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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 50 


 霧が濃い――
 離れに足を踏み入れるなり、そんな妙な感覚に襲われた。ほぼ密閉された空間に焚かれた香の強さが起こす錯覚だ。
 ここに来るたび感じる独特の雰囲気は、視覚以上に嗅覚、この香りによって作られている。視界はまぶたを閉じれば断ち切れるけど、鼻は環境の変化に対する対抗手段を持たない、そんなことをふと思う。
 なぜ、いつもこの香りなんだろう。姉さんの好みなんだろうか? それにしたって、いくら好きでも毎日焚いてたら飽きる。別の理由がある? 香りの理由……何かの療法?
 何度か体験したことなのに引っかかるのは、香りがいつもにも増して強いからだろう。異物に対し、反射的に身体が身構えている。
 そんな、あまり健全とは言えない場所のさらに奥、御簾の向こうにいる一人。
 呼びかける前に、しゃらりと音を立てて顔を出す。
「いらっしゃい、智」
 姉さんは突然の来訪にも関わらず、全く驚いていなかった。多分、来るのがわかっていたんだろう。それが姉さんと僕の能力だし。
「よく来てくれたわね、智……うふふふ、嬉しいわ……」
 僕に良く似た着物の女性。白塗りにすら近いまっ白な肌に讃えられるのはうっすらとした笑み。以前会った時と同じもの。
「……」
 その落ち着き払った様子に、逆に違和感を覚える。
 姉さんの表情には僕以外の要素、この屋敷に起きている緊急事態に対する動揺が微塵も感じられない。惠が瀕死になることをわかっていたのだとしても、あまりにも起伏が少なすぎる、気がする。例えあまり仲良くなくたって、同居人は同居人。少しは……なんて思うのは、僕のエゴだろうか。
 いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない。過去がどうあれ、これからを考えないと。ことは一刻を争うんだ。
「あ、あのね姉さん」
 切り出しかけたところで、姉さんが遮るように手招きをする。
「……うふふ、こちらへいらっしゃい、智」
「……あ、うん」
 引き寄せられるように、姉さんのところまで歩く。靴下越しの畳の感触が奇妙な心地よさを感じさせる。
 頭の隅っこには危険信号。能力を持たない僕に残された最後の自衛手段とばかりに、さっきからずっと警告を発し続けている。何に対してなのか、誰に対してなのか、疑問が浮かんでは消える。
 姉さんと二メートルぐらい離れたところで、一旦止まる。今日は内容が内容だけに、近づきすぎてもあまりよくないだろう。 茶道の体験授業ぐらいでしかやらない正座をすると、姉さんは一瞬怪訝な顔をした後、僕に合わせて居住まいを正した。 
「あなたが何故ここに来たのか……わかっているわ」
 視線が絡むなり、見透かすように話し出す。
 今まさに死にかけている一人への憐憫も不安も心配も滲ませることなく、ただ微笑み続ける姿は、どこか異常ですらある。
「大変だったでしょう……本当に、可哀そうに……」
「ううん、僕は大したことないよ。それよりも惠が」
「ええ。あのままなら、今晩が峠でしょうね……ふふふっ」
 声を出して笑う。
 ……楽しそう、だ。現実逃避でも、緩衝材でもなく、本心から笑っているみたい……。
 一瞬よぎってしまった感想に、背中を悪寒が走る。小さかった危険信号が大きくなる。
「大丈夫よ、智。あれがこんな程度で死ねるわけがないでしょう?」
「……」
 妙な言葉の選び方。引っかかる。
『死ぬ』――僕にとっては息が止まるほどに恐ろしい単語なのに、姉さんはもっと恐ろしいことを口にしている。
 ……貼りつけたのではない、心の底から湧き出した笑顔で。
『死ねるわけがない』。
 ……それは、まるで……
「ねえ、智」
「な、何?」
「余興は楽しめたかしら?」
「……え?」
「……うふふ」
 酷薄な、情のない笑み。奇麗なのに温度が感じられない、いや、むしろ体温を奪うかのような雰囲気。肌に張り付き気化熱で身体を冷やす、霧雨を思わせるぬるりとした表情。
「さぞ、邪魔だったでしょう? 身の程知らずの死に損ないに取りつかれて、余計なものを背負わされて……。本当に、可哀そうな智。でも、もうおしまい。あなたはもう、我慢しなくていいわ」
「……」
 何を言っているのか、わからない。
 姉さんの目は僕を見ているようで、どことなく虚ろだ。ボタンをかけ違えた危うい下地の上に開いた笑みは、僕が想定していたよりも妖しく美しく底知れず……そして、怖い。
「あなたも、そろそろ気づいているでしょう? あの愚か者に下った罰のことを」
「……罰……?」
「ええ、罰よ。智、あなたに手を出した罰。この世で一番尊いあなたを汚した人でなしへの報い。姉さんが、しっかり準備は整えておいたわ……泣き叫びやせ衰え喉をかきむしって地をはいずり回って踏み荒らされ、呪われ忌み嫌われ嘲笑われ、その果てにゴミのように死ぬ、この世界で最も、そう最も無様な死に方を用意してあげたわ。うふふふふふ……」
