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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act8 「趣味と実益と制服と呪われし選択肢」  


 何の冗談だと、やり場のない怒りが沸き上がる。その反面、現状を淡々と分析し、諦めという名の受容を選ぼうとする自分もいる。
 これが僕たちが選んだ居場所、飛び込んだ世界の正体。弱肉強食は何も命のやり取りだけに限らない。窃盗、泥棒は基本中の基本。悪の坩堝の中にいる以上、全ては自己責任。一週間も部屋を空けていたのなら、その間に何が起ころうと――
「……っ、くそっ……!」
 壁を拳で鳴らす。意味などない、八つ当たりだ。
 仕方ないでは済まされない。肩をすくめて流すことなんかできない。
 鍵は確かにかけていった。壊されているのがその証拠。鍵など意味を成さない、それが現実。
 極論すれば、この部屋にいる以外に自衛手段など取りようがないのだろう。もともと裏稼業の連中の集まる場所、隣近所は不可侵条約で結ばれている。それは安全の証ではなく、犯罪すらも容認する暗黙の了解だ。
 ……頭ではわかっていた。自分たちは既に、狙い、狙われる立場。隙を見せれば喰われる、そういう苦界に身を浸しているのだと。
 それでも、瞬き程度の間の平穏を奪われた事実に憤らずにはいられない。
 ……何故、こんなことに。
 ここは僕と智が身を寄せ合って過ごす、大切な場所なのに……!
「……とにかく、何がどうなってるのか確かめよう」
 とうに蹂躙され尽くした部屋を睨み続ける僕に、智が遠慮がちに声をかける。
「……ああ。正しい状況把握は対策のための必須条件だからね」
 対策、と口にした自分の中に、どろりと黒いものが渦巻く。けれど、それを理性で抑えつける気にはならなかった。
 粘りつく憎悪に身を浸しながら、部屋の中へと入る。文字通り足の踏み場もない。玄関から見ても無茶苦茶だった状況は、見れば見るほど悲惨さを増す。
「……ひどい……」
 智の言葉は、きっと意識より先に口をついて出たのだろう。
 タンス、ベッドの下はもちろんのこと、戸棚の中身もひっくり返され、フライパンやボウル、お皿が散らばっている。腹いせなのか、シンクではコップだったものがいくつも無残に砕け、破片は床にまで散乱していた。まるで大地震に見舞われたみたいだ。
「智、足元に気をつけて」
「う、うん」
「……一旦、土足で片付けたほうが良いかも知れないな」
「そうだね……」
 智が雑巾を絞って玄関に戻り、泥を落とした靴を履いて戻ってくる。こんなことで怪我をしたら目も当てられない。
「智はベッドやタンスを調べてくれ。ゴミ袋はどこにあったかな」
「引き出しの三段目だよ。ほうきとちりとりは洗濯機の横にかけてある。ガラスが血管に入ったら大変だから気をつけてね」
「心配には及ばないさ」
 道具を出して掃除しつつ、キッチンの引き出しの中身をチェックする。案の定、しっかり物色されたらしく、カトラリーは向きがバラバラ、乾物の袋は破かれ、中身が引き出しの中で混ざり合っている。どうやら、袋の中に貴重品があるかどうかも念入りに調べたらしい。この執念めいた徹底ぶり、相当な時間を費やしたのだろう。鍵の開け方といい、ずいぶんと大胆な手口だ。
「……っ」
 ……ここまで来ると、相手が盗みのプロという可能性は逆に低い。やられたらやり返すが通用する仕返し上等の世界だからこそ、プロならある程度の落しどころをつけた仕事をするはずだ。一定の成果が上がれば引き上げるとか、一箇所だけを徹底捜索するとか……少なくとも今回のような、被害者の怒りを何倍増しにもする荒々しいやり方はしない。
 とすれば――犯人は、盗みだけが目的ではなかったのか。
「……やっぱり、通帳類はなくなってる」
 予想通りだったとはいえ、落胆を隠せない智。必要とはいえ、確かめる作業は精神衛生上非常によろしくない。結果が予想できるからなおさら。
「金銭関係は全滅と見たほうがいいのかな」
「ベッドの下に貼り付けといた現金の封筒もない。徹底的に調べられてる」
「……そんなところにも隠してたのかい?」
「万が一のときのためにと思って。……盗られちゃったら意味ないけど」
「ノートパソコンは……無事のようだね」
「発信機とか警戒したのかな? あるいは爆弾仕込んだとか」
「触らない方が良い、か」
「何されてるかわからないからね」
「他になくなっているものは?」
「これから押入れの奥調べるよ」
「手伝うことはあるかな」
「んと、散らばってる服たたんでおいてくれる?」
「タンスの中は」
「空っぽ。全部出されてる」
「……何が犯人をそこまで突き動かしたんだろうね」
「面白いものなんかないのにね」
 状態の確認も含め、散らばった洋服をベッドに一旦並べる。ご丁寧に下着類まで出てしまっていて、雑然とした床に色気づいたアクセントが添えられている。盗まれてないだけマシかと、ハードルの低すぎる感想を抱く。
 一瞬、智の呪いが――と焦りかけたが、即座に彼が僕より可愛らしい下着を着けていることを思い出す。安心と苦笑が表情に混ざる。この状況じゃ『男女だと思ってたら女二人だった』という発想に至る可能性はあっても『男女だけど見た目と中身が逆』という発想には進みようがない。流石は智。……本人がその可能性に気づくまでは、黙っていよう。
 小さく一安心したところで、黙々と衣類をたたみ始める。放り出されたせいで変にシワがついてしまっている物が大半だ。丁寧にのばしつつ、形を整えていく。屋敷で学んだことが早速役に立つ……良いことだけど、今は嬉しくない。
