QLOOKアクセス解析

after Birthday ※視点は惠

     act1 / act2 / act3 / act4 / act5 / act6 / act7 / act8 / act9 / act10 / act11 / act12(完)

僕の考えた惠ルート ※視点は智

  / / / / / / / / / 10 / 11 / 12/ 13/ 14/ 1516 / 17 / 18 / 19 / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 / 28 / 29 / 30/ 31 / 32 / 33 / 34 / 35 / 36 / 37 / 38 / 39 / 40 / 41 / 42 / 43 / 44 / 45/ 46 / 47 / 48 / 49 / 50 / 51 / 52 / 53 / 54(完)

chapter 46 


 どうして、こうなってしまうんだろう。
 握っていた手を払うように離し、茜子を見つめる惠。見返す茜子。
 火花が散る、なんてことはなく、ただ重く淀んだ沈黙が垂れこめる。
 冷たい凪。両者、膠着状態。驚きは一瞬、双方自分の身の振りをいかにするかに思考を回している。……んだと思う。
「あ、あの……」
 二人の間に立ってしどろもどろになる僕。情けないことこの上なし。とにかく場を収めないといけないのに、何をどう収めればいいのか見当がつかなくなる。
 ……二人は何も悪くない。完全に僕の失態。
 冷や汗が背筋を伝う。
 これじゃ、惠を助けるどころか、泣きっ面に蜂じゃないか……。
「何やってるんですかこの腹黒おそ松」
 口火を切ったのは茜子。ただし狙い打たれたのは僕。……当然か。
「……お粗末です」
「……」
 鋭いというか冷徹というか、とにかく突き刺さる視線を向けてくる茜子。彼女から見たら、僕が突然飛び出して惠を連れ帰ってきたってことになる。理由以前の問題でものすごく怪しい行動だ。
「粗相で済まされる問題じゃないですね。罠なら褒めてつかわしますが」
「い、いや罠じゃない! その……」
「……いいよ、智」
 反論を制するのは惠。僕をちらっと見たものの、すぐに茜子に視線を戻す。
「どうやら、まんまと引っ掛かってしまったみたいだ」
「なっ……!」
 惠は茜子の提案に乗る。
『罠だった』という、地獄の積み重ねに乗る。
「ち、違うよ惠、これは」
「僕としたことが迂闊だったな」
 言いよどむ僕を気にする様子はない。胸元で拳を作り、芝居がかった立ち方で微笑む。
「実は、ちょっとした抗争に巻き込まれてね。服が汚れてしまったから、たまたま通りがかった智にシャワーを貸してもらおうと思ったんだ」
「ものすごく言い訳くさいです」
「僕から真実が聞けるとは思っていないだろう?」
「少しは思ってますよ。三十文字以内で纏めてください」
「それは厳しいな」
「じゃあいいです」
「ちょ、ちょっと待って二人とも」
 制止は利かない。
 せっかく温もりを取り戻した手を離され、手のひらが所在なくなる。握り直そうにも、惠の手は両方がっちり拳を作っていて、到底繋げる雰囲気じゃなくなっていた。
「……この真っ黒参謀に嵌められた、と思いますか?」
「そう思っておいた方が気楽なんじゃないかな」
「なるほど。あなたにとっては予想外だったんですね」
「君にとってもそうなのかな?」
「どうですかね。多少の入れ知恵はされてたかもしれませんよ?」
「計画の全容は知らせず、か。流石は智、手が込んでいる」
「だからちょっと、二人とも」
 完全に僕を無視し、二人で話を進めてしまう。僕の話なんか聞きたくないと言わんばかりだ。
 ……気持ちは分からなくもないけど、でもこれはまずい。
「ね、ちょっと」
「シャワーぐらいならいいんじゃないですか? 素っ裸じゃ逃げられませんし、この後どうするか聞いてませんし」
「作戦会議かな」
「多分そうなりますね。出し抜かれた感強いんで、その辺も問いただしときます」
「彼女も疲れているだろうから、お手柔らかに頼むよ」
「……嵌めた相手を気にするんですか?」
「そこでいきなり不幸を望めるのは、切り替えの達人ぐらいのものさ」
「あなたは達人系だと思ってましたが」
「人は見かけによらないよ」
「惠も茜子も、ちょっと聞いてってば」
「そういうわけだから、智。ちょっとシャワーを貸してもらえるかな?」
「……っ」
 名を呼ばれ、微笑まれる。
 作りかけたあらゆる言い訳が、その表情を前に夢散する。
 仮面の笑み。初めて会ったころの標準装備、結ばれてからは取り払ってくれていた偽りの笑顔。
 ……惠が、それを僕に向ける。向けてしまう。
 誰も責めず、問いただしもせず、与えられる定めに従うようにして、自分の気持ちを押し殺す。
 彼女には、それしか道がない。
「どうぞ。いいですよね? 貧乳策士」
「……うん……」
 茜子もたっぷり含みを持たせつつ、惠を部屋に誘う。
「じゃあ、おじゃまするよ」
 惠は僕の方を見ず、茜子が開けたドアから速やかに部屋へ入る。
 まるで、僕から逃げるかのように。
「ドア開けっぱなしにすると冷えます。さっさと入ってください」
「……」
 促され、鉛のように重い足取りで茜子に続く。
 ……わかってる。
 僕が悪い。
 誤解だ、と言いたくても、現実には寝巻姿の茜子。もちろん、僕を女の子と思っての滞在、やましいことなんか何もない。
 けれど、人は真実よりも、感情を信じる。時として、現実よりもえげつない仮定を信じてしまう。
 二人で過ごすはずの場所に先客がいるなんて、恋人としても、仲間としても、最悪の裏切りパターンだ。平常時であっても相当なショックを受ける。
 まして、自ら救いを求めるまでに切羽詰まった精神状態の惠。喜怒哀楽を口にすれば少しは救いになるだろうに、彼女はそれすら許されない状況にある。言えないから、ひたすら溜めこんでしまう。
 唇に血がにじむ。
 悔やんでも悔やみきれない。
 ……助けるはずが、癒してあげるはずが……逆に、こんな形で追い詰めてしまうなんて……。


