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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act1. 「新しい加護と新しい籠」 


 コーヒーの香りと卵が焼ける音に、再びの朝を迎えたことを知る。
 うっすらと開いた瞳が捉える天井は透明感のある白に彩られ、今日の天気が快晴だと告げてくれる。手を動かしおでこに当てると、体温と感覚があることが確認できた。
「ん……」
 起き上がって軽く頭を振り、覚醒と共に身体の隅々に生気を行き渡らせていく。
 細く長い呼吸を幾度か繰り返し、調子を探ると共に整える。どうやら、取りたてて異常はないようだ。
 ああ――今日も、始められた。
 安堵とも祈りとも、そして呪いともつかないフレーズを頭の中に転がす。
 光の射す方へ視線をやれば、カーテンが開かれた窓の向こうに緑が映えている。『緑が飾る居住空間を』という、ここを作った建設会社の売り文句が体現された景色だ。住人の質を思えばカモフラージュもいいところだけれど、陽光と木々のコラボレーションは居心地の良さに一役買っている。
 二人きりの鳥籠は、今日も穏やかだ。
「おはよう、惠。朝ごはん、もうちょっとでできるからね」
 物音に気づいたのか、キッチンに立つ智が軽く振り返り、声をかけてくれる。手際よく料理を進めていくエプロン姿。腰のあたりで結ばれたリボンが動きに合わせて揺れる。
「ああ、おはよう、智。この香ばしい匂いはハムエッグかな」
「あったりー。昨日スーパーでハムが底値になってたから買いだめしておいたんだ」
「底値?」
「うん。スーパーとかって、どんなに値下げしても『これ以上は下げない』っていう値段があるんだ。それを底値っていうの。『特売』とか『広告の品』っていうフレーズはその時余ってるものや売りたいものに付けられてるだけから、ちゃんと底値を把握してないと損しちゃうんだよ」
「……まるで主婦みたいな着眼点だ」
 見知らぬ世界の知識に驚くと、智は少し自慢げに微笑む。
「長らくカツカツの自炊生活をしていれば、イヤでも身についちゃうの。あまり無駄遣いはできないしね」
「なるほど」
 ベッドから降り、少し急ぎ気味に服を着替え、洗面台へ向かう。マンションに備え付けのそれはかつて過ごした屋敷にあったものより遥かに小さいけれど、分相応というものだろう。
 冷水で顔を洗って拭いて、鏡を見る。今日の顔色は悪くはない。朝の調子など何の保証にもならないと知っているけれど、ここに住み着いてからは毎朝確認しないとなんとなく落ち着かなくなっていた。
 ……意味もなく、笑顔を鏡に映す。もともとは作り物だった表情だけど、過ぎ去った日々はそれに想いを注ぎ込んでくれた。そして今、たったひとりだけに見せるそれは、おそらく最も素に近い。
 幸福を――得ているから?
