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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 19 

 夜の深さは悪寒を皮膚に染み込ませる。霧が身体にたまるような落ち着かなさに、制服を握りしめる。
 眼前の屋敷は昼間のそれとは似ても似つかず、頑として他人を寄せ付けないかたくなさを放つ。どの窓も明かりが消え、すっぽりと闇に染まっている。晴天に映える屋根は、今や星を突き刺す鋭利な刃物だ。
 柵のような門の隙間から、中を伺う。壁と扉の境目すら、ここからは見えないぐらいに暗い。玄関の電気がついていないのは、訪ねる人のいない、いてはならない場所だからだろうか? 泥棒さえ勇気を問われそうな黒い要塞。
 待てど暮らせど、中の動きはない。これだけ真っ暗なのに、起きている人がいると思う方がおかしいのかもしれない。これで単に寝落ちだったら笑い者だ……願わくば、そうあって欲しい。この焦燥感が杞憂に終わるなら、その方がずっといいはずだ。
 直感のエマージェンシーコール。示すものは不明。例の発作? だとしたらわざわざ飛び出したくなる理由がわからない。僕を自室にとどまらせないほどの危機感は、いったい何に反応した?
 聞く相手もなく、答えもなく、焦りばかりが募る。
 せめてもっと中が見えればと、尖るように冷えた柵を握りしめ――
「……え」
 まるで手品のように。
 門は、あっけなく開いた。
「開いた……?」
 見るからに厳重なかんぬきと、大きな鍵穴がつけられた黒い門。どんなに腕利きの鍵開け師だって、これを無音でこじ開けることなんかできないだろう。
 それが抵抗なく開いた。
 かんぬきは地面と垂直に、ぴたりと静止している。鍵のついた太い棒はまっすぐで、施錠中は飛び出す出っ張りも役割を果たしていない。
「……開いてた……?」
 なぜ?
 うっかりがあったとしても、二カ所ある鍵を両方かけ忘れるなんてまずありえない。特にこの家は見知らぬ人に踏み込まれては困る事情がある。防犯には人一倍気を使っているはずだ。
 かけ損ねの線も薄い。それなら外れる音がする。
 もちろん、壊れてもいない。
 そんな不自然な状態……わざと開けてあるとしか考えられない。
 誰かを招くために、あるいは―― 戻ってくる誰かを迎え入れるために。
 今晩もまた、屋敷には何かが仕組まれている。
 ごく、と喉を鳴らす。
 どうする? 行くか? ここで待つか?
 この門をくぐると考えられているのは、僕以外の誰かだ。さすがの惠も、今日の僕の行動まで予想しているとは考えにくい。誘う気なら空メールなんかじゃなく、もっと不安を煽ってくるはずだし。
 おそらく、僕は招かれざる客。本来なら入ることを禁じられているはずの部外者。
 それと知っていて―― 踏み込んでいいのか?
 ……決まってる。
「……おじゃまします」
 引き下がるなんて選択肢はない。
 自分でも聞き取れないぐらい小さな声で断り、敷地内へ入る。鉄柵と塀のギリギリの位置へ移動、しゃがみこみ、息を殺して待機する。
 待っていれば来る、それだけは確実だ。
 導火線が燃えるような、じりじり、ちりちりとした緊迫感。中途半端な体勢だからか、足の裏が加速度的に痺れてくる。時計は持ってこなかったから、正確な時間の経過はわからない。おそらく、実際時間と体感時間には大きな差があるだろう。
 長すぎる一分間の積み重ねを、僅かな風の音と共に過ごす。

