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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act9 「義と信念と見えない蜘蛛の巣」  


 尹央輝。
 顔見知りより一歩か二歩程度は知っている、妙な噂をまとい続ける人物。
 曰く、一睨みで人を殺すとか、魔眼の持ち主だとか――およそ現実的ではないオカルト的な表現が常に彼女を取り囲み、その名を轟かせている。神も仏も幽霊も恐れぬような犯罪者が跋扈するこの区域に広がる、不可解な畏怖。
 そんな彼女が助っ人に来たということは……噂が本当か、トリックが見られるかのどちらかということか。
 僕や智といった常識では考えられない能力の持ち主が存在するのだから、幻術めいた力を使う人間が一人や二人いたっておかしくはない。また、大陸には変わった香や薬が伝わっているというから、それらを駆使しているという可能性もある。どちらにせよ、尹央輝は『普通ではない』存在であり、その普通ではない部分が今回役に立つと判断されたのだろう。気性が荒く一匹狼的な性格の彼女がこんな依頼を受けるのは意外な気もするが、そこは僕たちが気にするところではない。少なくとも彼女は足手まといにはならない、それだけわかれば十分だ。
「……お前の知り合いなのか、ヤンフイ」
 僕たちに声を掛けてきた男――姚任甫といったか――は、なぜか央輝をヤンフイと呼ぶ。それが気に食わないらしく、央輝は見るからに不機嫌になる。
「あたしは央輝だ。お前こそ、こんな時間に一人でフラフラしてナンパか? はっ、ネズミの親分にふさわしいな」
「なんだと」
「ちょろちょろと五月蝿いんだよ、お前のところのネズミ共。あたしのことをコソコソ嗅ぎ回りやがって」
 露骨なほどに喧嘩を売る央輝。
 なるほど、彼はこのあたりを縄張りにしているグループのリーダーなのか。言われてみれば雰囲気にはカリスマ的なものがある。多分な先入観を承知の上で言えば、この界隈にいる人間にしては美形だし、瞳にも擦れた感じがない。だからこそリーダーなのかもしれないが。
 ……そんな分析はさておき。よりによってグループリーダーとモメるのはまずい。余計なことで時間を使いたくないし、変に目立っても困る。
 というのに、売り言葉に買い言葉。姚任甫もみるみるうちに表情を険しくする。 
「お前こそ、随分無鉄砲な知り合いがいるじゃないか。ここをカップルでうろつくなんて下衆共に狙ってくれと言っているようなものだ」
 ……なぜか僕たちが引き合いに出された。悪意……というより、呆れている風だ。部下を侮辱されたことに腹を立てているのは間違いないが、それに加えて央輝をたしなめてるようにも聞こえる。
「カップル?」
「その二人だ。中途な仲でも面倒の種になることぐらいお前も知っているだろう、釘を刺さないのはお前の手落ちだぞ」
「……カップル? こいつらが?」
 なぜか変なところに反応する央輝。僕たちを睨めつけるように見て、それから揶揄するように笑う。
「……ああ、確かにカップルに見えないこともないな。だから声を掛けたのか、姚任甫」
「ここに連れ立って入り込む若い男女二人組なんて、冷やかしの一般人ぐらいのものだ。違うか」
「別にどうでもいいが――」
 何故か央輝は楽しげに僕を指さす。
「そこの男に見える奴。それ、女だぞ」
「――何?」
「そうだよな? 才野原」
 念押し、という風に聞いてくる。
 ああ、そういえば央輝は僕の性別を知っているんだった。いつどこでどう知られたのかは覚えていないが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、彼女は僕の格好を見るたび眉を潜めていたっけ。智と違い、僕の詰襟は性別を隠すためではなかったから、別に知られたところでどうということはないのだけれど――しかし、こういうところで話の種に使われるのはあまり気分がいいものでもない。
「……わざわざ確認する必要があるのかな」
 少しぶっきらぼうに返すと、央輝はにやりと口の端をあげた。
「はっ、格好だけでも十分におかしかったが、女を侍らすとはな。ま、お前らの趣味なんかあたしには関係ないが」
 ちらりと視線を姚任甫に向け、戻す。
「だとよ」
「……」
 僕が男だろうと女だろうと、姚任甫にとってはどうでもいいことだろうに、央輝はなぜだか楽しんでいる風だ。
 ……?
「……女……だと……?」
 その央輝の予想を裏付けるように、姚任甫は呆然とした様子で僕を見つめる。
 ……変な目付きだ。興味? いや違う、興味は興味なんだろうけど、僕へのというより、何か別の……
「いや……しかし、そんなことが……」
「――必要なら、確認でもしてみるかい?」
 あんまり奇妙なので、気になって声を掛けてみる。と、彼は飛び退くようにして一歩下がる。
「い、いやいい。俺は女には興味がないんだ」
「……」
「……え」
 今、とても変な発言を聞いたような気がする。
「……ときに、君に聞きたいことがあるんだが」
「……何かな」
 急に二人称を変え、真剣な目付きになる姚任甫。敵意ではないが、その変化に思わず身構える。
「あ、いやたいしたことでは、いやたいしたことなんだが」
 僕が警戒したのに気づきつつも、その瞳に強い力を宿して次を問う。
 その口から出たのは――
「……君の知り合いに、女装少年はいないか」
「――――」
「は!?」
「っ!?」
 空気が凍る。
 心臓が一瞬、動きを止めた気がした。
 ……まさか、この男……!?
「な、な、ななななななななな」
「……馬鹿だ」
 智と央輝が、それぞれ別の意味で目を点にする。智はあからさまなほどに動揺し、胸のあたりで両手を重ねて震える。様々な思惑と意志と危機感に、一気に雰囲気が乱れる。
 が、三者三様の反応を前にしても姚任甫は言葉を止めない。さっき引いた身を乗り出してくる。
「いるんじゃないか? 君ほど見事な男装少女なら、知り合いに一人や二人は」
「いません」
 即刻、完全否定。智のことに気づいているのなら、こちらもそれ相応の対応を取る必要がある。ひっそりと拳を握りしめ、心持ち重心を落とす。
 ……もし、彼の目的が智なら、いろいろな意味で容赦はしない、できない。
「類は友を呼ぶというじゃないか。決して間違った発想ではないはずだ」
「いないものはいません」
「そこをなんとか!」
「なんとかと言われても、いないものはいない」
 嘘なので、変にぼかさず堂々と否定できるのは不幸中の幸いか。
 しかし、僕が断言しても姚任甫は引かない。
「例えば、男なのに女子校に通っているとか、家督を継ぐために女装しているとか、女の園で活躍できるような才を見込まれて英才教育を受けているとか。この際遺産相続やお家騒動を避けるためのカモフラージュでもいい」
「……」
 ……なんだか方向がおかしくなっているような?
