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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act7「指先の些細な激震」 


 雲ひとつない、吸い込まれそうな透明感のある空、機嫌よく輝く午前の陽。絶好のお洗濯日和とは佐知子の談だ。洗いたての布が詰まったカゴからは人工でありながら安らげる、石鹸の香りが漂ってくる。
「懐かしさにもそれぞれ程度があるけれど……ここはむしろ、新鮮な光景かもしれないな」
「お洗濯しなければ、ここにはまず来ないですよね。お屋敷内とはいえ、惠さんは普段ここに用はなかったですから」
「何分、この屋敷は広い。毎日隅から隅まで見て回るというのは、それなりに骨が折れるんじゃないかな」
「毎日お掃除すればそうでもないですよ」
「……家事というのは、かなりの重労働なんだね」
「いえ、慣れてしまえばそれほどでもないです。私はこういうことしかできませんし」
「こういうことこそ、大事なんじゃないかな」
「ふふっ。そう言っていただけると、私も教えがいがあります」
「お手柔らかに」
「もちろんです。といっても、お洗濯は難しいことは全然ないですけれど」
 料理に限らず家事全般ということで、まずは洗濯の干し方を教えてもらうことになった。洗濯物なんて適当にハンガーにかけて並べればいいのではと思っていたけれど、どうやら実際は違うらしい。『その発想から改めねばなりません』と指摘した浜江の顔はなかなか怖かった。家事全般を預かる身として、譲れないものが色々あるらしい。
 物干し場は、諸事情で森のようになっている庭とは反対側にある。適度に差し込む陽光で暖まった一角は、現在をふっと遠くに置けそうな、のどかな雰囲気が漂っている。
「では、早速干しましょう」
 佐知子はバスタオルを半分に折って手に持つ。両腕を振り下ろすと、真っ白なタオルが手を叩くような音を立てた。ぱん、ぱんと気持ちのいい効果音だ。
「干す前に、こうやって空気を含ませるんです。そうするとバスタオルがふんわり仕上がるんですよ」
「一手間かけるとその後が違う、というわけだね」
「はい。惠さんもやってみてください」
「どれ」
 佐知子のやり方を真似してみる。二つ折りのバスタオルの端と端を持ち、煽るようにして振る。さして難しいことはなさそうだけど――
 ふひゃ。
「あれ?」
 鳴らない。上手く空気抵抗を起こせなかったのか、バスタオルは所在なく風になびいただけだ。
「……?」
 何がいけないのか分からず、首を傾げる。
「そうですね、例えるなら、風を均一にまぶすイメージです」
「ええと……こう、かな?」
 佐知子のアドバイスを受けて、もう一度。
 ふひょ。
「……あれ……」
 また不発。バスタオルは自らが起こした風で翻り、脱力したように垂れ下がる。傍らで佐知子はリズミカルに音を立てていく。なんだか、手品を見せられてるような気分になる。
「腕を振り抜くと、風が逃げてしまうんですよね。勢いはつけつつ、手は腰のあたりで止めてみてください」
「ふむ……途中で止める、か」
 再度助言を受け、頭の中であれこれ動作をシミュレーションしてみる。もう一度。
 ぱんっ。
「鳴った」
 思わず佐知子の方を振り返る。
「良かった! ほら、比べてみてください。全然違いますよ」
 ひょいと、カゴに入っているタオルを差し出される。触り比べてみると、確かに違う。音を鳴らしたものは表面が膨らんだようになっていて、弾力がある。糸の柔らかさが直接指に伝わってくるのが心地良い。
「……本当だ。これが同じものなのか」
「はい。これをやるかやらないかでは、天と地の差です」
「……不思議は、こんな身近にもあるものなんだね」
 些細な生活の知恵だというのに、なぜだか無性に嬉しくなる。こんなことで頬が緩むのかと驚きつつも、笑顔になっている自分がいる。
「もう何枚かやってみますか?」
 こくんと頷き、また一枚。二回ほど失敗して、また音が鳴る。意外と難しく、連続しては成功しない。渋い顔でバスタオルを振り回す自分は、傍から見たら結構滑稽だろう。智が見たら笑うかもしれない。
