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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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chapter 36 


 アスファルトから生える樹のように、泰然として待ちかまえる。混ざりあいさざめく心から意識を一歩外に置き、今なすべきこと、辿るべき手順を反芻する。
 夜はとっぷり暮れ、けれど丑三つ時には遠い、独特の賑やかさととろりとした熱気のさまよう歓楽街の奥深く。
 夢で見た光景を数分後に控え、ネオンのちらつきを視界におさめる。深呼吸で入ってくる空気に混ざるアルコールの残り香。少し酸っぱさを感じるのは、この界隈が悪い意味での酩酊の代名詞からだろう。
 本通りから少しはずれた裏通り。主役のいない今こそ危うさがないものの、ひとたび役者が現れれば一瞬にして危険の渦と化す。
 本来ならば、僕らなどお呼びでないはずの場所。
 けれど、今、僕らがたどりつくべき場所。
 深呼吸。何度目かは忘れた。
 行き止まりを背に、通路の真ん中に立っているのは僕一人だ。みんなはすぐ近くの暗がりに潜み、手のひらを動かしたり腕を回したりきょろきょろしたりしながら様子を見ている。
 全員勢ぞろいでお出迎えしないのは、下手に刺激しないため。僕一人で来なかったのは、相手の思うままにさせないため。
 親書に人数は指定しなかった。あちらもこちらも、何人で来ようが自由というわけだ。
 自由―― それも駆け引き。
 なにせ、相手は僕が呪いを持っているということしか知らない。こちらに何人の味方がいるのか、どんな目的があるのかも伝えていないし、猫メッセンジャーから聞きだす方法もない。
 そんな状況下で、何人を動員してくるのか。プライドと事態の重大さと自身の立場を加味したとき、央輝はどんな態度を見せるのか―― 交渉は、すでに始まっている。
 携帯を開いて時刻の確認。先端技術てんこもりの明るさに、気休めながらほっとする。
 考えられる限りの展開に対策を練ったものの、相手は僕たちとは違う常識の中で動いてる人たちだ。どう出てくるか、想像が及ばないことも大いにある。呪いに付随する能力を利用しようとか、本題とは別の意志を持ちこまれるかもしれない。そんなときどうやって切り抜けるのか……多くは杞憂に終わると知りつつ、数撃てば当たるで傾向と対策をドミノのように頭に並べ続ける。
 改めて、危ない橋っぷりを痛感する。この「改めて」も一体何度目やら。
 唾液を飲み込む。冷や汗が身体の熱を奪う。
「……」
 まだか。
 まだか。
 待ち時間は不安の格好の餌。嵐の前の静けさは恐ろしさを引き立てる。アスファルトを踏みしめる足の裏に意識を集め、心と意志を極力引き離そうとする。
 みんなが控えているとはいえ、やっぱり一人は心細い。
 でも、僕しかいない。僕にしかできない。
 それは一種の思い上がり。いざ現実に放り込まれれば肝が据わるもの。窮地に陥りスイッチが切り替われば案外どうにかなる……というのはご都合主義理論ながらに一理ある。火事場の馬鹿力とか窮鼠猫を噛むとかそんな感じ。
 僕にしかできないという言葉は、つまるところ催眠術だ。へっぴり腰を叩き、小心者の心を叱咤し、足の震えを押さえ込む手段。
 他の誰にも、こんな危険な役目はさせられない。矢面に立つのは僕だ。
 プライドと自己暗示を混ぜて発酵させた、『僕にしかできない』のお札。
 待ち人未だ来たらずの通りを前に、両の拳を握りしめる。
「―――― あ」
 目を凝らす。
 背中に、悪寒が走る。
 到底滑らかとはいえない、ふらふらの人の流れの中に、迷いのない歩みが現れる。
 行き交う人々に何度も隠される小柄な人影、けれど決して薄れない存在感。
 央輝。
「……来た……」
 お腹のツボに力を入れる。緊張しすぎは顔に出て逆効果、普段の平常心を思いだして染み込ませる。
 わき目も振らずこっちへ一直線に歩いてくる。取り巻きの姿は見えない。
 動員できなかった? それとも隠れてる?
 ……どっちも違う……気がする。
 遠目からでもなんとなくわかる、口の端をあげている。
 あれは、自信が生む笑みだ。
 敵が何人いようが関係ないという余裕の表れだ。
 ……敵と認識された段階で終わるな、これは。誘いに乗ってはきたものの、前向きな交渉をする気はほとんどなさそうだ。
 心臓が耳に悪いビートを刻む。彼女の視線の強さに負けないよう、ぐっと奥歯をかみしめる。
 ゆっくりと、しかし、僕の覚悟の数倍の速さで、央輝は声の届くところまでやってきた。
 アスファルトと靴底が擦れる音。
 僅かな唾液で喉が鳴る。
「待ってたよ」
 努めて冷静に抑揚なく。でも心持ち早口で呼びかける。
「はっ」
 息を吐く央輝。侮蔑混じりの視線を飛ばしてくる。
「随分、小心者らしい手を使ったじゃないか」
「裏社会のルールには慣れていないもので」
「そのくせやらかすことは随分と過激だ……アレを出すことの意味ぐらいわかってるだろう」
「そりゃもちろん。散々それでヒーコラしてきたからね、危険は百も承知だよ。でも、アレを出してでも伝えたいことがあった」
「……聞いてやる。ただし、あたしは短気だからな」
「……わかった」
 深く頷く。
 とりあえずは出方を見る、ということか。それなら好都合。
 一呼吸。
「君にコンタクトを取ったのは、君の予想通り、呪いについて話すためだよ。あの写真の意味が本当にわかるのは呪い持ち、あるいはそれを知っている人しかいないからね」
「それで?」
 促される。剣呑な視線にひるみかける弱虫を押し込める。
 一気に、カードを切る。