「……」
 回りだしそうになった問いを振り払い、洗面所を出る。
 待っているのは、柔らかな湯気と部屋いっぱいに広がる料理の香り、笑顔を咲かせた恋人だ。朝日がテーブルに差しこむからか、つややかに湯気を立てる卵は輝いてすらいる。
「ちょうどできたところだよ。ハムエッグもトーストも出来たてが一番美味しいんだ、早く食べちゃおう」
 繰り返されるかけがえのない光景に、鏡を前にしたものより一層緩んだ笑みが零れる。
 たわいもない、ささやかな……けれど、比較の領域を遥かに突き抜けた充足感が満ちていく。
 ――しあわせだ、と。
 溺れてしまいそうになる、自分がいる。

 智と血塗られた契りを結んでから、はや数ヶ月。
 ベッドと一通りの家電が揃った六畳一間のワンルームが今の二人の住処だ。元は一人暮らし用に設計されたらしく、二人で暮らすには少々手狭な感もある。でも、着たきりスズメ状態で飛び出してきたから大した荷物は持っていないし、また必要ともしない。ベッドは二人で寄り添って使えばいいし、生きていくに必要最低限の物資さえあれば事足りる。贅沢を言う気などさらさらない、手狭という感想は抱いても、不自由までは感じなかった。
 それに何より――ここにいるのが、最も安全だ。
 木を隠すなら森。
 ここは、とびきり残酷で罪深く、人の道を踏み外した僕たちが潜むにはおあつらえ向きの……裏社会の獣のための籠。
 そう。
 僕たちは今、裏社会の糸に絡まれ、縋り付きながら日々を繋いでいる。

『命を摘み取る』。
 それは人間社会にとって究極の破壊であるがために、相当に困難な注文だ。一度きりでも過酷なのに、継続ともなれば難易度は不可能に限りなく近づく。
 目立つし、騒がれるし、追われる。関係者に限らず、警察組織から一介の探偵、野次馬に到るまで、世界は僕たちに奇妙な熱意をもって相対してくる。生存という絶対的な前提を掠め取るのだから当然だろう。誰であれ、生者であることには変わりない。
 変わりないからこそ――僕たちは『相手』を選ばなければならない。
 田松市を飛び出した僕たちが真っ先にいきあたった壁……それは『誰を殺すのか』という、あまりに根本的で難解な問題だった。
 世界には破るべからざる秩序が存在する。いかなる人間にも家族があり、知り合いがあり、ネットワークがある。それらを問答無用で断ち切る以上、起こる混乱と怨嗟と追跡の手が激しくなるのは自明の理。おまけに、悪人というのは意外に知り合いが多く、裏で予想外の繋がり方をしている場合がある。選定ミスすれば、始まる前から終わってしまう可能性すらある。
 今まで僕が発覚すらせずに罪を重ねてこられたのは、そういった不安要素を排除してくれる真耶の託宣があったからだ。
 けれど、今はそれもなくなった。
 失敗、即、破滅。
 奇跡の余地のない、自己責任の蜘蛛の巣。
 そんな中で、果たしてどうすれば生き延びることができるのか――……
『智……君は、自分にそのレッテルが貼られることに耐えられるかい?』
『していることに名前がつくだけでしょ? それなら、平気だよ』
『無理はしなくていい。把握されるのは僕一人だけでも、おそらくは』
『駄目だよ、惠。僕たちはふたりでひとつ。行為も罪も、二人で背負っていくって決めたじゃない』
『……智……』
『―― 一緒にやろうよ、『殺し屋』』
『……』
 智は背中を押してくれたのだろうか。それとも、別の意図があったのだろうか。
 ともかく、考えた末にたどり着いたのは、生業という手段だった。
 裏社会には多くの組織があり、小競り合いがあり、様々な役目を果たす人間がいる。鍵開けやスパイ、トラップの担当から、組織同士の仲裁、脅迫、トカゲのしっぽ役まで、その種類は多岐に渡る。
 その中でも、殺し屋というのは極端に数が少ない。死を扱う役目は危険度がトップクラスであり、切り札としての責任を負うものであり、憎しみを被る存在でもある。多種多様な役割が選び放題の中、わざわざそんな役を買って出るのはよほど金に困っているか気狂いくらいのもの。なにせ、最も信頼される代わりに、最も警戒され、遠ざけられる職業だ。