 そういえば、智も洗濯を干す時に音を立てていた気がする。一人暮らしの長かった彼のこと、こういう豆知識も身についていたのか。
 ……一緒にいても、気づかなければ分からないことが、きっと山のようにあるんだろう。
「そのうち、コツがつかめるようになると思います。私も以前はなかなかうまくいきませんでしたから」
「何事も慣れが肝心、ということかな」
「そうなんだと思います。でも、惠さんならすぐにできるようになりますよ」
「それは僕を買いかぶり過ぎじゃないかな。素人が一定レベルに達するには時間がかかる」
「いいえ。惠さん、今とっても真剣ですから」
「……真剣、か」
 確かに、佐知子の言うとおりかもしれない。意識の方向を定めると、吸収効率は大幅に変わる。一朝一夕というわけにはいかないだろうが、片手間にやるよりは伸びやすいだろう。
 といっても、僕は今までそうやって真剣に何かをした経験に乏しいのだけど。
 経験があったとすれば……そう、得なければならないスキル、人の道を外れるための方法を手に入れんとするときだ。あれは失敗すれば命に関わるから、嫌が上にも全神経を集中させざるを得なかった。
 裏を返せば、それ以外に対して真剣になったことがない、ということだ。怠慢といえばそれまでだけど、むしろ僕はそうあるべきなんだという思いもある。
 日々を奪う咎を持つものが日々を重ねる術を知ろうとする……それは、身勝手の上にさらにわがままを重ねる行為といえなくもない。
 僕は、生きるという贅沢以外何も望まないように、得ないようにしてきた。自分にはそれがお似合いだと思ったから。今もその気持ちは僕の芯の一つだ。その芯に即して考えるなら、何かを学ぶことは過度の望みということになる。
 だが、今回身につくだろうものは、智の役にも立てられる。智のため、というのは多分に言い訳だけど、事実でもあり、大きな目的だ。智の存在を意識すると、今までとは違った道に踏み出せる気がする。
 ごちゃごちゃと思考に耽溺していたところで、得られるものはない。できるできない、するしないは全く別もので、かつ、前者がなければ後者は成り立たない。ならばせめて『できる』ようにはなっておきたい。二人で生きていくための手段を、少しでも集めたい。
 千里の道も一歩から。日常の家事仕事は、きっと大きな一歩だ。
 バスタオルが終わったら、今度は衣服。皺の伸ばし方をあれこれ聞き、試していく。
 不思議な充足感が湧いてくる。ちくりちくりと胸を刺す棘を意識しながらも、手も耳も止めず、日々の裏側にあったものを探っていく。
 佐知子は満面の笑みで、鼻歌まで歌っている。随分と機嫌がいい。もちろん理由あってのことだ。
「お洗濯をして、お掃除のことをお教えして……お昼の後は、お勉強ですよね」
「今日は、佐知子も一緒に学ぶんだったかな」
「はい、せっかくの機会ですから。うふふ、惠さんと一緒にお勉強できるなんて嬉しいです」
「浜江ほどの深い知識を分けてもらえるのは、とても光栄なことかもしれない」
「ええ。頑張りましょう、惠さん」
「たまには、こんな星の導きもあるんだろうね」
 そう、今日は料理は一休み。午後は佐知子と一緒に浜江の指導を受ける。
 浜江が出した今日の計画は洗濯、掃除――あと、僕と智ならではの、必須科目がひとつ。

「……はぇ?」
 おやつ時の少し前。部屋に入ってきた三人の雰囲気に、智が目を丸くする。
「やあ、智。傷の調子はどうだい?」
 昼食も部屋で食べていたのだから、やぁという呼びかけは少々おかしいけれど、切り替えのためにもあえて挨拶をする。それが違和感から直感に繋がったらしく、智は一瞬警戒した表情を見せた。
「えーと……三人お揃いでどうしたんでしょうか」
 嫌な予感がするのか、身構える。さすがは智、その予感は大体当たっている。
 別に取って食おうというわけじゃない。ただ、今日の朝からの経験的に、痛い思いをさせてしまう可能性がなきにしもあらず。身体は案外、イメージ通りには動かないものだ。
 不穏な気後れがある分、なるべく穏やかにことを進めようとする。
「大丈夫だよ、智。今日ならば大事には至らないと浜江のお墨付きだ」
「具体的内容聞く前から不吉な予感しかしないんですが!?」
 ……鋭い。いや、僕の言い方がまずかったのかな?