「単刀直入に聞く。君は呪い持ちだね?」
「!」
 央輝が一瞬身体を引いた。
 背後がひそやかにざわめく。無理もない、僕は一度もみんなに『央輝が呪い持ち』とは言っていなかった。そうだろうとは思っていたものの、下手な断定は危険だし、夢という材料だけでは決定打に欠けている。だから、確定するまで黙っている気だった。
 切り出したのはもちろん―― 確信したからだ。
 曖昧で僅かなやりとりの中、央輝からは呪いに対する危機感、緊張感が滲み出した。未来がぱっくり切り裂かれるのではないかという、心の底に常にたゆたう冷たさ。単なる仲介人なら、こんな底冷えをベースにした態度は取れない。呪いを持つ当人にしか知りえない恐怖、僕たちの無意識の共通認識が、央輝からも感じられた。
 だから、こっちから打って出る。
「僕たちの独自の調査では、この呪いを持つ人間は全部で八名。うち、七名までが判明している。君が呪い持ちならば、最後の一人ということになる」
「その調査は信頼できるのか?」
「できる」
 即座に断言。
「……その八人を集めることに、一体何の意味がある」
「知りたい?」
「……」
 央輝は、自分が八人目だとは言わず情報を引き出そうとする。作戦以上に、自分の身の振り方に迷っている感じだ。
「あたしは、自分に利益のないことはしない。たとえ同じ呪い持ちであっても、メリットがない相手と馴れ合うなんてまっぴらだ」
 暗に呪い持ちだと認めつつ、スタンスを告げる。利のない申し出ならするなという牽制だ。
 つまり、条件次第では協力する、ということ。彼女も呪いに苦しむ一人、情報があるなら欲しいんだろう。
 慣れてしまえば、なんとかならないこともない。けれど、この枷を外せるなら外したい……そういうことだ。
 そして、呪い持ちの彼女にとって僕たちの話に利があるか否か―― 答えはもちろん、イエス。
「八人が揃えば、呪いが解ける……そう言ったら?」
「なっ!?」
 明確な動揺。そこを一気に畳み掛ける。
「僕たちは呪いを解くために八人目を探している。方法はまだ確定していないけれど、かなり近いところまで来てる」
 央輝の目をしっかりと見つめ、続ける。
「呪いは解ける。もう二度と、得体の知れない死の影におびえることはなくなる。君にとって、それはメリットにはならない?」
「気持ち悪いほどに直接的な話だな」
「こんな時に回りくどくする必要ないでしょ。僕たちの目的は至極単純だもん」
 理屈や心理誘導はたくさんストックしてきたものの、今回はあえて単刀直入に切り込んだ。央輝が興味を示している以上、中途半端な婉曲表現はかえって邪魔になる。仕掛けるだけ仕掛けて、後は相手の反応を待つ、彼女を説得するにはそれが最も適当だろう。
「……」
 央輝は目を伏せ、苦々しい顔で考え込む。
 提案はそれなりに魅力的、ということだろうか。
 ただ、あくまで「それなり」、いきなり飛びつくには足りないんだろう。とはいえ僕たちも元々はそんな感じだったし、ここまでは想定の範囲だ。
 ……でも、ここであまり乗り気でないとなると……懸念材料が一つある。
 今、あえて明かしていない情報。呪いが消えることによる能力の喪失だ。
『ラトゥイリの星』には、呪いと能力は不可分だと書かれていた。つまり、呪いが消えれば能力も消えてしまう。央輝の能力が何なのかは知らないけど、もし彼女がその力をもって裏社会に君臨しているのだとすれば、呪いを解くことは大きなデメリットもはらむことになる。裏社会という過酷な環境下に身を置く彼女のこと、能力の重要性は僕らとは比べ物にならないかもしれない。
 呪いを解くメリットとデメリットが拮抗していた場合……そこが、僕の本来の意味での出番か。
「ひとつ、聞きたいことがある」
「何?」
「力はどうなる」
「……」
 懸念していたそのとおりに、能力について言及してきた。
「……消えるんだな」
 即座に答えられなかった僕の態度に答えを悟り、息を吐く。
「あたしはお前らとは違う世界の人間だ。遊びで力を使ってるお前らとは違う。そうホイホイ思い通りに動くと思うな」
「……うん、わかってる」
 直接的な交渉をしている分、答えも簡素。あっさりと切り捨てられる。
 無理もない。ある日突然「あなたと同じ不幸な目にあっている人がいます、協力すればあなたも彼女も助かります。代わりに大事なもの失いますけどどうですか」なんて誘われたって、イキナリ行動には移せない。
 おそらく、彼女にとって能力を失うとは、裏社会での立場を失うと同じなんだろう。
 ……取り巻きを連れてこないわけだ。そんなアキレス腱を他人にさらすなんてできるはずもない。
 かといって、ここで央輝を手放すわけにはいかないのも事実。
 しょうがない、腹黒セールスマンモード突入。
「央輝の能力……どんなものか知らないけど、相当強力なんだね」
「教えてやってもいいぞ。死ぬだろうがな」
「ごめんなさい丁重にお断りいたします」
 とにかく低姿勢。媚びるのではなく、能力という存在の無茶ぶりを知っているからこその態度を示す。
 僕がビビったのに気を良くしたのか、央輝が言葉を続ける。
「あたしは地獄の中を生きてきたんだ。それこそ、寝る場所も食うものも十分にないようなところでな。そこから這い上がって、今のこの位置にたどり着いた。今のあたしの全ては、この手でもぎ取ってきたものだ。お前たちのように誰かに与えられたものとは違う」
「そのために、力を使ってきた?」
「ああ。この力は役に立つぞ……体格も性別も関係ない、あたしにかかれば全員ネズミのようになる。怯えて震えて醜態を晒して逃げ惑う、哀れな獲物になる」
「恐ろしいな、それ」
「だからいい。さっきまでデカイ顔をしていた奴が恐怖に顔を歪める様なんか、吐き気がするほど笑えるぞ」
「……すごいね」