 まだか。
 まだなのか。
 誰が、何のために、今日――

 金属が鳴った。
「!」
 人目をはばかるには少々大きい音を立て、玄関の柵が揺れる。
 帰ってきた。
「――――……」
 視界にあるのは、苦しげにかがみこみ、門を支えにする黒い人――
「……、…………」
 声はここまでは聞こえない。発していないのかもしれない。現れた影は玄関の鉄柵をがりりと掴み、肩を上下させている。
 一、二分だろうか、長くはない時間立ち止った後、足をひきずるようにして門の中へ。安全の確認ができているのか、それとも気にする余裕がないのか、ともかく辺りを伺う様子はない。
 靴をすり減らしそうな歩き方で玄関扉へと向かう、か細い背中。こちらもあらかじめ開けてあったんだろう、鍵を使う様子もなく、家へと吸い込まれていく。
 扉が閉まった。
 一部始終を、戻ってきた人物を、その様子を、見届けた。
 身じろぎ一つせずに、背景のように、ただただ、見守った。
「……っ」
 見守った、なんて言い方は姑息だろう。
 単に動けなかっただけ、動けと脳が命令を出すことすらできなかっただけだ。
 ある意味で予想通り。けれど僕の予想は甘かった、甘すぎた。
 杞憂に終わればいい……それが、どれだけ愚かな願い事だったか。
 身を焦がす心配を、突き上げる無力感を、疑念を、苛立ちさえ混じった悔しさを、奥歯で噛みつぶす。
 ……押さえていたのは胸ではなくわき腹。風のない中でも漂ってきた血の匂い。身体に隠れて見えなかった、細長く光る何か。
「……惠……」
 ただごとじゃない。
 はっきりとは見えなくても、ひどい状態だってことはわかる。「ひどい」なんて陳腐な表現しか浮かばないぐらい、僕の想像を超えている。
 ……他にわかることがあるとすれば。
 彼女が、自分から危険を冒したということだけ――

 渦巻く疑念が、砂嵐のような雑音を出す。

 君は、いったい何を抱えている?
 君は、いったいいくつ抱えている?
 君は―― どこまで、隠し通さなければならない……?

 遠いんだ。
 彼女はまだ、僕から遠いところにいる。
 おいそれとは近寄れない何か。気楽には見せられない何か。
「……」
 不安はある。
 どこまで許されるのか。
 恋人という形を得ても、僕らはやっぱり他人。その過去も、真の胸の内も覗けはしない。
 直感がある。
 下手な踏み込み方をすれば、惠を苦しめる。きっと、知らないでいてほしいと思っている。
 ……それでも。
 痺れの残る足で立ち、屋敷の中へと歩を進める。
 完全な不法侵入だ。常識的な行動の範囲を超えた、言い訳の聞かない犯罪行為。
 ……それでも。
 辛いのなら。苦しいのなら。まっすぐ立てないほどの重荷を、たった一人で背負っているのなら。
 せめて、肩を貸すぐらいはしてあげたい――

 屋敷の中は文字通りの真っ暗闇だ。閉鎖空間が作る墨のような黒さに、夜空が闇ではないことを思い知らされる。
 後ろめたさの程度が違うからか、前回惠を追いかけた時よりもさらに暗さが増している気がする。中の構造がわかっていなければ、間違いなく壁か家具に激突するだろう。慎重に、極力息を止めながら奥を目指す。
 異常なほどの静けさだ。丑三つ時にはまだ時間があるはずなのに、虫の声も人の気配もない。聞こえる、いや、感じるのは僕自身の心臓の音ただひとつ。それでも、多少の精神安定にはなる。百パーセントの無音に人間はどこまで耐えられるんだろう……斜め上の疑問をぶつけて空恐ろしさを抑制する。
 どこを目指しているのか、自分でもよく分からない。勘による自動操縦状態だ。動きにワンテンポ遅れて思考が追い付くイメージ。
 食堂通過。足は、長く伸びる廊下を辿る。
 いきなり自室に戻ることは考えにくい。明らかに怪我をしていたから、止血か消毒か、とにかく手当をするはず。手当するならどこが適当だ? 血で汚れても平気で、鏡があって、タオルや薬の準備もしやすいところ……?
 音を立てないことに気を配るからか、進む速度はなめくじのように遅い。静寂と視界の悪さが、ただでさえ広い屋敷を数倍もの空間に仕立てあげる。
 扉も、その奥の部屋も、存在しないかのように静まり返っている。家政婦さんの部屋の前でさえ、物音ひとつしない。闇の海の中を手探りで進む。
 三段程度の階段を降り、曲がる。
 途端、僕の心音以外の音が漏れ聞こえてきた。
 近い。
 記憶が鳴る。この廊下、泊まりに来た時に使った。掃除や探検ではなく、もっと身近な理由で使った――
 音は気のせいほどの大きさから、徐々に明確になっていく。
 そして、出所へと辿りつく。
 他の部屋とは明らかに違う作りの、大きめの扉。
 規則正しい、機械的なようで自然でもある、何かが矢継ぎ早に弾けるような音が奥から聞こえている。
 間違いない。ここだ。
 ここはどこなのか? それは今は考えなくてもいいことだ。
 一度だけ唾を飲み込む。
 ……この先に、惠がいる。あの、苦しげに身体を丸めていた惠がいる。
 睨むように扉を見据える。
 弱気の虫が悲鳴を上げるのを叩き潰す。