 言葉が、出ない。頭が、回らない。
 姉さんは楽しそうだ。今まで見た中で一番楽しそうだ。虚ろに思える瞳の奥底で煮えたぎる怨嗟が、歪んだ喜びを作りだす。
 楽しそうな表情と釣り合わない、醜悪な言葉が紡がれていく。
「智、あなたはまだ力をうまく使えない。だから私があなたの代わりにあれを壊してあげたの。仲間を奪って、ボロきれ同然だった日々を思い出させて、男どもの欲望のはけ口にしてやったのよ」
 さも当然のように、姉さんは言う。
 ……惠をあんな風にしたのは自分だと、歓喜に浸って謳う。
「あれを殺すのはとっても簡単よ、発作を起こしてやれば良いんだもの。試しに三日連続で発作を引き寄せたらあのザマ、うふふふふ、本当に口ほどにもないわ。こんなに簡単ならもっと早くと思ったけれど、いつでも殺せるなら、その前に潰してやらないとね? そんな簡単に死なせてやらないわ。智に手あかを付けたからには、それ相応の地獄を見てもらわなきゃ。あなたもそう思うでしょう? 智」
 到底頷けない同意を求められ、困惑を通りこえて思考が停止する。
 そんな僕の様子をどう捉えたのか……姉さんが少し身体を前に出す。
「……ねえ、智?」
 蛇のような声色。
「何……?」
「楽しかったでしょう? あれが破滅していく様が、憎まれ、蔑まれ、汚され、崩れ、己を保てなくなり、身も心も破滅していく様が、快感で快感でたまらなかったでしょう……? そうよね、そうに決まっているわ。だって、あなたは私……私が望んだ未来を、あなたが望まないはずがないもの」
 鳥肌が立ち、全身が震える。冷や汗で身体が収縮していく。
 息が詰まる。目が乾く。起きていることの裏側を、見てはならなかった、見なければならなかった運命の糸を目の当たりにし、脳が乾く。
 信じたくない――信じたくない!
 そんなのありえない。できるはずがない!
「どうして、そんなこと……!」
「だって、それが私たちの力だもの。私たちの力は、私たちの望んだ未来を引き寄せるのよ? 私とあなたが同じだからこそできること……私とあなたがあれの無様な死を、破滅を願えば、その通りになるの。私にはあらゆる可能性が見えるわ。その中から、あれが最も苦しむ道を選んであげただけ……だってそれが、智、あなたの幸せなんだから」
 姉さんに迷いはない。同情も、ためらいもない。
 言葉には力がこもり、意志が表出する。こらえていた感情が――恨みが、嫉妬が、牙を剥く。
『望んだ未来を引き寄せる』……姉さんが語る、僕たちの力の正体。
 心当たりはある。
 あの日、惠が襲われた日にるいを呼び寄せたのは僕だ。なぜかはわからないけれど、確信があった。見るだけしかできないならば、るいの乱入はありえなかった。描かれた未来図が変更されるはずがなかったんだ。
 きっと、あの日の僕は能力を使ったんだろう。だから最悪の事態は避けられた。決して良い結果ではなかったけれど、ギリギリで回避できた。
 ……逆を、言えば。
 あの日、惠が暴漢に襲われてしまった、あの未来が既に――
「ひとつだけ心残りなのは……あなたの目の前で犯されるあれを見せられなかったことね。せっかく身の程を知らせてやろうと思ったのに。畜生には畜生がお似合い、あれには能も思考もない、底辺の男どものはけ口で十分よ。智、あなたも残念だったでしょう? 泣き喚きながら男どもに凌辱されるあれが見られなくて、つまらなかったでしょう? ごめんなさいね、ちゃんと道筋は整えたのだけど……教えてあげるために能力を移動したりしたから、うまくいかなかったみたい。本当に残念だわ」
「……っ……!」
 憎しみとも悔恨ともつかない感情が湧きあがる。
 今、僕の目の前にいる人……姉さん、のはずの人。分かたれた双子の姉弟、半身のような存在。
 けれどその口から紡がれるのは、僕の意志とは全く違う、いや、真逆ですらある願い。
 膿のように零れ続ける惠への憎しみ。嫉妬と、そこから生まれたどす黒い欲望が形となり、運命の引き金を引き続ける。
 一体、どこからが姉さんの差し金だったのか。
 みんなと離れてから、一気に坂を転げ落ちた惠。大切に育てられ、ようやく芽吹いた心では背負いきれないほどの痛みを打ちこまれ、魂すら削られていった彼女。
 それが全て姉さんの仕業だというのなら、姉さんの手のひらで踊らされた結果だというなら――……。
「ただ、いくら私でも、可能性のない未来は引き寄せることはできないわ。あれが自らの破滅を望んでいたからこそ、私の能力も存分に発揮できた……ふふ、その点だけは褒めてあげてもいいわね。あれも内心喜んでいるんじゃないかしら? 願った通りに苦しみぬいて、絶望に溺れて死ねるのだから」
 姉さんが一歩踏み出す。僕は思わず身を引く。
 笑みがさらに深くなる。瞳は既に、奈落の深さ。
「これじゃ物足りないかしら? うふふ、そうよね。あれはまだ生きているものね……大丈夫よ智、この程度では終わらせないから」
「終わって……ない?」
「ええ。これから最後の仕上げが始まるの。あれにふさわしい、そして私たちの幸せな世界を作りだす道筋がね……」
 途端。
「――っ!?」
 いきなり、頭の中に未来図が描かれる。
 ……能力……!