「裏社会は食うか食われるかだからな。お前らの想像よりは秩序立っているが、交渉には暴力が付きまとう。やりとりされるのはカネと命だ。そのどちらかを握らない限り、使い捨てになるか潰されるのがオチだ」
「央輝は、どっちを握ってるの?」
「命だ。当然だろう」
 こともなげに言う。実感を伴って。
 じりじり、足が重く痺れてくる。自分で思っている以上に緊張しているらしい。央輝に敵意はないし、今のところ機嫌を損ねてはいないようだけど、容赦なく漏れ出る裏の気配はそれだけで僕にプレッシャーを与える。
 彼女は、確かに僕たちとは違う世界の住人だ。
 裏社会で生きるため、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた央輝。過酷な意味で信じるものは己のみ、自然と度胸はつくし、ためらいも減っていく。容赦のなさも磨かれる。
 央輝がただの少女だったら、能力がなかったら……おそらく、ここにはいない。ぎらつく生命力を瞳に宿すこともなかったし、裏社会を一人で歩くこともできなかったはずだ。
 彼女が今生きているのは、能力のおかげ。
 呪いが解け、能力がなくなったとき……央輝が失うものは、今まで積み上げてきた全てだ。僕たちが呪いを解こうというのとはわけが違う。
 ……厳しいな。
 なんとか保てている冷静さが、不利を告げる。彼女はもともと僕たちとは立ち位置が違う、目線を揃えるのは至難の業だ。
 でも……それでも、可能性はゼロじゃない。
 彼女がまだここに立っているということは、呪いのない世界を望む気持ちがあるという証だ。
 今までの人生を捨てるような決断、ベストな選択ではないかもしれない。でも、きっと今よりは、呪いのない世界の方が生きやすいはず。
「央輝は……強いんだね」
「当たり前だ。強くなければやっていけないに決まってる。実力に限らない、あらゆる意味での強さが問われる」
「うん」
 一呼吸。
 仕切り直し的に一旦目を閉じて再度開き、央輝の両目を見据える。
 カードを切る。
「……でも、呪いを踏んだら終わりだ」
「っ!」
 予想通り、表情が一気に険しくなった。
 靴の中、足の指で地面を掴むように力を入れる。喉からではなく、全身から声を出す。
「呪いは人間じゃない、生き物ですらない。央輝がどんなに強くなったって、何人、何十人を従えたって意味がない。僕たちの手の届かないところからやってきて、回避手段すらなく命を奪い去っていく、それが呪いだ」
「お前……っ」
「呪いが一体何なのか、僕たちにもよくわかってない。よくわからないものなのに、殺されるという恐怖だけは本能に染みついている。僕たちはただ生きているだけなのに、呪いはそれすら満足に許さない」
 冷や汗が背中を伝う。
 呪いのことを口にする―― 解くために、何度もやってきたことだ。けれど、どれだけ繰り返しても悪寒は消えない。背骨を液体窒素に突っ込むような凍てついた恐れは、いつまでもいつまでも僕を、僕たちを縛りつける。
「そこから出たいとは思わない? 央輝。どうにもならない死に囲われて、胸の奥底にいつでも死を握りしめる、そんな理不尽で不自由な世界ををやっつけたいとは思わない?」
「……」
「君の常識と僕の常識は違う。たどってきた道筋も、見てきたものも全く違う。だから、気安くどうですかとは言えない」
「……」
「でも、これだけは言える―― 呪いに殺されるなんて、馬鹿げてる」
 行きかう言葉が途絶えた。
 じっくりと、自分自身に耳を澄ませるように思索に耽る央輝。
 決めるのは央輝だ。呪いを解くか、解かないか。今までの全てと引き換えに自由を得るか、今を守るか。
 僕にできるのは、選択肢を示すことだけ。真剣に考えてくれている今、後押しにも誘導も意味はない。
 待つ。気配を消すイメージで、焦らせることなく、彼女のペースに任せてじっと待ち続ける。
「……ひとつ言っておく」
 予想より早く、央輝が口を開いた。判断の速さは流石だ。
 鋭い視線を僕に、そしてその後ろ―― 隠れているみんなに投げる。
「あたしは自分の道は自分で切り開いてきた。他人の借りは受けても、貸しは作らない。お前たちと慣れ合う気など欠片もない」
 複数形。意識しているのは、この場に集まっている六人。
 苦々しげに視線を一旦落とし、また上げる。
 心底悔しそうで、かつ希望を見いだしたような、プラスとマイナスがごっちゃになった表情で、僕たちを、その後ろの呪われた世界を見る。
 ゆっくりと、コートから片腕を抜く。
 そして……そこに刻まれた痣を僕の前に晒す。
 夢で見たものと全く同じ位置に刻まれる、証。
「証拠だ」
「……うん」
 確認し、飲み込むように頷く。
 八人目。呪われし、最後の一人。
 再びコートを羽織り直す央輝。
 ひとつひとつの動きが、誓いの儀式のようでもある。
「あたしの命はあたしのものだ。奪うも捨てるもあたしの自由だ」
「うん」
 己が何者であるかを証明し―― 央輝は、挑む目で告げた。
「だから……呪いなんてくだらないものに命をかっさらわれるなんて屈辱を許しはしない」
「じゃあ」
「いいだろう。付き合ってやる」
「本当!?」
 央輝の答えは……僕らの望んだもの。
「勘違いするな。お前らに協力するんじゃない。あたしはあたしが生きるための最善を選ぶだけだ」
 照れ隠しのように声を荒らげ、牽制と同意を一緒に語る。も、口調はとりあえずどうでもいい。
 揃った。
 八人が、揃った……!
 こみ上げてくるものがある。涙まではいかないものの、胸がせりあがってくる感覚。思わず二度も三度も確認してしまう。
「央輝……本当に、本当にいいの?」
「二度も言わせるな」
「ええ。本気のようです」
「茜子!」
 するん、と影から生えるように、茜子が物陰から姿を現す。
 で、出てくるの早っ!? 