 智が押入れの中のケースと格闘する音を聞きつつ、思考を巡らせる。
 考えることはただ一つ。
 ――犯人は、誰か。
 僕たちの裏社会での知名度は上がりつつある。組織の関係者はもちろん、このマンションの住人ならば薄々感づいているだろう。仮に僕たちの職業は知らなかったとしても、自分の身は自分で守るが徹底している裏社会、油断して泥棒に入ったら拳銃でズドン、なんて笑えないオチが普通にありえるし、住人の感覚が人並外れて鋭敏だったり夜型だったりとイレギュラーな事態が頻発する。そんな危ないところを好き好んで狙う馬鹿はいない。
 ここのことを一切知らないさすらいの泥棒……という線は薄い。それなら鍵を派手に壊したり部屋を荒らしたりせず、もっとスマートにことを運ぶはず。本当のプロは「やられた」ことさえ気付かれないように稼ぐと聞いている。プロが犯人なら、この部屋の状況は今と正反対になっているはずだ。
 とすれば、相手は他でもない『僕たちを』狙う理由があって、かつ僕たちが不在であることを知っていた人物ということになる。
「……ああ、なるほど」
 分かってしまえば簡単なことだ。該当者は一人しかいない。
 ―― 一週間前、逃がした男。
 失敗のツケが回ってきた、ということか。
「あ」
 タイミングをはかったかのように携帯が鳴る。言うまでもなく、組織から。
 耳元に押し当てると、妙に楽しげなダミ声が聞こえてくる。依頼担当の男だ。
『よう。お片付けは順調かい?』
「……やはり、把握していたのか」
『ったりめーだろ? そこのマンションは組織の資産だからな、廊下に監視カメラの一つや二つ当然だ。おまえらがどうなろうが知ったこっちゃないが、資産価額が下がるのは困るんでね』
「合理的な話だ」
『ま、今回はそういうことすらわからねえ馬鹿の仕業だってこった。周りが見て見ぬふりをするのをいいことに、まあ堂々とやってくれたぜ。扉を全取っ替えするのにいくら掛かると思ってやがんだか』
「……そちらも、随分腹に据えかねているようだね」
『おうよ。利害の一致って奴だ』
 男はするりと話の道筋を立てる。
『もちろん、不法侵入なんてチンケな理由だけじゃねーけどな。聞くか?』
「それが目的なんだろう?」
『っは、相変わらず話が早いな』
 特に驚きはない。組織が何の理由もなく僕たちにコンタクトを取ることなどありえない、まして僕たちが帰ってきたタイミングに合わせての電話。言われなくたって、目的はわかる。
『今回のは、おまえらが一週間前に潰した奴らと関わってたグループだ。いきがってルールを無視してデカイところとつるめなくなったもんだから、チマチマと馬鹿同士くっついてたわけだな。あの時一人増えてたのは、要は甘い汁の分配ってとこだろう。で、一人だけ逃げ帰ってきて、そのままじゃヘタレの烙印を押されるからと報復に出た』
「……なるほど」
 報復――盗みのついでに壊したのではなく、壊したついでに盗んだというわけか。それならこの惨事にも納得がいく。
『ま、インターホン鳴らしてお前らがいないのを確かめて入ってったから、所詮ヘタレなんだがな。しかしまあ、ヘタレで小回りが利く、そのくせやり口は下手くそで手段を選ばないってのは目ざわりだ。組織でも厄介な奴らと前々から話題になってたんだが、今回ので上の逆鱗に触れた……そんなところだ。どうする?』
「……」
『依頼料は現物支給プラスアルファってとこだ。鍵がぶっ壊れた以上、そこに住むわけにはいかねーだろ? 新居の用意に引越しその他、こっちで都合つけてやる。もちろんそれとは別に金も払う。まあ、いつもよりは安くなるだろうが』
「なかなかの好条件だね。もっと値切ってくるものかと」
『こちとらデカい組織なんでな。本丸に攻めこまれでもしない限り、責任取らせるなんて面倒なことは言わねえ。持ちつ持たれつってやつだ』
 必要以上の恩は売らず、ギブアンドテイクの形を提唱する……そこには裏の意図が見え隠れする。
 すなわち、好条件を付けてでも仕事をさせたい。
「……」
 あえて沈黙し、出方を伺いながら身の振り方を考える。
 目には目を、歯には歯を。言うまでもない常識。
 ただ、今は智の怪我がある。浜江の話からして、彼の傷はまだ予断を許さない状況、派手に動くのは避けたい。今の僕には先日乗せた命があるから、智の回復を待つぐらいはできるだろう。何も今すぐ無茶をする必要はない。
 かといって、やられっぱなし、盗られっぱなしで良いのか。
「……相手は、何人だ」
『五人だ。他グループにもあれこれ声を掛けたりしてるみてーだから、ほっとくとゴキブリみたいに増えるだろうな。潰すなら今だぜ』
「……五人……」
 繰り返す言葉に、苦々しさが混ざる。
 ……正直言って、多すぎる。
 イレギュラーが絡んだ結果だが、前回は四人で失敗した。こっちが主導権を握れるとはいえ、手負いの智と僕でどうにかできる範囲を超えている。おまけに智の能力にも疑わしい部分が出てきてしまったとなれば、危ないどころか崩れかけの橋だ。
 それに、報復に報復で返せば地獄の連鎖に巻き込まれる可能性もある。その危険に身を、運命を委ねていいものか。
 ……前回だって、元はと言えば僕の感情が招いた事態だった。結果的に良い方向に進んだ面もあったけれど、智に怪我をさせてしまったことには変わりない。まして、今回は前回よりも条件が悪いんだ。気持ちだけで選択するには危険が多すぎる。
『……さすがに、勢いで殺るって言うほど馬鹿じゃねえか』
 返答の遅さに空気を読んだか、電話の向こうで男が舌打ちをする。
