ、揉めた」
「正直、五十歩百歩だと思うわ……」
「空気ヨメナインにしては的確な指摘」
「効かない薬品みたいなあだ名だ」
 相変わらずのるいと花鶏のケンカ。でも、これも一種のスキンシップだ。
 二人は事あるごとに対立して揉めて喧嘩するけど、一定ラインを超える争い方はしない。肉食獣の子どもがじゃれあいで殴ってるようなものだ。
 ……本当に『敵』とみなした相手には、二人とも真剣に容赦しない。
 その実例を目の当たりにしてきたからこそ、二人のすったもんだが可愛く思えて、胸に痛い。
「そういえば、智」
 花鶏がるいとの争いから意識を戻す。
「ん?」
「あの記者からはその後連絡あったの?」
「そうだよトモ! 三宅のおっちゃんどうしてるかな」
 つられてなのか意気投合なのか、るいもケンカをやめてこっちを向いた。
「えっとね、近いうちに報告できるってメールが来て……あ」
 メールを見せようと携帯を開けると、狙いすましたように三宅さんからの新規メールが届いていた。
「新しいのも来てる。さっき来たばっかりみたい」
 メールを呼び出す。
 ……三宅さんからの連絡。それだけで胸に黒いもやが立ちこめる。僕にとっていい報告ではないと予想がつくからなおさらだ。
 みんなに悟られないよう努めて平静な顔をして、メールを開く。ひょいっと肩越しに覗きこんでくるるい。
「なになに? なんて書いてあるの?」
「……報告するから、明後日の夕方に時間をとれないか、だって」
 妙な罪悪感に駆られ、そそくさと携帯を閉じる。
 るいは僕の行動には突っ込まない。細かいことは気にしないというか、僕の所作より三宅さんの報告の方が気になるんだろう。
「およ。三宅のおっちゃんも明後日指定なんだ」
「タイミングがいいというか、なんというか」
「悪いことは続くものです」
「いや、そこは良いことって言おうよ」
「……あなたはそう思うんですか?」
 するり、と。
 特に理由もないはずの言葉尻を捕まえ、茜子が問いかける。
「……」
 ……答えられない。
 央輝も、三宅さんも……手放しで喜べない僕がいる。
 リーダー的な役割のくせに、物事決めて進めてるくせに、どこかでブレーキをかけたがっている。心の読める茜子には、僕の中途半端な状態が筒抜けなのかもしれない。
 けれど、彼女はそれ以上は追求してこない。
 誰の味方でもない彼女は暗に忠告するだけ。
 自分にはわかっている、と。
 僕が、必ずしも意欲的ではないと知っている、と、
「三流記者もロリヤクザもついでに腹黒星人も胡散臭いですし、茜子さんの時代カモン」
「そうね、智と茅場に頑張ってもらうことになるわね」
「お任せを。化けの皮を一枚一枚丁寧にはいでいく快感はたまらないですから……くくく」
「……今、ちょっと相手に同情したわ」
「恐ろしきリーサルウェポン、交渉的に」
「とにかく、決戦は明後日。そこで多くのことがわかるはずよ」
「うん」
「そうね」
「おう!」
「……おー」
 決戦は明後日。
 胸騒ぎを感じながら、拳を握りしめる。


「やー、女の子に囲まれるってのはいいねぇ!」
 三宅さんは今日も上機嫌。記者ゆえの作戦なのか元々陽気な人なのか、ひと目ではわかりづらい。
 カラオケボックスのテーブルを並べ替え、会議状態にする。三宅さんはお誕生日席に座ってもらって、僕たちが三人ずつ左右に向き合って座る格好だ。乱暴に使いこまれたソファは固めのはずがちょっと沈む。
「……それで、報告ってのは何なの?」
 花鶏が不機嫌な顔で促す。流石は男嫌いの百合っ子。三宅さんから一番遠い位置に座らせたのに、態度を軟化させる気ゼロ。取引的とはいえ、こちらから頼んだのに、ちょっとまずい気がしなくもない。ただ、三宅さんもこの間の話でそれぞれのキャラを把握したらしく、花鶏の礼儀を欠いた態度を気にする様子はなかった。こちらはこちらで流石だ。
「ああ……そうだね。ちゃっちゃと本題を話してしまった方がいいのかな?」
「お願いします」
 僕からも促す。三宅さんも記者としての話術を持っている、雑談めいたところから罠を仕掛けてくる可能性も十分にある。言い方は悪いけど、さっさと終わらせた方がいい。
「よし。じゃあ早速話そう。ただ、明るい内容じゃないよ。そこは勘弁してくれ」
「構わないわよ。最初っからアレがいい奴だなんて思ってない」 
「騙されてたんだし、もう何にも期待してないもん」
「……あう……」
「……」
 さも当然のようになってしまった、敵意のアピール。当人たちはほとんど無意識なのかもしれない。