 茜子レーダーは央輝に危険はないと判断したのか、気負うことなく僕たちの傍まで寄ってくる。
「それではみなさん、ごとーじょー」
 さっと手をあげ、壇上を指すように腕を横に伸ばす。
 それに応えるように……みんなが次々と出てきた。
「おっす! いぇんふぇー!」
「思ったよりすんなり折れたわね」
「どんな条件を出されるか、気が気じゃなかったわ」
「こんばんはです!」
「……どんな奴らかと思ったら、お前らなのか」
 全員を見まわし、記憶と照合したのか、央輝が深々と溜息をつく。
「全然見知らぬ相手が出てくるよりいいでしょ?」
「ちっ」
「んー、なかなかの顔よね」
 花鶏は早速上機嫌だ。……いただけない意味で。
「こ、こらあなた」
「大丈夫よ、まだ何もしないわ。まだ」
「何その超巨大なフラグ!?」
「新たな生贄の子羊ちゃん出現。後は野となれ山となれ、レズフルエンザ警報発令中」
「花鶏センパイの毒牙にかかる人がまた一人……」
「……これのどこが『見知らぬ相手が出てくるよりいい』なんだ」
「あーまあ、慣れ?」
 思わず苦笑い。パルクールレース関連で何度か会っているとはいえ、いきなりフランク全開すぎる。それだけ『呪い』という共通項は心の垣根を取り払う力を持ってるということなんだけど……みんなタフだ。
「馴れあうつもりはないといっただろう」
「んー……まあ、多分無理かな、特に花鶏」
「んふっふっふ……このタイミングでかわいこちゃんが増えるなんて、思わぬサプライズ」
「花鶏はほんっと見境ないなぁ」
「大丈夫よ、あなたと茅場は好みじゃない」
「いや、そういう問題じゃ……」
「大丈夫よ伊代。おっぱい枠はキープされてるから」
「おっぱい枠って」
「それ、全然安心できないであります」
 改めての自己紹介もしないうちからきゃいのきゃいの騒ぎだす一同。緊張感の欠片もない。というか、あえて緊張感をぶち壊しにきてる。僕に任せたとはいえ色々突っ込みたいところもあっただろうし、結構ストレス溜まってたんだろうなぁ。
「……」
 慣れてる僕とは対照的に、あきれ返る央輝。
 ……ものの、警戒心は緩んでいない。みんなのやり取りを聞き流しつつ、しきりに辺りを気にしている。
 何かを探すような、確認するような視線の動き。
 それは数分で結論に達した。
「おい」
 僕の前に立ち、睨みをきかせる。
「一人、足りない」
「……あ、気付いちゃった?」
「当然だ。お前、あたしを舐めてるのか」
 刺さるもの言いに、ぴたりと会話が止まる。
「お前、さっきあたしが八人目で最後だと言ったよな? でもここにはあたし含めて七人しかいない。最後の一人は誰だ。まさか、まだ見つかってないとかほざくんじゃないだろうな」
「ちょ、ちょっと落ち着いて央輝」
 慌てて両手を前に出してあとじさる。これはなかなかの短気だ。いきなりのみんなのフランクさが気に入らなかったんだろうか?
 みんなは表情を固くしている。央輝の怒りに反応して、以上に、ここにいない一人への諸々の気持ちを抱えて。
「大丈夫、もう一人もわかってる。ただ今日は事情があって来てないってだけなんだよ」
「正直に言ったらどうですか。『おもっくそ仲違いして険悪モード入ってます』って」
 溜めゲージなしの茜子の一撃。央輝は眉を吊り上げる。言いたいことは諸々ある、と不機嫌全開にして、ひとつだけ聞いてくる。
「で、誰だ」
「……惠。才野原惠」
 偽りのフルネーム。今やそれだけで同盟に不信を与えることになった、彼女の名前。
「……あいつか。また厄介な奴だな」
 惠の名に、露骨に舌打ちする。ここにいない理由が彼女なりに納得できるのか、すっと敵意と苛立ちをひっこめた。
「厄介、なんだ」
「ああ。あいつの食えなさは相当だ。神出鬼没な上に背後は不明、その癖出てくるときは確実に何かやらかす厄介者だ」
「……あいつ、いぇんふぇーから見てもそうなんだ」
 るいの反応に、央輝が頷く。
「なんだかんだで、裏社会には組織の力が働いている。好き勝手やらかしてるように見えても、突き詰めれば必ずどこかの組織とのつながりがある。組織の枠組みを外れた暴走なんて誰も望まないからな。だが、あいつだけは違う。何が目的なのか、いつ、誰を狙うのか、一切が謎に包まれている」
「……」
 嫌悪と疑念、戸惑い。央輝を迎え入れる賑々しさは波が引くように消え去り、居心地の悪さが残る。
「……あなた、アレについて調べられるかしら?」
「ん?」
「裏でも有名人なんでしょ、アレ。裏でのご活躍ぶりはそっちの人に調べてもらった方がいいんじゃないかしら」
 露骨すぎる婉曲表現に、央輝が苛立ち混じりに返す。
「……あたしにあいつを調べろ、と?」
「どっちにしろ、アレを説得しないことには始まらないのよ。そのための情報は多い方がいい」
「ちょっと、花鶏」
 慌てて制すも、時すでに遅し。
 TPOとか物事を進める手順とか完全にお構いなしの花鶏の態度に、央輝の不機嫌度がアップする。
「……随分だな。最初からそのつもりだったのか?」
 睨まれるも、一歩も引く気のない花鶏。暗に伝えられる意図は無視して続ける。
「そういうわけじゃないわ。アレのことは既に三宅って記者に調べさせてる。ただ、所詮はただの記者だから」
「……三宅、だと?」
 央輝が口を挟む。
「え?」
「……あの三宅に、調べさせたのか?」
 なぜか三宅さんの名に反応する。意外そうに目を丸くしている。
「いや、どの三宅かわかんないけど……えっと、なんか気の弱そうな顔してるフリーの記者の三宅さん、だよ」
 全く補足になってない補足説明をする。央輝は自分の知り合いリストとその情報を照合し―― 突然、笑いだした。
「……っは、ははは! そうか、お前らあいつを使ったのか!」
 裏通りに響く哄笑。さげすまずにはいられないという風に、あとからあとからわいてくる笑いをとき放つように笑い続ける。
「え、何、何々?」
 事態が飲み込めない。三宅さんが、何だって?
