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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 45 


 丑三つ時に、足音が響く。アスファルトの堅さが踵を叩く。玄関にあったローファーははきなれている分足にフィットしているけれど、重みがあって走りやすいとは言えない。いっそ裸足で走ろうか、そんなばかげた発想が脳をかすめる。そんなことしたところでスピードは変わらない――それが、胸をかきむしりたくなるほど悔しい。
 流れる景色はもったりしている。全速力のはずなのに遅い。気がはやる、遅い、遅すぎる! もっと早く走れ、動け!
 脳から怒号が飛ぶ。応えようとする身体、全く追いつかない。
 肺が干上がる。からからの喉が割れそうだ。息はスカスカと薄い酸素を出し入れし、呼吸の回数は異常に増える。
 脳の隅で映像が生み出される。視界で捉えられるものとは全く別の景色、パラパラ漫画に似たコマ切れの静止画だ。同じようで少しずつ違う未来予想図が並べられ切り替わり、一つの道筋を立てていく。
 頭の中が現在と未来に分割される。両方が見える分それぞれの処理速度が遅くなるのか、今自分がどこを走っているのか曖昧になってくる。
 でも、道を間違えていないことはわかる。直感以上の確信がある。
 操られている――引き寄せられている。 
 未来が僕を呼ぶ。絶望に飛び込んでこいと誘ってくる。手ぐすね引いて待っている。
 為す術なく壊されていく姿。数え切れない痛みを、苦しみを飲み込んできた身体を弄び玩具にする下衆の笑い声。
 心のヒビが限界を超え、崩れ落ちる。逃避する気力さえ奪われ、自我を粉々に破壊される――僕の、愛しい人。
 傷つけたくない、もうこれ以上、惠に苦しんでほしくない。
 それなのに、運命は彼女を逃がしはしない。文字通り、身も心も崩れるまで追い詰め続ける。
 ……なんで?
 なんで、惠ばっかりこんな目に!
 確かに、彼女は何も悪いことをしていないわけじゃない。因果応報の面もあるかもしれない。
 でも、それにしたって……こんなの、いくらなんでも過酷すぎる。惠はあの過去を自分で望んだわけじゃない。ただ生きるために、運命を切り開こうとしてきただけだ。
 そうまでして生き抜いたのに、無慈悲は容赦なく振りそそぐ。せっかく立ち直りかけた心を谷底に突き落とす。
 あの夢が未来なら、もう動かしようがない運命だとするなら――現場にたどり着いたところで、全ては手遅れ。
 ひょっとしたら、僕が走っているこの間にも、惠は――
「……っ、だ」
 嫌だ!
 焦点の合わない正面を睨む。脳の奥で火花が散る。岩盤を砕くような音。意識の咆哮に答えるかのように予想図が粉々になり、作り直される。
 ……肌が見える。すえた匂いの満ちる路地裏、僕以外には触れさせたくない生のままの彼女が、畜生同然の人でなしの手で、汚らわしい欲望の餌食にされて――
 違う!
 違う、この未来じゃない!
 描かれた未来が爆ぜる。また作られる。また拒絶する。作り直される。
 水面を叩くように、浮かぶ静止画をどんどん壊す。
 僕の怒号に呼応するかのように、脳は別パターンの未来を作る。
 ……。
 別パターン……?
「っあ!」
 集中が切れたせいか、マンホールに足をひっかけバランスを崩した。
 反射的に受身を取るものの、こらえきれずそのままアスファルトに倒れこむ。
「っ!」
 鈍い衝撃が骨に響く。盛大に、跳ね飛ばされるように転ぶ。
 方向感覚が失われる。現実感が遠のく。道路の端まで回ってようやく止まる。
「いっ、づ……」
 受身を取ったものの、勢いを削ぎきることはできなかったらしい。膝がすりむけてじりじりするうえ、身体がやたらと重い。呼吸も荒く、しっかり息が吸えない。視界はボケボケ、全身がポンコツ化したみたいだ。
 ……だからって、止まってるわけにはいかない。
 痛みの強さからするに、ケガはたいしたことないだろう。立て直しは十分きくはずだ。いや、きかなくたって立て直す。
「っは、はぁっ、は……はっ、は」
 とにかく今は、一分一秒の隙間すら惜しい。
 急がなきゃ、行かなきゃ!
 しびれる腕を振る。這いつくばる姿勢から起き上がろうとする。
 猶予はない。とにかく、一刻も早く――!
「……」
 勢い良く顔を上げるなり、顔に風が当たった。
 ……沸き立った血が、一瞬静まる。
 目を開くと、夜空には月。雲ひとつ無い空に映える鮮やかさ。
 潔さにも似たぽっかりした光の穴。
 その光が――消えそうだった理性を照らす。
「……」
 冷静さが顔を出す。
 追いやろうとしていた仮定が飛び出し、踊らされるばかりの僕を押しとどめる。
 惠のところへ駆けて行く。……僕のすべきことは、本当にそれだけだろうか?
 がなりたてる心音の隙間で思考が働き始める。転ぶ直前に浮かんだ疑問が戻ってくる。
 ――別パターンの……未来?
 可能性が、仮定が組み上げられる。盲目的に信じていた前提をつつく。もちろんゆっくりなんかしていられない、立ち止まっていられない。
 でも――わかる。闇雲に走ったところで、何も変えられない。
「……」
 思考回路に意識を割き、起動させる。
 予知されている場所は駅の向こう側のそのまた奥だ。僕の足では、全速力でもまだ十分近くかかる。その間に惠が襲われてしまったら、そこで全てが終わってしまう。
 ――その十分間に、縮めようのない断絶時間に、できることはないのか?