「ええと、じゃあ――」
 三宅さんは思わせぶりに目を閉じて顎に手をやる。間を作るためのポーズだ。
 ややあって、上半身を前に倒し、いかにも秘密の告げ口といった風に前置きする。
「あまり大きな声では言えないんだけど……あの家は、かなりヤバイ」
 間。カラオケボックス特有の、隣の部屋のイケてない歌が遠く響く。
 みんな、三宅さんに心持ち身体を近づける。
 お腹に力を入れる。何が出ても揺らがないよう、意志に芯を通すイメージで神経を集中する。
 報告場所をカラオケボックスにしたのは、三宅さんがそうリクエストしたからだ。ファミレスでできる話じゃないというのが理由。
 その時点で、覚悟がいる話なのは想像がついている。ついているけど――
「まず前提として、才野原惠の名前……いや、苗字か。正式な苗字は才野原じゃない」
「……は?」
「あの屋敷の表札にも『才野原』じゃなくて『大貫』って書いてあるだろ? あれ、気づいてなかった?」
 一同顔を見合わせる。
 ……知らなかった。あの屋敷は見間違えようがない作りだから、表札を確認する必要がなかったし、そもそも名乗った苗字と表札の苗字が違うなんて考えたこともない。
 名前の段階から嘘が始まっていた―― 今の僕たちには強すぎる疑いの要素。
 呪いを踏まないためだとわかるのは僕だけだ。
 ……僕でさえ、嘘だと教えてもらえなかった。その事実が突き刺さる。
 ざわりと湧き上がる負の感情は、三宅さんの情報への歪な期待を沸きあがらせる。みんなの、僕の表情が硬くなっていく。
「ま、今度確認してみてよ。『大貫』って書いてあるからさ。んでここからが本題」
 上半身を倒し、ますます秘密めいた様子で続ける。
「何で彼女が『大貫』ではなく『才野原』を名乗るのか……ここがミソ」
 一旦言葉を切り、軽い深呼吸をして切りだす。
 誰かが唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
「彼女は大貫家の養女だけど、ほとんど表に出ていなかった。大貫氏が養子をもらったと触れ回った痕跡もない。一応戸籍上はちゃんと養子になってるんだけど、当人たち以外は誰も知らなかったんじゃないかってぐらいひっそりとした縁組だったんだよ。おかしいだろ? 養子ってのはボランティアでもらうもんじゃないんだから」
「確かにおかしいわね。跡取りにするなら表に出すわ」
「大貫さんが優しい人で、惠センパイを助けた……とか」
「だったら今『才野原』なんて名乗らないでしょ」
「そうかもしれませんケド、でも」
「大貫氏との関係が劣悪だった、あるいは養子縁組がそもそもフェイクだった、どうせそんなところよ。違う?」
「ま、方向としてはそっちだね」
 花鶏の態度の悪い確認に頷く。剣呑な表情をしながらも、彼女は三宅さんの話をしっかり聞いて咀嚼している。花鶏の中で三宅さんと惠のどちらが信用ならないのかを考えれば、その態度の示すところもおのずと判る。
「それで、だ。長らく、彼女が大貫家の養子であることは伏せられたような状態だったんだけど、ある時点から表面に出てくるようになる。ま、出てこざるを得なくなったとも言うけどね」
「ある時期、ですか?」
「……ああ」
 たっぷりと間を取り、オーバーアクションで頷く。
「大貫氏が亡くなってから、だよ」
「……!」
「しかも、葬式の段取りから埋葬から相続から、彼女と家政婦の沖浜江が全部やってのけたらしい。大貫氏の親族が彼の死を知ったのは死んでから数カ月経ち、遺産分割協議書が送られてきてからだったって話だからね」
「……つまり、葬式その他は既に終わってた、と?」
「そもそも葬式自体やってないみたいでさ。あの辺の斎場しらみつぶしに調べたけど、大貫氏の葬儀を取り扱った記録はどこにもない」
「……どういうことですか、それ」
「伊代ちゃんはどういうことだと思う?」
「……」
 聞き返され、沈黙に沈む伊代。自分の中に生まれた答えを否定できず、うつむいてしまう。
「おっちゃん、全部話しちゃっていいよ」
 るいが促す。
「るいちゃんはなかなかアグレッシブだねぇ」
「あいつの悪いところ、全部聞きたい。おっちゃんが調べてくれたようなあいつの本性、私たちは何も知らないんだもん。だから聞いて、あいつをとっちめる」
「……あう……」
「……」
「OK、じゃあ続きね。結構ショッキングだから覚悟の上で」
「わかってます」
「……余計なおひれは要りませんから」