 シャワーの音が聞こえてくる。不審な音が混ざらないか、びくびくしながら聞き耳を立てる。物に当たったり、他人の家で突飛な行動に出るような子じゃないけど、万が一ということも考えられる。人間、不安定な時は何をするかわからないもの。
 ……僕の部屋の何かが壊れるなら、それはそれで別にいい。問題は、惠が惠自身を傷つけようとした場合だ。
 できることならシャワールームに限らず、常に惠が見える場所にいたいけど、茜子がいる以上それは無理な相談。
 ……三宅の時、軽率にも怒ってしまった自分を恨みたくなる。
 あの時、冷静にうまく立ち回っていれば茜子は来なかった。
 この状況は、僕が作ったんだ。
 後悔先に立たず、でも後悔が止まらない。 
「えー、独りよがりなガチ凹みタイムはその辺にしといてください」
「あうっ」
 自己嫌悪モードを問答無用でバッサリ一撃される。
 茜子はホットミルクの入ったマグカップを両手に抱え、いかにも能力全開といった感じで僕をじっと見つめている。
「あなたがそこまで落ち込むなんて珍しいですが、今はそれを堪能してる場合ではないですから」
「ごめんなさい、堪能しないでください」
「そこまで趣味悪くないです。五分で飽きます」
「飽きるんだ……」
「飽きますよ。他人の不幸は蜜の味ですが、不純物だらけで身体に悪いです」
「……ん」
 心の中が覗けるからか、茜子は落ち着き払っている。いわゆる「泣かせ映画で同行者に泣かれると冷めてしまう」というやつだ。僕が半端なく動揺してしまってる分、反比例的に冷静になってるんだろう。その方が助かる……かもしれない。
 茜子は自分のすべきことを把握し、その通り実行に移す。
「彼女が出てきたら話しにくいこともあるでしょう。今のうちに事情説明してください」
「え、あ……」
 すべきこと、事情聴取。渦中の問題児を呼び込んだんだ、当然の展開。
 ……事情。
 頭の中を埋め尽くす、いくつもの光景。
 視覚に、触覚に、嗅覚に刻みつけられた毒々しい夜。
 受けてしまった傷と、新たに背負った罪と、その場に呼ばれた一人。
 ……被害者であり、加害者でもある惠。おぼろげなままの彼女の目的。
 そして、不十分ではあるものの、確かに発動した僕の能力。
 何から話せばいいのか、どこまで話していいのか。事件のかけらひとつとっても刺激が強すぎる、ただあったことを並べればいいってものじゃない。単純な説明では誤解されるかもしれないし、十分に気をつけないと……
「……言いにくいなら、こっちから聞きましょうか」
「え」
 茜子が立ち上がり、脱衣かごに入っていた惠のブラウスを引っ張り出す。確認のようにざっと見て、軽くため息をつく。
 ボタンの部分を前にして、僕に突きだす。
「……このブラウス、ボタンがほぼ全部千切れてます。ついでに縫い目から破れてます」
「!」
 いきなりの指摘に息が止まりそうになる。
 ブラウス……そうだ、惠は「下は無事」としか言ってなかった。見つけたときの状態からして、奴らの手にかかったのは間違いないし、破れててもボタンがなくなってても不思議はない。
 いや、でも、なんでそんなピンポイントで?
「な、なんでそれを」
「随分ぴっちり着こんでましたし、詰襟の合わせを気にしてる感じだったのでチェックしました」
 さも当然のように指摘する。
 ……確かに、惠は胸元で手を握りながら話していた。
 あれはブラウスを気にしていたのか……場を抑えるのと手を払われたショックで頭がいっぱいで、そこまで考えてなかった。
「まさか、こんなにひどいことになってるとは思いませんでしたけど」
 素早く畳み直してかごに戻す。動作こそ淡々としてるけど、茜子の表情は明らかに曇っている。
 ……完全に後手後手だ。
 破れたブラウスなんて、あの惠が着るはずがない。
 そして、破られたという仮定が立てば……それは、ほぼ真実そのままの予測に繋がってしまう。
 隠しようがない。茜子は既に、そこまで思考を巡らせている。
「……彼女がそういう目に合った。そう考えていいんですね?」
 だから、質問は確認とほぼ同じ。
「……」
 答え、られない。
「……わかりました」
 答えなくても、茜子は真実を読む
「……」。
 うなだれる。隠し通せるものではないとわかっていたけれど、こうして直接に問われ、突きつけられると、事態の陰鬱さに胸が張り裂けそうになる。
「そういう事情なら、仕方ないです」
「……うん」
 一定の理解を示してくれる。
 けど、追撃の手は緩まない。
「でも、それだけではないんですよね?」
 さらに聞いてくる。何かあるという確信を持った聞き方だ。