「……っは……」
 急停止で指示系統がバラバラになった身体を整えるべく、荒い息をつく。整えずに再スタートしてもまた転ぶだけだ。
 全身を叩く焦りをおさえながら、ゆっくり立ち上がる。
 脳の半分は陵辱される惠を映し出す。脳から流れる雑音に耳が乗っ取られる。噛み締める唇が切れる。
 走りたい、たどり着きたい、逸る気持ちを押さえ込む。
 ……考えろ。
 パニックは猛毒。わかるはずの事実を、できるはずの手を封じてしまう。届かない焦りは何も生まない。
 ……できることは、本当に一つだけ?
 思考に芯が通る。
 考えろ。
 深呼吸。
 ……まず、一つ。
 僕に備わってる力は何だ?
 姉さんの話と経験からするに、『未来を視る力』だろう。
 ということは、能力で視えるものは『未来』、つまり『まだ起こっていない』ことだ。
 そして……もう一つ。
 この力は、『未来を視る』だけなのか?
 さっきから頭の中で繰り返されている、未来図を壊しては作り直すプロセス。
 単に『未来を視る』だけなら、未来図が壊れるわけがないし、作り直される図は同じもののはず。けれど、現れる図は少しずつシチュエーションが異なっている。上から脱がされたり、下から脱がされたり、結論が変わらないままの違いではあるものの……変化の余地はある。
 僕が見ているのはおそらく、確定した未来ではなく、幾通りもの可能性。
 展開が複数ある――だったら、今視えている地獄を回避する可能性もあるはず。
 央輝のときもそうだった。夢で見た光景と、僕たちの実際の行動は100%同じじゃなかった。
 変わるんだ。変えられるんだ。
 思考は走る。希望を探す。
 ……じゃあ、どうしたら変えられる?
 何度リテイクしても、一番変えたい部分まで届いていない。組み替えても組み替えても、惠が汚されるという結果が動かない。視えている未来で惠が僕を呼ぶのは、いつも最悪の事態になってから。つまり、僕はどうやったって間に合わないんだろう。
「……っ!」
『間に合わない』。
「そんなの……そんなの誰が認めるかっ!」
 激情が思考を吹き飛ばす。
 ……やっぱり、考えてる場合じゃない!
 用意された絶望を振り切るように、再び走り出す。
 間に合う、間に合わせる! 自転車の一台でも転がってたらそれに乗ればいい、できないことなんかない!
 痛む膝は無視する。駄々をこねる子どもと大差ないと気づきながらも、一目散に宵闇を駆け抜ける。
 息が荒い、全身が処理オーバーを騒ぐ、気にしてられない。信号は無視。クラクションも気にしない。丑三つ時でさえ騒がしい繁華街、肩がぶつかって呼び止められそうになる、それも振り払う。
「はっ、は、はぁっ、は、はっ……!」
 見慣れているはずの景色は夜に沈み、そこかしこで黒い穴を開けている。
 終電をとっくに迎え、消灯した駅舎が月に照らされている。ロータリーに人はいない。商店街も静まり返り、街頭がチリチリと道を慰め程度に照らす。そこに伸びる影は、僕一人ぶんだけ。
 予想に反して、いやある意味当然か、乗捨ての自転車は見当たらなかった。駐輪所でカギがかかっていないものを探す余裕ももちろんない。頼れるのは結局自分の足だけだ。
 でも、予想よりは着実に進んでいる……気がする。時計なんか持って来てない、単なる勘だけど、駅を通り超えてなお、未来は視える。変わらないとはいえ、現実の直前にある。
 ……これなら。
 これなら―――
「――――!」
 ――そんな、希望を抱いた瞬間に。
 趣味の悪いクラクションと排気ガス――普段は気にもとめない鉄の化物たちが立ちはだかる。
 行く手を阻むのは……大通り。
「こ……こんな、時に……!」
 予想外の足止め。
 信号は、赤。いや、今は交通ルールなんかどうでもいい。
 どうでもいいけど――交通量が多すぎる。
 夜遅いというのに、一般車両はとっくに車庫に入ってる時間なのに、異常な頻度で車が行き交っている。当然速度も早い、到底飛び込んでいける状態じゃない。
 ――あと少しなのに!
 前かがみになり、膝に手を付く。傷口を触ってしまい痛みが弾ける。それを噛み潰し、数分かからないだろう現場の方向を睨みつける。
 あと少しで間に合うのに! 目と鼻の先なのに!
 一秒が長い。赤信号が憎い。こちらの事情などお構いなしに、飛ぶように走っていくトラック。耳障りな音と灰を焦がす排気ガス、途絶えることの無いフロントライトの扇。
 早く、早く、早く!!
 交通ルールを踏み倒す爆音が耳を抜ける。
 早く!
 横の視界に赤が灯る。
 早くっ!