「心配は要らん。きちんと監督しておる」
 浜江がすかさずフォローを入れてくれる。も、智は余計に慌てる。
「監督ってそんな……あれ、浜江さんが監督?」
「知識はあくまで知識でしかない。実践を伴わなければ身にはつかん」
「……実践、って」
 智の視線が浜江の持っている救急箱に向く。言うまでもなく、消毒のお時間だ。……担当は浜江ではないけれど。
「さ、惠さま。手順は先程お教えしたとおりです。智さま、傷をお見せください」
 浜江は問答無用で行程を進める。
「……えーと、つまり?」
 冷や汗を浮かべつつ、浜江の顔色を伺う智。
 そんなに怖がらなくてもいいのに……無理か。
「今日から、智さんの傷のお手当は惠さんがするんですよ」
「え」
 一瞬の間が置かれる。後――
「え……っええぇぇ!?」
 確定した直近の未来に、智が全力で引く。至極当たり前の反応だろう。なにせ相手は僕、言い逃れのしようがない完全な素人だ。 
 昼食後、僕と佐知子は浜江に応急措置の心得をみっちり教え込まれた。みっちり、といっても、知識に体験を交えての話は興味深く分かりやすかったし、すっと頭に入ってきた。
 しかし――何度も言うけど、知識と実践は別。その実践をこれから、それも怪我してる当人相手にやるというのだから、相当に厳しい。
 もちろん、浜江も意地悪でそういうことを言い出したわけじゃない。
「今回に限らず、今後、智さまがお怪我をされた際は惠さまがお手当されることになります。練習するのなら、実際に処置を施す相手を選ぶのが最適でしょう」
 ということだ。それはつまり、
「それって要するに、僕は実験台ってことじゃ!?」
 ということでもある。
「実際に体験するのが上達の早道です」
 ……正論とは力があるゆえに、人を怯えさせるもの。反論の余地はなく、でも心理的抵抗は呼び起こす。
「さあ、智」
「……だ、だだだって惠、怪我の手当とかしたことないよね?」
「誰にでも、初めてがあるんじゃないかな」
「シャレにならないぃぃ!」
 ものすごく嫌がられている。……この反応は結構、胸に来る。
「暴れなければ、傷が開くことはないじゃろう。……惠さま次第ではあるが」
「どうしてそんな不吉なフラグ立てるんですか!?」
「この世に完全ということはない」
 浜江はどこまでも直球で、かつ、有無を言わせない。小さな身体からは威圧感すら感じられる。世話になっている負い目、年の功の説得力もあって、智もかなり押されている。
「ふぇ……いや、だっていくら、いくら縫合してあるからって……あうぅぅ」
 涙目だ。気分的には逃げ出したいのだろうけど、この状況下では手をばたばたさせるのが関の山。手詰まりに青ざめる姿はまるで小動物。
 ……困ったことに、縮こまる彼はどうにも可愛らしい。
「智……足を見せて」
 極力優しい笑みを作る。緊張しているのは僕も同じだ。浜江がついているから大事には至らないとわかってはいるけれど、流石に気楽というわけにはいかない。自分の怪我ですら並外れた回復力に頼りきりで、ロクに手当をしたことがない。どうしたって、緊張してしまう。
「惠……本当に、やるの?」
「いざとなったら浜江が助けてくれるだろう。君は安心して身をまかせるといい」
 自分自身に言い聞かせる意味も含め、口に出して確認。
 彼の前に膝をつき、視線を合わせる。
「……あう」
 どうしようもないと悟ったのか、智はひざまづいた僕を不安げに見下ろす。
「……そ、その……」
 ゆっくりと体全体で僕の方を向き、少しずつスカートをたくしあげていく。なんとも色気のある所作。
「……や、やさしく、してね……?」
 本人はその気はないだろう、誘うような言葉に、緊張とは違った意味で心臓が跳ねる。