『まあいい、今日はそちらさんも混乱してるだろうしな。返事は三日待ってやる』
「返答次第では?」
『他の奴に依頼する。放置しとくと面倒になりそうなんでな』
「……そうか」
『良い返事、期待してるぜ』
 それなりの本音を交えた言葉の後、電話が切れる。
「……他の奴らに依頼する、か」
 明言されたことに、組織の本気度を知る。
 どうやら、今回の件は優先順位が高いらしい。それも、早急に最終手段を用いたいほど。相手ははみ出し者の群れという扱いだったから、大組織同士の抗争などではなさそうだけど、のうのうと待っていられる状況でもないのだろう。
 ……どっちにしろ奴らが潰されるのなら、見知らぬ誰かに任せて溜飲を下げるという手もあるか。人数的にも状況的にもその方が安全なのは間違いない。
 僕たちが今やらなければならない理由がないのなら、わざわざ首を突っ込まなくても――
「惠……電話、なんだったの?」
 智がベッドに乗ってくる。ひどく不安げな表情。視線を合わせる瞳の奥が揺れ動く。
「組織からだよ。ここを狙った犯人がわかったそうだ」
「本当!?」
「ああ。そして、組織は犯人をどうしても懲らしめたいらしい」
「……え、なんで?」
「本質的には僕たちとはあまり関係ない理由のようだね。ただ、いきなり依頼してくる程度には本気だ」
「依頼されたんだ」
「新しい住処に、安くはない依頼料。条件だけを見れば渡りに舟だ。ただし、相手は五人」
「ご、五人!?」
「僕たちが断るなら別の誰かを雇うとも言っていた。一刻も早く手を下したいんだろう」
「……別、の……」
 智は困り顔で目を伏せ、何かを迷い始める。
 仕返ししたい。けれど、それだけでもない……のだろうか。
「惠はどう思う?」
 問いかけは、純粋に僕の意見を欲している。
「感情と理屈で逆の結論が出るんじゃないかな? ただ、僕たちのあずかり知らぬところでも決着がつく保証があるという点では、理屈の方に分があるかもしれない」
 それならばと、正直なところを伝える。余程のことがなければ今回は見合わせたほうがいい、それは間違いない。
「……そっか、そうだよね……」
 しかし、何とも歯切れの悪い反応。無理を承知で、という彼の意志が透けて見える。
 もちろん、僕だってこのまま彼らを放っておきたくはない。けれど、その方が何かと楽だし、安全だ。万全の体勢ならまだしも、危険なのは怪我をした智自身が一番よくわかっているはず。それを押してでもという理由は、僕には思いつかない。
「あ、あのね……その、たいしたことじゃないかもしれないんだけど……」
 智は言いにくそうに口ごもる。
「話してごらん。君がここまでこだわるということは、それ相応の理由があるはずだ」
「う、うん……」
 何故か顔を赤らめる。ますます不思議だ。この状況で、そんな感情が混ざるような要素があるんだろうか?
「今、押入れの中ぜーんぶチェックしたの」
「うん」
「それでね、武器とか、おふとんとか、バスタオルとか、上着とか、そういうのは無事だったんだけど」
「……だけど?」
「……あう……」
 ますます真っ赤になる。落ち着かせようと手を伸ばすと、さわりと頬に当てられた。ちょっと熱い。
「……その、ないんだ」
 十分にためらってから、口を開く。
「ない……? 何が?」
「……僕の、制服」
「…………は?」
 予想外過ぎる答えに、思わず間抜けな声を出す。
「惠の詰襟は残ってた。同じ所に入れてあった、僕の南総の制服だけがないの。つまり」
「……金目のものと、智の制服が盗まれた……?」
「そう」
「……なんで、そんなもの……」
「僕が聞きたいよぅっ! なんでよりによって、僕の制服……っ」
 半泣きだ。板についているとはいえ、智は好きで女装をしているわけじゃない。もちろん制服だけでは智の性別はわからない。わからないからこそ、おぞましい。
 智の制服が盗まれた。
 それは、お金がなくなるよりもずっと彼を怯えさせる。
「変な男に触られるだけでもイヤなのにっ……悪い奴らに持ってかれちゃったら、それこそ何されるかわかんないよぅ」
「……しかし、制服なんて売ったところで大した金額には」
「南総の制服は人気なんだよ。制服目当てで入ろうとする人もいるぐらい」
「……なるほど、そうすると、プレミアがついてるかもしれないな……中古だからこそという層もいるかもしれ」
「やあぁのぉ! 惠それ以上言っちゃやぁぁのぉ! 想像するだけで身の毛がよだつっ!」
 首をぶんぶん振って、両手で自分の肩を抱いて縮こまる。尋常じゃない嫌がり方だ。
 ……そりゃそうだろう。僕の詰襟が残っていて智の制服がないということは、相手がそこに価値を見出したということだ。高額で売りさばくルートがあったとしても不思議ではない。そして、大金を出してでも手に入れようという輩がいるのだとしたら、その人物の趣味と制服の行く末は推して知るべし。
 たかが服と言えばそれまでだ。けれど、そう割りきってしまえないほどに、想像はリアリティをもって迫ってくる。
 趣味趣向による需要と供給は、下手な悪意よりたちが悪い。
「つまり、智は制服を取り返したいんだね」
「うん。……しょうもない理由だとは思うんだけど、でもでも」
「大事なのは君がどう感じるかじゃないかな」
「あう……」
「……とはいえ、それだけでは弱いかもしれない」
「……そう、なんだよね……」
 智の気持ちはよくわかる。けれど、それは前回以上の危険を選択する理由とするには少々力不足だ。制服と五人相手の立ち回り……智にどれだけ肩入れしても、天秤は行かない方に傾く。