 目の前の信号が、青に変わる―――
「……っ!」
 待ちわびた色に向けて走り出す。
 ――――けれど。
「……あ……!?」
 最後のひと踏ん張りと、横断歩道に踏み出した瞬間。
 ばちん、と意識の半分がブラックアウトする。

 テレビのスイッチを切った瞬間のように、停電のように。
 視えなくなった。
 未来が、消えた。

「――――」

 出番は終わったとばかりに、未来図が途切れる。能力に割いていた分の意識が戻される。
 けれど、戻った意識は即座に愕然とした思いに囚われる。

 ……視えていた未来が、視えなくなった。
 それはつまり、『未来』だったものが、『現在』に――

「――――っあああああああああぁぁぁ!!」
 駄目だ! 絶対駄目だ! そんなの認めない! 許さない! あんな未来があってたまるか!
 手放しかけた能力を引っ張り込む。
 視えない。
 ――始まってる。間違いない。
 じゃあ、どうすればいい!?
 脳を削るような不快感と共に、可能性のかけらを量産する。脳が再び二つの指令に分断され、処理オーバーを起こす。
 横断歩道を渡り終え、また倒れそうになる。ガードレールの端を掴んでなんとか耐える。
 瞳に映る景色はぐちゃぐちゃだ。焦点が合わない、合わせられない。ロクに使い方も知らない癖に能力を乱用しているせいか、体全体の調和が取れなくなる。まっすぐ歩ける気すらしない。
 でも――使うしかない。最悪が訪れつつあるのは確定だ。
 今――今、ここでなんとかするしかない。
 ……止めるんだ。
 ……始まってしまったなら、せめて止めるんだ!
 予想を、暗澹たる結末を蹴散らすようにして未来を叩きだす。
 僕が間に合わないなら、せめて誰か! そうだ、この際誰でもいい、あの場に現れることのできる誰かを!

『――おまかせあれ』

 呼応する、影があった。
 意識をよぎる背中。
 栗色のジャケットに、赤い髪。陽気そのものの、元気に満ちた一発の弾丸。
 突然浮かぶ、見知った一人。
 ――るい。

『――るい姉さんに、おまかせあれ!』

 引き当てたカード。
 未来図に、なかったはずの色が混ざる。
 ……唯一の、突破口。

「……け……!」
 考えるより先に、その可能性を掴む。
 引き金を引くイメージ。
 一つと定めた未来図を固定する。
 使い方なんか知らない。これでいいのかどうかもわからない。そもそも、僕の行動に意味があるかどうかすら――
「行け、るい……っ!!」
 ――それでも、やるしかない。
 ただ直感に従って、あらゆる細胞を集中させる。
「――――行け――――!!」
 かすれた声が、未来に刺さる。
 視えない、届かない悪夢に、最後の一矢を叩き込む!

 弾けた、気がした。
 動かせないはずの運命に、決定的なひびが入ったような――

「……ぐ……っ!」
 爆発のイメージが、頭の中を塗りつぶす。
 思わず両手で頭を抱える。後ろにひっくり返りそうになり、しりもちをつく。
 墜落する飛行機のように、脳がかき回される。せり上がる嘔吐感にえづく。四肢の神経がひととき断絶する。心臓が、全身の血液が暴れ狂う。意識が混濁しそうなほど、僕の中身が大混乱を起こす。まるでスクラップにされたみたいだ。
 今まで体験したことのない、気持ち悪い高揚感。ともすれば内臓が飛び出そうで、呼吸すらためらってしまう。身体が四散する錯覚を起こす。肉体と魂が分断される、そんな冗談が現実化するような不快。
 けれど、それだけじゃない。
 同時に訪れる確信があった。
 ……これこそ。
 この異常こそ、能力が発動した何よりの証拠。
「……っ、はぁ……」
 恐らくは、数十秒。嵐が過ぎ去るかのように、速やかに嫌悪感が引いていく。
 呼吸を整える。
 冷や汗で身体がたっぷり湿っている。熱を奪われ、身震いする。選択は一回だけなのか、僕が能力の使用に耐えられなくなったのか、再び未来図は消え去り、両目で捉える視界が形をなしてくる。
「……」
 若干ふらつきつつ、再び立ちあがる。こんなところで時間を使うわけにはいかない。
 地を蹴る。エネルギー切れでも起こしたか、思うように力が入らないのを無理矢理動かす。
 景色が流れる。荒い呼吸が耳に響く。足音は僕のもの一つきり、入り込んだ場所は明らかに明かりが減り、夜がのさばっている。央輝を探すときに通り抜けた、一般人はまず足を踏み入れないこの街の暗部。
 怖いとは思わない。そういう感傷は蚊帳の外だ。だって、今苦しんでるのは僕じゃない。
 ……どうか、どうか……!