 話からして、彼は個人を探しているわけではなさそうだ。智じゃなくて……女装少年……?
 聞いてるうちにさらにテンションが上がってきたのか、食い下がる。
「そうだ、知り合いにいなかったとしても、そういった男装や女装、性倒錯を好んだり要請されている子達のコミュニティななら知ってるんじゃないか? あるいは、性倒錯用の衣装や化粧用具を扱っている専門店でもいい。衣装でも、メイクでも……ああそうだ、メイク教室とかはないか? 一時的に化粧をしてくれるのではなく、やり方を学べるような。他にもそうだ、その道の子たちを相手にしたオーダーメイドの衣装を作る店とかは? とにかく単なるコスプレでは駄目なんだ、あくまで継続的に、個性にまで食い込むレベルで女装が板についているような子に出会える、そういう場所か方法を」
「……」
「なにこのひとこわい……」
 彼のあまりの熱意に、智が完全にドン引きする。……僕もかなり引いている。
 目が本気だ。マジだ。カリスマ性はどこへやら、必死さが滲み出すぎて気持ち悪いというか、ヤバい。さっきまではあんなにまともだったのに、まるで別の生き物を見ているようだ。
「っはは、必死だな姚任甫」
「笑い事ではない!」
 笑い出す央輝を一喝する。至って真剣だ。
「ただでさえ稀少なチャンスなんだ、これを逃すわけにはいかん!」
「……いや、チャンスと言われても……」
 そしてそんなに気合いれられても困る。そもそも、なんでこんなことに?
「諦めろ才野原。そいつは女装少年にしか興味がないんだ」
「げっ」
 思わず声を出す智。
「……それはまた、変わった趣味だね」
「俺に言わせれば、なぜお前たちが女装少年の素晴らしさが分からないのかの方が不思議だ」
 ため息までつく。
 ……ホンモノだ。何がホンモノと言いたくはない感じに、ホンモノだ。
「いい機会だ。お前たちに女装少年の素晴らしさを教えてやろう」
「いやお断りしま」
「遠慮するな」
「ふざけんななんであたしがお前の話なんか」
「いいから聞けッ!」
 何故か変な方向に火がついてしまったらしい。姚任甫は背後に炎が見えそうなほどの気合に満ちた表情で、朗々と語り始める。
「まず、女装というからには身体的には完全に男であるべきだ。ニューハーフとは違う。自分自身が男だという自覚を持ち、その認識を崩さないままに外見上は女装することに意味がある。もちろん一目で見抜かれるようでは論外だ。女装は装いではなく、殻でもなく、フリでもない。全体的に体毛は薄く色白で女性ホルモンが大目に分泌されているような滑らかな肌を持つのは必須条件だが、あくまで男。女の体に生えているのでもなければショタとも違う。己の性に疑問をもつことはあってもいいが、性同一性障害とは異なるものだ。女装少年は魂は厳然たる少年でありながら外観上は少女のそれであり、男としての魂に女としての感覚が若干食い込んでいるぐらいが黄金率。ただ可愛い少年がスカートを履いているだけで女装というのはあまりにも浅薄だし、それを愛でるようでは真の女装少年愛好家とは言えない。スカートを履いただけの男子はあくまでコスプレであって俺の求める女装少年じゃない。もちろん髪の毛はカツラやウィッグではなく自前、それも絹糸のような美しい髪を持っていることが必須条件だ。当然まつげも自前、つけまつげなど断じて認めん。天から授かりし素材をテクニックによって美に昇華させることにこそ意味がある。そうだ、鏡の前で磨き上げられた己の姿の可憐さに愛着を抱く、しかし自分自身に欲情はしない! 女性ものの下着売り場やドラッグストアの生理用品売り場は頬を赤らめて小走りに駆け抜ける! スカートが風になびいたときにはパンツを見られることではなく男であると発覚することを恐れる! ファッションではない、アイデンティティだ! 女装少年は被り物ではない、魂の器だ! いいか、見ても分からない、声でも分からない、しかし間違いなく魂は男であること! 男でありながら女! だが男! 倒錯だ! 一つの身体に男女の魂が共存し合い、身体的要素を少女に傾けながら精神的な優位性は男性側にある、この倒錯こそが女装少年の魅力! ゆえに男の格好はご法度、四六時中振る舞いは女性的であり恥らいを持ち、男性であることは恥じていなくとも発覚することは恥じる! ここが重要だ! 従って自ら進んで告白するような根性では駄目だ、真に愛する者との間で葛藤の果てに開花するが如く知られる程度であること! そして知られた後も粗暴になったりせず、女としての姿振る舞いを決して忘れないこと! 女性ではないが女性以上に女性らしさを体現し、芸術の領域の美しさを所持しながらも生物学的には男性であること! 女装はアイデンティティ、好んでいても嫌っていてもよいが、女装している自分と本来の自己を切り離してはならん! 両者は共存し相互に影響しあう! しかしそこに倒錯した己への矛盾が厳然と存在する! そのジレンマに悩み迷いそれでも女装を続ける、そこにこそ俺の求める女装少年の理想があるッ!」
「……」
「……」
「……」
「ちなみに惚れる相手は異性でなくても構わん。むしろ同性に惹かれ葛藤しながら愛に流されてゆく姿こそ美しい」
 姚任甫の青年の主張。それはまさに魂の奥底からの叫び。
 しかし、聞いてる方はハッキリ言って拷問だ。
「……僕、もう帰りたい……」
「……すまん、こいつを煽ったあたしが悪かった……」
「……熱意とは、時に過ちを加速するのかもしれないね」
 露骨にげんなりする三人。
「なんだ……これだけ言ってもまだわからないのか」
 芳しくない反応に、心の底から残念そうな顔をする姚任甫。
「お前の趣味なんぞ分かってたまるか」
 にべもなく言い放つ央輝。今回ばかりは彼女に賛成せざるを得ない。
「十人十色、個性は人それぞれだ。分かり合えなかったとしても、それも運命だろう」