「制服取り返すだけなら、組織が声をかける予定の人と組むとか、回収してもらうとかの手もあるよね」
 智もそう思うのか、なんとか妥協案を探そうとする。できることなら同調したいし、智の気持ちを汲みたい。けれど、いざ実行を考えるとすぐに弊害に気づいてしまう。
「しかし、組織が声をかける予定の殺し屋が友好的だという保証はない。下手をすれば別のトラブルを呼ぶ可能性もある」
「そもそも、僕たちを信用してもらえるかが問題かな……やってることがやってることだし」
「制服を取り返したいという理由は、一般人に近い発想だ。嘘だと思われても致し方ない面もあるかもしれない」
「冗談抜きで嫌なんだけどなぁ……」
 智が頭を抱える。
「気分的にはアレだけど、実害はないんだよね……うう、でも」
 青ざめ鳥肌を立て震える姿は、見ていて気の毒になってくる。彼がここまで何かに嫌悪感を示すのは初めてじゃないだろうか。もしかして、それに類する実体験や経験談を聞いたりしているのか。
 ……こんなに嫌がる姿を見たら、説得することすらためらわれる。
「返答は三日待ってくれると言っていた。今すぐは結論を出さなくてもいいんじゃないかな」
 一旦は話を切り上げよう――とりあえず、そう判断する。今は疲労が溜まっている上に侵入の衝撃を受けている状態だ、お互いに冷静さを欠いている部分もあるだろう。少し睡眠を取って、当面の予定を立ててから考えても遅くはない。
「智、一旦休むのはどうかな? 丑三つ時の空気は心を惑わせる、陽光の下ならば名案が浮かぶかもしれないよ」
「……ん、そうだね。制服もだけど、鍵が壊されちゃった部屋に住み続けるわけにもいかないし」
「衣食住の目処を立てるところから、か……ええと、当面の宿は」
「……惠」
「ん?」
 智がさっきとは違う青ざめ方で、持っていた財布をくるんとひっくり返す。一週間前にここを出る時に持ち出した、最低限の金額しか入っていなかったそれは、もはや――
「……」
「……はは」
 人間は。
 本当に信じられないものに出会ったとき、笑うしかないという。

「……というわけで」
「無一文になりました」
 燦々と降り注ぐ陽光とは対照的に、目の下にくまを作ってどんよりと立つ二人組。
「……あ、あらあらあら……」
 あまりにも想定外の事態に、佐知子はどう反応したらいいものやらと困っている。
「昨日の今日で、その……正直、恥ずかしいんですけど……すみません」
「わらにもすがる思いというのは、こういうことをいうのかもしれない」
 二人して頭を垂れる。頼み込むにしても大分気合が足りていない。
 泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目。どんな状況でもお腹はすくし、眠くなる。
 しかし、悲しいかな、地獄の沙汰も金次第。
 金目の物を根こそぎ盗られてしまった僕たちに残されていたのは、田松に戻る交通費程度のお金だけ。
 冷蔵庫の中身はとっくにダメになっていたし、鍵が壊れた部屋ではおちおち寝てもいられない。残飯を漁って体調を崩したら大変だし、野宿は智の呪いの意味でも、僕の身体の意味でも危険すぎる。
 贅沢は望まないけれど、最低限度の衣食住がないとどうにもならない。
 ……結局、僕たちには屋敷にとんぼ返りするしか選択肢がなかった。いや、その選択肢があったことが不幸中の幸いだったというべきだろう。
 色々と引っかかる部分はあるものの、もはやなりふりかまってはいられない。
「佐知子……迷惑だろうが、一時的にでいいから、その……泊めて、くれないだろうか」
「お礼は後で必ずしますから」
 二人して頭を下げる。なんだかふらつくのは、昨日一睡もできなかったからだろう。
「そんなにかしこまらなくても。お二人なら大歓迎ですよ」
「ほ、ほんとですか」
「ええ。浜江さんだって、いいと言うはずです」
 驚きを経て、佐知子は快く僕たちを迎えてくれた。ほっと胸をなでおろす。
 断られることはないだろうとは思っていたけれど、いざ頼むとなるとやはり緊張した。屋敷への抵抗感は一週間前とは比べ物にならないほど薄れたけれど、だからといってほいほい立ち寄っていいものではない。心が根を下ろさないようにという浜江の計らいは正しい。僕たちはあくまで、ここから独立しているし、昨日再び旅立ったんだ。
 ……それでもここに戻らざるを得ないというのは、なんとも皮肉な運命。 
「すみません、本当に」
「いいえ。こんなに早くお二人に会えて、私は幸せです」
「少々、見苦しい姿かもしれないが」
「その様子だと、寝ても食べてもいないんじゃないですか? お休みとお食事、どちらが先がいいですか?」
「智は、どちらが良いかな」
「……まずは、安心して眠りたい……かな」
「わかりました。惠さんのお部屋、ちゃんと掃除してありますから」
 佐知子がにっこり微笑む。僕がいるいないに関わらず、彼女はあの部屋を僕がいたころの状態に保ち続けるのだろう。それは彼女の身体に染みついた、癖のようなものなのかもしれない。
 どうぞ、と部屋に案内される。ただいまと心の隅でひそかに思う。
 通された元僕の部屋は、昨日の今日で何か変化があるわけもなく、見慣れた様子そのものだ。
「それでは、ごゆっくり。詳しいことは後でお伺いしますから、とりあえずはお休みください。何かご用がありましたら、遠慮なく」
「ありがとうございます、佐知子さん」
 ぺこんと頭を下げる智。僕も一緒にお辞儀する。
 扉が閉まると、智が大きく息を吐いた。何やら足元がおぼつかない。肩を支えるようにしてベッドに誘導する。