「何があったか知らないが、お前らもなかなかえげつないことをするじゃないか!」
「えげつ……ない……?」
「ああ。だって三宅だぞ? あの三宅だぞ? 才野原の奴も可哀そうにな、あいつに探られるなんて」
「――……え?」
 身体にかかる重力が、一気に数倍になる。
「どういうこと……ですか……?」
 不安げに声を漏らすこより。央輝は上機嫌とサディスティックさの混じった笑みを浮かべる。
「どうもこうもない。三宅のゲスっぷりはお前たちも知ってるだろ? 気に入らない相手への嫌がらせとしては最高の人選だ。才野原もロクでもないだろうが、今回ばかりは同情してやりたくなるよ、はは」
「……同情、って……」
 オウム返しに繰り返す。
 どういうこと? 三宅さんが何だって? 三宅さんに調べさせることが、惠を……何? 央輝が同情するほどの……何?
 央輝の予想外の反応に、みんなが戸惑う。るいや花鶏でさえも、自分たちのしたことの意味を図り兼ねている。
「……なんだ? その反応」
 僕たちのリアクションに違和感を感じたか、央輝がいぶかる。少し考えて……何か、触れてはいけないものに触れたかのような、ひそやかな声で問いかける。
「まさかお前ら、三宅がどんな奴かも知らないで依頼したとか言わないだろうな……?」
「……」
「……」
「……その通りです。勢いに乗って暴走したバカ二名が相手の実力も素性も確かめずに依頼しやがりました」
「ちょっと、アカネ」
「事実でしょう。あの記者からは並々ならぬ悪意を感じました。私は何度か警告しています」
「……」
 ずるりとした、汚泥のような沈黙。
「……本当に、知らなかったのか」
 央輝が再度確認。僕たちは顔を見合わせて、うなずく。
 その様子に、央輝が細く長いため息を漏らす。
「だとしたら、お前たちの選択は最悪だったと言わざるを得ないな。あたしたちでさえ、まずやらない」
「……なによ、それ……」
 呆然と、伊代が声を落とす。
 三宅さんの正体を知らない不安。自分たちの行動への不安。そして……巻き込まれた惠の安否。
「……三宅って、どんな奴なの」
「ゲスだ」
 即答する央輝。
「文字通りのゲスだ。あそこまでふざけた人間はそうそういない。ポリシーもモットーもなく、カネと享楽のために弱者を食い荒らし、使えるものは何でも使い、一般人から裏の人間まで容赦なく暴いて土足で踏み荒らす、そういう奴だ。情報収集能力だけはそれなりのものがあるが、だからこそタチが悪い。あいつに何かを依頼するってだけで裏では目をつけられる、それぐらいの外道だ」
 顔が青ざめたのが、自分でもよくわかった。
 ずっと頭の端で鳴り響いていた、警告じみた勘の働き。間違えているというおぼろげな意識。
 その示すものが、これなのか?
 僕たちは、惠に何をした……?
「まあ、やってしまったものは仕方ないな。せいぜい頭抱えて後悔すればいい。あたしには関係ない」
 央輝は身を翻す。呆れた、と言わんばかりの態度。おそらく、三宅さんという人物を知るがゆえの正直な反応なんだろう。
 踏み出す前に、吐き捨てるように付け加える。
「三宅の情報でお前たちが動くのは気に食わない。才野原のことはこっちで調べてやるから、二度と三宅とは関わるな」
 到底納得してくれそうになかった提案を、説得もなく了承する。その素直さが、逆に怖い。
「……そんなに、なの?」
「気になるなら、才野原のところへ行ってみればいいだろう? ここでグチャグチャ言ってるより何倍もマシだ」
 さっさと歩きだす央輝。その背中にかける言葉が見つからない。
「動きがあったら連絡しろ」
 そう言って、央輝は再び自分のテリトリーへと消えていった。
 残された僕たちの中には……陰鬱な、体験したことのないモヤモヤした後悔が立ち込めていた。


 インターホンが日差しに溶ける。
 じっと見つめる表札には確かに『大貫』の文字。才野原という記載はもちろん、消された痕跡すら見つけられなかった。
 大貫……惠の、戸籍上の名字。才野原は、養女になる前の旧姓なのだろうか。
 表札の文字が心に刺さる。
 三宅さんがあの日言ったことに嘘はない、茜子はそう結論付けた。
 央輝は、三宅さんが外道だと断言した。
 繋がらないでいる。央輝の言葉の意味も、三宅さんが隠しているものも、皆目見当がつかない。そのくせ、与えられた情報がショッキングなんだからたまったもんじゃない。頭の先からつま先までぐちゃぐちゃだ。
 鏡の前でかなりイメージトレーニングしてきたものの、多分笑顔はぎこちないだろう。笑える要素なんかほとんど持ってこれなかった。
 会えるのは嬉しいのに、会いに来た理由が苦しい。
 見上げる屋敷は絵になる美しさ。青空との組み合わせは、画家ならきっと一度はスケッチしたくなる。今の僕の心は、屋敷の姿に感じいる余裕すらないけれど。
 訪れるのは久しぶりだ。昼間に来るのはもっと久しぶりだ。インターホンを押すなんて……今までに、あっただろうか。
 反応のないインターホンを、もう一度押す。
『……はい』
「和久津智です」
『……少々、お待ちください』
 機械を通した声は佐知子さん。心なしか沈んでいるように思えるのは、僕の気持ちが沈んでいるせいだと思いたい。
 扉の開く重厚な音。
 姿を表したのは……いつも通りの詰め襟の彼女。
「やあ、智。久しぶり」
「……惠っ!」