「君もわからないのか……男装少女と女装少年、通じるものがあると思っていたのだが」
「惠を同類扱いしないでください」
 智が僕の腕を掴んで自分の方に引き寄せる。冷や汗をかきながら彼を睨む姿は必死そのもの。かわいそうに、身の危険の予感と精神的な恐怖に晒され、身体がこわばってしまっている。一刻も早くここを、姚任甫の傍を離れたいだろう。二割ぐらいしかまともに聞いていなかったが、おそらく、智は完全に彼のストライクゾーンに入ってしまってる。今は気づかれていないみたいだけど、万が一があったら二重の意味で大変だ。そもそも僕たちは彼の話を聞きに来たわけじゃないんだ、いい加減にお引き取り願いたい。
「当事者と部外者では認識が違うということもあるんじゃないかな。それに、熱意に敬意は表するが、君の求める情報はここにはない」
「……そうか。知らないものは仕方がないな」
 納得したのか、諦めたのか、盛大に溜息をつく。やけに寂しそうだ。多分、彼のグループにも彼の嗜好の理解者はいないのだろう。いたらいたでおぞましい。
「……ねえ、そろそろ行こうよ。あの、あまり時間もないし」
 話題が切れたところを狙い、智が提案する。
「……そうだな。大分時間をムダにした。さっさと行くぞ」
 央輝も苛立ってきたのか、さっとコートを翻して歩き出す。僕たちもそれに続こうとし――
「行く、とはどこへだ?」
 なぜか、姚任甫が止める。
「……なんでお前に話す必要がある」
「気になってな。趣味の問題はともかく、この二人が一体何のつもりでここに来たのか」
「最初に言っただろうが。こいつらはあたしと同じ、こっち側の人間だ」
「だからこそ、だ。俺の仲間にもこの辺りに住んでる奴がいる」
「……」
 切り替えの早い男だ。かなりの修羅場をくぐってきたからだろう、さっきまでの浮ついた熱意はあっという間に緊張に塗り替えられている。敵意、というほどではないが、返答次第ではというのが見て取れる。
「おい」
 言っていいのかと、央輝が目で問うてくる。
 一難去ってまた一難。言うか言わないか、どちらがより有利か考える。
「彼の目はごまかせないんじゃないかな」
 肩をすくめ、OKを出す。
 ここではぐらかして後で知られた場合、今後ここでの仕事がやりにくくなる可能性がある。もちろんここに長居する気はないけれど、あと一度や二度は否定出来ないし、何より悪人のネットワークを舐めて掛かると痛い目に会う。
「お前らを平和ボケしたカップルだと思ってたような奴だぞ」
「それなりの勢力のリーダーなら、礼儀は尽くしたほうが良い、そう思わないか?」
「……フン」
 鼻を鳴らし、了解する。
 僕たちから言うべきことかもしれないが、彼女が代わりに説明してくれるならその方がいいだろう。
 央輝は嫌そうに、顔だけを姚任甫に向ける。
「数ヶ月前から、隣市で騒がれ出した殺し屋を知ってるか」
「ああ。仕事の件数こそ少ないが、ペアでの活動というのは珍しいからな。まだ噂レベルだが情報は届いている」
「……その噂の殺し屋が、この二人だ」
「なんだと!?」
「あたしも意外だった。こいつらには何度か会ってるが、まさか積極的に手を汚すタイプだったとは」
 一般人から殺し屋へ。認識の落差に再び目を見開く。しかし、今度の衝撃は即座に緊迫感へと変わる。
「……つまり、ここに仕事をしに来たということか」
「そういうことです」
 智がはっきりと肯定する。
「人は見た目に寄らぬもの、か……」
 じっと僕たちを見る姚任甫。警戒はしているものの、ひるんではいない。裏グループのリーダーなら、こういう役目の人間に出会うこともあるのだろう、しっかりと肝が据わっている。こちらとしてもその方が助かる。職を聞いただけで疑心暗鬼になって襲い掛かられたりするのは御免だし、双方に取って良い結果をもたらさない。
「しかし、何故そこにヤンフイが絡む? お前は殺しはしないタイプだったはずだが」
「あたしは助っ人だ。こいつらが身の丈に合わない依頼を受けやがったから駆りだされた」
「……ほう。お前にしては珍しいな」
「あたしが何をしようがあたしの勝手だ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
「……あの、二人とも……喧嘩しないで」
 火花が散りそうになったところをやんわりと制止する智。お腹の辺りを押さえているのは色々とストレスを溜めさせられてしまったからだろう。これからが本番なのに、幸先が悪い。早く切り上げたいところだ。
 ……「早く切り上げたい」。
 そういう発想に至ってしまう自分に反吐が出そうになる。やろうとしていることは決して「早く切り上げる」の内容には収まらないし、相手がいかなる存在であれ、かけがえのない命を摘むことに変わりはない。人数が多いからか、仕事としての認識が出てきたのか、守るというエゴが幅を利かせているのか。
 ……今更だ。今回の依頼を受けた段階で、犯人たちの未来は決まってしまった。何を思おうと、もたらされる結果はひとつ。
「急いだほうがいいんじゃないかな。この取り合わせも十分珍妙だろう?」
 率先して前に出て、智と央輝を率いる。
 僕たちの夜は、始まったばかりだ。

「……で? なんでついてくる」
「俺が何をしようと俺の勝手だろう」
「勝手は勝手だが、うろつかれるのはムカつくんだよ」
「俺はお前に用はない、ヤンフイ」
「央輝だって言ってるだろうが」
「……静かに」
 四つの影がビルの壁に浮かび上がっては消える。空気が沈むように気温が下がっていく中を、僕と智、央輝、そして姚任甫が早足で進む。走らないのは足音を立てないためだ。急ぎたいのはやまやまだが、この時間に派手に動くわけにはいかない。
 ……央輝と姚任甫がいる時点で、目立つのは避けられない気もする。極力人のいないルートを選んでいるが、目撃者はどこに潜んでいるか分からないもの。さっきのやり取りからして、央輝と姚任甫は普段から仲が悪いのだろう。とすれば、この取り合わせそのもののインパクトも大きくなる。