 逃げるな!

 開く。
 光に目がくらむ中を早足で通り抜ける。
 現状把握が脳に届く前に、眼前に迫るガラスの引き戸に手をかける。
 そのまま、自分を追い込むように勢いづいてその先へ飛び込む。

「なっ……!?」
 この上ないほど驚いた惠の顔。
 たちこめる湯気。
 明るいグレーのタイルに肌の色。流れ続ける水の音にどぎつい赤。
「……!」
 そこで、僕は立ち尽くす。
 得てきた知識と全く繋がらない光景。

 露わになった白い肌。詰襟姿からは想像できない、柔らかなまろみを帯びた肩。顔同様にすらりとした身体つきは、一瞬として直線のない緩やかなカーブを描く。控えめな、でも柔らかそうなふくらみの下に、ほんの少しだけ肋骨のラインが見える。
 そんな、人形を思わせる整った身体にはあまりに似つかわしくない、生命の悲鳴。
 本能を恐怖に駆り立てずにはいられない、真っ赤な……流血。

 あろうことか。
 惠は、今なお血を吐き出し続ける脇腹の傷に、シャワーを当てようとしていた――

「と、智……どうして……!?」
 素人目に見たってわかる大ケガ。湯気のおかげで見えにくいのがありがたいぐらい深々と刻まれた傷。切り傷のように細いものではなく、穿たれたような太さ。排水溝に渦を巻いて血が流れ込んでいく。注ぎすぎた飲み物がコップからこぼれるような、緩やかで止まらない勢い。縫合してもらわなかったらどうなるかわからない、わかりたくない。
 痛みだって相当のはずだ。その場で倒れても不思議じゃないのに――
「に、やって……!」
 喉が閉じる。反響音に似た衝撃で首から上がオーバーヒートを起こす。聞きたかったことも対応も相手への配慮も全部吹き飛んで、ただただ、歯がゆさで涙腺が詰まる。
 血液がじんじんする。肺がビリビリする。行き場のない激情が内側でとぐろを巻く。握りしめたこぶしの中、爪の感触でようやく手の存在を確かめる。きっと震えてる。マイナス感情がごった煮になって沸きたち、歯を食いしばる。
 射すくめられたように、その場から動かない惠。シャワーが所在なさげに出続け、水滴が白い肌に飛ぶ。
 目を見張るその顔に、いつもの取繕いはまったくない。
「で……なんで、こんなときに」
 僕に対してではなく、自分に、いや、運命に対する問いかけ。
「……そんな、だって大丈夫だ、って、言って……智、だけは」
 開きっぱなしの口が、わずかばかり、欠片のような言葉を落とす。
「……け、は……智に、だけは……って……だから……?」
 みるみる内に表情が崩れていく。恐怖か、絶望か、痛みか、それとも別の何かなのか、顔をくしゃくしゃにする。
 お互いに動けない、その間にも血はどんどん流れていく。排水溝の周りを赤い水が取り囲む。惠の顔色がどんどん悪くなっていく。
 ……まずい、まずいよ……!
 嗚咽と、大量の血を見たことによる嘔吐感が喉にこみあげてくる。
 感情が像を結ばず、散り散りで暴れる。五感は五感でこの異常に対応しきれずにいる。
 のっぴきならないと確信しながらも、石にされたように、頭が働かない。全身に力を入れることで精いっぱいで、次のことが考えられない。
「あ――……」
 惠が揺らぎ、おでこを押さえた。血が足りなくなってきたのか。
 その姿で、ようやくスイッチが入る。
 九割以上が凍結した頭を無理やり動かし、ドアを掴んで身を乗り出す。
「早く、病院行こう、早く!」
 細かいことは後だ。今日は佐知子さんがいない。僕が動かなきゃ、助けなきゃ!
「……」
 けれど、この期に至ってなお、惠は首を横に振った。
「どうして!? このままじゃ危ないよ!」
 やせ我慢の域はとっくの昔に超えている、なりふりかまっている場合じゃないのに!
「……も、智、平気、だから」
 顔を歪め、まったく説得力のない言葉を繰り返す惠。苛立ちが増す。
「平気じゃないよ! 惠! ねえ!」
「……っ、あ」
 さらに身体が傾いだ。両手をタイルにつき、苦しげに息を吐き―― それでも僕の助けを拒む。
「惠! 我慢しないで! 一緒に来て! 僕がついていくから!」
「……と、も」
 湿った浴室で、かすれる声で僕を呼ぶ惠。
「……せめて、目を、目を閉じて……!」
 追い詰められる中での必死の訴え。だけど、そんなの受け入れられるはずもない。
「行こう、早く、今から治療すれば間に合うから!」
「……ねが、見、見るな……っ!」
 一段と苦渋に満ちた表情。
 いよいよ我慢できず、一歩を踏み出そうとしたその時――
「……め……見な、いで……!」
 ぐっ、と。
 惠が視線を下げる。
 さっきまで抜いていた身体の力を入れる。
「――――っう……!」