 思わず声が上ずった。駆け寄って抱きつきたいのをこらえて、早足で門をくぐる。
「太陽の下だと、また違ったかわいらしさがあるな、君は」
「いきなり口説かれた」
「人目を忍ぶ仲だからね。どうぞ」
 惠は特に変わらない様子で、家の中へと誘ってくれる。顔色も声色も前に会った時のまま。
 ほっと一安心しかけて――
「惠……痩せた?」
 問いかけが口を衝いて出る。直感がいきなり言葉になった感じだ。
「……口説き返された、のかな」
 否定でも肯定でもない、いつもの答え方。
 でも、間があった。
 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、彼女が言葉に詰まったような……気のせいなんだろうか。
「突然の来訪だからね、あまりもてなしはできないかもしれないけれど」
 そう言って笑いかけてくれる笑顔は変わらないと思う。
「君が来てくれて、浜江も佐知子も喜ぶよ」
 先に入るよう促す惠。言われるままに先に進む。
 ……手を差し出してはくれない。いつもは手を握って上まで連れて行ってくれるのに。
 些細なところに、本質は現れる。お芝居を得意とする彼女だからこそ、その所作の僅かなほころびが気にかかる。
 何かが―― 起きてる。
 確かめなきゃ。用意してきた微笑みを貼り付けつつ、決意を新たにする。
「おじゃましまーす」
 扉の中へ。
「おお」
 久しぶりの、陽光の差し込む屋敷。相変わらずオシャレで素敵なところだ。暗がりの状態を通ってた時期もあったからか、なんだか新鮮な感じがする。
「じゃあ、今日はこちらへ」
 案内されたのは食堂。珍しい……というか、二人きりで会ってるときはまず行かないところだ。
「あれ、今日は惠の部屋じゃないの?」
「……明るいうちから何をする気なんだ、君は」
「ふごー!? いやそういう意味じゃなくって!」
 素朴な疑問にものすごい斜め上の爆弾を飛ばされて焦る。いや、確かにその……惠の部屋に行くと、ほぼ百パーセントの確率でそういうことになるんだけど、その……昼間ぐらい、空気読め……ます、多分。今日の目的が目的だし。
「大丈夫。話している間は浜江や佐知子には出ていてもらうから」
 何をどう考えたのか、そう保証してにっこりする。
「椅子があった方が君も楽だろう」
 理由をわざわざ付け加える。
「……ん、ありがと」
 直感も深読みも含め、高速回転する脳はあらゆるものへのアンテナを張り巡らせる。彼女は意味のない行動は取らない。あらゆる行為に必ず、秘めたものがある。
 こんな風にあれこれ細かいところを探るのは後ろめたいんだけど、今回ばかりは仕方ない。惠のことだ、自分の身に何かあったとしてもまずは隠そうとするだろうし。
「智さん、お久しぶりです。お紅茶でいいですか?」
 テーブルに着くなり、物腰柔らかに佐知子さんが声をかけてくれた。
「あ、はい」
「また来てくださって嬉しいです。お菓子もご用意しますね」
 さっとキッチンに消えていく後姿。彼女にも取りたてて不審なところはない……と思う。ただ、佐知子さんと会うのは惠以上に久しぶりだ。過去の記憶とのズレはあるかもしれない。
 ほどなくして、紅茶とクッキーが運ばれてきた。二人だからか大皿ではなく、それぞれの分を小皿に分けてある。
 飲み物は紅茶と―― なぜか、水。喫茶店ではよくあるパターンだけど、この家では今までなかった取り合わせだ。
「ご苦労さま、佐知子。終わったら少し席をはずしてくれ」
「……はい。何かありましたらお声かけしてくださいね」
 佐知子さんはそういうと、さっと食堂から出ていく。浜江さんの姿は見えない。別のところで仕事をしているんだろう。
「……さて」
 惠は水を口にして、ゆっくりと僕に視線を向ける。
「今日は、何を聞きに来たのかな」
「……」
 前触れなく、惠のモードが切り替わった。
「君が昼間に来るなんて、みんなの許可がなければできないことだ。対立構図になっている今、そんな簡単に認められるわけもない。君の今日の役どころはみんなからの使者……そんなところだろう」
「……うん」
 ぐうの音も出ず、首を縦に振る。
 聞かなきゃいけないことはたくさんある。聞きたくないようなことも山ほどある。昨日一日で叩きつけられた事実は呼吸の妨げになるほど重く、ぎりぎりと精神を締め付ける。
 確かめたい―― けれど、確かめたくない。
 大貫氏のこと。裏社会でやっていること。本当にその手を汚してしまっているのか、だとしたら、何故なのか。
 一つとっても衝撃なものが積み重なったせいで、気分は景気の底みたいに落ち込んでいる。
「損な役回りをさせてしまっているね」
 そんな僕を心配してくれる惠。原因の一端であるという自覚からか、悲痛さすら混じる表情を見せる。
「ううん、いいんだ。僕が自分で買って出てるんだし」
 首を振る。
 実際、僕が自分で選んだ道だ。
 今日だって、やれ全員で行こうだの、茜子を連れて行けだの言われたのを押し切って一人で来た。
 僕一人でなければ、何人いたって同じこと。茜子レーダーも惠には効かない。
 惠を知るのは、惠の心をほどけるのは僕だけ―― 自負と、後ろめたさ。想いを駆け引きに使う罪悪感。
 でも、ここを通らなければ、惠はみんなのところへは帰ってこられない。
 ひとりぼっちになってしまった惠を、もう一度みんなの輪の中へ戻す……僕の願い。