「そもそも、こんな時間に彼女が出歩いてたことそのものがおかしいです。夜遊びには遅すぎますし、早朝ウォーキングにしては早すぎます。その辺りのことは聞けないですか」
「……ごめん」
 正座の状態できゅっと口を引き結び、追及に耐える。
 言えない、言いたくない。
 どんなに言葉を尽くしても、惠の『殺人』という行為を認めさせることはできないだろう。裏事情の一部を知っている僕でさえ、今回の件には違和感もある。知らない人からすればただの極悪人だ。
 実は、るいにもあの三人組の末路は話していない。惠があの時大通りを指定したのは、るいに死体を見せないためだ。放っといてもそのうち警察が来てどうにかしてくれる、そう思い込ませて帰した。
 でも、それだって長くはもたない。明日には彼らの死がニュースになり、るいも惠の行為を知るだろう。
 黙っていても、所詮は時間の問題。
 ……だからこそ、せめて今だけは隠しておきたかった。茜子が惠を『殺人犯』という目で見ないようにしたかった。
「いずれ話さなきゃならないとは思うけど……でもごめん、今は」
 煮え切らない、どころか黙秘権行使状態の僕を見つめ、茜子が溜息をつく。
「……何を、そんなに後悔してるんですか?」
「え」
「茜子さんにはわかります。今のあなたは脳内メーカー的に表現するなら、九十パーセント近くが後悔の文字で埋め尽くされてる状態です。あなたが彼女を襲ったわけでなし、そこまで背負うことないはずですが」
 怪訝な顔をする。
 ……茜子の言うことは確かに一理ある、というかその通りだ。
 部外者ならば、惠に同情こそすれ、自分のせいだと捉えることはないし、まして後悔なんかしないだろう。そもそも後悔のしようもない。
 ……たまたまその場に居合わせただけならば。ただの部外者だったならば。
 でも、僕は違う。
 僕は彼女の恋人だ。彼女が苦しむのならいの一番に駆けつけたい、守りたい、支えたい。
 なのに、結局何もできない。
 今回は視えていた。視えていたのに守りきれなかった。るいを呼ぶことはできたけど、力及ばずだったことには変わりない。
 あげく、茜子が部屋にいる状況を作り、惠から安らげる場所を奪った。
 板挟みの中、八方美人で中途半端な態度をとり続けた結果がこれ。
 空回りばかり。大事な人を守る力はなく、手段すら失った。
 他でもない、僕自身がその道を歩んでしまった。
 それが、悔しい。後悔してもしきれない。
 でも、それを茜子に言って何になるだろう?
「……僕は、止められなかったから」
 口を突いて出るのは、そんなわかりにくい懺悔。
「止められなかった、ですか?」
「うん」
「それは、返り討ちにあったとかそういう話ですか」
「違うよ。話せば長くなるんだけど、僕の能力が――」
「あがったよ」
 ひとつの本題に入ろうとしたところで、お風呂の方から声がした。明るくはないけど落ち込んでもいないトーン。言いかえれば、彼女が演じる『いつも』。
「ここにあるタオル、使ってもいいのかな?」
「うん、いいよー」
 音を聞くために僅かに開いておいたドアの隙間から、湯気の香りが部屋に流れてくる。シャンプーやボディーソープの芳香に混ざって、女の子特有の艶めかしい香りがほのかに漂う。
 ……まだ新しい記憶のフィルムが回る。それはイメージから、全身の感覚へと染み透る。
 覚えてる。惠がこの部屋に泊まりに来た日と同じ香り。
 二人きりを、恋人を味わった日の香り。
 肺の端から端までが、急激に締め付けられる。
 ……抱きしめたい。身体をくっつけて、お互いの体温を、鼓動を、吐息を確かめ合って、二人きりの時間にまどろんでいたい。
 両手が覚えてる。唇が覚えてる。触れたことのある肌全てが覚えてる。目が、耳が、魂が覚えてる。惠の危うい強さと脆さ、包み隠している素直さ、深い覚悟。
 文字通り、命がけで僕を好きでいてくれる惠。最も暴走しやすく最も強い感情である愛情を、僕に賭けてくれた惠。
 抑えようもない気持ちが湧き出してくる。
 ……傍にいたい。もっとずっと一緒にいたい。止められないなら、彼女自身が切り開かなければならない運命があるなら、せめてその隣で支えていたい。
 どうして、それが叶わない?
 僕たちはただ、幸せになりたいだけだ。
 同盟のみんなも、僕も、惠も、ただ幸せになりたいだけだ。
 それだけのはずなのに……なぜ?
「お待たせ。助かったよ」
 身支度を整え、部屋に入ってくる惠。お風呂上がりで暑いだろうに、詰襟をしっかり着こんでいる。にこやかにはしているものの、心的バリケードをはりめぐらせている。
 僕らの近くまで寄ってくるものの、座ろうとはしない。
「とりあえず、座りなよ」
 促すと、黙って首を横に振る。
「……」