「僕が、君にひどいことをすると思うのかい?」
「い、いや、わざとじゃなくても、その……はうぅ」
「痛かったら、言ってくれればいい」
「……言ったってやめないんでしょ?」
「善処はできるんじゃないかな? しかし、途中で止めるのは君のためにならない」
「そりゃ、そうなんだけど」
 相当に不安らしく、もごもごと口を動かす智。なんだか申し訳ない。
「……はい、どうぞ」
 包帯の巻かれた太股が視界に入ってきた。こんな風にまじまじと見つめるのは初めてだ。
「……」
 痛々しい白が巻かれた肌は透明感があって、それだけで見る者を惹きつける。立場的な色目を差し引いても、彼の日常の努力と持って生まれた美の融合には舌を巻く。包帯という痛々しさすら、どこか艷めいているから恐ろしい。
 神様というのは、なんとも皮肉なことをする。いや、あんな運命を背負う智へのせめてもの贈り物なのか。
「智は、どんなときでも可愛らしいんだね」
 思わず、そんなことを口にしていた。
 途端、智の顔に赤がさす。
「い、いきなり何をおっしゃるんですのん!?」
「本当のことじゃないのかな」
「う、嬉しくないよぅっ!」
 ますます顔が赤くなる。そんな反応をされると、ますます言いたくなるから不思議だ。
「でも、顔が赤いじゃないか」
「ここここれは、その、条件反射でっ」
「恥ずかしがることはないよ、智。いや、恥ずかしがる姿すら、君は魅力的だ」
「そんなぁ……そんな、こんな状況で口説かれてもっ」
「うおっほん!」
「あ」
 ……遊びすぎたか、浜江が大きく咳払いをした。
「惠さま。怪我人の手当は迅速が鉄則です」
 若干、普段より温度が下がっている気がする。脱線を戻すには効果てきめんだ。
「あ、ああ。では智、少しの間我慢していてくれるかい?」
「うぅ……わかった」
 脇道にそれたのを軌道修正。包帯を解き、傷口を空気に晒す。
「……」
 本能に働きかける紅い傷。
 昨日に比べたらよくなってきているものの、まだまだ時間がかかりそうなのは見てわかる。これで順調というのだから、なんとも複雑な気分だ。
「智……いくよ」
「う、うん……ひぅんっ!」
 救急箱から消毒薬を出して吹きかけると、智が身体をこわばらせる。
「痛い……かい?」
「だ、大丈夫……痛くないよ、だから、続きを早く」
 頷いて、ガーゼを傷口に軽く当て、サージカルテープで止める。次に新しい包帯を取り出し、巻き始める。強く締め付けすぎず、かつ、緩くはなく……加減がなかなか難しい。
「このぐらい……かな?」
「それでは外れてしまいます、惠さま」
「そ、そうなのか。じゃあ強めに」
「んきゅうっ! だめ、惠、きついっ」
「これではきついのか……ええと、もう少し緩めて」
「いたたたた、惠、傷口のガーゼが動いてるっ」
「っ、あ」
「……私、押さえておきましょうか?」
「その程度の動きなら傷は開かん。それに、惠さまが最後までやらねば意味が無い」
 ぎこちなさに佐知子がヘルプを申し出ようとしたものの、浜江に制止される。
「智……もう少しだから」
 なんとか手早く……思えば思うほど上手くいかない。智の肌が滑らかなこともあって、するすると包帯が滑り落ちてしまう。
「ううぅ……傷もだけど、ずっとこの格好は恥ずかしいよぅ……早く、早くしてぇ……」
「そ、そうだったね」
 なんだか色々と混乱してきた。
 衆人環視、と言うには大げさだけど、一挙手一投足を二人にしっかり見られている状態というのは存外に緊張するものらしい。さっきやり方を教わったときは上手くいったのに、全然駄目だ。僕以上に智は緊張しているんだろう、柔らかな肌が完全にこわばってしまっている。