 おそらく、央輝はそんなことは一切気に留めていない。気性の荒さや今まで得た情報からして、彼女は後先のことはあまり考えないタイプだ。一匹狼だし、それでも特に問題はないのだろう。
 問題は姚任甫の方。彼は同行する理由が全くない。しかも、僕たちと一緒の姿を見られるのは都合が悪いはず。それでも来ているということは、後ろめたいことがあるのか、部下が狙われる可能性を考えているのか……いずれにせよ、油断はできない。あと趣味が危ない。かなり危ない。
 現状と予定と周囲の状況と、様々に神経を尖らせつつ歩みを進める。
 ほどなく、目的のビルの近くの曲がり角まで到達した。現場を見上げると、煌々と灯りが付いている。時折影が窓の傍にちらつき、何やら動いている。随分と盛り上がっているようだ。
「……起きてるね」
 想定済みだったのだろう、智は確かめるように言う。
 彼は今回『今日なら大丈夫』というおおまかな予測を立てた。屋敷の時は数パターン見えたと言っていたけれど、今回はそこまではわからなかったらしい。ただ、明るい部屋を見ても動揺している様子はないから、これでいいのだろう。今までは寝込みを襲うことが多かった分違和感もあるが、多人数戦闘となると話は別だ。暗闇は双方にとって動きづらい。ターゲットが複数いるなら、常に視界に収められたほうがいい。
「こんな時間だ、酒盛りでもしてるんだろうな。シャブかもしれないが」
 央輝も特に困った様子はなく、宵闇に浮かぶ白い窓を見上げて冷笑する。
「央輝は明るくても平気かい?」
「あたしはそっちの方が動きやすい」
「ふむ、ならば好都合だね」
「そういえば、央輝はどんな手助けをしてくれるの?」
「……殺しはしない。ただ、全員発狂寸前まで追い詰めるぐらいはしてやる」
「それは大暴れするということかな」
「別に暴れなくてもいい。チンピラを足腰絶たないぐらい震え上がらせる程度なら訳もない」
 自信満々で言い切る。自分一人でも勝てると言わんばかりだ。組織の指示で来ている以上、相手の人数は把握しているだろうにこの態度……噂に聞く魔眼はそれほどの威力なのか。別にその正体を知ろうとは思わないけれど、修羅場を一人くぐり抜けてきた央輝が絶対の自信をもっているというなら心強い。智の様子に不審なところもないし、今日は大丈夫だろう。
 それなら軽く打ち合わせを――
「……お前たちが乗り込むのは、あのビルの五階の明るい部屋か」
 話を進めようとしたところで、姚任甫が進み出た。視線を襲撃予定の部屋に向けている。
「そう、ですけど」
「……」
 智の返事を受け、確認するように目を細めた後、苦々しげな表情をする。
「……やはり、か」
「やはり?」
 思わず聞き返す。
「想像はしていた。この辺りの治安の悪さは言うまでもないが、最近はそれに輪をかけてキナ臭くなっている……あそこに集まっている奴らが、その原因のひとつだ」
「へぇ?」
 央輝も反応する。彼女はそこまでは知らなかったらしい。もちろん、僕たちも初耳だ。
「最近発足したのか、どこかでスイッチが入ったのかは知らん。ただ、奴らはここ最近積極的に大陸系グループに声をかけている。それも一般人相手の誘拐、暴行、恐喝、薬物その他、とびっきり下衆の誘いをな」
「……」
「俺のグループの仲間も何人も誘われた。断ったのが大半だが、中には悪魔に魂を売った馬鹿もいる」
「碌でも無い部下を飼ってるんだな、姚任甫」
 央輝が煽る。しかし、意外にも任甫はその指摘を受け止める。
「……そうだな。そいつらに関しては、俺は擁護するつもりはない」
「意外とドライなんですね」
「俺達は確かに日陰を生きているが、だからこそ守らねばならぬ義が、貫かねばならぬ信念がある。一時の快楽や金ごときに目が眩んでそれを捨て畜生に堕ちるような奴は、俺の仲間とは言えない」
 姚任甫はハッキリ言い切る。
 どうやら、彼にとってグループとは単につるんでいる仲間というものではないらしい。
「はっ、お堅いな。こっち側の人間って時点で同じ穴のムジナだろうが」
「それは違うな」
 今度は央輝の発言を否定する。
 ……感情ではないものを、そこに見る。
「重要なのは『どんな存在か』ではない、『どう生きるか』だ。天より与えられし立場、存在は変えられないとしても、生き方ならば変えられる。この灰色に粘りついた世界、坂を転げ落ちるのは簡単だ。だからこそ俺達は足を踏ん張り、悪意の中を決然と歩まなければならない」
「……」
「俺がなぜ、わざわざ単身で歩きまわってお前たち二人に声をかけたか……これがその答えだ。流行病のように搾取が横行する中、いかにして立つか。俺は穂北のグループのリーダーであると同時に、姚任甫だ。姚任甫としてやるべきこと、貫くべき信念に従ったまで」
「……今、ここにいるのも?」
「殺し屋が派遣されるような事例というのは限られるからな、お前たちの正体を聞いた時点で予想はしていた。それに、奴らとはいずれ決着を付けなければならないと思っていたところだ」
「手間が省けたってわけだ」
「見届ける必要があるだろう。俺の仲間だった者もまた、奴らに加担した前科がある。同情する気はないが、その元凶が絶たれる瞬間に立ち会うのはリーダーとしての責務だ」
「いいのか? 元ネズミがあそこにいるかもしれないぞ?」
「……義に反した者は、相応の結末を迎える。俺は一度止めているからな、自業自得だ。それに、決して襲うべきでない相手を襲っている時点で罰を受けても文句は言えん。それは人間ではなく、畜生だ」
 朗々と、宣言のように語る。
 僕たちのターゲットを予想していたなら、そこに自分の関わった人物が絡んでいる可能性に気づかないはずがない。
「俺はお前たちを止めはしない。ただ見届けるだけだ。……そこに誰がいたとしてもな」
