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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act6 「僕は人間を知らない」


「―― 一週間?」
「はい」
 困惑そのものの反応をした僕たちを前に、浜江は迷いなく言い切った。
「縫合は無事に終わりましたが、これで完治したわけではではありません。四日後に抜糸を行い、様子を見ながらリハビリをします。治すにはきちんと手順を踏んでいただかねば」
「そんなに……かかるんですか……?」
「無理は禁物。後遺症や傷を残すわけにはまいりません」
「……」
 智と顔を見合わせる。
 怪我が軽くないのは見てわかったけれど……一週間というのは、正直想像以上だ。
「少なくとも抜糸をするまでの間、智さまはお手洗いやお風呂の時以外は絶対安静で、動かないように。状況が状況ですから、念には念を入れます」
「もし万が一、化膿したら大変ですから……お辛いと思いますが、今回は、浜江さんの言うとおりにされてください」
「確かに、こういうことは浜江が一番分かっているのだろうね」
 苦い思いを飲み込む。
 智に「病院に行く」という選択肢がない以上、浜江の知識と経験と技術だけが頼りだ。加えて、彼女は僕たちの状況も熟知している。その上で見立てた期間なのだから、間違いないだろう。
 ……それでも、一週間は反発心が沸いてしまう程度には長い。なにせ、僕たちはここに来ること自体を散々ためらっていた。二人と顔を合わせないことが前提だったし、ましてや滞在するなんて予想もしていなかった、いや、しないようにしていた。
 それが、終わってみればこの状態。しかも、これが最善に近いというのだから腹立たしい。
 運命というのは悪趣味だ。真綿で首を締めるように行き先を塞いでいく。
「……何か、早急に対処しなければならないことがおありですか」
「いえ……特には。でも、そんなに長い間お世話になってしまうのも」
「構いませんよ。他でもないお二人なんですから、気兼ねする必要はありません」
「しかし、突然の来訪者というのは」
「お二人をお迎えするのは当然のことです」
「このお屋敷は、今も惠さんの家です。何も心配はいりません」
 僕たちを迎え入れることに全く抵抗のない二人。裏表のない、ごく自然な応対が逆に胸を締め付ける。
 世話にならない方法を考えようとしても、思いつきすらしない。ある意味完全に手詰まりだ。
「……お二人が、良い気分ではないことは分かっております。しかし、今回は堪えて頂かねばなりますまい」
「滞在されている間のお世話は任せてください。お風呂やお手洗いのお手伝いもいたしますから」
「えぶっ!?」
 佐知子の気遣いに、聞き捨てならぬと珍妙に噴き出す智。
 その反応をどう取ったのか、佐知子がすまなさそうな表情で補足する。
「少し恥ずかしいかもしれませんが、治すのが最優先ですので」
 ……安静にしなければならないんだから、そういうときに人の手が必要なのは当然、か。
 しかし、それは予想外の危険要因だ。
 正論は時として斜め上の方向に人の首を締める。悲しいかな、佐知子の申し出は逆効果、というより余計に危険だ。
「だだだだめですそれは駄目です泊まるのはともかくそれはっていうか一人でもなんとかなりますっ」
「いえ、万一のことがあっては大変です」
「そっちの方が大変ですっ!?」
 わたわたと慌てふためく智。恥ずかしさと呪いの懸念で顔が赤くて青い、変な色になっている。
 正直、まずい。今のところ、治療では奇跡的に発覚せずに済んでいるけれど、それ以上の手伝いとなると……トイレは対処のしようもあるだろうけど、お風呂は流石に隠しようがない。
 見えたりすると一巻の終わりだ、色々と。今でこそ見慣れたけれど、初めて遭遇した時は……いや、やめておこう。
「私は浜江さんのような医療知識はありませんが、そのぐらいのお手伝いでしたらできますから」
 そのあたりの呪い事情を知ってるようで知らないのが佐知子。智の態度を遠慮と思ったのか、あくまで好意で申し出る。それがさらに智を慌てさせる。説明はできないし、無碍に断るわけにもいかない。半分涙目で逃げ場を求めて視線を回す。
 成り行き的に僕と目が合う。
「いやその、だ、だだ大丈夫です。その辺はその……惠にやってもらいます、ので」
 ……当然というか、なんというか。お鉢が回ってきた。
「あら」
「どうやら、ご指名のようだよ」
 もちろん断る理由はない。謹んでお受けする。
「ふふっ、それなら、惠さんにお任せしましょう」
「は、はい、そういうことでお願いしますっ」
 僕の返事に納得する佐知子。
 これにて一件落着、智はほっと息を吐く。
 智の人選を佐知子がどう捉えたのか――まあ、どう捉えていても良いか。智と僕の間にあるものは、今さら再確認するまでもなく証明されてしまっているのだし。
 ただの友人のために手を汚せる人間などいない。厳然たる事実がそこに横たわる。
「私、少し差し出がましい真似をしてしまいましたか?」
「あー、いや、その」
「佐知子、智は恥ずかしがり屋なんだから、その辺で」
「はい、惠さん。ふふっ」
 少し頬を赤らめて笑う佐知子。彼女がこんな風にからかい半分に絡んでくるのは珍しい。