 身を投げ出すようにして智がベッドに寝転がる。と、引き寄せられる。
「んにゅぅ……めぐむも一緒にねよ?」
「……甘えるには、時間が早すぎるんじゃないかな」
「惠も寝てないでしょ。無理しちゃ駄目だよ」
「そんな、特に無理は……」
「一人で寝ると、怖い夢見そうなんだ。だから……ね?」
「……怖い夢……盗人の夢とかかい?」
「惠、わかってて言ってる」
 ぷうっと膨れる。
「……ふふ」
 膨れた頬を人差し指でつつく。たったそれだけで胸に満ちる幸福感。間近で感じる吐息と、慣れた場所に感じる安心もあいまって、僕にも抗いようのないまどろみがやってくる。今後のことを考えるにも二人で相談しなければならないのだし、とりあえずは身体を休めた方がいいだろう。
「では、お言葉に甘えても良いかな?」
「どうぞ」
 もぞもぞとベッドに入りこむ。いつも二人でひとつのベッドを使っているから、慣れたものだ。
 ごく自然に腕を絡め、抱き合う。
「あったかい、ね」
「……ここがあるのも、星の導きなのかな……」
「うん……きっとそうだよ。ここなら、安心して眠れる……」
「智……辛いだろう……? こんな目にあって」
「惠がいるから、大丈夫。惠といるためなら、大丈夫」
「智……」
「もっと、傍……ぎゅって」
 腕に力を込める。体温と共に、ゆるやかに魂が混ざり合う錯覚。
 追い立てる日々の鎖から、この瞬間だけは解き放たれるような気がする。
 起きたらまた、考えなければならないことが山のようにある。けれど、智がいるなら頑張れる……気がする。
 僕にしては妙に前向きな発想は、智から伝染ったものだろうか? それなら、悪くない。
 ぬくもりを道しるべに、甘く溶けるように意識が流されていく。

「制服、ですか?」
「制服なんです」
「変なモノに目をつけたと思わないかい、佐知子」
「……たしかに、変わってますね」
「それだけがなくなってたっていうのが、すっごい不気味で……」
 夕食後、お茶をいただきながら状況を詳しく説明する。逃がした相手に侵入されたこと、通帳から現金から全てなくなっただけでなく、住めないような状態にされてしまったこと、そして……智の制服が盗まれたこと。
 部屋を追われたことや無一文になったことに比べたら、制服のことは些事といえなくもない。しかし、心情的な部分はさておき、盗難はある意味『よくあること』だ。盗みに入られたら金目の物がなくなるのは当然、諦めもつく。対し制服は明らかなイレギュラー要素な上、理由もわからないし、どうしても悪い方向に深読みしてしまう。話題がそっちに傾いてしまうのは自然なことだった。
「智さんの学校の制服は、そんなに人気があるんですか?」
「ある……みたいです。ただ、全国で一番とか、そこまでではないと思います。リニューアルされたわけでもない、現行のものですから、手に入れようと思えば手に入れられますし」
「わざわざ盗むほどのものではないということか」
「かさばるし、ついでに持って行こうって感じじゃないと思うんだよね」
「では、何か目的があるということでしょうか?」
「多分。でも、その理由が全然……」
「……」
 三人揃って考え込む。浜江がお茶のおかわりを入れてくれる。
 一晩、必死で考え込んでもわからなかったことだ。三人寄れば文殊の知恵とはいうけれど、急に突破口が見えるというわけにはいかないだろう。しかし、少しでもヒントが見つかれば……
「……ひょっとして」
 何か思いついたのか、佐知子が表情を曇らせる。
「あの、智さん」
「なんでしょう?」
「智さん、制服にお名前を書いていませんでしたか?」
 佐知子が問うのは、想定外の質問だ。智は一瞬視線を上にあげて考え、戻す。
「名前ですか? 確か書いてたと思います。万が一にも取り違えたりすると大変なので」
「……そうですか……」
 返答に確信を深めたのか、視線を落とす佐知子。逡巡するように紅茶の水面を見つめた後、ゆっくりと智の方に視線を移す。
「……あくまで可能性ですが……犯人の目的は制服そのものや智さんではないかもしれません」
「え?」
「どういうことですか?」
「……」
 佐知子は辛そうに目を閉じる。違ってほしいと祈るかのような沈黙。
 低い声を、搾り出すようにして予想を口にする。
「……悪人というのは、僅かな縁も見逃さないんです。親子、兄弟だけで足りなければ、親族、知り合い……あらゆるところに手を伸ばします。智さんの名前入りの制服が悪人の手に渡ったということは、相手に『学校』という縁を教えてしまったことになるんです」
「――――!」
「学校……!」
 想像すらしていなかった切り口。
 そうだ、智は学校に通っていて、あの服は……!
「制服がある以上、悪人は智さんの情報を探す必要すらありません。同じ制服を着ている人を狙って、盗んだ制服を使って脅して……そういうことが、ありえるんです」
「そんな……!」
「意地汚い悪人は、そういうことをします。悪知恵だけは働くんです」
 佐知子の言葉には暗い力がある。
 おそらく、彼女自身、その実例を見せられ苦しんだのだろう。
 人はひとりでは生きられない。仲の良さ、縁の深さはバラバラだけど、生きていれば必ず誰かとの接点が生まれる。学校に通っているならば、問答無用で学校という世界との接点が生まれてしまう。
 おそらく、智は学校では行方不明という扱いになっているだろう。智を知らない生徒にも名前だけは広まっているかも知れない。そんな生徒の制服だ、交渉カードとしては優秀すぎる。
 ……それを利用しようというのか。
 僕たちとは何の関係もない人々を、巻き込もうというのか……!