 それでもなお、姚任甫は己を貫く。机上の空論めいた理想ではなく、彼自身の血が通った判断を下す。
「……なんか、色々もったいないぐらい真面目な人」
「変態だけどな」
「プラスがどれだけあっても、ゼロをかけたらゼロになっちゃうんだよね」
「……せめて、プラスマイナスゼロにしてあげたらどうかな」
「同じだろそれ」
 なんとも奇妙な気分になる。どうしようもないほどの変態なのに、確固たる意志を持って立つ男。なるほど、リーダーにふさわしい器だ。成り行きでも様子見でもなく、行動の後ろに常に信念の芯を通し、他の誰でもなく、迷いなき個人、姚任甫として立つ。
 こんなところで生きていれば、散々に理不尽に揉まれ煽られただろうに、今の彼はその片鱗すらのぞかせることがない。それは襲い来る現実を受け入れ、自らに取り込んだ姿。裏切り者が出たことを苦々しく思いながらも、自分の在り方を崩さずに生きる。かといって、情を捨てたわけでもない。見届けるだけと断言したのは、心のゆらぎを抑えるためでもあるのだろう。
「はっ、ご苦労なこった。リーダー様も大変だな」
 そんな姚任甫の在り方を一蹴する央輝。
「お前も取り巻きがいるだろう」
「あんなのは、ただあたしの力を恐れて尻尾振ってるだけだ。お前の虫酸が走る様な理想はもちろん、利害すらない。媚びと逃げ足だけはいっちょまえな奴らだ」
「……そいつらを組織しようとは思わないのか」
「なんであたしがそんな有象無象なんか構ってやる必要があるんだ? チラチラ顔色伺っておべっか使って、寄りかかれる相手を探してるだけだろうが。そんな奴らに時間を使ってやるほどあたしはヒマじゃないし、お人好しでもない」
「そういう奴らに道を示すのも……いや、やめておこう。やはりお前とは相入れんな」
「当たり前だ」
 央輝の言う事にも一理ある。今でこそ一人で生きる力を持っているが、彼女も今まで散々辛酸を嘗めてきたはずだ。男と女では環境も、襲い来る試練の過酷さも違う。そこから這い上がってきたからこそ、彼女は孤高の狼を貫くし、庇護を求める人々を軽蔑する。
 どちらが劣っているとか優っているとか、そんな物差しはない。刻まれてきた経験から生み出した思想はそれぞれが正しく、確かなものだ。裏社会という特殊な世を泳ぎ続ける両極端な二人は、自らのスタンスを保ちながら前を目指す。
 ……なぜだろう。
 この二人が、羨ましい。その在り方が、進み方が――生き方が。
「惠」
 ちょいちょい、と智が袖をひっぱる。
「どうしたのかな、智」
「……大丈夫?」
「……」
 何が、とは聞けなかった。
「……二人のいがみ合いをずっと見ているわけにはいかないね」
 露骨に話題を逸らし、本題に戻す。
「では、ここで打ち合わせをしようか。なるべく手短に」
「……やっとか。五分で済ませろ」
「言われずとも」
 現地のすぐ近くというのが気になるが、致し方無いだろう。さすがにこれ以上先延ばしにはできない。姚任甫に聞かれるのはマイナスかもしれないが、かまっている場合でもない。
「情報によると、アジトはだいたい十二坪程度。台所や風呂、寝室もあるから、実際はさらに狭いだろう。そこに五人がひしめいている状況だ。こちらが三人踏み込めば八人、かなり手狭になる。闇雲に動くのは得策じゃない」
「なら、どうする」
「央輝は奴らの動きを止められるかい?」
「動きを止める、とは限らないな。気絶する奴もいるだろうが、ビビって逃げ出す奴もいるかもな」
「なるほど。では智は扉付近を守ってくれ。央輝は足止めを念頭に、好きに動いて構わない」
「いいだろう」
「……うん、わかった」
「飛び降りるには高い階だから、出入口さえ塞げば逃げられないはずだ。後は……そうだな、リーダーは最後に残しておこう。聞き出さなければならないことがあるからね」
「他はどうする」
「……央輝は、僕たちの役目を何だと聞いているのかな」
「実際に殺るのはお前だけってことか、才野原。手柄総取りだな」
「ペアで動いているのだから、役割分担があって当然だろう?」
「惠」
 智が口を挟もうとする。
「……今回は、聞き分けてくれないか、智」
 一緒に摘みたい――おそらく、智はそう望んでいる。前回が叶わなかったから、今回こそはと思っているのだろう。しかし、多人数を相手にする以上、そんな悠長なことは言ってられない。おまけに今回は央輝というギャラリーもいる。自分たちが手を取り合って行う儀式が彼女の、他人の目にどう映るか……そんなもの、わざわざ確認する必要はない。
「でも惠、今回は」
「より迅速に、より確実に……合理的な判断だろう?」
「……」
 もっともな指摘に智が黙ってしまう。
 僕が意地悪をしているわけじゃないのは、彼も分かっている。それでも割り切れないものがあるのだろう。
 ……智は、不安なのかもしれない。そんなことをふと思う。
 やんわりと頭を撫でると、一瞬驚き、その後はにかんだ笑みを見せる。静かに微笑み返す。
 そして、再び視線は犯人のアジトへ。
「大体の作戦は決まったかな。何か質問はあるかい?」
「特にない。細かくあれこれ指示されるかと思ってただけに、気楽でいい」
「僕も了解」
「……姚任甫、君はどうする」
「俺は入り口のところで待っている。積極的に加担はしないが、俺が立っていれば野次馬や中途半端な援軍は入らないはずだ」
 僕たちに味方はしないけれど、中立でもない――ある意味中途半端だが、双方にとって便利な距離。中までついてこないのは、万一自分の知り合いがアジトにいた場合を想定してもあるだろう。やはり、彼は色々心得ている。
 準備は、整った。後は自らの敷いたレールの上を走り抜けるだけ。
「では――行こうか」
 見上げる先は、光あふれる一室。
 その窓は、内側に獰猛で狡猾な蛇を飼いながら、それでも宵闇の中で美しく輝く。