 ……それは、人に言えない事情にまみれた僕たちにとって、願ってもない条件だった。
『殺し屋』になる――自分たちを悪辣な存在として売り出す。今まで隠してきたことを、苛まれてきたことを、己の武器に、看板にする。現状からさらなる深淵へと進む一歩。
 迷わないはずがなかった。
 けれど、懊悩している暇もなかった。発作という時限爆弾に、手段を選ぶ懐の広さなど求める方が間違っている。
 だから――選んだ。
 幸か不幸か、僕は既にある組織に存在を認識されていた。『それができる』という証拠を既に携えていた、というわけだ。
 ゆえに――僕たちは組織に連絡を取り、こう提案した。
『無差別な災いを、手懐けてみないか』。
 組織に余計な欠員を作りたくなければ、僕たちの望むものを提供しろ――そういう、脅迫めいた交換条件を突きつけた。
 殺し屋は常に人不足だ。必要なときだけ使えて成功率が高い、いわゆる『使い勝手のいい』存在がいるならば、使わない手はない。野心もなく、組織とつかず離れずを保つというならなおさらだ。
 こっちとしても、組織に求めるのはターゲット探しのための情報と事態の収拾のみ。生きる術が手に入れば、それでいい。
 交渉はリスクとメリットの天秤。相手の素性がどうであれ、対等、あるいは自分の側に利があれば成立する。
 ……そして、道は拓けた。
『歓迎しよう』
『……光栄です』
 誰かもわからない電話の声は、今も耳の奥に残っている。
 裏社会は新たな罪人を飼い慣らすことを選び、僕たちに必要な情報と一定条件下での身の安全を与えた。
 ……悪魔の取引。
 だから、僕と智はここにいる。
 住み着いたマンションは『組織に関係する裏社会の人間』を囲っておくための場所で、警察などの茶々が入らないようになっているという。全体の数分の一が組織の管理下、それ以外は一般人用になっているため、事情を知らなければただのマンションに過ぎず、出入りしても奇異な目で見られることはない。日々の生活でボロを出さない限り、十分にやっていける環境というわけだ。
 生活するための物資が揃い、情報が手に入り、組織という後ろ盾があり、安全は確保されている。
 現状を思えば、限りなく最善に近い条件。これで文句を言うのは贅沢というものだろう。実際、大した不自由もなく暮らしていけている。
 ……ひとつだけ、難点を挙げるとするなら。
『それでは、地方最前線ニュースです。田松市総合文化センターでは、町おこし企画の第二弾として――』
 ぶちん。
 流れて来た単語に、反射的にテレビの電源を切った。
 田松市――
「……」
 気まずい沈黙が流れる。
「……やっぱり、近いんだね」
 食事の手を止め、智が呟く。
「公共放送が市ごとに別のニュースを流すわけにもいかないんだろう。同一地域とみなされてしまうのは当然かもしれない」
「しょうがない、けど……早く、もっと遠くへ行きたいね」
「裏社会は信用社会と言われている。あと少しの辛抱なんじゃないかな」
「……うん」
 半分は願望の混じった言葉に頷く智。もう一度、消えた画面に視線を向ける。
「……大丈夫、だよね? みんなに、見つからないよね……?」
 それは、縋るような祈りの言葉。
「近くて遠い――そんな表現もある。囚われの乙女たちは滅多なことでは外界に解き放たれたりはしないよ」
 遠まわしに、智の不安に手を差し伸べる。
「そうだよね、僕だって滅多に田松から出なかった。うん、大丈夫」
 意図を汲んでくれたのか、智は声に出して自己完結し、ハムエッグの最後の一口を飲み込む。
 僕も残っていたコーヒーを一気に飲み干す。苦味が何倍にも感じられてむせ返りそうになり、慌てて水を追加で流し込んだ。
『みんなに見つからないよね』……。
 この問答を繰り返すのは、一体何度目だろう。意識しないように心がけていても、ふとした瞬間に思い知らされる。
 新しい住処の、唯一、そして最大の懸念材料。
 ――それは、距離だ。