 ……おそらく、場を和ませようとしてくれているのだろう。智の絶対安静だけでなく、懸念材料はいくつもある。僕たちが本来屋敷にとどまる気がなかったことは、浜江も佐知子も察している。かといって、この状態でここを出るのは愚の骨頂。
 ままならない――だからこそ、せめてもの過ごしやすさを。そんな二人の計らいがありがたくもあり、申し訳なくもある。
「……二人は、本当にそれで良いのかい?」
「はい」
「お任せください」
 最終確認。二人の返事には一瞬の間すらない。
 不本意ではあるけれど……道は、決まった。
「……すみません。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
 二人の答えを受け、智が頭を下げる。
 そんなことしなくても――そう言いかけて、本当は僕がそれを言うべき立場なんだと気づく。慌ててフォローしようと考え出したときには、既に歯車は回転している。
「そうと決まれば、早速色々と準備しますね。足りないものがあったらおっしゃってください」
「怪我の治療は、特にここ数日が大事です。何か変化があるようなら速やかにご報告を」
 善は急げとばかりに退出する二人。僕に謝られるのを避けた、ようにも思える。
「……」
「……」
 残った僕たちに流れるのは、なんともいえない気まずさ。
 今回の総括、今後のこと、この屋敷にいるという事実――どれをとっても、胃が痛い。
「……一週間、かぁ……困ったなぁ……」
「これは予想外だったのかい?」
「うん。怪我するってことはわかってたけど、その後どうなるかとか、傷がどの程度なのかとか、そういうのはわからなかったんだ」
 智は見るからにしょげかえってしまっている。選択に間違いはなくても、想像以上に悪い結果になってしまったことに責任を感じてしまっているらしい。
 ただ、へこんでいるだけでもなさそうだ。目を閉じたり、指を組んだりしつつ、あれこれと思索を巡らせる。
「……なんか、もやもやする。もっと上手くいったかもしれない、怪我しないで惠を助けることもできたのかもしれない……そんな風に考えちゃう」
「過ぎたことに対しては、なんとでも言えるんじゃないかな。悔やんだところで、状況は変わらないだろう?」
「……まあ、そうなんだけど。でもやっぱり、こう……」
「君は僕を、あの二人を助けてくれた。違うかい?」
「……うにゅ」
「大切なのは、そこじゃないかな。現在は現在で、また新たに考え直せばいい」
 頭を撫でつつ、微笑みかける。
 ……こういうとき、気の利いたことが言えないのが悔しい。詭弁を弄するのは得意だけど、それは人を遠ざけるためのものであって、近しい人に手を差し伸べるものではない。せめて素直に言えれば、なんて思うだけ無駄なことだ。
 心優しく責任感の強い智。それは長所だけど、同時に弱点にもなる。情の深さ故に、身体に、心に、必要のない傷を負ってしまう。
「……今回は、最初からうまくいかないようにできていた。だから、君が背負い込む必要はないよ」
「うー……でもなんか、こう……むぅ」
 智は難しい顔をする。
 今回の件は今までとは条件が大分違う。日時はこちらで選べなかったし、人数も圧倒的不利だった。諸条件を勘案すれば、この結果は上手くいった方だろう。
 ……というのは、一種の詭弁だ。白か黒か、グレーならなぜグレーなのか、気持ちの良くない結果だからこそ、なぜを探したくなる。
「うーん……」
 考え込む仕草を何分か続け――答えが出なかったらしく、僕の方を見る。
「ねえ、惠。僕の能力ってなんだと思う?」
「……え?」
 智から出たのは、意外な質問だった。
「今回、いつもと違う要素が多すぎるんだよね。人数とか状況もそうなんだけど、能力もなんか……今まで思ってたのが違うような気がしてきた」
「能力が? なぜ?」
「上手く言えないんだけど……なんとなく」
「……確かに、不確定要素の多い部分ではあるね」
 曖昧ではあったけど、そのままにしていた要素。原因をそこに求めるのは、自然かもしれない。
 智の能力――実は、その正確なところは僕はもちろん、智自身もはっきりとはわかっていない。
 そもそも、能力と呪いは口伝的に伝えられている部分が多い。つまり、誰かが教えてくれなければわかりようがない。僕の場合は能力も呪いも母から聞いていたけれど、智は呪いはともかく、能力について聞かされていないという。以前は能力の存在すら知らなかったぐらいだ。
 ゆえに僕たちは、彼が他の人と比べて明らかに突出しているものを『能力』として定義付けている。
 それは、いわゆる『勘の鋭さ』だ。危機を察知する能力、虫の知らせの強化版とも言ってもいいだろう。
 彼は依頼の現場に行くと、いつならば作戦が滞りなく行えるかを判断することができる。今のところ、彼の言うタイミングで危ない目にあったことはないし、智も自分の危険察知の正確性を無意識レベルで信用している。不確定要素についての根拠なき自信は、それが能力によるものだという証拠にもなる。呪いを踏みそうなときに本能が危険信号を発するのと同様、能力を発動させるときは「それが能力だ」ということを察するものだ。僕が、形なき『命の上乗せ』を感じ取ることができるように。
 ……それが違う、というのは、一体?