「ね、さ……!?」
「うふふ、気になるでしょう? あれの末路が。見せてあげるわ、目を閉じて御覧なさい」
 頭痛が脳を揺らす。首を振るも、視界がどんどんぼやけてくる。手のはらを畳について触覚を支えにしようとしても、流れ込む未来図の勢いが五感を上回る。
 姉さんの思うつぼはイヤなのに、目を開けていられない。ぎりっと奥歯を噛んで抵抗しても無駄。頭の痛みに耐えきれず、まぶたを閉じてしまう。
 途端、本が開くように展開する未来図。
 ……惠の破滅を願う姉さんの作った、未来図。
「……まず、今晩」
 静かな、けれど浮足立った声が響く。姉さんのナビゲーション。
「惠は、佐知子を殺す」
 開く一枚目。血まみれで血に倒れる佐知子さんと、剣を手に呆然とする惠。
「そこで得た命は三日ともたない。次は、浜江」
 開く二枚目。血の海に沈む、正座をし身体を前に倒した浜江さん。俯瞰の構図で惠の顔は見えない。
 ただ、その姿にはもう……僕たちの知っている彼女の雰囲気はない。
「ここで惠は壊れる。元より生きるためならば手段を選ばない外道ではあったけれど、さらに輪をかけて鬼畜へと変貌する。生きる意味などとうにないくせに、ただ生にしがみつきたいだけで罪を犯し続ける、理のない化け物となる」
 淀みのない姉さんの声。耳から入っているはずなのに、脳にダイレクトに響いてくる。
「そして狙うのは……八つ星」
「!!」
 捲られる未来図。笑顔の仲間たち。かつては惠を受け入れ、共に笑いあったはずの女の子たち。
 それが――
「まずは、皆元るい。惠の行為を知り、つまらない正義感で立ち向かったところを返り討ち」
 弾丸のように駆けるるい。さらりとかわされ、カウンターで袈裟掛けに斬られる身体。悲鳴の一つすらなく、血しぶきとともに倒れ――
「っうぅぅ……!」
 耳を塞ぐ。止まらない。
「次に、鳴滝こより。やかましく叫びながら逃げたがために、後ろから喉を突かれる」
 目から光の消えた泣き顔で倒れ伏すこより。ツインテールは無様にアスファルトに散らばり、首からは赤が――
「尹央輝。彼女はそれなりに強いようだけれど……ふふ、既に血を吸いすぎた殺人鬼には敵わない」
 央輝の帽子。切り裂かれたコート。血だまりの中に転がるライターと、小さな身体。そこから伸びる、赤のまだらに染まった剣――
「……って、姉さん、やめてぇ……!」
「茅場茜子。覗いてしまった深淵に恐怖し、発狂に追い込まれたところを貫かれ、ビルの上から猫の群れに突き落とされる」
 茜子の回りに集まる猫たち。彼らは茜子に愛でられていたときとは明らかに違う輝きで、物言わぬ存在となった彼女を囲み――
「白鞘伊代。身を隠し、警察を頼ってことを収めようとしたところで見つかり、コードで首を絞められる」
 ディスプレイの冷たい白を浴びながら、キーボードに倒れこむ伊代。頭の重みで押されるキーが永遠に文字を続けていく。どこにも生の息吹のない閉鎖空間の中、誰に発見されることもないまま――
「花城花鶏は銃を手に入れ、あれの殺害を試みる。けれど当然無理。結局は銃を奪われ、殺すはずだった銃によって身体に穴を開けられる」
 虫の息になり、恐怖と憎しみと悔しさで歪む花鶏の顔。最後の一撃はそのおでこに向けて放たれる――
「うぐ……!」
 凄惨な光景に吐き気をもよおし、前かがみになって耐える。
 姉さんが渾身の力を込めて導いた絶望の連鎖。毒牙が向けられていたのは惠一人ではなく、僕の大事な仲間たち全て。
 失われていく。最悪の形で、僕の大事な人の手で、かけがえのない一人ひとりが消されていく。
「……そして得た命も、大して長く持ちはしない。発作と疲労で無様に命を消費し、最後のひとつとなったところで智の前に現れる」
 展開する図。僕と向き合う惠。彼女の目に光はない。血染めの姿で僕の前に立つ姿は、婉曲のしようがない、狂気の顔。
 けれどそれが穏やかさを思い出したようになり――微笑みに変わり、そして――
「そして、智……あなたの前で腹を裂いて自殺する」
 血。血。血。叫ぶ僕。制服を真っ赤に染めながら伸ばす手は、けれど生きている彼女に届くことはない。殺し方を心得ている彼女にとって、即死を狙うことなど造作もないこと。それが他人であっても、自分自身であっても同じこと――
 途切れる未来図。
 ……姉さんが決めた、僕たちの未来。
 これ、が。
 こんな、ただひたすらに絶望していくだけの未来が……僕たちの明日……?