 僕たちが今いるこの場所は、田松市の隣市に位置している。市の中心部に近いところとはいえ、田松までは電車を使えば二十分もない。道を歩いていれば田松駅行きのバスにも出会うし、田松で見たことのある制服の女の子たちも散見される。
 ……振り捨てたはずのものの息遣いを感じ取ってしまう、中途半端なところ。
 もちろん、望んでこうなったわけではない。できるなら、一刻も早く、一歩でも遠く田松から離れたかった。気候も言葉のニュアンスすら違うところまで行って、自分たちと田松を切り離してしまいたかった。
 ……けれど、生きるためには妥協しなければならないこともある。
『最初の情報提供と依頼は田松市、及びその近辺に限る』――組織が僕たちに出してきた条件。
 僕の活動が把握されていたのは田松市、及びその近辺だ。裏を返せば、そこ以外には知られていない。
『殺し屋という職は、実力と信頼性を確認しないと使えないんだよ』
 要は、組織に縁してからの実績が十分に上がっていない人物をいきなり遠方には出せないということらしい。俗に言う試用期間が置かれたというわけだ。当然の発想だろうし、他があまりに好条件であるがために、こちらとしても突っぱねるのは難しく、その条件を飲む他なかった。実績が固まってきたら遠方の情報をもらう約束を取り付けることはできたものの、それまではここにいるしかない。
『どこへ行こうか』『行けるところまで』……異国すら思わせた遠い願いは、その実とても近かった。
 それでも、ここはまだ誰にも知られていないし、突き止められる要素はない。組織としても『殺し屋』に需要がある以上、そう延々と同じところで飼い続けることもないだろう。
 しばらくの辛抱だ。しばらく耐えていれば、次の場所へと旅立てる。
 行き着く先に希望を夢想するのは、おこがましいことでもあるけれど。
「……さて」
 食器を片付けながら、メモに書かれた今日の予定を再確認する。表面的には快晴によく似合う、幸福な恋人たちの一日だ。
「そだ、僕は着替えてお化粧するから、惠に後片付けお願いしていい?」
「そうだね。今日は、一段と愛らしい格好を期待しているよ」
「むぅー……わかった」
 聞こえるようにむくれた声を出しつつも、智はパタパタと準備の音を立て始める。
 大分慣れてきた手順で食器を洗って流し、布巾で丁寧に水滴を拭き取り、棚にしまう。
 かつては確認することすらほとんどなかった食器の数。小さな棚に並んでいるのはどれもペアセット。そんなささいなことに気づくたび、ぐるりと感情がかき混ぜられる。
 ――僕はもう、ひとりじゃない。
 
朝から続く快晴の中、腕を組んでゆっくりと歩く。季節柄か、無風ではあるものの爽やかな空気の流れがある。
「へー、この辺もおしゃれなお店がたくさんあるんだ」
「まっすぐ行けば駅に繋がっているみたいだね。脇道も沢山あるし、主要道路とは別に発展してきた道なんだろう」
「ちょうど、新しい食器が欲しいと思ってたところだったんだ。よさそうなお店があったら寄ってもいい?」
「智のお気の召すままに」
「やった!」
 今日訪れたのは、市の中心部より田松と反対方向に進んだ先の一角だ。時折雑誌で特集される私鉄の駅にほど近く、平日の昼からそれなりの賑わいを見せている。レンガを敷き詰めた細めの歩行者専用道路にはそれぞれ個性的な店が軒を連ね、若者から年配者まで幅広い年齢層の人々が行き交う。枝分かれした道の中には人が二人ギリギリ通れる程度の幅のものもあり、その先には凝り性のお客対象の専門店、隠れ家カフェや占いの館といった、立地条件を逆手に取った店が並ぶ格好だ。南向きなのか、入り組んでいる割には日差しも入ってくる。
 ……夜半の狩場となるだろう袋小路も、今の時間は平和一色。昼間の僕たちもまた、例外ではなく。
「惠の服、似合ってるね。気合入れて選んで良かった」
 ジャケットの袖に付いているボタンに触れつつ、智は満足げに僕を見上げる。