「今回は、何か変だったんだ。今まではできるかできないかを判断する程度だったのに、今回はパターン分けまでされてた。三つあるから選べみたいな感じ……変、だよね」
 確かに、不思議ではある。今回、智は『僕たちが関わらなかった場合』も見ていたという。関わったものの成否が分かるだけなら納得もいくが、無関係を選んだ場合も分かるというのは範囲が広すぎる。
「似たようなことは、これまでにあったのかい?」
「ううん、ない。そもそも知り合いが関わる事件って時点で珍しいから、単なるイレギュラーなのかもしれないけど」
「サンプルが少ない、か……しかし、だからといって見逃して良いものか」
「そうなんだよね。今まで上手くいってたからあまり深く考えてなかったけど、危険察知じゃないなら使い方も考えなおさなきゃ」
「ふむ」
 智の言うとおりだ。能力に頼っている部分がある以上、認識違いは取り返しの付かない事態を招きかねない。今までのことから考えて危険察知も当たらずとも遠からずなんだろうが、能力の影響範囲等、明確にしておくに越したことはない。
「……当面の課題は、そこかもしれないね」
 同じことを繰り返さないためには、原因の特定と対処が必要だ。今後も、今回のような避けがたい危機がやってこないとも限らない。とすれば、その時のために手を打っておくのは必須だろう。
 能力……書斎を改めて探してみるか。既に調べつくした感もあるが、視点が変われば入ってくる情報も変わる。思わぬ収穫があるかもしれない。それに、本ならこの状態の智の暇つぶしにもなる。やってみる価値はありそうだ。
「……智、ではここで過ごす間、君の能力の分析に時間を割くというのはどうかな」
「あ、なるほど。確かにそれが一番かもね」
「幸い、ここは呪い関連の書物が充実している。案外、一週間は短いかもしれないよ」
「そんなにあるの?」
 智の表情がぱっと明るくなる。つられて僕も頬が緩む。喜ばしいこととは違うけれど、明るい気持ちで屋敷の日々を乗りきれるのならそれにこしたことはないだろう。
「最も、役に立つ情報がある保証はないが……何も無いよりはマシかもしれない」
「うん、ただもやもやしてるのもイヤだしね」
 起こってしまったことは覆しようがないし、悔やんでも落ち込むだけだ。だとすれば、少しでも気が紛れるネタが有ったほうがいい。退屈は往々にして心を追い詰めるもの。忙しさには一定の精神安定の効果がある。
「では、早速いくつか見繕って来ようか?」
「あ、うん、お願い」
「仰せのままに」
 おぼろげに記憶に残っている執事の動作を見よう見まねで再現してみる。
「……似合いすぎだよ、惠」
 智は思わず苦笑い。……なぜか、少し顔が赤い。
「いいなぁ、かっこいいなぁ……」
「智は可愛らしいよ」
「本当は逆がいいのに」
「あはは」
 おどけて、智のおでこに軽く口付ける。ぽかんとした表情を確かめて、部屋を出る。
 扉を閉めて、一息。
「……智の、能力か……」
 ……改めて考えようとすると、心の隅で、何か引っかかるものがある。
 糸口が見つかりそうで、それを避けようとしているような、妙な感覚。
 ……智の能力、何かに、誰かに、似ているような――……

 記憶を頼りに、有用そうな資料を探し出す。
「相変わらず、数だけはあるな……」
 この屋敷は呪いの研究所みたいなものでもあったから、資料の量は申し分ない。よくここまで集めたものだと思う。
「数だけは……いや、ないからこそ、これほど集めなければならなかったのか」
 呪い自体が非常に局所的、かつ特殊な事例なためか、オカルト的な書物に時折取り上げられているぐらいで、本質に迫ったものというのは本当に少ない。ここにある本も、大部分は無関係と言っていいほどにピントがずれている。手紙や日記といった個人的な資料が最も信憑性が高い辺りからも、この呪いと能力の稀少性が伺える。稀少だからと尊ばれたりしないのがまた呪いらしい。
「所詮は呪い。遠い世でも、価値と呼べるものではなかったのかな」
 ひとりごちる。
 ……僕の能力は戦国の世では使い道もあったのか、一瞬よぎった仮定はすぐに追い出す。生まれた時代を恨むという無益で無責任な発想にしかならないのだから、考えるだけ時間の無駄だ。
「……この辺りか」
 背表紙が黄ばんだ、旧仮名遣いの本を数冊並べる。伝記物語の要素の強い、読み物としても通用するものだ。
 一応、書斎の本は全て一読はしている。ただ、その多くは目的への執念がなければ読みすすめられないほどに難解で、しかも収穫なしという精神力を削がれるものだった。そういう苦行的な本を智に渡してもしょうがない。
 きっかけになれば、と思う反面、期待を裏切られる苦しさを味わわせたくないという気持ちもある。
 ……忘れもしない、書斎の存在を知った日と、中の本を全て読み終わってしまった日の落差。ああいう虚しさを感じるのは僕だけで十分だ。
 もちろん、智の能力の正体は掴まなければならない。ただ、ここに答えがあると信じてしまうのは逆効果だ。暇つぶし以上の何かがあれば儲けもの、ぐらいに考えておいたほうがいいだろう。それはそれで虚しくもあるが、ありもしない解決策を求めてさまようよりはいい。
 書斎を見回すと、年月が作り出す独特の香りが鼻をくすぐる。懐かしさというどうしようもない感慨が胸に沸いては肺を圧迫する。ここでの日々に思い入れはなくても、過去というだけで無条件に心をくすぐるものらしい。