 そんな僕らのやり取りを、何か言いたげに観察する茜子。いや、言いたいことは山のようにあるだろうけど、それとは少し軸が違うような印象を受ける。
「……何、かな」
 違和感は惠にもあったらしい。首をかしげる。
「……いえ、今言うことじゃありませんので」
「そうなのかい? 聞きだしたいことがあるなら、今が一番適当な時期じゃないのかな」
「そうですね」
 思案顔。
「……そういう意味じゃない、と言えばわかっていただけますか」
 謎かけ問答みたいなやりとり。なんのことだかさっぱりだ。
「……ああ、そういうことか」
 僕にはわからなくても惠にはわかったらしい。納得したと頷く。
「え、なに?」
 おいてけぼり感満々な状況にまた焦る。どうもこの二人のやりとりは独特だ。波長が合うのか、言外に含む部分が多すぎて外野は入りどころを失ってしまう。
「茜子さんは誰の味方でもありません。ご心配なく」
「それだと助かるんだけどな」
「え、いやだから何」
 ちらりと僕に視線を投げかける惠。でもすぐに逸らしてしまう。
「……茜子が見逃してくれるなら、それに越したことはないだろう」
 名残惜しそうに、寂しそうに部屋を見回す。
 そして――その口から、予想だにしなかった言葉が飛び出す。
「お邪魔虫は早々に退散するに限る」
「な……!?」
 思わず立ちあがりかける。
 ……帰る……? 今から? どこに? 誰と?
「予想外の来客を長くとどめておけるような状況ではないだろう?」
「そんなことない! 惠、まだ来たばっかりじゃないか!」
「シャワー借りに来たんですから、用は済んでるんじゃないですか」
「済んでないよ! なんでそんな展開になるの!?」
 ほとんど反射的にまくしたてる。
 ……そんな……確かにこのまま三人でいたって気持ちよくは過ごせないだろうけど、だからってこんなに早く……!
「親しき仲にも礼儀ありというじゃないか。この時間に訪れるのは失礼だろう?」
「時間なんか関係ないよ! だって僕は」
「智」
「っ」
 強めに呼ばれて我に返る。
 ……また、感情に飲まれかけた。独りよがりな願いに囚われかけた。
 冷静に考えれば、惠の反応はもっともだ。二人きりになれない上、被疑者状態で一晩過ごせだなんて拷問に近い。服装だってさっきの痕跡が残ってしまっている。一刻も早く帰りたい、そう思ってるのかもしれない。
 理屈を出せばそうなる。
 でも、今大事なのは理屈じゃない。
 だというのに、示し合わせたかのように、二人はさっさと話を進めてしまう。
「いたところで邪魔にはならないでしょうけど、どよんどよんの根暗百パーセントの一晩にはなりますね。絶対寝覚め悪くなります。そろそろ朝も近いですけど」
「明日は何かイベントがあるんだろう? 二人とも体調を整えた方がいい」
「惠さんもちゃんと休んだ方がいいです。ここは環境は悪くないですが、休養取るには狭すぎますから」
「……って、待ってお願い、待って……!」
 柄にもない、情けない声で呼びかける。
 ここじゃないなら、惠が行くところは自分の屋敷しかない。そんなの、傷をひきずった状態で現場に戻るようなもの、負担にしかならない。
 惠が落ち着いて眠れるのは、ここしかないんだ。
 ……いや。
 それも、もう過去の話。
 二人きりになれない以上、ここにいたって同じこと。茜子がいる限り緊張は取れないし、仮面は外せない。
 この部屋にも、既にケチがついてしまった。拠り所としての価値は消え去った。
 そうしたのは、彼女から安らぎの地を奪ったのは、僕だ。
「貴重な睡眠時間を削らせてしまったね」
「お気になさらず。もともとそこの激情型腹黒プログラムに起こされてますし」
 惠は意識的に僕から目を逸らし続ける。
 ……誤解されてる。いや、されてなかったとしても、彼女の僕への全幅の信頼は揺らいでしまっている。
 事実が如実に裏切りを謳う。回避できた痛みよりもさらに膿んだ苦しみが惠を襲う。
 ……違うんだ、違うんだよ惠……!
 謝ってどうにかなることじゃない。取り返しのつかない失敗。
 だけど、だからって、こんなの……!
「じゃあ、失礼するよ。良い夜を」
「どうも、お疲れ様です」
 何事もなかったかのように、惠が玄関へと向かう。
 作り慣れてしまった微笑を貼りつけて、また一人きりの日々へ帰ってしまう。
 ……駄目だ。
 駄目だ……!
 振り向くこともなく鍵を開け、ドアの外――
「――待ってっ!」
 口走るのと身体が動くのはほぼ同時だった。
 行かないで。
 一人にならないで。
「……」
 呼びかけに、一瞬足が止まる。けれどまたすぐに動き出す。
 振り払うように、逃げるように。
 ……お願いだから、そう、お願いだから――
 