 僕が今日着ているのは数日前に購入したばかりの新品だ。フライフロントのシャツにミリタリー風の立ち襟のジャケット、ストレートタイプのブラックジーンズ。以前着ていた服とラインはよく似ているけれど、配色やボタンのデザインは智がこだわって選んだだけあってセンスが良い。もっとも、僕自身はここ数年あのグレーの詰襟しか着ていなかったから、何を着せられてもなんだか違和感がある。でも、智が似合うというなら似合うんだろう。生きるための手段だったものが趣味へと高じた彼の服装センスは確かなものがある、彼自身の格好を見ているとそう思う。
 智が今日着ているのはシフォン素材の小花柄ワンピースに、ニットのベスト。蝶を模したチェーンベルトが日差しを受けてちらちらと光る。つややかな髪をなびかせつつ僕の腕に寄り添う姿は、なぜ智が『彼』なのかと宇宙の神秘に疑問を呈したくなる程愛くるしい。
「智もよく似合っているよ。幾万の雑踏に、いや、満点の星空に紛れたとしても見失うことのない可憐さだ」
「もー、大げさだなぁ」
「そうでもないんじゃないかな。比較で表現できない次元には、ファンタジックな比喩を使うのが一番だと思わないかい?」
「それが大げさなんだってば。惠らしいけど」
「主観と客観の差異ということもある。道行く人も眼の保養と思っているんじゃないかな」
「それはそれで、恥ずかしいかも」
 嬉し恥ずかしといったところか、絡めた腕にさらに身体を寄せてくる。なんの気なしに頭をなでると、くすぐったそうにきゅっと目を閉じる。
 ショーウインドーに映る二人の姿。智が褒めてくれても、見慣れない自分の格好はどこかぎこちなく思える。
 ――二人が新しい服を着るようになったのには、もちろん理由がある。
 まず、智の制服は田松市に近いここではあまりにも目立ちすぎる。南総学園の知名度、智が事実上行方不明になっていることを思うと、あの服を着るのは危険極まりない。
 僕の場合は、常に同じ服装をしないためだ。人間は同じものを繰り返し見ると自然に記憶に刻まれてしまう。蟻の穴から堤も崩れる、余計な印象を与えることは避けなければならない。出来る限りあの格好は崩したくなかったけれど、背に腹は代えられなかった。
 結局、僕は男性用の服を智に選んでもらうことで一応の折り合いをつけ、詰襟を仕舞うことにした。
 遠いところならば、こういう気遣いも要らないのかもしれない……そう思うたび、早くこの街を去らなければという気持ちを強くする。焦りは禁物、けれど長居は無用だろう。
 そのためには、着実に積み上げていく必要がある。今日もまた、その過程のひとつ。
 路地を散策する風を装いつつ、辺りを見回しながら歩きまわる。
 冷やかしとも歓声ともつかない声がすれ違う人々から朧に漏れ聞こえてくる。彼らからすれば、僕たちは人生の春を謳歌する幸福の代名詞のように見えるのだろう。それはそれで構わない、道行く人にプラスイメージを刻むのは非常に重要な下準備だ。
 人は、プラスとマイナスを脳内で区分けし、情報を分別している。いわゆる先入観の一種。プラスの枠組みに一旦入ってしまえば、その後マイナスの出来事があった際に思い出される可能性は低くなる。
 つまり――幸せな恋人たちの姿は、その夜に起こる惨劇と結びつくことはない。
「……智」
 小さく呼びかけ、電信柱に張り付けられた住所を指差す。
「ん」
 智もその表示を確認し、頷く。
 やってきたのは賑やかな商店街から道路を一本挟んだ向かい側、住宅街の入り口だ。
 ……ここからが本番。智を見つめ続けていた顔を上にあげる。
「……さて、良い天気だ」
 素早く左右を確認しつつ、位置関係を把握する。目的地にはあえて立ち寄らず、軽く視界に収めるだけにとどめておく。確認したいところは色々あるけれど、じっくり眺めるのはご法度だ。わざわざ出向いたのに疑問の種を残すようでは元も子もない。
 下見は効率的に、一瞬で終わらせるのが鉄則。脱出と逃走経路、不測の事態が起こりやすそうなポイント等を、恋人の散歩を装いながらチェックしていく。
 僕が行うのは道路の幅や障害物、信号等の確認。塀の高さや周りの木の太さもしっかり頭に刻み込む。