 思うところはバラバラのままに、みんなの目に宿る真剣さが増していく。彼の話に引き込まれている証拠だ。密室空間の中でさらに身を寄せ合ってとなれば、いやがうえにも集中力は高まる。六人の集中をしっかり引き付け、三宅さんは予想と事実と推測を交えたストーリーを明かしていく。
「大貫氏が死んだのは、どうやら何かの事故らしい。らしい、ってのは死ぬ間際に病院に行った記録もないからなんだけどさ。彼は健康そのもので、亡くなるまでほとんど病院にも通ったことがなかった。そんな彼の死だ、誰も予想できない、突然の出来事だったはずなんだよ。にも関わらず、彼の死はひっそりと処理され、今もほとんど知られていない……まるで、消されたかのようにね」
「……」
「消された……」
 誰かが呟くリフレイン。抵抗する脳に刻み込まれていく、惠が歩いてきた道。
「さらに。その頃から、才野原惠は裏の世界に顔を出し始めるようになる。どこの組織にも属さない一匹狼ながら実力は確かってことで、今じゃ裏でもそれなりに名が知れてる」
「実力って」
「ああ、そりゃもちろん」
「―― 言わなくていいです」
 思わず遮る。
 ……わざわざ言われなくたって、わかる。
 信じたくない現実が、見えている。
 僕たちが央輝と出会いパルクールレースに挑んだのも、元はと言えば惠が央輝を紹介してくれたからだ。
 央輝と惠は前々から知り合いだった。央輝は惠を『食えないやつだが使える』と評した。
『使える』―― 裏社会におけるそれが血生臭い意味なのは、改めて考えるまでもないこと。
「……」
 言葉が減っていく。
 部外者の報告。赤の他人だからこそ言える冷酷な事実。
 人の道を外れたあり方―― 呪い以上の、恐ろしい裏の顔。
「彼女の裏の顔を証明するような材料は他にも色々あるんだよ。どれも物的証拠がなかったり警察が放置するような奴が被害者だったりで、上手いこと世間の目を逃れてる感じだけど……正直、彼女が結構なアレなのは疑いようがない。大貫氏の件を濡れ衣だとはとても言えない程度にヤバイよ、彼女は」
「……最悪ね」
 吐き捨てる花鶏。それ以上の単語が続かないあたり、顔は冷静でも心は相当ざわついているんだろう。
 他の皆は相槌も拒絶反応もなく、表情を歪ませながら情報と向きあっている。
 奥歯を、つぶれるほどに噛みしめる。涙は出ない。心は凍りついたような痛みと冷たさを訴え、やり場のない想いを握りしめる拳は爪が食い込みすぎて血が出そう。
 何十倍にも引き延ばされて感じる、陰鬱な沈黙。
「……悪いね、俺も君たちみたいなかわいい子にこんな話はしたくなかったんだけど」
 三宅さんがすまなさそうに謝る。
「いえ、お願いしたのは私たちですから」
「でも、ここまでヒドイ話だとは思わなかっただろ?」
「……あなたの言っていることが全てであれば、そうですね」
「あ、信じてはくれるんだね、茜子ちゃん」
「今の話が全て捏造なら、あなたはただの悪趣味な変態でしょう」
「きっついなぁ」
「……」
 茜子は話の内容を否定しない。三宅さんの話は嘘ではない、ということか。
 つまり、惠は……。
 信じたくない。本人に聞くまでは絶対に信じたくない。脳がどれほど叫んでも、理屈が信憑性をはじき出しても、それでも信じたくない。
 ……違和感はあった。
 あの屋敷について語るとき、惠は大貫氏を『大貫』と呼び捨てしていた。僕たちを呼ぶのとは明らかに違う、「敬称など付けてたまるか」というような呼び方だった。
 央輝があっさりと惠の話を聞いたのも、無下に断るのはためにならないからだとすれば納得がいく。
 否定ができない。
 だって僕は、彼女の過去を何も知らない。
 聞こうともしなかった。聞きたいとも思わなかった。
 真実は毒だから。惠にとって、真実を語ることは死を意味するから。
 そう。
 僕は、惠の過去に触れようとしたことがなかった。
 過去を語ることそのものの禁忌に目がくらんで、その奥に眠る彼女に触れようとしなかった。 
 ……こんな形で暴くぐらいなら、本人から聞いた方がずっとよかっただろうに。
「とりあえずは、こんなところかな。まだ調査は続けるから、新しいことがわかったら連絡するよ」
「あー……、はい」
「んじゃ、今日はこれで」
 役目を終えたとばかりに立ちあがり、背広を肩にかけて踵を返す三宅さん。
 その背中は誇らしげですらある。彼にしてみれば収穫がたくさんあったんだから当然だろう。
 三宅さんにとって、惠は単なる他人だ。どんな過去だろうが知ったこっちゃない、むしろ、記者的な見地からすればえげつない過去ほど喜ばしいのかもしれない。