 ……色々なことが、あった。忘れたいもの、忘れられないもの、それこそ山のように。
 ただ、色々と言いつつ、色彩豊かではない。その多くは、罪深さを問いかける鮮血の記録。
 僕がここにいるということ自体が、時を積み重ねてきた証。それは、本来とっくに潰えているはずの未来をつぎはぎする愚行が続いている証拠でもある。能力を体良く「使われた」こともあったけど、結果から見たら同じことだ。罪悪感に切り刻まれながらも、倒れてしまわない自分自身の強情さに反吐が出そうにもなる。
 倒れてしまえば楽になれると考えたことは幾度もある。けれど、その「楽になれる」は、言葉通りの意味でありながら僕を突き動かすほどの魅力はなかった。臆病と意地が、究極のわがままを下支えし続けた。
 生きることに意味など見いだせなくても、生きることそのものには永遠にしがみついていたい、僕の芯はそんな身勝手でできている。どうしようもなく腐った性根を蔑みながら、同じ選択を続けてしまう。
 ……どれだけ自己嫌悪に浸っても、命を手放すことができない。ずるずると、生存という罪を重ねていく。
「……」
 嘆息し、本を数冊抱えて書斎を出る。気分は正直良くはない。
 僕は、一体どこまで汚れれば気が済むのだろう――
「あら、惠さんはここにいらっしゃったんですか?」
 と、掃除用具を抱えた佐知子とばったり出会う。そういえば廊下で掃除機をかけるような音がしていた、ような。
「智の暇つぶしにね。年頃の女の子が好むようなものはここにはないけれど」
「智さんはどんな本を読まれるんでしょう?」
「さあ、どうだろう? ファッション雑誌あたりは愛読していたかな」
 趣味と実益を兼ねてだろう、智は良く本屋でファッション雑誌を買う。これと決めたものがあるわけではなく、その時々で気になるものを選んでいる印象だ。自分に何が似合うかをしっかり把握しているから、買う雑誌にハズレはない。そして雑誌で念入りにチェックし、店舗では事前に集めた情報に沿った服を買う。長居や試着が危険な身、自然に身についた行動なんだとか。
「以前ここに来たときのお洋服も可愛らしかったですものね」
「可愛らしい服が似合うというのは、それだけでとても価値のあることじゃないかな」
「そうですね、お着替えさせたくなっちゃいます」
「彼女が選ぶ服はセンスが良いんだ。自分だけでなく、他人のものもね」
「惠さんのお洋服も智さんが選んでるんですか?」
「ご想像にお任せしようかな」
「ふふっ、よかったです」
 気遣いとは別の部分で、何故か佐知子は楽しそうだ。ここにいた僕は常に同じ服装をしていたから、違う格好というだけで興味を惹かれる部分があるのかもしれない。
 服装を変えたのは不可抗力の要素が多い――説明しようかとも思ったが、やめておいた。せっかく佐知子が気分よく話しているのに水を差すのも悪い。
「お二人が仲良く暮らしているみたいで、良かったです。私たちにはそれを確認する方法すらありませんでしたから」
 佐知子は微笑む。
 ……そこに、確かな寂しさが混ざる。
「お二人が選んだ道ですから、私は何も言いません。惠さんが生きていてくれた、それだけでいいんです。ただ、こうしてまたお会いできて、確かめられたことが、本当に……本当に、嬉しくて」
「ああ……連絡すらしなかったのは、手落ちだったかもしれないな」
「いいんです。便りがないのはいい便り、といいますから」
 不義理だという自覚はある、けれど、縁を繋ぎ続けることはためにならない――お互い、分かっている。だからこそ、僕と智は田松から離れようとしてきたし、佐知子も僕たちを追わなかったのだろう。
 ……それでも、僕たちはまた出逢ってしまった。
 ……それでも、僕たちは再会を喜んでしまった。
「惠さん」
「何かな?」
 佐知子が、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
「……」
「惠さんは、私を三回も助けてくれました。一度は、あの地獄から救いだしてくれました。二度は、ここでの生活を与えてくれました。そして、三度目は、今……私たちに降りかかった火の粉を、払ってくれました」
「……」
「私は、惠さんに何もしてあげられません。ただ、その幸せを祈ることしかできません。だというのに、惠さんは何の見返りも求めずに、私を助けてくれる。支えてくれる。本当に……あなたは、私にとって、何よりも、誰よりも尊い人なんです」
「佐知子……」
「惠さん。惠さんに出会えて、私は本当に幸せです。だから、どうか……どうか」
「……それは、ここを出る時に話すことじゃないのかな」
「ふふっ、私ったらせっかちですよね。でも、お二人が帰るときにこんなこと言ったら泣いちゃいますから」
「涙の力は偉大だからね」
「ええ。だから、今のうちに言っておきたかったんです」
 そう言う佐知子の瞳は既に潤んでいる。内側には色んな想いがあるだろうに、穏やかに笑い続ける。
 名目、役割上、僕と彼女は主人とメイドの主従関係となっている。けれど僕たちの本質的な繋がりは主従関係でもないし、契約関係でも、雇用関係でもない。関係、という言葉から離れたところで僕たちは結びつき、共に日々を過ごしてきた。
 それは、誰が約束したわけでもない、自然な流れ。運命という言葉から棘を抜けば、多少は説明になるだろうか?