「智さま、力を抜いてください。包帯が外れやすくなります」
「は、はぃぃ……」
「智、その……」
「いいよ、惠が頑張ってるのわかるから……」
「……優しいね、智は」
 小さく深呼吸をしながら、どうにかこうにか巻いていく。浜江が巻いたものと比べるとかなり不恰好で、余計な面積を取ってしまっている。見るからに素人丸出しだ。
「……ふむ、まあ最初はそのぐらいでしょう」
「お疲れ様です、惠さん」
 合格点には程遠くも、一応はOKが出た。とはいえ、自分でも到底満足できない仕上がりになってしまった。
 言うは易く行なうは難し。理論と実践は全くの別物。本日何度目かの、自分の能の無さを痛感する。
「はぁ……」
 智が安堵の溜息を漏らす。
「お二人とも、お疲れ様でした。それでは、おやつの準備をしてきますね」
「そうじゃの」
 手当が完了したのを見届けて、佐知子と浜江がさっと退室する。時計を見ると、部屋に入ってから二十分近くが経過している。浜江なら五分で終わるのに、なんとも情けない。
「……」
「惠、がんばった」
 何故か智に頭を撫でられる。そんなに落ち込んで見えたんだろうか。
「……随分と、迷惑をかけてしまったんじゃないかな」
「ちょっと痛かったけど……うん、でも大丈夫。少しずつ上手くなっていくはずだし」
「そうなれば良いけれど」
「でないと僕が困ります、大いに困ります」
「そうだね」
「んもぅ」
 両腕で引き寄せられる。立ち位置の関係で、智の膝に頭を乗せるような格好になる。
「……ありがとう、惠」
「礼を言われるには、あまりにも不足が多かったんじゃないか?」
「いいのいいの。やってくれたんだから」
 掛けられる声は染み入るように優しい。ごちゃごちゃと絡み合った感情が急に込み上げてくる。同時に重力がのしかかる。スタートラインのできないできないの積み重ねに、少しめげそうだ。
「……慣れないことというのは、それだけで体力を使うのかな」
 少し眠気を覚える。慌てて顔を上げて、ベッドに寄りかかるようにして座り直す。
 病気はともかくとして、体力そのものについてはそれなりに鍛えている。はずなのに、ずっしりと全身が重い。
「ハードにあれこれやったんでしょ。ちょっと疲れちゃったんじゃない?」
「それほどでもない……きっと」
「無理しないの。なんなら、おやつ食べたらお昼寝する?」
「健康的な生活かもしれないな」
「一緒のベッドで寝られないのが残念だけど」
「傷が開いたら浜江に大目玉だよ」
「……今日の痛かったの、怪我が治ったらいっぱいお返しするからね?」
「いつからそんな悪い子になったんだい、智」
「大丈夫、痛い思いはさせないから」
「……逆に危うくないかな、それは」
「お楽しみ、ということで」
 合図のように顎に触れられる。伸び上がるようにして、智のキスを受ける。
「惠、急に色々やる気になったよね」
「……変化とは災害のようなものかもしれない」
「また、随分規模が大きいなぁ」
「いつ来るか分からない、どうなるか分からない……そういう意味では、似ているんじゃないかな」
「未来も似たようなものだけどね」
「一寸先は闇、か」
「でもまあ、雨降って地固まるというか、人間万事塞翁が馬というか、ね。よかったんじゃない?」
 智の言葉にはっとする。
 ……確かに、今回屋敷に留まらなければ、僕は何も学ぼうとしなかっただろう。いや、そもそも、その必要性すら感じられずにいたはずだ。力不足を叩きつけられ、至らぬ自分を思い知らされたことが全てのきっかけだ。だからといってこの状況を喜べるわけではないけれど、意味がある、という言い方ならできないこともない……のだろうか?