「……っふふふ……ねえ、智。素晴らしいでしょう……?」
「……」
 畳に染みができる。僕の涙だ。
「せっかくだから、役に立ってもらいましょう……私たちにとって邪魔なものは潰し合えばいい。これで私とあなたを遮るものは何もなくなるわ……嬉しいでしょう? 智。こうして、二人だけの未来が手に入るのよ」
 囁く声は、内容のおぞましさとは対照的に優しい。今のが幸福だと、疑いなく、素直にそう信じてしまっている。
 ……僕が受け入れられる要素など何もないというのに。
「なんで……? 何で姉さん、こんな、こんなひどい未来……!」
 悲鳴のようにひきつった非難は、姉さんに笑顔で返される。
「あら、当然でしょう? だって、この世界に私とあなた以外は要らないもの。呪われし者など無用。あなたを知るものは私以外いなくていいわ。私たちは二人でひとつ。あなたは外の世界に放り出され、余計なものを背負わされてしまった……それらを全て振り落として、やっと私たちは幸せになれるのよ。違う?」
「……違うよ」
「……確かに、この方法だと、あれが生きている時間が長くなってしまうわね。でも、我慢して頂戴。多くの人間が絡むと、その分不確定要素が増えてしまうの。どうせ下衆だもの、あれにやらせる方が効率的なのよ」
「そうじゃない、そっちじゃない……」
「ああ、ごめんなさい、殺す順番は私が勝手に決めてしまったわね……いいわ、修正はできるから、智の殺したい順番を教えて」
「そっちじゃない! 姉さんやめてよ! これ以上、これ以上惠を、みんなを苦しめないで!」 
「大丈夫よ? あれは浜江を殺した段階で壊れて、痛みも何も感じなくなるもの。それに、八つ星は全員即死させることもできるわ。その程度は些細なことよ」
 話が全くかみ合わない。姉さんには、僕が何を望んでいるのかが全く分かっていない、いや、わかる気もない。
 ……ここまで歪んでしまっていた姉さん。姉さんの目には、惠だけでなく、僕を取り巻く全てが生かしておけないほどの苛烈な憎しみの対象だ。
 姉さんは確かに、僕を大事に思ってくれているのだろう。その気持ちそのものは、真っ直ぐで曇りのないもの。
 ……まっすぐに、曇りなく……間違ってしまっている。
 ずっとここにいて、未来を導き続けてきた姉さん。僕と出会うことを夢見て、僕と一緒に暮らせることを心の支えにしてきた姉さん。
 ……だから、なのか。
 だから、僕が惠を選んだことが、惠が僕と結ばれたことが許せなかったのか。
 顔を上げ、姉さんを見る。虚ろな瞳は僕を包むような愛情に満ち溢れている、それはわかる。
 でも……その愛情は、僕にとっては……。
「うふふふ、智……こんなに長くなってごめんなさいね? あれも強情だから、しっかり準備しないと折れなかったの。でも、やっと機会が訪れたわ。これからが本番、私からあなたを奪った分、あれには私たちの下僕として、存分に活躍してもらいましょう」
「違う……惠は、姉さんの下僕なんかじゃない……」
「あら、そんなことはないわよ? 発作ひとつで死ぬヤワな命、一人では殺しだっておいそれとはできないわ。私が後処理をしてあげなければとっくに破滅しているのよ? 私の能力なしでは明日をも知れない愚か者、これが下僕でなくて一体何なのかしら」
「たとえ、惠が姉さんの力を借りていたとしても、こんなの間違ってる。僕は誰にも死んでほしくない、惠はもちろん、同盟の皆だって死んでほしくないんだ」
「どうして? あなたと私以外、必要な人間などいないでしょう?」
「それが違うんだよ、姉さん。姉さんがそう思ってたって、僕はそう思わないんだ」
「……」
 姉さんが目を細め、静かに立ちあがる。
 危険を感じ、立とうとして――
「……あ……?」
 くらり、と視界が揺れる。
 正座していたせいで足がしびれて動かない、加えて頭がぼうっとする。立ちあがれず、しりもちをつく。手に力が入らない。そういえば、足がしびれてるのに、感覚が遠い……これは一体……?
「……あなたの心は、随分と汚されてしまっているのね……」
 ことん、と姉さんが何かを手に持つ。
 ――香炉。
 歩み寄ってくる。慌てて逃げ出そうとするも、はいずることさえままならない。
「このお香をたっぷり吸えば、あなたに溜まった穢れも消えるわ……仲間などという老廃物は捨ててしまいなさい」
 頭の端にあった危険信号がエマージェンシーコールになる。
 ヤバい。
 姉さんは本気だ。瞳に宿る狂気は全身の血液が震えあがるほどに深く黒く、それでいて、悪意と呼ぶには純粋すぎる。
「うふふ……智。このお香は素晴らしいわよ……? お父様がくださったものなの。これを吸えば痛みも感じなくなるし、眠くもならないわ。余計なものを脱ぎ棄てて、生のままに、あなたのままに生きられるのよ……私と同じ心を持てるようになるの……うふふふふ……」
「……め、やめて、姉さん」
「智が来る前にたっぷり焚いておいたから十分かと思ったけれど……うふふふ、多い方がいいわよね……ああ、どうして最初からこうしなかったのかしら」
 ……そうなのか。入った時に霧ほどに香が強いと思ったのは、姉さんが……。
 合点が行ったところで、身体が自由にならないんじゃ意味がない。見せつけられた未来図の残酷さも消えていない、気持ちが悪い。
「大丈夫よ、智……しばらくここから出なければ、全部勝手に終わるから……あなたはここで私とひとつになっていればいいの」
 首を振る。
 姉さんの導く、みんなが死ぬ未来――そんなの認められるわけがない。
 駒はとっくに進められている。姉さんの呪いにも似た運命の選択は、成就の時を今か今かと待っている。
 思い出すのは、瀕死の状態でベッドに横たわる惠と、思いつめた佐知子さんの顔。
『惠さんに、私の命を』
 最後の仕上げまで、あと数時間しかない。ここで姉さんを止めなければ、佐知子さんを、惠を止めなければ、今度こそ取り返しがつかなくなる。
 だというのに、肝心なところで手が出せない僕。
 ……いつもこうだ。あと一歩なのに、その一歩が遠すぎて、踏み出す力が持てなくて、運命の歯車を見ているだけ。
 悪意とすら分類できない歪な愛情、絶望とジレンマが作った鋼の意志によって動きつづける歯車。
 姉さんと、惠。考えていることは全く違っているのに、惠の破滅という絶望は織りなされた。
 同盟メンバーの死という最悪の結末に向けて、絶望はあらゆる希望を飲みこんで膨れ上がっていく。
 ダメだ。
 ……ダメだ!!