 一瞬だけ。
 本当に一瞬だけ、あらゆる音が消えた。
 惠が行った『何か』によって、世界が一瞬震えたような――

「え……?」
 目を見開く。零れそうなほど大きく。
 傷が……変化した。
 テレビで良く見る倍速映像のように、走るようにして赤が縮む。白い肌が傷口を覆っていく。
 起こっていることが信じられない。いきなり夢に放り込まれたみたいだ。でも現実。確かに目の前で――
「……っ、は……」
 光に包まれるとか、そんな大層な演出はない。ヘンテコな呪文を唱えるとかそういうこともない。さも当然のように、傷に異変が起こる。
 あるがままに、備わった機能を発揮し続ける惠の身体。
 過程は滞りなく、完了までにものの十分もかからない。
 そして。
 何の不思議もないかのように―― 不思議以外のなにものでもない現象が起きた。
「うそ……」
 一部始終を見届けた僕の頭の中は、得た情報で大混乱だ。
 たった今、確かに見たものが信じられない。
「傷、が」
 さっき惠を苦しめたはずの大怪我は、それを見た僕の記憶違いを疑わせるほど……きれいさっぱり、消えてしまった。
 呆然とする。
 手品とかトリックとか、そんな生易しい解説じゃ到底追いつかない。奇跡すら生ぬるい、フィクションでしかありえないはずの、人智を、常識を飛び越えた、『魔法』と呼ぶのがふさわしいほどの、突き抜けた異変。
「……ふぅ……」
 治療が終わったのか、惠が息を整えている。先ほどまでの窮地が嘘のように、頬に赤みが差していく。
 ……回復してる。単純に塞いだとかではなく、文字通りの意味で、回復してる。
 ……これが。
「これが……君の能力……」
 あらゆる医療を凌駕する、治癒の力――
 そんな能力が、現実にあるなんて……。
「めぐ」
「……最近、抗争が激しくなっていてね。表向きは平和だけど、路地裏では毎晩のように衝突が起きている」
 僕の呼びかけをさえぎり、惠はいきなり語りだす。話題をそらしたいのが丸わかりだ。早口になってるし、表情には全くと言っていいほど余裕がない。
 瞳が、眉が、頬が、隠し切れない負の感情に歪められている。
 演技ではない素の顔……その中でも、とびきり本心に近い、作ろうとしても作れない困り顔。
「もともとはある団員の不始末に端を発しているらしいけど……まあ、争いを望む者にとって、理由などどうでもいいからね。隠蔽より、便乗して潰しあうことを選んだらしい」
 目は、口ほどにモノを言う。
 惠の瞳は、わざとらしい淡々さを押し出す言葉とは裏腹の、千々に乱れた心を映す。
「潰すための群れに容赦はない。パニックと紙一重だよ。身の危険すら隅に置き、振るえる暴力だけを追い求めるんだ」