「僕、嬉しいな」
「嬉しい……?」
「うん。惠がこうして、何かをしようとしてくれることが嬉しい。これならきっと」
「……きっと?」
 続く言葉がわからず、問いかける。
 智は少し逡巡した後、微笑みながら首を振る。
「……今は、まだいいや」
「……?」
「……まだ、秘密」
 優しいまなざしを見上げる。影を含みながらも光を宿す、穏やかな瞳。
 満足気でもある、その内に――何か、縋るような想いが見えた気がした。

 密度の濃さと体感速度は比例する。炊事、洗濯、掃除、言葉で表現すればたったの二文字だけど、含まれる経験に知識は果てしなく深く、それに触れるには結構な体力と精神力を要する。得られる諸々は技能を伴うものもあれば豆知識的なものもあったけれど、とりあえず片っ端から脳に詰め込んだ。といっても、浜江の監督のもとでは適当は許されない。それがまた緊張感を保ち、定着を促す。基本は付け焼刃、素人に毛が生えた程度だけれど、初心者にありがちな取捨選択のミスは避けられたのだと思う。刺激に満ち溢れた時間を過ごすと眠りも深く、夜を渡っているのが嘘のように早寝早起きの日々が繰り返された。
 そんなこんなで。
 気がつけば、あっという間に帰宅の日が暮れていく。
 人目を避けるために移動は夜、最終電車に決めた。というわけで、四人がかりで最後の晩餐の準備をする。
「浜江さーん、そろそろハーブ入れても大丈夫ですか?」
「ふむ、よかろう」
「裏ごし……は、これでいいのかな」
「惠さま、裏ごしが終わりましたらボウルをこちらへ」
「サラダの盛り付けは、こんな感じでいいですか?」
「ふむ、彩りが今ひとつじゃの。生ハムが冷蔵庫にあるから使うとええ」
「はい」
「こうやって、みんなで料理するのっていいですね」
「惠さまと佐知子はまだまだひよっこじゃが、手伝えるぐらいまでにはなったからの」
「ふふっ、浜江さんのハードルは高いですから。惠さんも一人で何か作れるんじゃないでしょうか」
「可能性はあるのかもしれないね」
 結局、僕は料理の基礎を学ぶだけで終わった。実際の食事の手伝いすら、これが最初で最後だ。つまり、結果的には一品も作っていない。流石は浜江、見事な徹底ぶりだ。ただ、一応のラインには立てているらしく、後は智に聞いて作ってもいいという許可はもらえた。一安心、といったところか。
 智も、動けるようになってからは能力調べそっちのけで料理の特訓に勤しんだ。僕があれこれ動き回っていたこともあって、じっとしてるのが嫌になったらしい。能力調べについては元々あまり期待できなかったから、これで良かったんだろう。
 四人で作っただけあって、食卓にはいつもよりも多い種類の料理が並んだ。料理名がわからないものもいくつもある。そういえば、智が部屋で作ってくれる料理も名前がわからないものが多かった。今度料理本というものを紐解いてみることにしよう。
 今日は特別だからと、浜江も佐知子も一緒にテーブルを囲んでもらった。浜江はいい顔はしなかったものの、無理に断るのも悪いと思ったのか、最後は了承してくれた。
「いっただっきまーす」
 智の元気な声が響く。
「ん、美味しい」
「まあまあじゃの」
「不思議だね、手がかかっていると意識するだけで、料理の味わいは何倍にもなる」
「自分で作ったと思うと、また格別ですよね」
「食べてもらえるのも嬉しいですけど、一緒に作って食べるっていうのは、さらに嬉しいっていうか……幸せな感じ」
「智がそう思ってくれるのなら、やったかいがあった、そう思わないかい? 佐知子」