 バカ騒ぎを途切れさせるノックの音。最初は小さく、徐々に大きく、必死さをにじませる。
 くぐもって響くのは、頭が悪く小心者なのが一発でわかるような下卑た返事。ドアは開かない。
「だれだよこんな時間によぉ、こちとら盛り上がってんだから邪魔すんなよなぁ」
「あ、あのっ!」
「……あ?」
 予想外の可愛らしい声に、向こうの男が怪訝な反応を返す。
「……っ、す、すみません! 道に迷っちゃって、ここだけ電気がついてたから、そのっ……あの、田松駅までの道、教えてもらえませんか!?」
「……」
 すぐに応答はない。おそらく、ドアについている覗き窓で確認しているのだろう。
 ……舌なめずりの音が聞こえるような錯覚。彼らに見えるのは、警戒心など抱きようもない可憐な一人の来訪者。
「ちょーっとそこで待ってろや、嬢ちゃん」
 どうやら、成功らしい。
 こちらの要望とは全く違う内容の、砂利をこすり合わせるような相談が聞こえてくる。なるほど碌でも無い奴らだ。組織から得た彼らの悪事、姚任甫から聞いた情報とも合致する、見事な下衆。
 ……まあ、僕たちもそれを前提に作戦を組み立てている以上、彼らが善人では困るんだが。
 彼らは道を教える気などないだろう。頭にあるのは道を選び間違えた哀れな子羊をいかに弄ぶかだけ。金も身体も、きっと骨の髄まで吸い尽くす。罪悪感もためらいもなく、己の爛れた欲求を満たすためだけに邁進する、人の道を踏み外した愚か者たち。
 ……彼らを裁く権利は、誰にもない。悪い奴だからという前提は、言い訳でしかない。
 けれど僕たちは、この選択をするに十分な理由をもってここに来た。
 ……それだけで十分だ。
「はいはいっとぉ、お待たせ嬢ちゃん――」
 三秒後の結末を想像すらせず、扉を開け放つ一人目。

 その目は、智以外の来訪者を捉える間もなく――

 血しぶきを合図に、僕と央輝が室内に飛び込む。絶命の後数秒間だけ目隠しになってくれた男は、部屋を一瞬だけ揺らす音を立てて倒れこんだ、と思う。確認などしない。それは僕たちの役目ではなく、残された四人がすべきこと。
 テーブルの上には酒の缶にビン、怪しげな香炉のようなものにタバコに灰皿、つまみとおぼしき乾き物が乗っている。香炉から立ちのぼる煙の正体は言うまでもない。
 動揺させる意味も含め、問答無用でテーブルに飛び乗り、上のものを蹴飛ばす。耳障りな音、酒の臭い、飛び散る灰。これだけ色んなものをまとめて消費したらよからぬ化学変化でも起こすんじゃないかと思うが、彼らにはそこまで考える脳もないのだろう。うつろなのにギラギラ光る八つ目はとっくの昔に正気を失っているように見える。
 央輝が素早く窓を開けるなり、外の空気が雪崩のように入ってきた。指示はしていなかったけど、彼女なりに身の危険を感じたのか。それぐらい、この部屋は悪魔に汚染されてしまっていたのかもしれない。
 冷えた風は男たちにも冷静になるキッカケを与える。リーダーとおぼしき屈強な男の目の焦点が合い始める。
 だが――
「――見ろ」
「――ッ!?」
 央輝の低い命令。
 たったそれだけで、男の意志はぽきりと折れた。
「っひ……ひぃぁあああぁぁぁァァ!?」
 情けないことこの上ない悲鳴を上げて尻餅をつき、その体勢のままバタバタと後ずさる。
 ……これが、魔眼。なるほど、大した威力だ。
 それなら、僕は――
「んなぁッ!?」
 窓枠を足場に跳ぶ。大の男が手を伸ばしたりはねたりしても届かないぐらいの高さを稼ぎ――見上げてきた男の胸にナイフを投げつける。
 服に赤が滲むまでには間がある。明るいのは動きやすいけれど見た目は良くないなと乾いた感想を抱く。
 確認は、しない。わかるから。
 着地。そのまま姿勢を低く、口から泡を飛ばしながら襲いかかってくる一人を待つ。足を払って、後は前と同じ手順。重力に逆らい切っ先を上に向けて少し飛べばおしまいだ。
 何回何十回と繰り返し覚え苛んで来た感触をもう一つ重ねる。数えるのをやめたのは何回目だったかと、ふと雑念が入り――
「死にくさらせやぁあぁぁぁ!」
 声は反対側から聞こえた。振り向くと奥の扉から出てきたてとおぼしき一人、その手には一瞬なんだかわからない黒い物体――
 乾いた破裂音。
 反射的に身を捻る。間に合わない。
「ッ!?」
 脇腹。僅かとはいえ身体がなくなったのがわかる。皮膚が、血液が、肉が、痛みという名の悲鳴をあげる。灼かれる感覚。
 ……拳銃の可能性を忘れていたことに、銃弾を食らってから気づく。
「こっちだ!」
 央輝の声、続いて何かがあって、また情けない悲鳴。
 まっすぐ立つには強すぎる熱に神経が灼かれる、膝を折る。床に広がる血の臭いが濃くなる、視線だけは前に。央輝の魔眼を喰らった二人は反撃など考えもしない様子で扉へと向かう。膝をついて情けない格好。それを見下ろすのは、智。手に握られているのは、拳銃とはまた別の文明の利器。
 ……勝ったな、と。
 青白い火花を見て、そう思った。

 仕事後の一服にしては随分不味そうに、央輝はタバコをくゆらせる。苛立ち紛れに数口吸ってはテーブルに押し付けて消し、また付ける。その合間合間、ちらりと僕に視線を向けては戻す。
 三人を仕留め、二人をスタンガンで気絶させた。所要時間は五分足らず。怪我人が僕だったことを含め、上出来だと思う。怪我といっても、銃弾がかすった程度だ。怪我した瞬間こそ立っていられなくなったものの、あと二十分もあれば歩ける程度には回復するだろう。現に、傷口はスローモーションだとわかるかわからないかぐらいの速度で塞がり始めている。内側の損傷が少なかった分治癒も早いといったところか。
「……おい、お前」
 と、央輝がしゃがみ込んできた。智が消毒してくれた傷口をじっと見つめる。
 ……やっぱり、気になるか。裏を生きる彼女なら、怪我の一つや二つはよくあることなはず。そして、よくあることなだけに、どのぐらいで治るのかも心得ている。自然、僕の治癒速度が異常なのもわかってしまう。