 手が届く。
 引っ張る。
 惠がびっくりして振り返る。
 飛び付いて、背を伸ばして、つま先を上げて――

「な――――!?」
 茜子の、聞いたこともないような素っ頓狂な声。
 気にしない。
 
 もう、いい。
 バレてもいい。
 後で何言われたって構わない。怒られたって責められたって追放されたって構わない。

 お風呂から上がったばかりの、ふっくらした感触。
 ほっぺたも湯上りの質感。すべすべで滑らかで、手に吸いついてくる。
 記憶が逆流する。熱が湧き上がってくる。
 
 ――大好き。
 大好きだから、だから――僕から離れていかないで。

「――――……」
 吐息を止めた時間が流れる。
 ゆっくりと、けれど確かに流れる。

 問答無用で、茜子の目の前で。
 惠にキスをする。
 誰の目から見てもあからさまな、愛しさを込めた口づけ。
 
 こんなことぐらいしかできない。
 あらゆる状況が無茶苦茶になってしまった。右も左も針のむしろ、断絶も傷も深くなる一方。
 安らげる最後の砦を失い、彷徨う他なくなってしまった惠。それでも背筋を伸ばして進もうとする惠。
 ……どうしてあげることもできない。
 ただ、せめて――せめて。

「――好き」
 唇を離して、その目を真っ向から見据えて、はっきりと告白する。
「大好きだよ、惠」
 答えはなくていい。ただ伝えたい。
 何があっても揺るがないと、この想いだけは揺るがないと、この呪われた世界に宣言する。
 言葉とは、世界への宣戦布告。喉を震わせ声になった瞬間、それは言霊となる。
 言わなければ、わからない。それは自分自身が作るバリケードだ。
 ……きっと、僕は怖かった。
 みんなに二人の関係を知られるのが怖かった。だから黙っていた。
 理屈をつけようと思えばいくらでもつけられる。物事にはいろんな側面がある、そのうちの一つをピックアップして理由にすることなんて簡単だ。
 そうして僕はごまかしてきた。みんなのためにならないからと、余計な対立を引き起こすだけだからと言い訳してきた。
 その延長線上に、今がある。
 惠を傷つけてしまった、今がある。
 ……でも、もう迷わないから――