 切迫感はひきつった祈りへ変わる。
 さっきの僕の行動が、運命に介入するイメージが、単なる幻想や現実逃避でないように、ただひたすら祈る。見よう見まねの十字まで切る。
 曲がり角が差し迫る。ここを曲がれば目的地周辺だ。密集した店と店の隙間、無機質なコンクリートの牢獄、人通りのない狭い袋小路が犯行現場。
 あの光景が消えてから数分経っている。もし、もし――
「――んのっ、」
 急に。
 耳が、場違いな若い声を捉える。
「ばかちんがああああぁぁぁぁぁーーーーっ!!」
「うぎょおおおおおー!?」
「――え?」
 飛び出しかけた通りを、大の男が舞う。鈍くダサい音と共に地面にたたきつけられる。
「てめえ! よくも!」
 内容までよく聞き取れるほどの怒鳴り合い。人間性の悪さが透けているダミ声と、凛とした気迫の乗る高い声がぶつかり合う。
「よくもも何もないっ! 観念しなさいよ、このドブネズミ!」
「ドブネズミだぁ!?」
「そーだよっ! ううん、あんたたちみたいな奴、ドブネズミ以下だ!」
「んだとぉ!?」
「言わせておけ――ばっ!?」
 一撃食らったのか、壁が揺れる。そしてまた放り出される。褒められない原色使いのシャツに靴痕がくっきり。
「てんめえ! 女だと思って手加減すれば……」
「残念でーしたっ! こっち、容赦する気なんかこれっぽっちもないからね! おとなしく成敗されなさいっ!」
「っざけんじゃねえええぇぇ!」
「遅いっ!」
「ぎょびっ!」
 ……。
 勧善懲悪のテンプレートみたいなやりとりと、お約束のように吹っ飛ばされる見るからに悪人面。通常時なら典型的過ぎてツッコミの一つも入れたくなるような展開。
 威勢のいいことを言っていた三人目も、あっさりと地面に沈む。
 ぱんぱん、と勝者が手を叩く音。
 まさにお約束通りの完勝。単なる部外者や見物人だったら拍手するところだ。
 ただ、今は到底そんな気にはなれない。
 ……こいつら。
 呆然と、文字通り呆然と男たちを見下ろす。
 目の前に広がる現在。泡を吹いて倒れている男たち。
 ……会ったことなど一度もないのに、彼らには見覚えがあった。
 いや、忘れられるわけがなかった。
 こいつらは……
「……あれ? トモちん?」
 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 暗闇から抜け出るように、月明かりの下に姿を現す女の子。
 口がぱくぱく動いて、彼女の名を紡ぎ出す。
「……る、い……」
 ――るいだ。
「どったの? こんな夜遅く、女の子の一人歩きは危ないよ」
 るい、だ……。
「るい、ど、して、ここに……」
 喉がつかえて上手く声が出ない。
 なぜ、るいがここにいるのか。なぜ『この男たち』を叩きのめしたのか。
 わかっているのに、いや、わかるからこそ背筋に冷たいものが流れる。
「んーとね、ちょっと眠れなくて散歩してたの」
「……散歩?」
「うん。ほら、明日その……やっぱ、いざとなるとこう、ぐらぐらしちゃってさ。どうしても寝付けないから花鶏に言って出してもらって、とりあえずぶらぶらしてたんだ」
 苦笑いしつつ、しきりに指を動かす。バツが悪いらしい。
「……」
 理由はともかく。
 るいが、ここにいる。普段ならばあり得ない条件。
 そしてこれは、確かに僕が――
「で、歩いてたはいいんだけど、今日はなんか妙に車多くてうるさくってさ。しょうがないから大通りから離れようと思ってこっちに来て、したらそいつらが見るからに犯罪行為中で、見逃せなくって――って、そうだ!」
 話を打ち切り、路地へ入る。慌ててその後を追う。
「ねえ、あの――……え?」
 奥にいる人影を確認し、固まるるい。
 その背中を追い越して前に出る。
「……」
 確認する。
 光のほとんど届かない中、ぼんやりと浮かぶ白い肌。
 力不足を突きつけられる、夢のパーツをはぎ合わせたおぞましい答え合わせ。
 見せるはずのない姿。外気に晒すはずがない姿。
 外傷こそないものの、衣服は無残にも破られ、上半身の下着と素肌が露出している。
 脅威は去ったというのに、身動き一つなく、座りこんで虚空を見つめる一人の少女。
 少女――ううん、そんな他人行儀な言い方はおかしい。
 だって、この子は、
「……め、ぐ……」
「……メグム、なの……?」
「……」
 半身をもぎ取られる喪失感。崖下を見つめる無力感。並ぶもののないほど強烈な自責の念。
 ――間に合わなかった。
 るいは、来たのに。奇跡か能力か、とにかくるいは届いたのに、遅かった。
 ――失敗した。
 惠は、あいつら、に、夢の通りに、僕の、僕だけの、
「惠……っ!」
 駆け寄る。抱きしめる。体温はそれほど下がっていない、時間は長くはなかったのか。でもそんなの何の慰めにもなりやしない。この状況にぶち当たった、それ自体が苦界だ。
 女の子にとって、これがどれほど心をえぐりとるものか。下劣な欲望のはけ口にされるのが、どれほどおぞましいか。
 ただでさえ心をすり減らしてしまっているのに、こんなの耐えられる訳ない。
「惠、めぐ……」
 僕が泣くべき時じゃないのに、涙があふれてしまう。 
「ごめん、ごめんね……ごめん……」
 虚しいだけの謝罪が口をつく。
 視えたのに、わかっていたのに、どうしてあげることもできなかった。誰にも触れさせたくなかったのに、絶望の詰め合わせをこれ以上重ねさせたくなかったのに、また手遅れだった。大事なのに、何よりも誰よりも大事なのに、守ることができなかった。
 いつもこうだ。僕の手の届かないところで、運命は惠を切り刻んでいく。
 今回こそはと思ったのに。視えて、止められたかもしれなかったのに……!
 内臓が絞られるようにねじれ、悲鳴を上げる。胸が虚無感で穴だらけになる。
「……とも?」
 腕の中から声がする。
「……とも、なのかい……?」
 たどたどしく聞いてくる。いつもの覇気はまるでなく、怯えが前面に出ている。
 反応が遅かったのは、状況把握ができないほどにショックを受けていたから……だろうか?