「っく……!」
 ずるずると畳でスカートをけば立たせながら、離れの障子に向けて進む。
 ……まずは、この香りをどうにかしないと。短時間でこれだけの効果がある香り、身体に悪影響がないわけがない。いや、ひょっとしたら、今の姉さんの精神状態が、この香りによってもたらされているのかもしれない。だったら外の空気を入れて少しでも緩和させて……
「智」
「っ……!」
 姉さんが背中に触れる。
「ほら、こっちを向きなさい? あなたも、私のところへいらっしゃい……うふふふふ……」
 姉さんが僕の隣に膝をつく。香炉が目の前につきだされる。
 思わず鼻をつまむものの、そんなことで遮れるはずがない。
 流れ込む香りは脳を刺激し、ぐらぐらと揺らす。嘔吐しそうなのに、正当な反応を封じ込められたのか、荒い息が出るばかり。力はどんどん抜け、神経が麻痺していく。理性だけは手放すまいとするものの、無駄な抵抗な予感が漂う。
「……め、ね、さ……だめ……」
「あれはここには来ない……既に動くことすらままならないんですもの、ね……? いいのよ智、あんな死に損ないのことなど、真っ先に忘れてしまいなさい……。役目を果たしたあれに『お前なんか知らない』と言い放ってやりなさい……うふふふふ、楽しみだわ……あれが腹を切り裂く時どんな顔をするのか……うふふ、うふふふふ……」
「……め、だめ……めぐ……」
「名前を呼ぶのはやめなさい、智。あんなものの名前を口にしては駄目。あなたの息をこれ以上穢したくないわ」
「……って、だって……いやだ、よ……ねえ、さ……」
 呂律が回らなくなる。ねじれ歪んだ視界は既に自分の居場所を把握できないほどだ。姉さんがのしかかってるわけでもない、動こうと思えば動けるはずなのに、指示系統が破壊されたように手も足も停止している。それでいて香りはダイレクトに身体に染み込んでいき、意志を溶かそうとする。
 ねばついた弱音が僕に絡みつく。
 変わらないのなら、逆らえないのなら、無駄ならば――もう、姉さんに全部任せてしまってもいいんじゃないか――戦慄の結果が待ち受けていたとしても、それは僕のせいじゃない――ただ見ているだけの傍観者に、責任も罪もない――……
「うふふふ、智……良い目ね……」
「ねえ、さ……」
「さあ、姉さんに全て任せて……? あなたのその身体を全て、私に捧げて頂戴……」
 甘美な囁き。
 ……もう、いいじゃないか。僕は十分に頑張った。それで届かなかったんだから、もう仕方がない。あがいてもいいことなんかないんだ、みんなが――みんなが悪い、みんなが惠を見捨てたのが悪い、惠があんなことするのが悪い、僕は、僕は何も――
 両手で顔を支えられる。
「智……うふふふふ、これでやっと、私だけのものに……」
 ……ああ、ダメだ……ダメなのに、もう、僕は……
「……」
 姉さんの吐息が、僕の唇に吸いこまれそうになり――

 次の瞬間。
 何かが斬られる鈍い音。
 続いて――障子が一枚、折れる木のやかましさと共に破られた。

「――!?」
 吹き込んでくる外の風。八割がた崩れていた意志が復活する。
 同時に戻り始めた力を振り絞り、姉さんを振り払って走り出そうとする。とはいえ、あくまでもずるりと這える程度だ。それでも、ぴくりともしなかった身体は僕の指揮下に返りはじめる。
 視界はまだぐらついている、けれど色の違い程度はわかる。開いた空に救いを求めるようにして、身をよじりながら移動する。
 その先にいるのは――
「智さん! 大丈夫ですか!」
「……さちこ、さん……?」
「はい、私です、佐知子です。良かった、私がわかるんですね……!」
 ぼやぼやと瞳に映る、緑色の髪。間違いない、佐知子さんだ。
 その髪の回りには、折れて棘だらけになった障子と破けた障子紙。
 ……どうやら、体当たりで破ったらしい。ものすごい思いきりの良さだ。
「……な……な……」
 意外な乱入者に、その場に硬直していたらしい姉さんがわなわなと震えた声を出す。
「なぜ、ここに……どこまでも私の邪魔を……!」
「……」
 佐知子さんが姉さんを見上げる。言葉は返さない。
 外に近づいたからか、辺りがどんどんクリアになってくる。周囲の状況をなんとか把握しようとして――
「……え……」
 佐知子さんの上で視線が止まる。佐知子さんの背中の上、覆いかぶさるようにあと一人。
「……惠……ッ……!」
 姉さんの、地獄から絞り出すような声。かけた相手は、自力では絶対にここに来られないはずの惠。
「……っは、は、あ……はぁっ」
 佐知子さんの背中にしがみついている惠。