 もし、僕と佐知子が出会わなかったら――彼女はおそらく、この時間にこの世にあることすらできなかっただろう。
 極論すれば、彼女の救出は副産物以外の何ものでもない。あくまで、偶然だ。
 それでも、助けなかったら彼女は生きていない。昨日ここに来なかったら、こうして話をする可能性すら絶たれていた。
 そして、佐知子は噛み締める。この世界に行き続けられる幸せを、開かれ続ける未来を喜ぶ。
 ……それをもたらした僕に、並々ならぬ感謝を注ぐ。
 彼女を見ていると、自分のやっていることの意味を見失いそうになる。義賊、仕事人、正義の味方といった甘い甘い囁きに引き寄せられそうになってしまう。
 そんなもの、部外者が持て囃すおとぎ話の戯言だ。結局のところ、人殺しは人殺し以外の何でもない。
 ……ただの、偶然。佐知子が助かったことも、僕がその原因となったのも、運命のいたずら。
 だから、そこに価値を置くことは誤りだ。イレギュラーを根拠にすれば、そこに広がるのは勘違いと歪みの砂地獄。
 そう言い聞かせ、自分をきちんと律しようと思うのに……心の奥底が熱を持つ。
 助けられて良かったと、助けるためにここに来たんだと、言い訳を作ってしまう。僕にそんな権利はないのに。
「……あ、そうです!」
 僕の反応を見ていた佐知子が、思いついたように手を打った。
「せっかくですから、惠さん、ここにいる時しかできないことをされてはいかがですか?」
「……?」
 何を急に……意図するところが全く分からず、思わず首を傾げる。
「例えば、浜江さんに料理を教えていただくとか」
 ……は?
「……料理を? 僕が?」
「はい。多分、あちらでは智さんがお料理されてると思いますが……智さんも、惠さんのお料理食べてみたいんじゃないでしょうか」
 今まで考えたことすらない提案をされる。
 ……料、理? 
 とても馴染み深いのに、自分とは重なりすらしない単語。
「……しかし、僕は今まで、そんなことは……」
「はい、だからこそです。智さんが惠さんに教えるのは大変ですし、時間もかかると思います。その点、浜江さんでしたら手際よく教えてくださるんではないかと」
 ……まったくその通りだ。料理と言われて何をしたらいいのか見当もつかないぐらい、僕は料理に無知だ。なにせ、作るどころか包丁を握ったことすらない。流石に智が作ってくれた料理をテーブルに運ぶぐらいのことはしているけれど、何をどうしたらあの味が出るのかさっぱりわからないし、そういう視点を持ったことすらなかった。
 そんなどうしようもないレベルの初心者に一から教えるとすれば、浜江以上の適任者はいないだろう。
 しかも、今回は一週間、屋敷から一歩も外に出ない、出られないという状況。加えて、智の能力調べについても、僕が手助けできることは決して多くはない。佐知子の提案は建設的な上、相当な説得力と合理性がある。
 ……降って湧いた、意外すぎる時間の過ごし方。
 考えてみれば、結構なメリットのある提案だ。今後、智が動けなくなったりする事態が起こらないとも限らないし、また、腕を怪我するといったことも考えられる。そんな時、僕が料理のひとつもできたほうがいいだろう。一週間でどれだけのスキルが身につくのか未知数だけど、浜江のことだ、それなりのところまでは引き上げてくれるような気がする。
「……」
 やってみる価値は……あるのかもしれない。今までそんなこと考えたこともなかったけれど、だからこそ良い機会という言い方もできる。役割分担があるといっても、できて困ることではないのだし。
「……浜江は、教えてくれるかな?」
「大丈夫です! きっとビックリされるでしょうが、断られたりはしないと思います」
「……それなら、良いのだけれど」
「じゃあ私、浜江さんにお話ししてきますね。準備もしてくださると思いますし」
 思い立ったが吉日、佐知子はくるっと向きを変え、小走りに食堂へと去っていく。
「……えー、と」
 ……何か、気分転換に変なことに足を突っ込んでしまった気がしなくもない。

「惠さま、包丁は切るものであって突くものではありませぬ」
「え、あ」
「包丁はただ持てばいいというものではありません。そんなに力を入れて握っては素材の旨みが逃げます」
「切り方で変わるのかい?」
「大いに変わりますとも。料理は下ごしらえが命。惠さまには切り方から覚えていただかねば」
「切り方……形を整えるだけでは駄目なのか」
「そもそも惠さまの切り方では形すら整えられませぬ。力任せでなく、技で切る。切り口は美しく。これは基本中の基本です」
「……洋剣とは随分扱いが違うんだね」