「……」
 食い入るように、脇腹を見つめる。その視線が若干上に向く。
「あ……!?」
 表情が変わる。ひょい、と服をめくりあげる。
 そこには、呪いの痣。
 ……あまり、動揺はない。央輝は一匹狼だし、僕の治癒能力はあくまで副次的効果。彼女がふれ回ったところで信じる人はいないだろうし、そんなことをしても意味がない。
 それに。
 間近で見た央輝の戦い方は、半ば直感的に僕に一つの予測をもたらした。
 彼女の魔眼。あれはおそらく―― 
「……これが、お前の能力か」
 たっぷり思案する間を置いて、央輝が確認をとる。
「違うと言ったら、君は信じるのかな」
「無理だな。動かぬ証拠がここにある」
 傷口と、その上の痣を指さす央輝。その様子を見た智が答えにたどり着く。
「もしかして、央輝も……なの?」
「ああ。お前もだな、パルクールレースの時に見た」
「……じゃあ、さっきやったのも」
「あれがあたしの能力だ。詳しくは教える気もないが」
「それはお互い様でしょ」
「フン」
 立ち上がって壁に寄りかかり、タバコをまた一本。苦々しげな表情は変わらない。多分、タバコを味わう気分ではないんだろう。天井を見上げながら聞こえるようにひとりごとを呟く。
「……なるほどな、組織があたしを使うわけだ」
「似たもの同士を組み合わせてみたって感じかな?」
「さあな」
 不機嫌そうな表情に、僅かばかり、仲間意識とも同情ともつかない気安さが交じる。
 僕たちは同じ痣の持ち主を知っているけれど、彼女は知らない。彼女にしてみれば、僕たちは初めて出会った同類だ。そこから彼女とのパイプを太くする方法もあるかもしれないが――今の僕たちにはおそらく、必要ない。
 痣は今や、呪いの証拠以外の何の意味も持たない。央輝との関係において、それ以上を付加しようというのは愚策だろう。
 ……かつて積み上げたものを、僕たちは自分で蹴飛ばしてしまったんだから。
「あたしはこれで帰る。そこの残りも処分しとけよ」
 長居は無用と思ったか、央輝はタバコをすりつぶして歩き出す。
「んと……ありがとう、央輝。今日は助かったよ」
 僕の代弁も含め、智が笑顔を見せる。状況に似つかわしくないとでも思ったのか、央輝は一瞬動きを止める。
 何か指摘しようとしたのか、表情を歪めて……思い直し、いつもの不機嫌顔に直す。
「いつまでもこんなとこにいないで、お前らもとっとと帰れ。中まで腐るぞ」
 多分、央輝なりの精一杯の助言なんだろう。そんなことを言い残し、彼女は扉の向こうへと消えていく。軽く手を振って見送る。
「――さて」
 一息ついたところで、目的を果たさないと。背中を起こし、立ち上がろうとする。
「……っ」
「いいよ、惠。僕が探してくる」
 まだ残る痛みに顔をしかめたのに気づいたか、智が肩に手を置いた。
「そこの二人、まだ伸びてるでしょ? 危険はないよ」
 智の言うとおり。スタンガンをまともに食らった二人は完全に気絶していて、目を覚ます様子はない。念のためにと手は縛ってあるけれど、その必要すらなさそうなぐらいだ。もしかしなくても、最大出力だったんだろう。
「多分、あの扉の先が倉庫とかになってるんだと思う」
 智が見るのは拳銃を持った男が出てきた扉だ。確かに、可能性は高い。
「探してみて、見つからなかったら起こして尋問しよう」
 さらりと言う。瞳に熱はなく、あくまで冷静な判断なのだということを伺わせる。
「……ああ、でも、こっちは」
 こっちというのは、拳銃を使った方だ。頭の上から足先まで一瞥し、智が息を吐く。
 そして――ゆっくりと、コートの裏側からナイフを取り出す。
「……」
 何をする気なのかは、聞かなくてもわかる。
 央輝は帰った。僕たちの儀式を止めるものは、もはやいない。
「許さない……僕の、惠を……」
 智の声は昏い。それは墨のような濃い黒ではなく、雑多な感情が混じり合って黒に見えるようになった、そういう色。
「惠」
 誓うように、唇を重ねられる。
 逆らう気は――ない。

「終わったか」
「まだいたんですか?」
 ビルの入り口の人影に智が半分驚き、半分引いた反応をする。彼は僕たちの判断基準で言うところの悪い奴ではない、どころか結構評価は高くなりそうなんだけど、いかんせんその趣味が全てを台無しにしている。
「言っただろう、見届けると」
「てっきり央輝と帰ったのかと」
「なぜ俺があいつと行動を共にする必要がある?」
「……確かに」
 納得する。
 裏社会の人間といっても、央輝と姚任甫は全くタイプが違う。お互いに極端だ。『裏社会』にも多様性があるのだなと、当たり前のことを思う。
「お前たち、その格好で帰る気なのか?」
 と、姚任甫は僕たちの格好を見て顔をしかめる。
「返り血を浴びた服を着ていたら、逆に目立つんじゃないかな?」
「ああ……なるほど。しかしそれは、まさに」
「考えの足りない一般人カップル」
「わかっていてやってるなら、構わんが」
 そう。僕たちはこの界隈に全くもって似つかわしくない服装になっている。具体的に言えば、僕はかつて着ていた灰色の詰襟で、智はパステルカラーのワンピース。両方コートの下に着込んでいたものだ。最初からそのつもりで着替えてきたし、脱いだコートと取り返した制服を入れるバッグも準備してきた。普段は部屋に戻るまでコートは脱がないけれど、今回は特別。流石に五人分の血と麻薬とタバコの煙を吸い込んだコートで帰るのは危険だろう。血の臭いは案外強い、防臭加工されたバッグに突っ込んだところで分かる人には分かるだろうが、ぷんぷんさせながら歩くよりはマシだ。
「それでは、僕たちはこれで」
 やるべきことは終わったし、彼と長話はあまり良くない。そそくさとその場を去ろうとする。
「待て」
 ……なのに、この男は引き止めてくる。一体、僕たちの何がそんなに気になるのだろう。