 そこでようやく、佐知子さんが惠をおぶっていたのだということに気づく。
「惠さんが……智さんが食堂にいらっしゃらないと聞いて、ここに来ているはずだ、と……どうしても、連れて行ってほしいと……」
「智が、黙ってこの屋敷を出るはずが、ない……とすれば、行くところは、ひとつ、だろう……」
 滑り落ちるようにして佐知子さんの背中から離れる惠。けれど立ちあがることはままならず、上半身を畳に乗せるようにして身体を支える。顔を上げれば青白く、表情はお世辞にも良いとは言えない。
 佐知子さんは離れに入り、惠の上半身を持ち上げるようにして中へと入れる。大した段差ではないけれど、惠はそこを登ることすら難しい状態なんだろう。
 その様子をひたすら睨みつけている姉さん。
 僕を挟んで、二つの激情が向かい合う。
「……真、耶……」
 口を開いたのは、惠の方が先。たどたどしく、とぎれとぎれの息をつきながら語りかける。
「……君に、頼みが、ある」
「……今更命乞いでもする気かしら」
「……手遅れか、どうかは……当人が一番よくわかる、さ……それより……っ」
 咳き込むと共に、血しぶき。
「それより、君に……」
「目ざわりよ。あなたがここに来るだけで空気が乱されるというのに、そんな無様な姿を晒して、挙句私と智の世界を邪魔するなんて……本当、腹の立つゲテモノね」
 害虫でも見るような、蔑みに蔑んだ目で惠を見下す姉さん。その瞳には欠片も情がない……いいや、こんな状況の人にかけられるものとはおよそ真逆の感情に満ちている。
 ……こんなにも。
 僕の大事な二人は、こんなにも深い断絶の中にいるのか。
「わかっているのでしょうね? 惠。あなたが智を狂わせたのよ、私の智を、私だけの智を汚したのよ……あなたなんてつまらない存在では到底贖いきれない大罪を犯したのよ。そんなクズの言うことを私が聞くとでも?」
「……僕じゃ、ない……智の、ことだ……」
「智は私のものよ。あなたに口を出す権利などない」
「……それは、違う……」
「違う? 私と智は一心同体、同じ身体と同じ心が一時的に分かれただけよ。二人が寄り添いあう以外に智の幸せなどないし、邪魔をするものに死以外の選択肢など存在しないわ。あなたもそう、同盟なんて仮初の集いもそう。智は外にいすぎたんだわ、余計なものばかりひきつれて……だから全て引きはがして、私だけのものに還るのよ。智だってそれを望んでいるもの」
「違う……智は、誰か一人のものなんかじゃない……!」
 かすれた声を呼吸に混ぜて、惠が姉さんに語りかける。届かないことを知りながら、それでも伝えなければと残された命を言葉に変える。
「みんなが、智を、待ってる……智は、みんなを繋いだ。同盟の……みんなの支えだ……誰かが独占していいわけが、ない……。間違いは、きっとあった。ここは破たんした者たちの場所……智の、居場所じゃない。智は、みんなのところに帰るべきなんだ……この屋敷なんかじゃ、なくて……同盟が集う場所に、その真ん中に、いつも、いつまでもいるべき、なんだよ……僕でも、君でもない、ところへ」
「ふざけないで!」
 遮る声。姉さんその場からあえて動かず、眉を吊り上げる。
「ずっと待っていた……私はずっと智を待っていたのよ、ここで……! たった一人で、智を求め続けていたのよ! それを知りながら智を奪ったのは誰!? 智を罠に絡めたのは誰!? あなたが全て悪いのよ、惠。あなたが智に出会ったことが……いいえ、あなたが私の元に現れたことが、生まれてきたことが全て悪いのよ! あなたが関わったもの全て、あなたが言葉を交わしたもの全て、あなたが生きていた形跡こそ、この世界から消え去るべきよ! あなたに生きる権利などない、生きていること自体が許されないのよ! あなたさえ、あなたさえいなければ、智は……!」
 姉さんの目が憤怒に燃える。
「生ぬるいわ、仲間を失い過去に苦しみ血を吐き男どものはけ口にされる、そんな程度じゃ生ぬるいのよ! 智に手を出した報いはどんな形でも追いつかない、あなたが何回、何万回死のうと釣り合わない! 八つ星を全滅させてもまだ足りないわ、もっともっと、そうよ、全ての人間に呪われればいい、蔑まれればいい、ゲスと、外道と踏みつぶされればいい! あなたには泥まみれの絶望がお似合いよ、果てしない哄笑の中、億の人間に死を望まれ喜ばれる、文字通りのクズとして死なせてやるわ!」
「――姉さんっ!!」
 まだふらつく足で立ちあがり、二人の間に割って入る。
 ……姉さんから惠を守るようにして立つ。
「やめて、姉さん」
「……智? どうしたの?」