「うん、僕だよ。智だよ」
「……なぜ……君が、ここに……」
「そんなのどうでもいいよ。それより今は」
「……メグム……なんだ、やっぱり」
 背中から、ずっしりと沈んだ声がかけられる。
「……るい……?」
 惠が顔を上げ、るいの姿を確認する。
 僕以上に、ここにいるはずのない人物――反射的な震えが伝わってくる。
「何があったの? いや見てたんだけど、止めたんだけど……なんで今日に限って」
「……運命、じゃないかな」
「運命?」
「ああ。筋書き通りとも言うね。神に仏に創造主、この世は人間より高次とされる存在が未来を決めている。僕たちは単に、そのレールに乗せられたというだけさ」
 急に饒舌になる惠。声の調子は淡々を装っている。ある意味聞き慣れた、しばらく聞いていなかった語り口。
「……こんな目に合うのが、運命なの?」
 るいが解せないという風に聞き返す。
「因果応報や前世からの因縁、その他色々な要件を勘案して弾き出されたんだろう。あるいは、ただの気まぐれかもしれない。いずれにせよ、こんな形で再会すること自体、偶然にしてはできすぎていると思わないか? 誰かに仕組まれたと考えた方が筋が通る」
「誰か……って、誰? カミサマ?」
「かもしれない。少なくとも、人間にはできないだろうね」
 るいを見上げ、本気かホラかわからないような持論を披露する。惠がみんなの前でいつもやってきたことだ。ピントのずれた現実味の薄い話は、相手に警戒心を起こさせ距離を取らせる手段。
 冗談など言ってられる状況じゃない、だからこそ、冗談みたいなことを言う。自分との話に価値はないと主張するかのように。
「……」
 僕はあえて何も言わず、惠を抱きしめ続ける。
 惠がずっと震えているから。
 平常心を演じる台詞の奥で、必死になって耐えているから。
 陥った地獄に弱音の一つも吐かず、上滑りする話を投げる姿は痛々しいの一言だ。けれど、彼女にはそれしか選択肢がない。
 弱った心は呪いを呼ぶ。本音と呪いが直結する以上、身を切る恐怖や拒絶反応は封じ込めるほかない。
 嘆くより、苦しむより、周りを拒絶する方を優先してしまう。
 ……それが、惠に課せられた呪い。そして、彼女が選んでしまった道。
「メグムは、それでいいの?」
 そんな惠の態度を不審に思ったのか、るいが歩み寄ってくる。
「悪い奴らに襲われて、怖い思いして……それで運命がどうのこうのって、そんなんでいいの?」
 るいにしてみれば、ごく自然な疑問だ。
 単純に考えて、あんな目にあった直後にあれこれ喋れること自体が妙だし、内容はそれに輪をかけて奇妙。はぐらかそうとしたにしても、惠の言葉はあまりにも現実味が薄い。
 おかしな態度は、半分は演技。もう半分は、るいを拒むための手段。
 でも、るいがもたらしたものを無視できるほど、惠は人でなしでもなければ恩知らずでもない。
「……天誅なら、君が下してくれただろう?」
「私はその……たまたま通りがかっただけだし、痛い思いも何もしてないし。私のことはいいよ、問題はメグムだよ」
「……心配してくれているのかな」
「そりゃそうだよ。あんなの見せられて心配しない方がおかしいでしょ?」
「……甘いな、君は」
 惠が地面についた手を握る。身体に力を入れてこわばらせる。
「裏切り者に情けをかければ、後で泣くのは君たちの方じゃないか」
「……!」
 るいが絶句する。
『裏切り者』。るいの心を撃ち抜き自由を奪うキーワードだ。
 惠は自らそれを使い、自分を『裏切り者』と定義づける。
 そして、暗に示唆する。るいが自分を助けるのは、『裏切り者』に手心を加えたのと同じだと。、
「おそらく、君はここにいるのが僕と知らなかったんじゃないかな。 だとすれば、今君がすべきことは僕を心配することではなく、選択ミスを悔やむことのはずだ」
「そんなことないよ! 確かに私はメグムを許さないけど、それとこれは話が別!」
「例外を認めれば制度そのものが崩壊する」
「んなのどうだっていいじゃん!」
「……どこまでも素直だね、君は」
 大仰な溜息。上半身を支える腕にますます力を入れる。
「これ自体が僕の作戦だったという可能性は?」
「そういうのは自分で言わないっしょ」
「常識的な思い込みを逆手に取る、ということもある」
 残された精神力を振り絞って、惠はるいを罠に落とそうとする。差し伸べられる手を振り払おうとする。
 それでいて、抱きついている僕を引き剥がそうとしない。あまりに露骨なダブルスタンダード、矛盾そのものだ。
「……あのさ、メグム」
 るいが僕の隣で膝をつく。
「助けてくれと頼んだ覚えはないよ」
 先回りの一言。
「そうじゃなくて、その」
 続く言葉を選びかねるのか、間が空く。惠はその間じっと待つ。
「……無理、しないでほしい」
 選ばれたのは……善悪を飛び越した、るいの心根。
「……」
「メグムの考えてること、全然わかんない。協力してくれないし、三宅のおっちゃんにひどいことしたし、こよりんまで見捨てるし、まともに話もしてくれないし、何が何だか全然わかんない」
「ああ」
「……だけど……無理してるのは、わかるよ」
 心境の変化を極力抑えようとする、戸惑いだらけのるいの声。