 そして、智が行うのは――
「……今日なら大丈夫だよ、惠」
 智がこっそりと耳打ちする。声には確かな自信がある。
 ――今日。思ったより、早い。
「星の巡りは不思議な偶然を生むものなのかな。それとも、僕たちの道程に機会が舞い降りているのか」
「チャンスの神様には前髪しかありません、って」
「変わった髪型だと思わないかい? あるいは神話の世ではそれが最先端なのかな」
「僕たちとはセンスが全然違うのかもね」
 カモフラージュに無関係の道を使って迂回し、引き返し始める。
「さっきの通りに、智が気に入るような店はあったのかい?」
「うん。いくつか候補があるから、寄って帰ろう」
「今晩は新しい食器での料理が楽しめる、と考えてもいいのかな」
「任せて! 夜が控えてるからね、腕によりをかけて作るよ」
 満面の笑みで答える智の瞳は、一見すれば曇りのない透き通った輝きを宿している。
 昼と夜、裏と表。仲睦まじく暮らす二人は、その実確かに運命を共にする。

 ――そして。
 その日の狩りもまた、滞りなく終了した。

 何食わぬ顔で部屋に戻り、返り血の付いたコートを脱ぐ。今日の相手は泥酔していたからか、あまり暴れることなく、所要時間もわずか数分で済んだ。腕っ節に自信があるという情報は得ていたから少々心配していたけれど、杞憂に終わってくれたようだ。
 ……もっとも、この生活を始めてから真の意味で危機的状況になったことなどないのだけれど。
「うまくいったね」
「……ああ。君には星の加護がついているのかもしれない」
「僕、昔から勘がいいから」
「ふむ……」
 曖昧に返事を返す。
『今日なら大丈夫だよ、惠』――下見の時の反応は、今回『も』的中した。
 智が下見で確かめるのは実行のタイミングだ。根拠はないけれど、いつ実行すれば成功するのかがなんとなくわかるのだという。おそらくはそれが智の能力なのだろう。
 研ぎ澄まされた直感か、危機回避か……詳細は不明ながらも、智の能力は果てしない綱渡りを続ける僕たちの武器の一つとなっている。これがなければ早々に詰んでいたかもしれない。
 その智はというと、キッチンで二人のコートの血痕を洗い流す作業に入っていた。今日は一緒に剣を握ったから、彼のコートにもそれなりの血が飛んでしまっただろう。けれど智はそれを気にする様子はなく、手際よく後処理をこなしていく。
「お先に」
「はーいっ」
 その隙にと、一声かけてさっとシャワーを浴びる。バスルームに充満するのは、智が買ってきたボディーソープの香りだ。どこかで嗅いだことがあるようなないような、少し奇妙な甘さはお風呂を出てもしばらく続く。
「じゃあ、次は僕ー」
「お待たせしてしまったかな」
「ちょうど洗濯終わったところだから気にしないのっ。惠は報告しておいてね」
「面倒は先にこなしておくに越したことはない、ということかい?」
「その通りっ」
 僕と入れ替わりに智がバスルームに消えていく。
 言われたとおり、部屋の隅のテーブルに置かれたノートパソコンを開く。
 組織に人数と時刻と状況を箇条書きで記載した簡素なメールを送る。報告は迅速に。今回も特に問題はなかったはずだから、数日後には依頼料が振り込まれることだろう。
 ……自分たちの行動に値段が付いているという現実。しかも、生活の大半は、この依頼料でまかなえてしまっている。
『殺し屋』――現状を知った人なら、きっと百人が百人僕たちをそう呼ぶだろう。否定する要素などどこにも見当たらない。
 仕事というフレームはとても楽な囲いだ。世の中の暗部など改めて確認するまでもないし、この世界がリポーターや記者に料理されない事件に溢れていることも知っている。
 殺し屋の定義に自分を当てはめ、価値観という免罪符を掲げてしまえば生きやすくなる……そんな風にも思う。
 けれどやはり、それは逃げなのだろう。七色の解釈を並べ立てても、事実は厳然として事実のまま。
 言い訳なんていくらでもできる。自分で自分を騙すことなどたやすい。
 だからこそ――見失ってはならない。
 ――何、を?