 予想外とばかりに、姉さんが目を丸くする。
 あどけなさすらある瞳。子供のようにまっすぐで、そして抑えの利かない、純然たる悪意に染まってしまったそれを見据える。
「僕はそんなの望んでない。惠が破滅することも、姉さんがそれを導くことも望んでない。僕が見たかったのは、姉さんも、惠も、同盟のみんなも笑って過ごせる未来だ。誰にも欠けてほしくないんだ」
「何を言っているの? 智。あなたは私よ? 私が惠の無様な死を望むのだから、あなたも当然そう思っているでしょう?」
「僕は姉さんじゃない、智だよ。僕は僕の意志で、惠と一緒に生きようとしてきたんだ」
 姉さんの表情に影が差す。けれど、そこでひるむわけにはいかない。
 だって、違う。姉さんと僕の望みは、あまりにも違いすぎる。
「……惠を、選ぶというの……? 智が? 私の智が、私以外を選ぶというの……?」
「選ぶ、選ばないじゃないよ。誰か一人なんて選択はできない。その意味では、姉さんを選ばないって言い方になるのかもしれないけど……僕は、全員を選びたい。だから、姉さん一人ではないんだ」
「……」
 はっきりと意志を伝える。
 だって、このままじゃ本当に全てが終わってしまう。僕と姉さん二人だけの未来なんて、僕はイヤだ。
 運命を変えられるのは、姉さんだけ。そして、姉さんを動かせるのは、僕だけだ。
 だったら――
「姉さん……まだ、間に合う。さっき僕に見せた未来を撤回して。誰も死なない、苦しまない未来を作って」
「……」
「僕ね、みんなに姉さんを紹介したいと思ってたんだ。僕の姉さんだよって。二人きりより、その方が楽しいと思う。惠も姉さんも同盟のみんなも、一緒に幸せになろうよ、ね?」
「……」
 姉さんは答えない。
「智……君は……」
 惠の声は震えている。
 底知れぬ不安に襲われながらも、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 想いに間違いなんてない。けれど、選択を間違えることはある。これもまた、姉さんが引き起こしてしまった間違い。でも、今ならまだ、まだ正せるはずだから――
「……あなたは」
 姉さんが口を開く。
 ……その目に浮かぶのは、狂気。
「あなたは、誰?」
「……え?」
 放たれたのは、全く想像していなかった問い。
 それは答えを確かめるより先に、姉さんに別のスイッチを入れる。
「智じゃないわ。私の言うことを聞かない人間なんて、智じゃない。私の愛する智は私だけのために生き、私だけのために全てを捧げるのよ。あなたは違う、あなたは智じゃない」
「何言ってるの姉さん、僕は智だよ……?」
「黙りなさい! この偽者が!」
 怒号。その一言で姉さんの意志が感じ取れる。
「返しなさい、本物の智を返しなさいっ! どこまで私をバカにすれば気が済むの、本物を今すぐここに出しなさいっ!」
「だから、僕が……っ!?」
 一気に距離を詰められた。
 そして――
 白い手が視界に伸び、途端――
「智!?」
「智さん!!」
「っぐ……! が……!」
「返して、智を返して……! 偽者なんかいらないわ、ここで絞め殺してやる……!」
 爪が、指が首に食い込んでいく。本気で、殺す気で締めてきてる……!
「やめてください真耶さん! その人は智さんです!」
「真耶、君は智まで殺す気なのか!」
 佐知子さんと惠の叫び声も、姉さんをさらに煽るだけ。
「あなたたちもグルなのね……? そうよね、智があなたたちを頼るはずがないもの……! やっぱり偽者だわ、まんまと騙された……許さない、絶対許さない……!」
「ぐぅぅ……っ!」
 身体を振って姉さんから離れようとする、けれど姉さんの力は弱まる気配を見せない。指を外そうと両手で姉さんの手を掴む、骨そのものと間違えそうなほど細く固い指ははずれそうにない。ならばとバランスを崩させようとして――
「!」
 香がまだ抜けていなかったのか、ひどくバランスを崩す。そのまま倒れこみ――
「かは……っ!」
「ふふ、うふふふふ……これで逃げられないわ偽者……見せしめよ、ここで死になさい……!」
 僕の上に馬乗りになる姉さん。体重をかけて押してくる。
「―――! ……!」
 喉の骨が悲鳴を上げる。全身が酸素不足と生命の危機にざわめき、視界が混濁する。もがいても爪を立ててもびくともしない。心臓が破裂せんとばかりに音を立て、脳は危険信号一色になる。蹴りあげたり殴ったりして逃げようにも姉さんが乗っているのは膝の上辺り、手は届かないし足は動かせない。
 ……殺、される。
 姉さんに、殺される。
 どうして……?