「ありがとう……ございました」
 心のこもらないお礼を言って頭を下げる。
 扉の閉まる音。
 他人の不幸は蜜の味―― よく言ったもんだ。
 取り残された六人は、ずるりとした静けさに混じる、隣の部屋の下手くそな歌声を聞き流す。
「……確かめないと、だよね」
 苦しみでできた木の実を割るように、ぼそりと呟く。
「やめたほうがいいよトモちん。無理しない方がいい、危険だよ」
「私もそう思うわ。図星さされて豹変しないとも限らないし」
 止めようとする花鶏とるい。今回のことで疑念は揺るぎないものになったんだろう。確かめるより討伐する方が先、そんな獰猛な勢いが見て取れる。
「あの記者はきっちり情報を絞ってきてました。言ってないことの方が多そうですから、あの情報だけを鵜呑みにするのは危険だと思います」
 茜子は冷静に、中立を保とうとする。でも、この状況下で中立というのも相当難しい話だ。
「でも、間違ってはいないんでしょ?」
「……ええ。言った内容に嘘はありません。情報のチョイスは悪意にあふれまくってますが」
「なら結論は一緒よ。悪人が極悪人だとわかった、それだけのことよ」
「そうですか」
 話を打ち切る。
 茜子がここまで中立を保とうとするのは、三宅さんの裏側が見えるからだろう。
 ……中立、なのではなく、誰かにつくことができないのかもしれない。嘘と真実と悪意が入り乱れる今、誰かの味方をすれば目が曇る。
「……本人に聞いてないうちから判断するのは、フェアじゃないと思うわ」
「もともとアンフェアじゃん。本名すら教えてくれないやつにフェアを期待する方がおかしいよ」
 ああ言えばこう言う。話は平行線をたどる。
「……ううぅ……」
 こよりは呻くようにして縮こまっている。与えられた情報のショックが大きすぎて、到底何か言えるような状態にはないんだろう。
 視線の逃げ場を探して、時計を見る。
 ……夜の八時。うかうかしてると、すぐに央輝に会う時間になる。
「……とりあえず、ごはん頼もうか」
 メニューを引っ張り出して広げる。カラフルで目に痛い、カロリーの高さだけはお墨付きの料理が脳を通り過ぎていく。
「あんまり、おいしそうじゃないね」
「皆元にしては珍しいわね。同意するけど」
「カロリー低いメニュー、ないかしら」
「……空気読め」
「……そりゃ、私だって食べたくはないけど……三食はきちんと取らないと身体に悪いし、次の予定を考えると、やっぱり」
「なんていうか、律儀だ」
「この状況下でメニュー見て目を輝かせるバカがいたら鳥葬行きです」
「……鳴滝めは、お水だけでいいです……」
 もぞもぞと身を寄せ合いつつ、未だかつてない盛り下がったメニューチョイスをする。
「いっそお酒を頼みたい、テンション上げないと央輝と張り合えないかも」
「トモちん、一本いっとく?」
「呂律が回らなくなって地雷、アーメン」
「シャレにならないよそれ」
「一蓮托生死なばもろとも、ただし茜子さんは早期退職セミリタイアの方向で」
「逃げよった」
「私も一杯飲みたいわ、こんなくさくさした気分じゃ寝付けやしない」
「嘘だね」
「嘘ですね」
「ありえないです」
「……な」
 ほぼ全員にマジレスされる花鶏。花鶏が寝付けないなんて地球が終わる前日ぐらいのものだと思う、割と本気で。
 ある程度は会話が飛び交うものの、どうもリズムが悪い。居心地の良さを再現しようと焦れば焦るほど空回りしている、そんな感じだ。
 ……あんな話を聞かされた後で平常心に戻ろうだなんて、土台無理だ。
 でも、時間は着々と進んでいる。央輝に会い、八人目として彼女を迎えるという大一番が目前に迫っている。いつまでも鬱々としてはいられない、無理矢理でも立ち直るしかない。
「……じゃあ、カシスオレンジひとつ」
 景気づけにお酒をオーダーし、沈み込んだ溜息をひとつ。
 誰にでも知られたくないことはある―― 当たり前のことだ。僕たちなんか存在そのものが典型例。知られたくないことまみれで、知られたくなくてひとりぼっちに逃げてきた。
 それなのに、勝手に暴いて、勝手にほじくりかえして、傷口をえぐるような真似をして―― 知るという横暴を、いろんな言い訳のもとに振りかざして―― 仲間、なのに。
 歯車は止まらない。悪意は収まらない。事態は悪化の坂を転げ落ちるばかり。
 届いたカクテルを一気飲みする。
 ……痛みで麻痺した味覚は、糖分たっぷりのカクテルの甘みさえわからなかった。