「料理とは繊細な手つきがものを言います。手際よく形よく、かつ、愛情を込めて一つ一つを作るのです」
「芸術みたいなものかな」
「左様です。料理は消える芸術。ゆえに、一つ一つの作業が肝心です。私が隣で切りますから、同じように」
「ええと……こう、かな」
「違います。一気に切り落とすのではなく、力の流れを意識して……」
 浜江による料理修行、スタート地点は食材の切り方から。簡単な料理の作り方を二つ三つ教えてもらえればと思っていたけれど、そうはいかないらしい。最初に変な癖がついては大変なんだとか。
 そこまでこだわらなくても、と思ったのは最初だけ。やってみるなり、浜江の言いたいことを痛感する。
 要するに――切り方がわからない、上手く切れない、サイズを合わせられない。
 刃物の扱いには慣れていると思っていたけれど、どうやら料理のそれとは価値観レベルで扱いが違うようだ。僕の持っているスキルは役立つどころかむしろ邪魔にすらなっている。目的が全然違うのだから当たり前のことではあるけれど、いざ実際にやってみるとその差に愕然とする。
「良いですか、野菜には繊維があります。その繊維に沿って切るか、繊維を断つかによって歯ざわりも味の染み方も変わってくるのです。もちろん切る速度も刃の入れ方も変わります。まずは基本的な野菜の繊維の方向から把握していただいて」
「……奥が深いんだね」
「まだ序の口ですらありません。こんなところで音をあげられては」
 ……確かに、こんなところ、だ。
 包丁を握り始めてから、既に二時間が経過している。だというのに、まだ野菜を『切ってみる』の段階だ。しかも一回刃を入れるごとにチェックが入って握り方からやり直すものだから、遅々として進まない。今日は切り方を学ぶだけで終わりそうだ。
「佐知子に野菜を買いに行かせております。この際ですから、一通りの食材は切っていただきます。皮の剥き方もお教えせねばなりません」
 ……どうやら、それすら今日中に終わらないらしい。
「山の険しさは、登り始めてからわかるものなのかな」
 まさか、調理の前段階でこんなに時間がかかるとは。
 文字通りの完全な初心者とはいえ、料理の道の果てしなさに愕然とする。
「ご安心を。一週間あれば料理の基礎の基礎はお教えできましょう」
「基礎の基礎、なんだね」
「正確には基礎の基礎の基礎の基礎です」
「……」
 後悔する気はないけれど、ちょっとだけ『後悔先に立たず』ということわざを思い出す。
「心配せずとも、誰でも最初は初心者です。下手な教わり方をするぐらいなら、私にお任せくださる方が良いでしょう」
「ああ、佐知子もそう言っていた」
「佐知子にも教えておりますが、既に妙な癖がついておりますから、なかなか上達しません」
「おや、いつの間に」
「料理の腕というものは、後々必ず役に立つものです」
「……なるほど」
 浜江の言葉に、佐知子の意図を知る。
 つまり、佐知子が浜江に料理を習い、その必要性を感じたからこそ、僕にも勧めてくれたということか。
 そういえば、浜江と佐知子が揃ってから長いのに、料理修行という現場は見たことがなかった。あえて隠すほどのことではないし、おそらく最近始めたのだろう。
 そのきっかけが何だったのかは、なんとなく想像がつく。
「佐知子の料理の腕前はどうだい?」
「作れる、というだけです。話にもなりませぬ」
「……これは手厳しいな」
「惠さまには、せめて佐知子以上のものは作れるようになっていただきたいものです」
「一週間で間に合うのかい?」
「基本を押さえることが肝要です」
 ……間に合わないけど、そのベースになるものは鍛えてくれる、ということらしい。料理のことはよくわからないけれど、浜江の口ぶりからすると、基本ができれば応用もできるというタイプの技能なのか。だとすれば基本をここで身につけて後は智に教わるということもできるのかもしれない。
「さあ、惠さま。時間は限られております」
「……あ、ああ。次は何を」
「その前に握り方をもう一度。肩の力を抜いて、指は添えるように」
「……ふむ……」
 ……我ながら、先が思いやられる。

「……というわけで、君の能力の調査は君に任せることになりそうなんだ」
「はー、惠が料理……ものすごく意外」
 夕食後、智に事情を説明すると、智は心底驚いた表情を見せた。
 ちなみに、夕食に僕があれこれした食材は一切入っていなかった。浜江曰く、不恰好な食材は人前に出すものではないんだとか。彼女の腕を以てしても、最初の段階でつまづいた食材の挽回はできない……ということらしい。そこは浜江なりのこだわりなんだろうし、失敗した僕がとやかく言えることじゃない。……勿体無いのと申し訳ないのと、複雑な心境だ。