 今語ってくれているのは、おそらく怪我をした理由。煙に巻くための饒舌さではなく、客観視点を取ることで事実を羅列する。
「裏社会では、ためらうことなく力を振るうか、逃亡のタイミングを正確に読める者が生き残る。大抵は前者……いや、前者を気取ったまがいものかな」
 耳に与えられるのは、重要な情報だ。惠が何をしていたかの手がかりになる。
 ……でも、それは後で聞けばいいことだ。
 今、僕が聞きたいのは、言いたいのは――
「危険区域に侵入するにはそれなりの準備が必要だ。『それなり』の範囲を読み違えると手痛い目に合う。君も覚えておくといい」
 痕がつきそうなほど胸を締め付ける、惠の痛々しいまなざし。口は動いて声は出ているけれど、並べられる台詞に中身はない。語っていなければ崩れてしまう、からっぽの説明はそんな切迫感に満ちている。
 過酷な判決を言い渡される被告にも似た、破滅を待ち構える表情。全てが手遅れだ、もう既に終わってしまった―― そんな投げやりささえ見え隠れする。
 僕を見上げて次々と語る。語り続ける。怯えが声帯を震わせる。
「……泣きそうだよ、惠」
 その姿があまりに痛々しくて―― 思わず横やりを入れてしまう。
「……」
 とめどない言葉が止まった。
「……さっきは騒いでごめん。余計なことしちゃった」
「……見たんだね?」
「うん」
「……そう」
 力なく目を伏せる惠。
 能力を使えば治るからか、彼女は怪我のことなんかどうでもいいみたいだ。
 その代わり、僕がここにいることに、能力を知られたことに、苦しんでいる……そんな気がする。
 アイコンタクト、なんて高度な真似はまだできない。何を掬えばいいのか、惠が何を望んでいるのか――
「……気持ち悪いだろう?」
「え?」
 零れたのは、意外な質問。
「『傷が治る』。古来から、様々な物語で扱われてきた能力だ。人々の本来的な欲求に近いものなんだろうね。歴史の中で生命の限界をこれでもかと叩き込まれた人間は、お伽噺の中で自然の摂理に逆らうようになった。紙とインクで夢を見て、ままならぬ現実にせめてもの抵抗をするんだ」
「……」
「けれど、人間は賢く、ものわかりがいい。夢と現実は完全に区分けされている。現実を受け入れ、夢と決めた能力に嫌悪を抱く」
「……惠……」
「……蝕むのは、呪いだけとは限らないよ」
 言葉が切れた。
 飲み込んだのは禁忌か、舐め続けた辛酸の日々か。どっちにしたって、無益に心をえぐるだけ。
 ゆっくりと、惠は僕に背を向ける。
「判断は君に任せる」
 精一杯強がった声。完璧には程遠い、裏側の心が透けるお芝居。
 