「―――――っ!」
「わっ!?」
 引きはがされた。よろめいて数歩下がる。
 視界に入るのは、今にも泣きそうな顔。喜びはどこにもなく、千々に乱れる心が丸ごと表れた顔。
 口を拭うように押さえ、身を翻す。
 そのまま、振り返りもせず走り去ってしまう。
 ……逃げて、しまう。
「惠っ!」
 後を追おうと飛び出しかけ――
「駄目です!」
「!」
 茜子に制止される。
「今あなたが追いかけたら、私はあなたを庇えなくなります」
「で、でも」
「でもも何もありません。この期に及んで全部ぶち壊す気ですか」
「……」
 浮かぶ、みんなの顔。大事な仲間たち。
 僕がここで暴走すれば、傷つくのはみんなだ。今までのギリギリ保っていたバランスが崩壊し、絆が壊れてしまう。
 僕は同盟の発案者。同盟から最も抜けてはならない人物。
 仲間たち。
 ……まるで枷のように、僕を縛る。大事だからこそ、身動きを封じられる。
 逡巡は、追いかけるという選択肢を奪ってしまう。
 足音はすぐに聞こえなくなる。風の囁きが虚ろに抜ける。
 ……行ってしまった。
「……ちっくしょー……」
 空しさが零れる。
 扉を閉める。重く無機質な、手錠のような音。
 冷たい扉に手を触れる。
 じわじわ滲む無力感、内側から腐っていくような感覚。
 ああ、でも。
 そこでただれて不貞寝していられる状況でもない。
 次は、既に始まっている。
「……賭けに出ましたね」
 静かに佇む茜子。責めるのでもなく、ひっかけるのでもなく、穏やかに言う。
「出たよ」
「今日ほど貧乏くじ引かされたと思った日はありません。茜子さんの人生最悪の日トップ5に堂々ランクインです」
 毒の強さを前面に出した、あきれ返った口調。いきなりキスシーンなんか見せられたんだ、呆れたくもなるだろうし、冷たいツッコミの一つも入れたくなるだろう。
 ……それでいい。
 今、僕は惠に自分の気持ちをさらけ出した。
 同時に、茜子に向けて自分の立場をはっきりさせた。
 そこに、打算が欠片もなかったかと言えば嘘になる。
「……茜子なら、わかってくれるかなって」
 浅ましいことに、頼もしいことに、僕の頭はいつもどこかで腹黒作戦を練っている。
 バレてもいい、それも本音。
 そして、バラすならば茜子からという判断。
「わかりませんよ。人前で濃厚なキスを見せびらかすガチレズの思考なんて」
「……だよね」
「まあ、後ろから刺したくなるようなラブラブアピールじゃないのはわかってますけど」
 とっても容赦ないツッコミ。兼、予想通りの理解。
 茜子は誰の味方でもないと言う。それはつまり、誰の話でもとりあえずは聞いてくれるということだ。
 だから、彼女には可能性がある……そう信じたい。
「先に言っておきます。あなたの判断、間違っていなかったと思います」
「え?」
 まずは何から、と考える前に、茜子の方から話を持ち込んでくる。
「彼女、今の公開羞恥プレイで少し持ち直しました。逃げちゃいましたけど、嬉しかったみたいですよ」
「……そうなの?」
「ええ。外見に似合わず乙女です」
 思わず、ほっとする。キスさえ拒まれるようになっていたら、それこそ一巻の終わりだった。
「……そっか……」
「そっか、じゃありません」
 一瞬気を抜いたところをガンガン斬りこんでくる。