「……やっぱり、似合わないかな」
「まあ、正直に言えば、その発想はなかったって感じ」
「そこまで?」
「うん。だって僕、惠が洗い物してる姿にも違和感があるんだもん。王子様に何やらせてるのー、みたいな気持ちになる」
「王子様って」
「一緒に暮らしてても、王子様は王子様なのです」
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか。智の僕に対する印象は随分と浮世離れしているらしい。
「でも、浜江さんに料理教えてもらえるって、ちょっと羨ましいな。僕も動けるようになったら加わりたい」
「智はもう十分作れるだろう?」
「作れるからこそ、凄腕の人に教わりたくなるんだよ」
「ある程度のレベルに達したら究めたくなる、そういうことかな?」
「ちょっと違うかも。僕の料理を食べてくれる人がいるから、もっと美味しいのを作りたいんだ」
「……そういうものかい?」
「そういうものなの。僕、一人暮らしが長かったでしょ? どんなに気合入れて料理しても、一人じゃ全然張り合いがないんだ。今は惠が食べてくれるから、それだけですっごく嬉しい。だからもっと上手くなりたい」
「……なるほど」
 なんだかこそばゆい。僕も智がいるから料理をしてみようと決めた。今の生活に入っていなかったら、きっと考えもしなかった。
 誰かがいる、というのはそれだけで背中を押してくれるのだろう。自分ひとりでは素通りしてしまう様々な要素が、傍にいる大切な人というフィルタを通ることで強く胸に迫ってくる。あれこれ理屈を付ける以前に、そういう風に心が動く。
「ところで惠、今日はどんな料理を作ったの? 夕飯にはそれっぽいものはなかったけど」
「浜江は基礎工事に余念がなくてね。料理の基本と言えば刃物の扱いだろう?」
「ってことは、結構手とか指とか切ったんじゃない?」
「……ああ、そういえば」
 言われてみれば、五分に一回は血が出ていたような……ごく自然の行程みたいになっていて、ほとんど気にしてなかった。
「料理って、指を切ったり火傷したりして上手くなっていくんだよね。というか、それで手の置き場所を覚える感じ」
「痛い目を見なければ学習しない、ということか」
「そうそう。僕も昔は良く切ったよ。タマネギが目に染みてうっかり目を閉じたまま切ろうとしちゃったり」
「……それは、危ないと事前にわかりそうなものだけど」
「意外とねー、やっちゃうんだよね」
 過去の失敗をからっと笑う智。今の彼からは想像できないけれど、彼にも初心者の時期があったのだろう。今日の僕のように、知識と行動が連動せず焦ったりしたのかもしれない。
「そだ。惠、手見せて」
 と、智は何故か嬉しそうに僕の手を取る。
「名誉の負傷。どのぐらいあるのかな」
 ……?
 言ってることが分からず、とりあえずされるがままにしてみる。
 悪戯っぽさのある瞳で手を見つめる智。
 しかし――なぜか、その表情が曇る。
「……あれ、全然ない」
「ない、って、何がだい?」
「切り傷。惠、結構切っちゃったんでしょ?」
「野菜の切れ端を数えて二分の一すれば答えが出る程度には」
「……ほんとに? 惠の手、すっごいきれいだよ」
「え?」
 言われて見てみると、特に普段と変わりない手がそこにある。取り立てて奇妙な点は見当たらないけれど……智は何を気にしているんだろう?
「……何か、おかしいかな」
「おかしいよ。切り傷たくさん作ったはずなのに、痕さえ残ってな――」
「――……」
 そこで、お互いが理解する。
 ――忘れかけていた、二人の絶対的な相違点。
「失礼いたします。智さま、消毒のお時間です」
 張り詰めたものが流れ掛けたところで、浜江が入ってくる。
「あ、はい。ありがとうございます」
 これ幸いとばかりに浜江に意識を向ける智。僕もそれにならい、さっとベッドから離れる。
 智も浜江も慣れた風だ。智は奥は見えないように隠しつつ足を出し、浜江は手早く包帯を外して傷口を消毒する。
「……」
 少し遠目になりながら、智の傷口を見る。まだまだ鮮血の可能性を溜め込んだ、油断のならない残酷な一本線。
 ――丸一日経っているのに、塞がらない。
 強烈な違和感。つくりものではないかと、ありえない仮定が浮かんで消える。
 まるで、そこだけ時間が止まっているかのよう。僕の中の常識が妙だ妙だと騒ぐ。
 ――『あんな程度の傷』なのに。
 目の前で行われているのは現実で、時間はきちんと流れている。そのはずなのに、智の傷は全然治っていない。
「はい、終わりました。経過は順調のようですが、安静にされますよう」
 ……あれでも順調だと浜江は言う。どうして?