 ……そっか。
 覚悟しているんだ。
 能力への恐れから、僕が離れていくことを。

 能力を持つがための孤独。
 人とは違う身体を持ってしまったがための、疎外感。
「違う」ことに対し、人はとても無遠慮だ。違いへの視線は嫉妬や恐怖と結びつき、濁り、その人そのものへの否定へと変貌してしまう。
 呪いを踏まずに生きるために、人を遠ざける僕たち。
 他人もまた、能力ゆえに僕らを遠ざける。
 触れあえない、触れ合うことすら忌避される、歩み寄りの余地のない人との間。
 染みついた過去は、逃れようとすればするほど魂を削る。
 さっき、ギリギリまで惠が能力を使わなかったのは、僕に見せたくなかったからだ。
 治るのを見た僕が怖がると、気味悪いと嫌がるに違いないと思っていたからだ。
 能力を見せることと縁の断絶が、彼女の中で繋がってしまっている。

 ……それなら。

 靴下に、水が染み込んでいく。
 僅かにぬくもりを残したシャワーの温水が、足の裏にぺたりと張り付く。
 見た目と心が遠くする距離は、歩き出せばたったの三歩。
 膝をつく。スカートが濡れる。別に構わない。
 寒さだけではない理由から震えている背中を、後ろから抱き締める。
「……惠」
「……」
「……触らせて」
 過去という袋小路から、惠が抜け出せないというなら。
 彼女が求めるものを、与えればいい。
 触れるという行為で、連れ出せばいい。
「気にしないとか口で言ったって胡散臭いだけでしょ? だから、触らせて」
「……怖く、ないの?」
「うん」
「見たのに? 切られても、銃弾を浴びても、杭を打たれても、刺し貫かれても……あんな風に」
「惠の身体だよ。僕が大好きな子の身体。特殊でも、そうでなくても、君の身体。だから触れたい」
 素直に、それだけを伝える。
 恐れるか、恐れないか―― そんなことを口先で言い合ったところで、心の中へは届かない。僕一人の言葉では、彼女の中に降り積もった暗い記憶に太刀打ちなんかできやしない。
 だから、戦わない。
 戦わないで―― 包み込む。受け入れる。
 おずおずと振り返った顔を捕まえて、唇を合わせる。触れ合う軽さではなく、繋がりたい、混ざりたいという意思のこもった深さ。
「……っ、ん、んぅぅっ」
 舌を入れられたことに戸惑ったか、惠が首を振ろうとする。後頭部に手を当て、離れないように押さえる。体温を舌で感じて、唾液を絡ませ合う。
 最初は微動だにしなかった惠の舌も、控えめに動き出す。
「ふ、んんっ、ん、んぅ」
 帰化熱で冷えていた惠の身体がどんどん熱を帯びてくる。後ろ向きだった姿勢を徐々に前向きにずらしてくる。
 触れたい。もっと触れたい。その身体の隅々まで触れて、感触を、彼女の全てを記憶に刻みたい。
 素肌に僅かに触れている指先が、吸いつく柔らかさに焦がれる。この感触が手のひら全体にいきわたると考えるだけで、理性が融けてしまいそうだ。
 一旦、唇を離す。惠の両眼はどこか呆けた、甘い色を宿し始めている。
「……いいの?」
 まだ不安だと、惠が問いかける。太く固く、木の幹のように育った恐怖は、今日明日でどうなるものでもない。
 その心の在り様ごと、僕は惠を受け入れる。
「それは僕が聞くことだよ。いただいちゃうんだし」
「……変態みたいな表現だね」
「変態で結構です」
「……あはは」
 笑ってくれた。
 力いっぱい抱きしめる。
 絆が、二人の身体に火をつける――