 ネタばらし時間と決まれば容赦はしないオーラが出てる。
「変だと思わないんですか?」
 かけられるのは曖昧な問い。
「……え、何が?」
 思わず、質問の意図を聞き返す。
 はー、と盛大な溜息をつかれる。
「私の顔を見た瞬間、彼女の心は衝動的にアイキャンフライな感じになってました。中身はぶっちゃけぐちょぐちょのどろどろの濡れ濡れです」
「何かが卑猥だ」
「卑猥じゃなくて、吐き気のする三流ホラーの方です。どす黒いとかカオスとか、そんな表現では追いつかないほど爛れてました。言語化したら死の呪文に一日コースです」
 見えたものを表現する茜子。
 ……見えた、もの。
「私は、彼女の心をそう読みました。以前はどんなに能力をフル稼働させてもさっぱりだったのに、今回はここまで読めました」
「……読めたんだ」
「ええ、それはもうくっきりはっきりとあからさまに」
 読めなかった心が、読めた。
 それは、惠の心の壁が崩れている証。
 能力を持ってしても見抜けないほどに強固で頑なな、生きるために維持してきた、維持しなければならなかった芯が、今まさに折れかかっている証。
「彼女も、私に読まれていることに気付いていました。だから帰ると言い出したんでしょう。私を尻目にあなたと乳繰り合うこともできたでしょうが、心を読まれること自体、彼女にとっては屈辱だったはずです」
 極力感情論を排し、客観的に組み立ててくる。示すものはきっと真実に近い。
 ……そういうこと、なのか。
 惠が帰ったのは、茜子に追及されたくないからでも、僕と二人きりになれないからでもなく……自分自身を維持できなくなるから。
 タガが外れ、感情が洪水を起こせばどうなるかは言うまでもない。
 だから逃げた。僕たちから、呪いから逃げた。
 一人になったって苦しいだけなのに、一人になるしかなかった。
 八方ふさがり、光はどこにも見えやしない。
 ……でも。
 今日は一つだけ違いがあった。
 ……苦しむ彼女を見たのは、僕一人じゃなかった。
「はっきり言ってしまえば、今、精神的に一番危険なのは惠さんです。絶賛逃亡中のロリッ子より危険です」
 茜子が見た現実。それは、希望ではなくとも、道を引き寄せる。
「大分予想外ですが、理不尽とはそういうものかもしれませんね」
 ちょいちょい、と手招きされる。
 場所をリビングに移す。
 僕は正座。茜子も正座。
 禅問答でも始めるかのように向かい合う。
 ……人の心に関し、誰よりも確かな観察眼を持つ茜子。
 その茜子が暗に示唆する。
 このままいけば、惠は壊れる。
 僕はもちろん、茜子もまた、そんな結末は望んでいない。
 だから、茜子は選択する。選んでくれる。
『誰の味方でもない』を、少しだけ、転換する。
「あなたと彼女の関係なんか知ったこっちゃないです。あなたが恋愛感情だけで彼女を庇うほどバカではないのも知ってます。私が興味があるのはただ一点。自ら選んで裏切ったはずの彼女が、何故あんなにボロボロになってるかです」
「……うん」
「話してください。まだ、間に合うかもしれません」
 頷く。
 恐怖がじっとりと神経を侵していくのを感じながら、語るべきことをピックアップし、並べ替え、順序立てる。
 まだ間に合う、まだ間に合う――地面に爪を立てるような思いで、祈り続ける。