「許さないけど、謝って欲しいけど……でも、今のメグムはなんか……」
「『敵に塩を送る』という言葉がある」
「へ?」
 みなまでいわせまいと、惠が横槍を入れる。
「治安が悪いからか、この辺にはコンビニはない。でも確か、大通りを渡った先に自動販売機があったはずだ」
「自販機?」
「君が何を考えようと、僕の知ったことじゃない。だが、わざわざ送ってくれる塩を拒む理由もない」
 かなり強引な話題の転換。警告の代わりに意識の方向そのものを変える。
「……なに? 何言ってるのメグム?」
 面食らいながらも、曲がったレールの上に乗るるい。
「飲み水を生活用水にするのは罰当たりだけど、この際仕方がない。下劣な男共の痕跡を流すためなら、多少の贅沢も許されるだろう」
 回りくどく、なんとなくカチンと来る表現をわざわざ選びながら、惠はるいに頼みごとをする。
「……水?」
「ああ。言動より、行動のほうが証明になるだろう?」
 意図を理解し、るいがさっと立ち上がる。
「……トモちん、メグムのこと見張ってて」
「あ、うん」
「ここにはもう用はない。横断歩道のあたりなら側溝もあったね」
「……ん」
 決められた目的地を確認し、るいが走っていく。
 ……惠の狙い通りに。
 抱きしめていると、惠の心境の変化がおぼろげにわかる。
 これでもなお、折れていないのが、そして……止まらないことがわかる。
「智、離れてくれないか」
「え」
「……今夜は、まだ終わっていない」
 るいの足音が遠ざかり始めるなり、即座に行動を起こす惠。僕が身を離すと、背をもたせかけていたダンボールの山に手を突っ込む。
 数秒動かして、引き抜く。
 その手には――細く長い、場違いな物体。
「……え」
 何の冗談かと我が目を疑う。
 惠が手にしていたのは剣……銀色の洋剣。それこそ、舞台でしかお目にかかれないような逸品だ。
 ただ、ぱっと見ただけで、それが小道具的なものでないことはわかる。
 ……本物。そう、本来の用途で使われている本物だ。
 どことなく見覚えがある、惠の屋敷に飾られていたものだろうか?
 惠はそれを握りしめ、ひゅ、と軽く風を切らせる。
「見ない方がいい。十数えてから出てきてくれ」
 戸惑う僕にそれだけ言うと、さっきまで呆然自失だったとは思えないほどの身の軽さで路地を飛び出す。
「待っ……!」
 予想外すぎる展開に反応が遅れる。
 だって彼女、服を直してすらいない。あの状態で外に出て男どもに見つかったら……
「っ!」
 身体が勝手に動く。十秒なんて待てるか!
 路地は十メートルもない。すぐに出られる。
 数歩で暗がりを飛び出して――
「―――――!!」
 予想外どころか、想像したことすらなかった光景に、全身が凍りつく。
 視界に入るのは、日常生活ではほぼ偽物しか見ることのない現象。
 ――殺人。
 起こしているのは……惠。
 ……僕が視たのは、『襲われる』惠。下賤な男どもに弄ばれてしまう惠。
 ……今、目の前にいるのは。
 襲ってきた男たちを『殺している』惠。
 ……視えた、その先。
 否定した未来の向こうに、こんなものが待っていたのか。
 るいに水を買いに行かせたのは、これを見せないためだったのか。
「……」
 ゆっくりと、男たちだったものから染まった剣を引き抜く。道路には三人分の赤黒い溜まり。
 男たちは既に事切れ、ピクリとも動かない。文字通りの醜悪な肉の塊だ。匂いはまだないけれど、放っておけばすぐに広がってしまうだろう。
「……見てしまったね」
 振り向くことなく確認される。
 声の音色は静かだ。諦めが混じっているようにも聞こえる。
「……なん、で」
「彼らは婦女暴行常習犯として裏で名を轟かせていた。ケンカが強いわけでも徒党を組んでいたわけでもないけれど、いわゆる後ろ盾が強烈でね。議員の息子だか警視庁のお偉いさんの息子だか、その辺りだ。ある程度のやんちゃならば親が丁寧にもみ消してくれる、そういう存在さ」
 設定を読み上げるようにすらすらと語る。
「自分たちの身の程を知っているから余計なもめ事は起こさず、地位も権力もない一般女性をターゲットに食い散らかしていた。何せバックが協力だからね、被害者の訴えは黙殺され、ひどい時は警察権力に二重三重に痛めつけられることもあったとか」
 感情はこもっていない、いや、押し殺している。
「……そういう奴らを裁くのは、いけないことかな」
 自分の行いの正当性――その形を借りて、惠は僕に問う。
『受け入れるかどうか』を。
 ……僕は知っている。
 惠は既に、善悪で割り切れるような域にいない。
 大貫氏と三宅。僕が知る限りで、惠は二人を手にかけた。そして今、さらに三人を手にかけた。
 それぞれちゃんと理由はある。自分を守るため、自分と自分の大切な人を守るため、法で裁けない者を裁くため。
 けれど……前二つはともかく、今回は明らかに事情が異なる。
 一連の行動からするに、惠は最初から彼らを殺す気でここに来たんだろう。結果的には惠自身にも彼らに報復する理由ができたものの、最初は違ったはずだ。
『自分自身に関係のない悪人』まで裁く。そんなの、単なる使命感や義務感でできるものじゃない。
 あるいは、まだ明らかになっていない、もっと深い理由があるのか。