 そのためなら、何だってする。その過程が彼女の意にそぐわなかったとしても、必ず……また、みんなで笑いあう日を呼び寄せてみせる。
 クッキーの甘さをエネルギーにして、気合いを入れる。まずはこちらからの報告だ。なるべく気楽に、重くならないように、せめて口調だけでも軽くする。
「んーとね……昨日のことなんだけど。八人目が見つかった」
「!」
 惠が目を見開く。
「八人目……もう……!?」
「うん。話もつけてきたんだ。一応協力してくれるってことになった」
「……それは、僕の知っている人かい?」
「央輝だよ」
「……え」
「尹央輝。君もよく知ってる、パルクールレースで争ったあの央輝が八人目だったんだ」
「……」
 思案顔で、ひとしきり間を置く。僕は紅茶を一口。庭園を思わせる香りが口から鼻へ抜ける。
「意外……でもないかもしれないね。彼女は一睨みで人を殺す『魔眼』の持ち主との噂もある。その『魔眼』が能力とすれば、確かに八人目にふさわしい」
「能力も呪いも教えてはくれなかったんだけどね」
「彼女にとっては死活問題だろうから、当然じゃないかな」
「うん。教えてくれなかったからって別に問題ないと思うんだ。僕、未だに花鶏の呪いとか知らないし」
「彼女の呪いを推測するのは難しいな。そうそう簡単に踏まないだろうけれど」
「……そうだね」
「他のみんなも、元気かい?」
「うん、元気。伊代が肩こりがとか言い始めたけど」
「彼女は人一倍重いものを持っているからね。たまには肩たたきしてあげるといい」
「重いもの……た、確かに」
「みんな元気なようで良かった」
 安否を気づかう惠。孤立してから、会うたびに繰り返されてきた問いかけ。
 みんながどうあろうと、惠のスタンスは変わらない。
 どれほど嫌われても、憎まれても……惠は、それを受け入れる。
 痛まないはずはない。心が育つということは、痛みも悲しみも感じるようになるということ。今まで無視できていた色んなわだかまりを、自分の中に取り込むということ。ましてや、今敵対しているのはかつての仲間、彼女の心を育てたメンバー。
 辛くないはずがない。我慢しきれるはずがない。
 それでも、飲み込む。 
 決して慣れてはいないだろうに、惠は役者の顔をして耐え続ける。
「解読の方は、上手くいっているかい?」
「半分ぐらいってところ。花鶏と伊代以外は全然手が出せないから、二人の報告聞いてるだけなんだけど……それによると、呪いを解くためには八人全員が集まる必要があるみたい」
「……ああ、それで八人目を探したのか」
「そういうこと。八人で何をどうするのか、そのへんは続報を待て! って感じかな」
「……なるほど」
 惠の表情が曇る。
『八人全員が集まる』―― そこに、ひっかかりを覚えたのだろう。
『できるなら、もう二度とみんなに会わないままでいたい』、そんな本音も見え隠れする。
 ……何故、なんだろう。
 みんなのことが大事なのに、みんなを好いているのに、惠は孤立を選ぼうとする。
 確かに、彼女の呪いは危険だ。仲良くなれば仲良くなるほど、本心で触れ合いたいと思えば思うほど、制約が彼女を苦しめる。いつか爆発してしまうのではないかと恐れているのもわかる。
 でも、だからってこんなにストイックにみんなを遠ざける必要があるだろうか?
 呪いを解きたくない―― それもあるのかもしれない。だけど、僕には呪いを解けと言う。そのために動けと言う。
 矛盾だらけ。惠の中では繋がっているんだろうけど、僕にはバラバラのピースにしか見えない。それがもどかしくて、悔しい。
「……」
 ことん、と惠が空になったコップをテーブルに置く。
 そこで、違和感に気づく。
「……あれ、クッキー食べないの?」
 僕のお皿からはクッキーが消えてるのに、惠のお皿からは一枚も減っていなかった。紅茶も同様。さっきから惠は水を飲むだけで、クッキーにも紅茶にも一切手をつけていない。
「……最近、お腹の調子が良くなくてね」
 ちょっと眉を寄せて、困ったように笑う。自分から不調を言いだすのは珍しい。
 ……いや、待て。
 思考が回転し始める。
 惠なら、隠せるはずだ。水しか飲まないなんて不自然な真似、普段の彼女なら考えられない。お腹の調子が悪かったとしても、わざわざ僕の前で『食べない』なんてアクションを起こす必要はない。表情も動きもいつもどおりなのに、そんなところでボロを出すなんて惠らしくない。
 それに、佐知子さんが今日に限って水と紅茶の両方を用意してきたのも気になる。
 ひょっとして、水を出してくれたのは、惠のため? 紅茶やクッキーを口にできないとか?
 でも、そんなことが急に起こるだろうか……?
「クッキー、新しいの出してこようか」
 佐知子さんを呼ばず、自ら立ち上がる惠。何かが、何かが――
「――あ――……」
「!」
 惠の身体が傾いだ。
 そのまま地面に倒れこみそうになり、慌てて膝をつく。
「惠っ!」
 慌てて駆け寄って、起こそうとして……ようやく、気付く。
 全身が震えてる。
 そして……軽い。
 覚えてるから、何度も触れてるから、わかる。
 軽すぎる。
 ダイエットとか、そういうのじゃなく……病的に、軽くなってる。
「惠……ど、どうしたの……!?」
 一つの違和感に合点がいく。
 だから、さっき手を握らなかったのか。
 握ればその瞬間、不調が僕に伝わってしまう。それを避けるために……でも、なんで?