「惠さんは、詰襟に名前を書いてないですよね」
「自分のものではないのだから、主張を刻む必要はないんじゃないかな」
「……だから、残ってたってこと……? 名無しの服じゃ誰も脅せないから、だから……」
 佐知子の予想は、恐ろしいほどに説得力がある。同時にそれは、予想もしなかった被害の拡大を示唆する。
「警察に掴まれたら困るから、そう大々的にはやらないかもしれないが……しかし、引っかかる子が一人でもいれば、そこから芋づる式に広がっていく可能性も」
「……っ……!」
 智は顔面蒼白になる。制服そのものが目的だった方がまだマシと思える、世界にはびこる悪意の網。表と裏の境界線は自分で飛び越えるには大きな溝だが、引きずり込まれる場合は別だ。
 何の罪もないのに、ただ運が悪かったというだけで理不尽に落とされるのだとしたら、その理不尽の原因を、僕達が作ってしまったのだとしたら――
「――惠」
「ああ」
 智の言いたいことは、聞かずとも分かる。
 ……まだ、間に合う。
 組織は智の制服については言及しなかった。つまり、相手はまだ具体的には動いていないということだ。
 今止めれば、取り返せれば、縁を断ち切れれば――守れる。名も知らぬ無辜の民を、智を知る善良な人々を守れる。
 ……ならば、迷う必要などない。
「……最後の一押しとしては、十分だ」
 そこにあるのは、正義だの信条だの理念だのではない。
『これ以上誰かを巻き込みたくない』――そんな、エゴにも似た衝動。

『ほぉぅ、やるってのか』
「そちらとしても、出費は少なく抑えられるんじゃないかな」
『確かになぁ。いくつか候補者探してたんだが、やっぱお前らが一番だわ』
「お褒めにあずかり、どうも」
『ま、すっからかんで行き場もない浮浪者予備軍になるとこだったんだしな。俺はやってくれると思ってたぜ』
「そういえば、そうだったか」
 忘れていたわけではないが、重きを置いてもいなかったことを指摘される。確かに、手っ取り早く収入と住処を得るという意味でも今回の依頼は魅力的だった。屋敷があったのは奇跡に近い、普通なら全財産取り上げられれば即刻路頭に迷う。
 ……いずれにせよ、こうなることは決まっていたのかもしれない。しかし、確固たる理由付けは僕たちに欠かせないもの。究極の役目を担う以上、たとえ結果が同じでも、納得出来るだけの行動原理が欲しい。それがギリギリで踏みとどまろうとする僕達の最後の一線だ。
 もちろん、電話口の男には、僕たちの理念など何の意味もないし、決断した理由もどうでもいいだろう。彼はあくまで行為を見て、行為を依頼するだけだ。
 我が意を得たりと、喉を鳴らす音がする。
 ……その後、意外な提案を出してきた。
『そうと決まれば、組織としても手助けしてやりたいところだな』
「手助け?」
『ああ。流石に二対五じゃ分が悪いだろ? 今回は失敗されたくないんでな、助っ人用意してやるよ』
「……ずいぶん優しいね。どういう風の吹き回しかな」
 流石に警戒心が沸き、問いただす。不利なのは事実だが、OKした時点でその辺は覚悟の上だし、そう判断されるものだ。助力があるのはありがたいけれど、こちらが要求してもいないのに手を貸してくれるなんて話がうますぎる。
 タバコをくゆらせでもしているのか、言葉が止む。
 間を置いて聞こえてきたのは、なんだか苦そうな口ぶり。
『理由はしらねーが、てめーらは常務のお気に入りなんだよ。やるなら常務お気に入りの手駒を出してくれるって話は最初からあった。あえて黙ってたけどな』
「常務?」
 聞いたことのない人物名、いや役職名か、ともかく耳慣れない言葉にまゆをひそめる。
『常務は常務だ、詮索すんな。ともかく、てめーらに早々に死なれちゃ困るんだとよ』
 ぶっきらぼうな口調に苛立ちが混ざる。どうやらこの男は常務とやらと反りが合わないらしい。あるいは常務とは違う権力グループに属しているのか……まあ、どうでもいいことだ。
 助っ人、か。
 わざわざ入れる以上、他の理由があるんだろうが、味方は一人でも多いほうがいいのは事実。危険になることがわかりきっている現場に駆り出すということは、ズブの素人が来る可能性も低い。どさくさにまぎれて僕達を消そうとしている可能性も否定できないが、だったらこんな面倒な事はせず、昨日の時点で襲いに来ればいいだけのことだ。
 信用できるかどうかは別として、それなりには役に立つ人物が来ると見ていいだろう。いずれにせよ、僕たちはやるべきことをやるだけだ。提案のふりをしているものの、実質は強制参加だろう。断る権利はあるようで、ない。
「組織のせっかくのご厚意、断るのは義に反するだろうね。して、その助っ人とは誰なのかな」
『当日まで秘密だ。日程と時間と待ち合わせ場所を指定しろ、そこに向かわせる』
「……なるほど」
 つまりは、僕たちとその助っ人とやらが個別に連絡をとる状況を作りたくないということか。僕たちを疑っているわけではなく、大組織ならではの徹底した危機管理。そして、助っ人はそんな会ったばかりの急造のグループでも十分に実力を発揮できるような人物だということだ。それなら心強い。
『心配はいらねえよ。キナ臭い噂から人外疑惑まである、いわくつきの実力者だ』
 予想を裏付けるようなことを言ってくる。苦々しい言い方なのは、常務ではなく助っ人そのものに対する感情のあらわれか。
『俺だったら、あいつとは組みたくねえな。ま、今回限りだと思って諦めろ』
「実力があるのなら、どんな奴でも構わない……そういう発想はどうかな」
『っはは、いい度胸だ』
「相手も、僕達の役目を知っていて来るのだろう? だったらお互い様じゃないかな」
『だな。ま、せいぜい頑張れよ。相手のアジトやら何やらは決行日が決まったら教えてやる。じゃあな』
 電話が切れる。
「……ふぅ」
 ため息ひとつ。