「ええ。私ももっと浜江さんに教わりたいと思います」
「佐知子は癖を直さんとな」
 和気あいあいと、会話を挟みながら食事がすすむ。
 一口一口、味覚以上に心を満たす味わいを堪能する。
 総指揮は浜江がとったけれど、合作だからかいつもと少し違う印象を受ける。腕前の差が出ているのだろうか? それはそれで、魅力的なハーモニーだ。
 時間は刻一刻と経っていき、別れの足音が近づいてくる。
「それにしても……ふふっ。惠さん、この一週間は花嫁修行してるみたいでしたね」
「ぶっ!?」
「は、花嫁!?」
 智と二人で思わず吹き出す。
「修行には一週間程度では到底足りん。最低半年はみっちりしごかんと」
 微妙にポイントがずれたような、そうでもないような浜江のツッコミが入る。
「……一週間で良かった、そう思ってもいいのかな」
「い、いいんじゃないかな、かな……あ、あはは」
 二重の意味で苦笑い。
 確かに、浜江の本気が半年続いたら見事な良妻賢母ができあがるだろうけれど……その過程は相当に険しいだろうことは想像に難くない。今回はいわばダイジェスト版、それでも結構厳しかった。加えて、僕に対して浜江は態度の面で手加減してくれている部分もある。他の子、例えば智が花嫁修業となったら……智ならなんとかなるか。男の子だけど。
「惠さん、色んなことができるようになったんじゃないでしょうか」
「そうですよね。僕もこれからは、少しぐらい彼女に家事を頼もうかなと思ってます」
「使わなければ腕は錆びつくからの。荒削りならなおさら、練習が肝要」
「……それで、智の負担は軽くなるかな?」
「うん、もちろん」
「指摘するところはしっかり指摘するように。智さま、頼みました」
「はい、頼まれました」
 智はぐっと拳を握る。結託……というか、通じ合うものがあったらしい。
「……お二人で歩むことを決められたのであれば、相応の生き方をせねばなりません。その役に立つことが、我々に残された使命と心得ております」
 浜江はしっかりと、力強い口調で言う。普段寡黙な彼女にしては珍しい。
 ……いや、普段あえて黙っていることを、今言っているのか。
「ここを去られた時は、あまりにも時間がなかった……今回とて不十分。しかし、詰められるだけは詰めました」
 じっと、まっすぐに僕の目を見つめる。そこにあるのは深い深い想い。
「智さまとの日々は、惠さまが拓くものでもあります。なれば、惠さまが今回得たものは、その手段となります」
「浜江」
「何も持たず、身に付けずに進めるほど、世は甘くはない。智さまだけがものを知っているという状況は、あまりに危うい。しかし、今の惠さまならば、対処もできましょう」
 ……今まであまり触れてこなかった、浜江の在り方。
 僕をずっと見守っていてくれた彼女。佐知子に比べて感情を表に出さないから分かりにくいけれど、彼女も僕に対し、思うところは沢山あるだろう。そして、僕を生かすことを選んだ智に対しても。
 浜江はずっと、僕の生き様を見ていてくれた。治ることのない病の世話をし、生き汚く這いずり回る姿を黙って見つめてくれていた。僕が命を繋ぐ手段を表立って肯定することはなかったけれど、それに眉を顰めたりもしなかった。彼女はただ、受け入れ続けてくれた。
 だから、彼女は僕をとても良く知っている。生きることに執着しながら、それ以外に対する門戸を全て閉ざしていた僕を知っている。
 そんな彼女に、この一週間の僕はどう映ったのだろう?