 ――僕だったら、あんな傷――
「それでは」
 一礼し、部屋を去る浜江。
 ……その背を、半ば反射的に追いかける。
 部屋を出たところで呼び止める。
「待ってくれ」
「……いかがいたしましたか、惠さま」
「……」
 ぎゅ、と唇を噛み締める。
 ――僕だったら、あんな傷、一時間あれば治るのに。
 当たり前が、疑問を呈する。それは、僕と智の間に横たわる溝。
 ……僕はひとつ、とても大事なことを忘れていた。わかっているはずなのに、わからなかった。
 ……確かめないと。
「智のことだ。ひとつ、確認させてくれ」
「……はい」
 浜江は真摯に僕と向き合ってくれる。
 一旦瞳を閉じ、唾を飲み込み、意志を固めて――問う。
「……智の怪我は、どうして一週間もかかるんだ?」
「……」
 浜江は静かに佇む。
 彼女の見立ては厳格で、正しい。僕たちをより長くここに留めようとか、そんなくだらない策を弄する人じゃないのは僕もわかっている。
 浜江を疑っているわけじゃ、ない。僕が知りたいのは、聞きたいのはそこじゃない。
「……本来ならば、一週間では早すぎます」
「……」
 僕の言いたいことをわかったのか、そうでないのか……浜江はゆっくりと答える。
「万全を期すのであれば、二週間はここに留まっていていただきたい。四日後に抜糸というのも、正直なところ危険が伴うほどの強行日程です。しかし、二週間も滞在してはお二人の心がここに根を張ってしまいます。お二人がもといた場所にお戻りになるのであれば、一週間が限界になりましょう」
「……そんな、に、かかるのか? あの傷が?」
「かかります」
 断言する。
「智さまのお怪我は、命に関わるものではありません。しかし、それでも治療には時間がかかります。そういうものです」
 暗に、僕の質問に答える。
 ――それが、『普通の人間』なのだと。
 すぐに治るほうが、おかしいのだ、と。
「……ああ、きっと、君は正しいんだろうね」
「はい」
「……おやすみ、浜江」
「惠さまの寝床の準備は佐知子にさせましょう」
「そうだね。彼女に色々と手伝いを頼むかもしれない」
「……」
 浜江はもう一度頭を下げ、階段を降りていく。
 必要なことは、聞いた。そしてそれが正しいのだということも。
 ……その場から動けず、拳を握り締める。
 胸に去来するのは、浅薄すぎる現状把握への嫌悪感に似たやりきれなさ。
 考えの至らなさに、無知さに、常識という名の過ちに、自分自身を引き裂きたくなる。
 ……心のどこかで、甘えていた。
 怪我ぐらいすぐに治る。命に関わらないのなら、傷は一日と経たずに消えて、智も痛みに苦しむことはない……そう思っていた。
 僕自身がそうだから。刺されようと撃たれようと、殺されようと、上乗せした命さえあれば一日と経たずに回復するから。
 だけど、現実は違う。
 包丁で切った傷は五分で消えたりしないし、縫合が必要なほど深い傷は一週間かけなければ塞がらない。痛みだって消えない。消毒のたび、智は顔を歪める。言わないだけで、きっと今も苦しんでいる。
 そっちが常識。
 おかしいのは僕の方だ。『命の上乗せ』というおぞましい能力を持っている僕こそ、世の摂理に逆らう怪物。

 ……僕は。
 僕は、『人間』を知らないんだ。

 ……だったら。
 僕のすべきことは、何だ?

 翌朝、智よりも早く起きだす。
 極力物音を立てないよう気をつけつつ、小さいベッドから這い出す。
 この一週間の僕の寝床は、智のベッドの横に置いた簡易式折りたたみベッドだ。別室を使う気にはなれなかったし、同じベッドで寝るのは色々とまずい。結局、佐知子に頼んで物置にあったものを引っ張り出してきてもらった。簡易式だからサイズも小さく寝心地も良いとは言えないけれど、贅沢は言っていられない。
「……」
 こっそり着替え、そそくさと部屋を出る。
 ――智が起きる前に、やりたいことがある。
 静かに階段を降り、食堂へ。案の定、浜江と佐知子はとっくに起きていて、朝の準備を始めているところだった。
「おはようございます、惠さん。今日はお早いんですね」
「ああ、おはよう、佐知子」
「おはようございます、惠さま」
「浜江も、おはよう」
「はい」
 二人はいつもと変わりなく。日常は、与えられた螺旋の上をゆったりと滑っていく。
 ……心臓が早鐘を打つ。柄にもなく緊張しているのが感じられて、恥ずかしくなる。
 やろうとしているのは至って単純なことだ。特別なことでも、身構えることでもない。
 けれど妙に心が騒ぐ。本当にそれで良いのかと、理由すら分からない問いを投げかける。
 ――良いに決まってる。
 智は言う。僕は浮世離れしていると。
 当然だ。だって僕は、人間を知らない。
 料理を知らない。応急処置を知らない。掃除だってほとんど知らない。
 ……人間の、ほとんど本能に近い支え合いの術を、知らない。
 かつてここにいたときは、そういった日常は全て浜江と佐知子がやってくれていた。
 智と二人きりの生活を始めてからは、智が代わりにやってくれた。
 僕は、それを疑うことすらしなかった。
 ――自分は人間らしいことが何にもできないんだと、知ることすらなかった。
「浜江、佐知子。ちょっとこっちへ」
 二人を呼ぶ。
 ……一週間。短いけれど、時間はある。
「はい、なんでしょう?」
 不思議そうに並ぶ二人。
 その視線を、しっかりと見据える。
 見据えて――頭を、下げる。
「――頼む」
 ……生まれて初めての、深々とした礼。
 そのまま、さらなる生まれて初めての道へ踏み出す。
「一週間。僕に、あらゆる生活の術を教えてくれ」