 ……いずれにしても、彼女は人を殺せる。殺せるようになってしまっている。
 そんな自分を、受け入れるかどうかと問う。
 僕の答えは――決まってる。
「……一緒に、帰ろう」
「……」
「帰って、シャワーでも浴びて、怖かったの全部流しちゃおう。僕は傍にいるから」
 隣に並んで、惠が手にかけた男たちを見下ろす。その無残な姿を目に焼き付ける。
 三人が三人、目をそむけたくなるほど醜悪な断末魔の表情。親が見たらさぞ悲しむだろう。
 けれど、これっぽっちも同情する気にならない。こいつらの自業自得だ。多くの女性を傷つけて、惠を苦しめて……死んで当たり前とは言わないけれど、きっとお似合いの最期だ。そんな風に思ってしまう僕もたいがいロクでもないけど、大切な人を狙われたら、きっと誰だってこうなる。善悪なんて、部外者が知ったかぶりするための屁理屈だ。
 剣を握る惠の手に自分の手を添える。
「服、直さないと」
「……あ、そうだね」
 僕の手に剣が移る。ずしりとした重みが手のひらに伝わってくる。見た目通りにしっかりした作り、軽々と振りまわせるようなものではない。命を絶つためにはこれぐらいのものでないと駄目なんだろう。
 ……惠は、これを手に、裏の世界を歩んできたんだ。
 今日みたいなことを、繰り返してきたんだ。
 剣の柄には、少し汗が残っている。惠の緊張の痕跡だ。
 何を思い、何を求め、彼女は剣を手に取るんだろう。
 本心は、未だ霧の中。
「ひとつ付け加えておこう」
 ブラウスを直しながら、惠が独り言のように言う。
「今回、彼らは欲望を満たすことはできなかった」
「え……」
「るいが現れたのは、奴らが目的に入ろうとするちょうどその時だった。それが証拠に、ベルトは奇麗なものだよ」
 言われて視線を向けると、確かにベルトはきっちりはまっている。
 そういえば、肌が露出していたのは上半身だけだった。
 ……間に……合ったのか。
 間に合った、とは言えないけれど、最悪は回避できた……?
「……あの瞬間にるいが来なければ、きっと」
 それ以上は口をつぐむ。
 ……良かった、とはとても言えない。最悪ではなかったというだけで、奴らが惠に触れたのは間違いない。
 でも……でも。
「……じゃあ、るいが来たのは無駄じゃなかったんだ」
「無駄どころか、奇跡だよ」
「……そっか……」
 思い返す。
 僕が視た未来では、惠は常に最悪の状態まで追い詰められていた。視えなくなるその瞬間まで、結末は変えられなかった。
 それが、変わった。
 あの時、大通りで選んだ通りに、るいが現れた。
 始まった未来を――止めた。
 今回のことだけで判断はできないけど……僕の力は、未来にまで介入できるものなのだろうか?
 ……もし、そうだとしたら……。
「まあ、程度の差はあれ、キズものに変わりはないけどね」
「そんなことない。ていうか、そんなの全然気にしない」
 自虐的に呟く惠を抱きしめる。
「一緒に、帰ろう」
「……」
 小さく、けれどはっきりと、惠は首を縦に振った。


「んじゃ、トモちん後はよろしくね」
「了解」
 るいが買ってきた水で身づくろいをする惠の傍で、るいと話す。
 惠は一旦うちに寄る。花鶏の家に行くわけにもいかないし、いきなり屋敷に帰すのはためらわれる……今回は声高には反対しづらかったんだろう、るいはちょっと困った顔をしたものの、了承してくれた。
「……みんなには、どうする?」
「刺激が強い内容だし、どの程度話すかは明日改めて考えるよ」
「……うん」
 惠は会話には一切入らず、手を洗ったり顔を拭いたりを繰り返している。感覚が残ってしまっているんだろう。必死な表情は声をかけるのをためらうほど。それに、言葉の選びようもない。
「……じゃ、気をつけてね」
「るいもね」
 わだかまりは消えないまま、るいは花鶏の家に向かって走り出す。軽く手を振って見送る。
 水を手に戻って来てから、るいはずっと複雑な表情をしていた。惠に言いかけては飲みこむを繰り返し、結局一言も交わさないまま去って行った。
 ……まさに『現場』を見てしまったんだ。無理もない。
「それにしても、なぜるいが現れたんだろう」
 姿が完全に見えなくなってから、惠が僕に問いかける。
「明日色々予定があって、その関係で気持ちの整理がつかなかったんだって」
「いや、そうじゃない」
「?」
「……君はともかくとして……あの状況で、るいが来るはずがない。そんな手助けは排除されてたはずなんだ」
「『排除されてた』?」
 思わず聞き返す。
 ……どういうこと?
「……あ、いや、都合が良すぎると思ってね」
 僕の反応に失言したと感じたのか、慌てて言い直す惠。その動揺が疑念をさらに強めてしまう。
『排除』……それは、偶発性を否定する言葉。
「惠……ああなることを予想してたの?」
 問いに対しては首を横に振る。
「罠がどこに潜んでいるかは、かかってみなければわからない。ただ、罠だったとするなら、救いの要素は排除されてしかるべきだ」
「罠……」
 罠、なのか。
「彼らには後ろ盾があった。当然、それを出し抜くだけの用意をしなければ挑めないだろう」 
 ピントのずれたヒントを重ねる。
 つまり、綿密な準備をしたのに失敗したということだろうか?