 怒らせたかったんじゃない、ただ、僕の意志が違うということを伝えたかっただけだ。あの未来がただの一つも僕の望みと重ならないんだと知ってもらいたかっただけだ。姉さんのことは大切だ、ただ僕には大切な人が沢山いて、姉さんはその一人。だからそのために全てを捨てることはできないし、姉さん一人を捨てることだってできない。
 それがどうしてダメなのか。それすら許さない姉さんの激情、僕が自分一人を選ばないというだけで、僕すら見失ってしまうほどの狂気。
 そこまで――どうしてそこまで狂ってしまったの、姉さん――……
「……」
 意識が遠くなる。死にたくない、死にたくない、まだ終わりたくない……だけど、姉さんをこうしてしまったのが僕ならば――……
「真耶あぁぁ……っ!」
 遠くなる耳が、声を捉える。
 ああ、惠の――ごめん、結局、僕は君に何も――……

 後悔と、懺悔と、やるせなさを最後の想いに抱えて、僕の意識は奈落へ落ちた。

 はず、だった。

 力が緩む。それを本能で感じ取り、振り払う。離れたところで上半身を起こし、下を向く。
「げほっ! げふ、っは、はぁ、はぁっ……!」
 得られた酸素を貪る身体。一刻も早く正常に戻さねばと肺がフル稼働し、咳となる。乾ききった喉が痛い。深呼吸もできず、細かな息を何十回も繰り返す。
 その間中――姉さんは、追い打ちをかけてはこない。
「……?」
 流石に変だと振り返り――……
 
 確かに見た、未来図。
 血の海に沈む、僕の大事な一人の姿。
 けれどそれは、姉さんに見せつけられた彼女たちではなく――……
「ねえ、さん……?」
 倒れ伏した姉さんの背中から、洋剣が生えている。
 屋敷の入り口に飾ってあった、あの剣。
 そして、返り血を浴びているのは――
「惠さん……!」
「――……あ、ああ、あああああああああああ……っ!」
 狂乱する惠。べったりとついた赤は、彼女が自分で吐きだしたものとは明らかに違う。
「真耶、真耶ぁっ……! 血、血を止めないと……!」
「……は、はいっ!」
 慌てて包帯を取りに駆けだす佐知子さん。
 ……無駄だ。
 止めないと、と言ったところで、既に手遅れなのは誰の目にも明らか。
 深々と突き刺さる剣は確実に内臓を貫いているし、血の量だって即死級。
 ……それでもどうにかしたいという思いが、佐知子さんを走らせたのだろう。
 だって、この場にいる誰一人、姉さんを恨んではいない。
 なのに。なのに、どうして……!
「真耶……僕は……ただ……」
 目を見開き、姉さんを起こそうとする惠。
「……触ら、ないで……下衆……」
「!」
 びくっと手を退ける。
「姉さん!」
 虫の息の中、うっすらと目を開いている姉さん。ひゅう、と消え入りそうな音がする。
 僕の呼びかけに反応し、顔をこっちに向けてくれる。
「……ああ、智なのね……帰ってきて、くれたの、ね……」
 憑き物が落ちたような穏やかな表情。痛みの領域は過ぎ去ったのか、運命を悟ったのか、力なく微笑む。
「姉さん……どうして……」
 続きの言葉は出てこない。聞くには、残りの時間はあまりにも少なすぎる。
「……ああ、智……お願い……姉さんからの、最期のお願い……」
 差し出す手を握る。力はもうほとんど入っていない。
 せめてもの手向けにと笑みを作る。上手くないのはわかってるけど、ちょっとだけでも安心させたかった。
「……何……? 聞くよ、何でも聞くよ……」
「……うふふ、いい子ね……」
 僕の返事に満足したのか、目を細める。静かな静かな呼吸を、ごく僅かに限られてしまった残りの呼吸を使って間を取る。
 そして――口にする。
「……憎みなさい」
「……え……?」
 姉さんが最期に選んだのは、聞き返したくなるような、否定したくなるような願い。
「惠を、憎みなさい……永遠に、私を殺したあれを……ずっと、呪い続けて……」
「……」
「できるわよね? 智……私の智、だもの……」
 ……答えられない。
 首を一度縦に振れば、それでいいのだと、死にゆく人に、せめてもの慰めをと思うのに、出された約束はあまりにも残酷だ。
 今わの際になってなお、薄れることのない憎しみ。姉さんを突き動かしてしまった衝動。
 ……消えてくれない、消えなかった、断絶。
 答えない僕に、それでも希望を見出したのか、姉さんが満足げな声で笑う。
「うふふふ、私の、可愛い智……誰にも、だれにも、わたさ、ない……」
「姉さん……」
 そして――
「……」
 瞳が、閉じられた。
「姉さん、ねえ、姉さん……?」
 身体をゆする。反応はない。まだ血は流れ続けているのに、温かさを感じるのに、そこにいたはずの人は、人でありながら、僕の知っているその人から離脱しつつある。
 ……こんな、ことって。
 こんな終わり方って……!
「姉さんってば……! 姉さん、目を開けて、もう一度だけでいいから、ねえさ……!」
 激しく揺さぶる。やっぱり何も言わない、手を伸ばしてもくれない。触れるたび、大して重くないはずの着物姿がずしりと重力を纏う。
 姉さんの望んだ未来。それは決して叶えてはならないものだった。
 だけど……だけど、こんな形で止めたかったんじゃないのに……!
「起きてよ、姉さん、話ししようよ、こんな、こんな別れ方、いやだよ……!」
「――無駄だよ」
「!」
 水を差すような、静かな声。
 僕の上に影が差す。
「……無駄だよ、智。真耶は死んだ」
 見上げると、いつの間にか立ちあがっている惠。
 ……『立ちあがっている』。
 さっきまで身体を起こすことすらままならなかったはずの惠が、ごく自然に立っている。
 その意味するところ。
『惠さんの能力は――命の上乗せ』
「……う、嘘……!」
「嘘じゃない。君の見ているものが、現実だ」
 さらりと答え、突きつけてくるのは、呪いに付随する能力の残酷さ。
「……さあ、智。舞台は整った、君たちの輝かしい未来へ繋がる、甘美な幕を上げようじゃないか」
 血塗れの状態で仰々しく手を広げる惠。この場にとことん似つかわしくない、芝居がかった手つき。

 呆然と惠を見つめ……気づく、気づいてしまう。
 彼女の瞳から、正気という名の光が消えたことに。