 ……これで、もう後戻りはできない。五人相手の立ち回り、おまけに相手のアジトでの戦い。不安材料てんこ盛りだが、泣き言を言っている場合じゃない。僕達の前にあるのは一本道、問われるのはそこをどう進むかのみ。
 この状態での助っ人……喜ぶべきか、いぶかるべきか。おそらくは両方。誰だかわからない以上は対策の取りようもないし、その場で話を聞いて諸々を判断するしかないだろう。それに、目的が僕たちのヘルプだけとは考えにくい。犯人に個人的恨みがあるとか、組織も何か盗まれていてそれを回収したいとか、そんなところかもしれない。
 まあ、分からないものは考えても仕方ない。頭数が増えるだけで気分的には随分楽になる。それだけでも大きな違いだ。
「話によると、今回は助っ人を出してくれるそうだよ」
「なんか、あっちもすごい気合入ってるね」
「表での常識が通じないからこそ、締めるところは締めるという感じかな」
「最初に組織に声かけといてよかったね……何も知らずに暴れてたら今頃どうなってただろう」
「結果論だが、悪くない選択をしているのかもしれないね」
「僕、勘はいい方なんだ。今回はきっとうまくいく、そんな気がするよ」
「ああ。君がそう思うのなら、きっと」
 半分は願い、半分は直感的に、智の言葉を肯定する。能力としての形は不明瞭なものの、智の予想そのものは今まで外れたことがない。彼が大丈夫というなら、100%ではなかったとしても、成功確率は相当高いだろう。
 もちろん、だからといって気は抜けない。何が起こるか分からないのが世の中だ。最も過酷な挑戦を迎えるのだから、準備は今まで以上に念入りに行う必要がある。
「とりあえずは……智の武器かな。気絶させるのならスタンガンとかはどうだろう」
「護身術だけだと、多人数相手はちょっと危ないよね」
「実際に当てなくても、見せるだけで牽制になる。今回君は迎え打つスタイルを取ったほうがいい」
「見る人が見れば、足をかばってるのわかっちゃうもんね」
「僕たちだけでなんとかなるように組み立てよう。助っ人はあくまで時間短縮や効率化の要素だ」
「うん」
 そうと決まれば、善は急げ。
 携帯から裏の住人御用達の販売サイトにアクセスし、あれこれと買い物をする。裏業界を相手しているだけあって、受け取り場所や時間も相当に融通が利くから助かる。組織と繋がっているということも確認しているから、僕たちとしては非常に使いやすい。
 スタンガンに脱臭と防水効果の高いバッグ、薄型ナイフ……相手が変われば武器も変わる。そうして実力も発想も磨かれていくのだと思うと、複雑な気分だ。
 細々と小さな依頼だけをこなしていけたら十分……なのに、気づけばより危ない方、危ない方へと進んでいる。わかっているのに、歩みを止められない。
 だって、僕たちはひとりじゃない。歩んできた道を、関わってきた人を、なかった事にはできない。前回も今回も、僕たちは自分たちではない誰かを守るために決断を下している。目を逸らし、絶ち切ってしまえば『僕たちは』無事ですむのに、そうはしない、できない。
 絶ち切ってしまえないものが、まだこの胸の中にある。佐知子も、浜江も、僕が知らない智の学校の誰かも捨ててしまえない。
 それは理屈では説明できない、抑えられない衝動だ。人の道に外れ、もう戻れない僕たちが、人の道を歩む人々にできる僅かなこと。
「……どうして、処分しなかったんだろう」
 智がぽそりと呟く。
「もう着ないのに、学校なんか行かないのに……どうして、制服を残しちゃったんだろう。あれさえなければ、今頃は……」
「智は、制服を捨てようと思ったことがあったかい?」
「ううん、ない。それがすごく不思議で」
「だったら、それが答えなんじゃないかな。きっと、あの服を、縁を残しておくことが、智にとって自然なことだったんだ」
「でもそれって未練がましいよね」
「君は、佐知子と浜江を助けようとした僕を笑うかい? あれもまた、残された縁を手繰り寄せた結果だろう?」
「……そっか、そう……だよ、ね」
「合理的な判断は、想いには勝てない。この道は、そんな絶対的な法則のもとで動いているのかもしれない」
「うん……」
「だから、君が気にすることも、躊躇うこともないんだ」
 前回は、智が背中を押してくれた。だから今度は僕の番だ。
 今の僕は、今すぐ乗せる命を欲している状態ではない。それでも手を汚すと決めた。
 見知らぬ誰かを救いたいというのは、一種のエゴだ。著しく公平さを欠いた、私情の選択ともいえるだろう。
 正しさなどこの世にはない。理不尽の怪物の選択は、どちらに行こうと犠牲者を生む。
 僕たちにあるのは、いわば「犠牲者を選ぶ自由」。握り締めているのは呪われた選択。
 それでも、選ぶことを放棄してしまうよりはいい――そう、思いたい。

 円塚を歩くと、煤けた懐かしさが込み上げてくる。人の顔は知らないが、道の記憶は鮮明だ。
 決行日、深夜。いつもの黒いコートに身を包み、智と二人で路地を行く。時間は大分遅いけれど、場所が場所だからか、時折人の気配がしたりもする。しかし、ここは繁華街とは異なる世界。裏の住人はきちんと狙いを定めるまで話しかけてきたりはしないものだ。
 今回はいつもの髑髏面はつけずに来た。助っ人がいる以上、顔ぐらいはきちんと見せるのが礼儀だろう。その場限りの縁という形だけれど、依頼担当の男が言った通りなら、二度三度と会う可能性はゼロではない。
 緊張もあってか、二人の間に流れるのは息遣いだけ。考えうる限りの準備はしてきたし、智が大丈夫だという日を選びはしたが、それでも圧倒的不利な状況に飛び込む恐怖を払拭することはできない。
「……」
 きゅ、と智が手を握ってくる。軽く握り返す。