「……どうした、って、何がだい?」
「震えてるし……すごく軽くなってる。お腹がどうとかそういうレベルじゃないよ、これ」
「……」
 首を横に振る。
「心配、いらない……」
「いるから! 心配いるから! 一体何が」
「静かに」
 青ざめた顔のまま、僕の唇に指をあてる。
「今日の君はスパイなんだ。相手の一挙手一動に動揺しては駄目だよ」
「ス、スパイって」
「君が何故ここに来たのか……僕が気付いてないとでも思ってるのかい?」
「……」
 心臓が、低く低く鼓動を響かせる。
 二人の今の立場。探るもの、探られるもの、間に流れる対決という溝。
 暗に、惠はそのスタンスに戻れと言う。心配ではなく、決意で接しろと言う。
「せっかく、佐知子や浜江を出してあるんだ。聞きたいことがあるなら聞いた方がいい」
「……」
 でも、僕にはそんなことはどうでもいい。
 ……こんな形でも、久しぶりに会えた。公私混同と言われても、僕は何より惠に会いたかった。二人っきりで会いたかった。打算もある。作戦も、理屈もある。でもそれ以上に、僕は……。
「色々聞くのは後でいいよ。具合悪いならとりあえず横になって」
「断る」
「な」
 はっきりと拒否された。
「……あ、いや」
 言い方がまずいと思ったか、すぐに説明を加えてくる。
「座っていても、人間の体力は回復するものだよ。それに、せっかくお客様が来ているのに家主が寝込んでいてはマナーに反するじゃないか」
 いっそ白々しささえ感じる理屈。頑として譲らない。
 よろめきながらも、再び椅子に腰かける惠。でも、背筋が伸びてない。かなりきつい状態なのか、背もたれに寄りかかる格好になってしまっている。顔色も悪くなってるし、とても本調子には見えない。
「惠……」
 席には戻らず、隣に膝をついて語りかける。
「……大丈夫、だから」
 安心させようと、頭に手を置いてくる。
 その手の震えはおさまっていない。
 逆の手を握って、ほっぺたに当てて……首を振る。
 大丈夫なわけがない。
 惠がこんな状態を晒すのは初めてだ。発作を起こした時ですら、毅然としようと心がけていた彼女が、弱る自分を隠しきれなくなっている。それほどまでのことが、惠に襲いかかっている。
「何があったの、惠。僕が来ない間に、君に何があったの」
「……何もないよ。何も」
「嘘」
「……意味もなく、嘘をつくと思うかい」
「……」
「心配しないでくれ。越えられない壁なんかない」
「壁……」
 触れさせまいとする物言い。手を伸ばして触れる身体はひどく脆い気がして、なおのこと胸が詰まる。
 ……考えろ。
 ここに来てから集めた情報をシャッフルして並びかえる。
 この状態の惠から何かを聞き出すのは不可能だし、聞き出したくない。だけど、放っておくなんてもってのほか。僕が自分で推論を立てるしかない。
 せり上がってくる悔しさをかみしめながら、思考回路をフル回転させる。
 ヒントはいっぱいあったはずだ。惠の態度、佐知子さんの態度。不自然に残ったクッキーに紅茶、食堂……
「……!」
 ひとつ、ひらめく。
「ね、惠」
「……何かな」
「僕、ちょっとトイレ行ってくる」
 思い立ったら即行動。とても汎用性の高い中座の理由を出す。
「……わざわざ了解を取らなくてもいいだろうに」
「ん……ほら、今頭の上に手が乗ってるし」
「あ、そうか」
 ぱ、と手が外された。
 よいしょ、と立ち上がる。
「じゃ、行ってくる」
 努めて平静に、何事もなかった風で食堂を出る。
 扉を閉める。
 そして―― トイレとは方向の違う、階段に向けて歩き出す。
 ……ものすごい罪悪感。だけど、選択の余地はない。惠が言えないことは、多少強引な手に出てでも僕が調べるしかないんだ。
 抜き足差し足、でも急いで階段を上がる。一応廊下に誰もいないことを確かめて……惠の部屋へ。
「……」
 目に飛び込むのは、相変わらず殺風景な部屋。取り立てて変わったものが置かれているわけでも、家具が増えたわけでもない。見た目は全く変わらない。
 変わらないけど……予想はついている。
 おそらく、惠はこの部屋に入りたくないんだ。
 書斎のときもそうだった。彼女はどこか行きたくないところがあるとき、行きたくないと意志表示するのではなく、ごく自然に対案に持ち込む。部屋じゃないのかと聞いたのに食堂に案内したのがその証拠。
 もちろん、僕の来訪理由が明るいものではないとわかっているというのもあるだろう。甘い時間を過ごすのに使ってきた部屋だ、きな臭い話はしたくないのもあるだろう。
 でも……さっきの拒み方は妙だ。弱っている時の反射的な言葉は、どんな言い訳よりも強烈に内心を映す。
 今、惠がもっとも避けたいのがこの部屋―― そう考えれば、筋は通る。
 じゃあ、いったい何が?
 迷わずに歩を進める。
 ベッドのそばにかがみ込み―― 下をのぞき込む。
 見られたくない物を隠す場所といえばベッドの下と相場が決まっている。まして必要最低限の家具しかない部屋、隠せるのはここかあとは洋服の下ぐらいしかない。
「……ビンゴ」
 そこには、無造作に置かれた封筒がひとつ。
 手を突っ込んで引っ張り出す。B5サイズほどの封筒はそれなりに物が入っているらしく、厚みも重みもある。
 消印は一週間ほど前。パソコンで作られた無味乾燥な住所ラベルが張り付けられている。差出人の名前は―― ない。見るからに不審な郵便物。
 ……おそらく、これが原因だ。
 封筒は頭の部分が切り取られ、中身を取り出せるようになっている。当然、惠が開けたんだろう。
「……」
 さらに強い罪悪感。
 見ていいのか―― 悪いに決まってる。
 でも、確認しないことには話が進まない。これを惠のところに持って行くにしても、中身を見てないんじゃ意味がないし、取り上げられたらそれでおしまいだ。
 唾液と一緒に、罪悪感を飲み下す。
 ……手を、入れる。
 中は小さめの紙がいくつも入っているらしく、指先にちくちくと硬い紙の端が当たる。
 その中から適当につかみだして、封筒の外へ――
「ひ……っ!」
 悲鳴が、口をついて出た。
 思わず封筒を取り落としそうになり、慌てて胸元に押しつけて持ち直す。
 手が、一気に震え出す。心臓が恐怖のあまりひきつった音を奏でる。
 入っていたのは、写真。
 薄目の状態でどんどん取り出して、確認―― できない。直視できない。
「あ……あぁ……」
 足がガクガクする。信じられないものに、あってはいけないものに、血の気が引く。
「うそ……嘘……っ」
 次から次へと現れる写真の群れ。見たくない、こんなの……!
 でも、手は止まらない……止めちゃ、いけない。
 体中の水分が一気に蒸発して、カラカラになる。
 防衛本能でも働いているのか、写真に焦点が合わない。いや……合わない方がいい。
 向き合わされる地獄。惠がこの部屋を、この届け物を恐れた理由。

 ――それは。
 数十枚に及ぶ、『死体の写真』だった。