「ん?」
 ふと『受信メール1件』の文字が目に入った。差出人はお世話になっている組織だ。
 ……なんだろう? 次の依頼にしては早過ぎる。
 疑問に思いながらクリックしようとして――
「めぐむー、お風呂あがったよー」
 智の声に、手を止める。
 振り返ると、既にベッドの中に入り込んで手招きしている智。
「メール送り終わったんでしょ? ね、早くこっち来て」
「せっかちなお姫様だ」
「僕、お姫様じゃないもん」
 ぷぅ、と拗ねつつ、物欲しげな瞳で僕を見つめる智。見えない糸で繋がれるかのように、身体が反応する。
 ……まあ、いいか。今日は発作もなかったし、上乗せもできたし、明日もきっと来る。
 ノートパソコンを閉じてベッドへ。二人とも体重は軽い方とはいえ、シングルベッドは二人分の体重を支えるのは少々荷が重いらしく、きしんだ音をたてる。そんな歪な音ももう慣れたもの。
「ん……っ」
 ベッドに入るなり、智に抱きすくめられる。お風呂上がりの熱を残した高めの体温にボディーソープの香りに引きずられ、ゆらりと欲望の蝋燭が点る。
「惠ったら、また服着てる」
 智は不満げに、僕が羽織っているシャツの裾をつまむ。半分本気で、半分は余興。
「冷たい身体では、君が風邪を引いてしまうだろう?」
「すぐにあっためてあげるのに」
 数センチまで近づけてくる顔は上気していて、既に妖艶さを宿している。何度見てもぞくりとくる表情だ。
 それだけじゃない。純粋な欲情とは別種の光もまた、この条件下では顕わになる。
 ……血溜まりを思わせる、ぬるりとしたゆらめき。
 かつて、夜な夜な獣と化す男が人を引き裂いた後に人を求める話を読んだことがある。今の僕たちもまた、それに近い状態なのだろう。
 体験の余韻を刺激に変えて押し流す……逃避とも反芻ともつかない仕上げ。
 ――今日、智は剣を握った。
「智……」
 智の手を取る。智が期待に満ちた目をする。
 何をするのか知っていても、いや、知っているからこそ、二人の身体は薄暗い熱に満ちていく。
「ん……」
 ……ゆっくりと、手のひらの真ん中のくぼみに舌を這わせる。骨をなぞるように、舌先で軽く触れていく。返り血を舐めるような動きだ。くすぐったいんだろう、智が少し身じろぎをする。
 指の腹のところまで舌を伝わせ、それから軽く唇にキスを落とす。右手と左手、それぞれ一回ずつ。二人共既にシャワーは浴びているから、鉄の味を感じることなどはない。
 ――生命を摘み取った日に行う、儀式めいた行為。
 今度は智の番。僕の手を取って同じように手のひらに舌を這わせる。右と左、一回ずつ。感覚があるのは手のひらなのに、なぜか全身に軽いしびれが走る。
 そして、今度は唇へ。触れるだけだったキスは、四回目で色を変える。
「ん……っふ、んん……は……ぁ……」
 舌を絡ませ、存分にお互いを味わっていく。
「惠……」
 とろりとした囁きが耳に注がれる。衣服はとっくにはだけられ、熱を帯びた手に煽られている。
 欲望を点した蝋燭の火が揺れる、そんなじりりとした快感。
 何度繰り返しても、慣れることのない交わり。むしろ、重ねるごとにのめりこんでいく気さえする。
 湯冷めしかけていたはずの身体がうっすらと汗をかきはじめ、理性と本能のバランスが崩れていく。
 ぬくもりをむさぼる獣が顔を出し、覆いかぶさり、僕たちの化身となる。
 そして――その獣に夜を委ねる直前、智はいつも口にする。
「惠……今日の……ちょうだい……?」
 ……そのおねだりを聞くたびに、泣きたくなるのは何故だろう。