 待ち合わせ場所は、ターゲットのアジトから五分ほどのところにある廃ビルにした。通路沿いにありながら建物は少し奥まっていて、手前側が小さな空き地のようになっているところだ。変わった作りは目印にもなるし、いざ何かあったとき、広い空間があるかないかで取れる策は大きく異なる。助っ人が本当に助けてくれるのかもわからないのだから、万全を期すに越したことはない。
 到着してみると、待ち人はまだ来ていないようで、気配もなかった。仕方が無いのでビルの入り口付近に立って待つ。時間はぴったり、おそらく相手もこちらに向かっている最中だろう。
 お世辞にもきれいとはいえない、ねずみ色に藍色を溶かしたくすんだ町並みに視線を投げる。円塚は田松の吹き溜まり、悪人が悪人を呼ぶ無法地帯だ。過去の市長が何度も改革案を出したけれど、そのたびなんだかんだといって先延ばしにされている。これだけ大きくなってしまうと、様々な利害が絡みあう社会が構築されてしまっているのだろう。表のトップがどんなに頑張っても、裏の意志は握りつぶせるわけがない。なにせ、裏には僕たちのような究極の『目的のためなら手段を選ばない』存在がある。「命を賭して」という言葉は表では意味を成さないスローガンだが、裏ではそのままの意味に取られるし、その通りになってしまっても文句は言えない。となると、表と裏は折り合いをつけて共存するしかないというわけだ。
 ……ここを生きる人々も『人間』なのだから、当然といえば当然。色眼鏡とレッテルは人の弱さが生み出した免罪符で、使う側をなんとなく正しい気にさせる麻薬のようなもの。それを振りかざしたところで根本的な解決とは程遠く、問題をさらにこじらせるだけだ。
 結局、たどり着いた場所であがき続けるしかないのだろう。ここに住まう人々も、僕たちも、光ある舞台を歩む人々も、やるべき事は、できることは限られている。
 と―― 
「……お前たち、ここで何をしている」
 思考迷路をくぐっていると、男が一人現れた。
 態度から察するに、どうやら待ち人ではないらしい。年の頃は二十代半ばから後半、精悍な顔つき。しっかり鍛えているのだろう、体格も気配も引き締まっているし、腕も立ちそうだ。この界隈の住人だろうか?
 突然の来訪者はこちらへ歩いて来る。不思議と危険は感じない。それが逆に妙な気がする。
「こんな場所、一般人がこんな時間に来るところじゃない。早々に帰れ」
 忠告……警告か。少し苛立っているようではあるが、それは僕たちに対してではなさそうだ。
 プレッシャーを与えない程度に近づいて足を止める。両の瞳にあるのは――心配?
「もし道に迷ったということなら、安全な通りまでは送ってやろう。とにかく、早くここを去るんだ」
「……」
 思わずきょとんとする。
 ……意外だ。どうやらこの男、本気で僕たちが一般人だと思い込んでいるらしい。確かに髑髏面は付けてないし、暗くて服装もハッキリとはわからないから、そう思ってしまう可能性もないことはないが――こんな時間にこんな場所にいること自体、常識はずれだろうに。
「……ああ、警戒しないでくれ。最近は肝試し気分で円塚に入り込んでくる若いカップルが多くてな。余計なトラブルに巻き込まれる事態が頻発しているんだ。お前たちもその口じゃないのか」
「そんなことが?」
「おそらく、勇気と無謀は違うということさえ分からないんだろう。警戒心が足りないし、見立ても甘い。そういう奴らに来られると秩序が乱れる。つまらん衝突を起こさないためにも、住み分けてもらいたい」
 ……なるほど、男女という組み合わせが根拠になったのか。確かに裏の住人は一匹狼か数人の群れ、異性の二人組というのは珍しい。僕たちの場合は少し異質だが、まあそこは置いといて。
「俺は、表の人間が意味もなく裏に引きずり込まれるのを望まない。二つの世界は厳然と分かれているべきだ」
 言っていることはもっともな上に、態度も紳士的。凛とした姿にはカリスマ性もある。大方、この辺のグループを取り仕切っているリーダーといったところか。リーダーが一般人とおぼしき二人組に声をかけるというのはおかしなことでもあるけれど、彼が本当に僕たちを心配してくれているのは間違いないさそうだ。
 裏のルールも危険も知らない、無鉄砲な若い男女二人組――彼には僕たちがそういう存在に見えている。だから心配してくれた、というわけだ。
 ……さて。気持ちは嬉しいけど、そうなると逆に困る。喧嘩を売られたら買うなりかわすなりすればいいが、こういうときはどう対処したらいいものか。待ち合わせの時間は過ぎているし、助っ人に連絡の取りようがないから、ここを離れるわけにもいかない。かといって素直にここにいる理由を話したら逆に刺激してしまうだろう。彼が僕たちを疑っていないのなら、それに越したことはない。けれど、このままだと気を利かせたこの男に追い出されかねない。
「……」
「……」
 智と顔を見合わせる。彼も多分似たようなことを考えていて、妙案が思いつかないんだろう。そんな僕たちの反応に、男はさらにダメ押しをしてくる。
「俺が信用ならないか? 確かにこういう所で声を掛けてくる人間を警戒するのは無理もないが、ここにいるのは危険だぞ。何かあってからでは遅い、早急に」
「――やめておけ、姚任甫。そいつらはあたしに用がある、れっきとしたこっち側の人間だ」
「!」
 反対側から声がした。どうやら、男に気を取られすぎたらしい。
 振り返ると、小さな身体を隠すような鍔の大きな帽子に、くるぶしぐらいまであるロングコートをはためかせた……え?
「待たせたな。あたしがお前らの待ち人だ――って、お前ら!?」
「んな……!?」
「なんだ、知り合いなのか、ヤンフイ」
 ヤンフイと呼ばれた、その姿には見覚えがあった。いや、見覚えという言い方をするには少々距離が近い――
「尹……央輝……」
 今夜の助っ人として現れた少女。
 それは、色んな意味で少なからぬ因縁のある人物……尹央輝だった。