「……」
 歩み寄ってきた姚任甫は、何故か僕の目を覗き込む。
 ――逸らすべきではない、直感的にそう思い、覗き返す。
 値踏み、ではない。何かを伝えようとしているのでもない。知ろうとしているような、確かめようとしているような――真剣に相対する視線。
 時間にすれば、ほんの五秒程度だ。
 満足したのか、姚任甫はすっと身を引くと、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「……お前は、変わっているな」
「変わっている?」
「俺は、殺し屋といえば頭がイカレた奴か、金に目が眩んだ奴か、間違った使命感に酔った奴か、何者かに脅迫されて逃げ道を失った奴だと思っていた」
「……」
「だが、お前は違う。そのどれでもない。無論詳しくはわかりようもないが……お前は、俺やヤンフイに近い」
「?」
 何故か、姚任甫は自分と央輝を同列に語る。思想は相入れなくても、央輝のことは認めているのか。
「意識してはいないだろうが、お前たちには譲れないものがある。それを見失わない限り、お前たちは殺し屋であっても、下衆にはならないだろう」
 それは、予言でも、占いでもない。彼自身が蓄えてきた経験と、洞察力が導きだした確かな評価。
「お前たちがこれから受ける仕事によっては、俺と対立することになるかもしれない」
 そこで一呼吸置く。
「その時は、正々堂々その勝負を受けよう」
「……」
 紡ぎだされた宣言には、一切の欺瞞も、遊びもない。まさに真摯さそのもの。
 彼の言っていることは、よくわからない。今はまだ、わかってはいけないのかもしれない。
 ただ――それでも、彼は僕たちを認めてくれた、そんな気がした。

 肩から下げたバッグは流石に重い。なにせ、コートはもちろん、取り返した制服、武器の類も全部放りこんである。これで職務質問でも受けた日には一発アウトだ。警官のいそうな場所は把握しているから避けるにしても、気をつけるに越したことはない。
 細い道、細い道を選んで歩く。室外機が飛び出していたりするから気が抜けない。段差にしては大きな障害物をあれこれ乗り越えつつ、円塚の出口を目指す。
「……その格好、懐かしいね」
 智が背中に語りかけてくる。
「ああ、そうかもしれない」
 二人きりで住み始めてから袖を通していなかった詰襟。変に嗅ぎつけられないためにと着るのをやめていたけれど、今日ぐらいはいいだろう。新しい部屋が決まって引っ越したら、智の制服と一緒に処分するのも一案だ。気分的には持っていたいものだけど、今回のような使われ方をしてしまう可能性もなきにしもあらず。さすがに元の持ち主が割れることはないと思うけど、何がどう繋がってくるか分からないのがこの世の中。危ないものは処分してしまうに限る。
 曲がり角をあちこち曲がり、くねくねと進む。犯人は討伐したとはいえ、姚任甫や央輝と一緒にいた分、余計なトラブルに巻き込まれる可能性も否定できない。道は慎重に選択する。智としっかり手を握り合い、人ひとりがやっと通れるぐらいの道をするりするりと抜けていく。
 安堵と、ちょっとした高揚感。
 多分、こんなところを通るのは僕たちと、猫ぐらいのものだ――
 と、思っていたのに。
「!」
 向こう側に影がちらつく。慌てて室外機の影に身を潜める。
 その影は……あろうことか、こっちに向かってくる。
 さらに、姚任甫が聞いたら使命感で即刻駆けつけてきそうな、あどけない声まで飛んでくる。
「そーっと、そーっと……うぅ、本当にこっちでいいんデスか?」
「ガギノドンを疑うとは罰当たりな。猫パンチ百烈拳食らわしますよ」
「まあ、こういうところを行くほうが雰囲気があっていいんじゃない? わたし好きだよこういうの」
「っで……でもちょっと細いわよね。通れるけど、なんかこう、圧迫感が」
「伊代センパイはおっぱいが邪魔してるんですよぅ! 鳴滝はすすいのすーいです」
「それはおっぱいだけの問題じゃ」
「んっふふふ……なんなら、私がぎゅーっと圧迫してあげようか? こう、ぎゅーっと、もみもみ」
「……っちょ、ちょっと待ってやめてよこんなとこで!」
「ていうか五月蝿いです。せっかく裏の裏をかいているというのに、下衆チンピラ招きみたいな声出してどうするんですか」
「茅場、そういう水の差し方はやめなさい」
「怒るポイント違うと思うデスよ、花鶏センパイ」
「だぁーいじょぶだって! るい姉さんがついてる!」
「……」
 本日、二度目の心臓停止。
 けれどその衝撃は、姚任甫の発言とは比較にならない。
「……」
「……ぁ、ぁぁ……」
 智の手が汗でじっとりと湿る。呻いているような小声は、蚊の鳴くように細いというのに、耳にこびりつく。
 冷や汗が止まらない。
 向こうから聞こえる声。泣きたいほどに記憶どおりの声。
 ……嘘だ。
 ……嘘だ、どうして、こんな時に。
 後ろを振り返る。あちこちに飛び出した室外機やゴミ箱の群れは、這いつくばってやりすごせるようなものじゃない。
 戻れない。避けられない。逃げられない。
 心臓が割れそうな音を立てる。まだ治りきってない傷口がじくじくと痛む。
 目がからからに乾く。喉がひきつって、上手く呼吸ができない。
 思考がまとまらない。襲い来る運命になすすべなく、ただ呆然と待つしかない。
 そう、ただ呆然と――
「なんかさー、こういうのやってると……その辺からメグムとかが出てきそうな気がする」
「神出鬼没だったものね、あの子」
「パルクールレースの時も、秘密の抜け道フル稼働でしたからね」
「そうなんデスよね! 例えばほら、この室外機の裏とかに――」
 ――どうしてだろう。
「……え……?」
 こよりが、僕の目の前にいる。はっきりと、僕の両目を見ている。

 ――どうしてだろう。
 どうして、僕らはまた、出会ってしまったんだろう――