「智さま」
 浜江は、今度は智に向き直る。
「惠さまは、確かに変わられた。智さまのお陰です」
 浜江に頭を下げられ、智は大慌てで手を振る。
「そそ、そんな、僕はお礼を言う側です! 浜江さんがそんな」
「いずれわかりましょう。今はただ、この老婆の感謝を受け取ってくだされ」
「……あ……は、はい……」
 浜江の真剣さに戸惑いながらも、智は頷く。
 ――それはまるで、通過儀礼。本来ならば数ヶ月前に通っていなければならなかった道。
 そして、永遠に通らなかったかもしれない道。
「……今日という日は、僕たちが探し求めていたものなのかもしれないね」
 誰に語りかけるでもなく、呟く。
 ……ここに来たことは間違いではなかったのだと、やっと信じられる気がした。

 月明かりの下を、智と二人で歩く。時間は遅いけれど、依頼の後ではない分足取りも軽い。
 最終電車は予想していたよりも随分混んでいて、智が狙われやしないかとヒヤヒヤした。ただ、僕ら同様帰路に着いている人々はみな一様にお疲れで、他人のことなど構っていられないと顔に書いてあった。若干、泥酔したサラリーマンが絡みたそうな視線を向けてきたけれど、さっさと駅を出てやり過ごした。
「意外に爽やかだね」
「今の季節ならば、夜の散歩も悪くないかもしれない」
「目的もなくふらふら、っていうのもいいよね」
 年中無休の街灯に照らされたアスファルトに伸びる二つの影。チャコールグレーに塗りつぶされても男女だと分かる形は現実の性別とは逆なのに、それがしっくり馴染んでいる。
 数ヶ月住んでいるはずだけど、屋敷に向かう道よりなんとなくよそよそしい道路を歩いていく。駅から現在の住処までは十分程度、繁華街とは方向が違うからヤクザ者などにも出くわさない。マンションは自分達含めていわくつきの連中が住んでいるけれど、そういう人は仕事でもなければお互いかかわり合おうとしないものだし、よっぽど気が立っていなければ不必要に目立つ真似もしない。ある意味、プロとアマチュアの差みたいなものだ。
 ……今の立場をプロと認めてしまうのは気分のいいものではないけれど、否定もし難い。そう認識されることで身を守っている節もあるのだし。
 最終手段をためらわないという前提は、抑止力として一定の効果がある。見境があるかないかなんて当人以外にはわからないし、喧嘩を売る相手は選ぶものだ。裏社会には裏社会なりの常識が存在し、それを守るか、守れるかで立ち位置が決まる。誰も強制はしない代わり、結果は自己責任、というわけだ。
「あ、見えてきた」
「ああ」
 人間らしい一週間を経て、戻ってきたのは怪物の住処。
 相変わらず味も素っ気もない外観、入り口の白熱灯がせめてもの温かみを添えている。比較対象となる屋敷が趣がある分、こちらはどうしても無機質さを感じずにはいられない。もちろん、このマンションには温かな家庭も住んでいるし、僕らのように誓い合った男女が仲を深め合ったりもしている。見た目はあくまで見た目でしかない。
 ……「帰ってきた」感がしないのは、屋敷での生活が長かったせいもあるだろう。それに、ここに長くいるつもりもない。思い入れが希薄なのは、悪いことではないだろう。
 とにもかくにも、僕たちはあるべきところへ歩を進める。
 今回、一気に複数の命を乗せることができたし、次の依頼までゆっくりしているのもいい。家事ももう少し身につけたいし、智に教わりたいことがいくつもある。
 あと、治療中は寝床も別にしていた分、色々と。
 寂しさに似たものを紛らわすべく、あれこれ考えながら部屋の前までやってくる。
「さて、久方ぶりの――」
「――……」
 ……扉の前まで来て、露骨な異常に気づく。
「鍵、が……」
 塗装されていたはずの鍵部分、金属の色がむき出しになっている。
 そこに出っ張っていたはずの鍵穴は――ない。あるのはただ、部屋の中まで見えそうな大きな穴。
 鍵が、壊されている。
「――……!」
 ノブに手をかける。一気に全身に緊張を走らせ――勢い良く扉を開く。
 当然、中は真っ暗だ。気配がないことを確認し、電気をつける。
 広がったのは、まるで喜劇のような光景。二人して完全に硬直する。
「……嘘、でしょ……?」
 智の呟きは僕の心と一致する。
 一週間ぶりに戻ってきた、二人きりの場所。
 そこは既に、出る前の状態が思い出せないほどに荒らされた後だった。