 確かに、人殺しなんて真似、しっかりと準備してからやらなければ大変なことになる。一回バレるだけで大事だ。今回みたいなことを繰り返していたら即座に足がついてしまう。
 ……って。
「……あいつら、あのままにしてて大丈夫なの……?」
 今、死体は現場に放置したままだ。僕らでは到底運べないし、三人を処理するとなるとかなりのリスクを伴う。下手に触るよりはそのままにしておいた方が得策だとは思う。
 でも今の時代、警察の捜査もかなり細かくなっている。下手しなくても凶器の特定やDNA鑑定で突き止められるんじゃ……?
「心配はいらない。君がいるからね」
「……へ?」
「そこは安心していいよ」
 なぜか自信たっぷりに答える。
「僕だけならともかく、君が危機に陥ることはありえない。君が現場にいた以上、今回の事件も何事もなく流れていく」
「……なんで?」
「なんででも、さ」
 寂しげに微笑まれる。色んな感情が混ざった表情だ。僕への気遣いだけじゃなく、憂いややるせなさ、もどかしさまでも感じ取れる。
 言いたいのに言えない……呪いのせいだろうか? それとも、それ以外にも何か理由があるんだろうか?
「そのうち、わかる日も来るだろう。今気にしてもしょうがないさ。それより」
 話題を切り、少しためらってから、握手を求めるように手を差し出す。
「……連れて行ってくれるんだろう?」
 びっくりするほど素直な行動。
 その姿に、どきり、と、ずきり、が一緒に来る。
 惠が自分から求めてくる――もちろん嬉しい。気持ちを素直に出してくれる姿は愛しい。
 でも同時に――その手は、救いを求める手でもある。
 助けて、と。
 なんでもかんでも一人で背負おうとする惠が、絶対に弱音を吐かない惠が、はっきりと救いを求める……それは、彼女が一層追い詰められている証だ。
 最悪は回避できたけれど、はっきり言って焼け石に水。楔が打ち込まれたのは事実、惠がより一層自分に対するマイナス感情を強めてしまうのは想像に難くない。
 本人が意識しているにしろしていないにしろ、状況はすこぶる悪い。
「もちろん」
 手を取って、強く握る。
 ゆっくりした足取りで、二人で夜を歩く。買いたてのミネラルウォーターで洗ったこともあり、惠の手は冷え切っている。熱を伝えたくて、何度もぎゅっと力を込める。
 月明かりと、ところどころの街灯の間を渡る二つの影。アスファルトに小さな足音が生まれては消える。
 ……せめて今晩ぐらいは、彼女を労わっていよう。いや、るいも心境の変化があったようだし、やりようによっては惠を僕の家に泊め続けることも可能かもしれない。
 事件が起これば、惠が無傷でいることは難しい……今回のことで血を吐きそうなほど痛感した。能力が役に立ちそうなことはわかったけど、姉さんから借りないといけないし、頼れるほどの効果があるかどうかは未知数だ。
 だとすれば、事件と事件の間で癒してあげるぐらいしかない。それだけでも随分違う……と思いたい。少なくとも、彼女が僕を求めてくれる限りは、僕が防波堤になれるんだろう。
「君の部屋に行くのは、何日ぶりかな」
「うーん……二週間ぐらい?」
「月日が経つのは早いね」
「ほんとにね」
 気恥ずかしさの混ざる会話を交わしながら、部屋へと向かう。しっかり握った手は少しずつ温まってきている。
 惠の気持ちに、応えたい。一緒に立ち向かうことはできなくても、応え続けることで支えられるなら、彼女に力を与えることができるなら、あらゆる時間をそれに費やしたい。
 今までは、みんなの反応が怖くてできなかった。でももう、そんな小心者な言い訳はなしだ。理由は分からずじまい、疑問は尽きないけれど、腹黒理論で捩じ伏せたっていい。
 惠が覆いを外せるのは、二人きりで触れ合ってるときだけ。いつかはみんなのところに戻ってほしいけど、今は二人きりで過ごして、痛む心を癒してあげるのが先だろう。恋人なんだ、それぐらいやらなくてどうする。
「あ、そろそろ」
 遠目に見えてきたマンションを指差す。少し足を早める。
 無力なのは嫌だ。傷ついていく姿を見ているだけなのは嫌だ。何でもいい、惠がこれ以上――
「……ほんっとに、油断も隙もないですね」
「……あ……」
 ――玄関先。
 そこまで来て、自分が置かれていた状況を思い出す。
 ……迂闊だった、いや、迂闊だったなんてものじゃない……!
「……」
 僕の部屋の前に立っている人物を確認し、惠が硬直する。
 誰がどう見ても、『この部屋の中にいた』ことが分かる服装。
 ドアにぴったり背をつけて、待ち伏せ状態で立っている一人。
 惠がこの部屋に泊まった翌日から、ずっと僕を見張っていた人物。
 僕たち二人が良く知る――寝間着姿の女の子。
「……茜子……」
「どうも。お久しぶりですね、惠さん」
 ――そう。
 よりにもよって、僕は。
 寝間着姿の茜子と、惠を引き合わせてしまった――