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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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instinct voice

 お風呂場からの雑音を二人で聞く。まだ誰も入っていない、湯船にお湯が溜まる音だ。あと十分もかからないかな、なんて思いつつ、ゆったりと深呼吸を繰り返す。交わす言葉を捜す気にもなれないけど、静けさに満ちていても所在なくなる微妙な雰囲気。そんな中、心地よくも耳障りでもない『雑音』は耳をくすぐるのに丁度良かった。
 柔らかさも大きさも違う手のひらを重ねあわせて、遠慮がちに指を絡めて、僕たちはじいっと黙りこむ。重ならないだろう思考に同じ芯が通っていたらいいなと、不安を撫でる。
 ちらり、と見上げるように視線を送れば、惠は遠くを見つめている。焦点はきっとこの部屋ではないどこかだ。きゅっと指に力を込めると、少し困った顔で僕の方を向いた。
「智……」
 呼びかけの次は続かない。寂しそうな笑みを浮かべて、目を伏せて、少しだけ寄りかかってくる。支えるように、重心を惠の方へずらす。肌に染み込んだ余韻がじわりと浮かんでは消える。
 ここでキスでもしたら、彼女はどんな反応を示すんだろう。思ったことは思っただけで、行動には繋がらない。自分で撒いた種はいびつに育ち、茨のように刺さりながら縛り付ける。
 言えないとわかってるから、聞けない。聞けないから、確かめられない。
 聞いたくせに、その先に進めない。
 ベッドに視線をやれば、シーツにはくっきりと皺が残っている。二人分の体重と激しい動きで乱れた布地は何よりの証拠だ。
 二人が、ひとつを味わった証。
 ついさっき、僕と惠は身体を重ねた。色々ひっくり返ってたけど、それはともかく――最愛の人へ贈る行為に、二人で踏み込んだ。加速する愛しさで、一気に絶頂まで上り詰めた。
 現実は一線を踏み越えた。嘘つきな二人が、正直な身体で混ざり合った。
 ……だというのに、身も心も捧げる行為の後、僕の口からこぼれでたのは呪いのような一言。
『…… さないの?』
 ピロートークとしては、あまりにも似つかわしくない言葉。
 はたから見れば突拍子もない、悪趣味な寝言にすら近い僕の発言。
 ……けれど、惠はその問いを否定しなかった。
 呪いのせいもあるだろう。だけどそれ以上に、おそらくは真剣だからこそ、否とも言わず、はぐらかしもしなかった。
『愛と憎しみもまた、双子のようによく似ている』
 伝えるための謎掛け。困ったことに、それが混乱に拍車をかける。
 好きじゃなかったら『初めて』をくれるわけがない。あんな風に求めてくれるわけがない。
 頬を赤らめて、うっすらと身体に汗をかいて、素肌を晒して、大事なところに蜜を滴らせて、きっと今まで一度も出したことのない甲高い声を僕に聞かせて……名前を呼んで、受け入れて、乱れてくれた。
 あの姿に嘘はない。
 ……分かっていても、彼女の瞳に満ちる暗がりは甘さより遥かに強く僕を捕らえる。
 浮き足立つ恋心だけを見つめていればいいのに、それがどうしてもできなくなる。
 ――憎んでいるのだ、と。
 耳には届かない言葉があまりに真剣で、真っ直ぐで――強くて、動けない。
 だから僕は、堂々と甘えることも、身体を離すこともできず、宙ぶらりんな気持ちを抱えて惠の隣に座り続ける。
「そろそろかな」
「あと三分位。今だと中途半端な量だと思う」
「わかるのかい?」
「一人暮らしが長いから……体内時計みたいな感じかな」
「なるほど、それは役立つスキルだ」
「スキルってほどでもないけど」
 視線はそらさず、けれど見つめ合いもしない。体温を感じるほどに身体をくっつけているけれど、なんだか薄い扉に隔てられているみたい。恥ずかしさとかこそばゆさとは違う、胸を締め付ける息苦しさ。
 結ばれたのに、心の奥底が乾いている。掬い上げたものが砂のようにこぼれ落ちる錯覚。
 ……それでいいの? 僕は、本当にここまででいいの?
 これからお風呂に入って、身支度をして、長く深いデートが終わる。
 朝が来て昼が来て、夜が来て、今日は途切れる。時の流れが導く当然の道筋。
 煩悶と焦りが広がっていく。
 終わってしまう。二人きりの一日が終わってしまう。ひょっとしたら、もう二度とないかもしれないのに。
 その『二度とない』は、今の僕には保険的な、遠くうっすらとした感覚だ。
 けれど、惠にとってはどうだろう。
 彼女が抱える、解除法のない時限爆弾。死の発作はそう遠くない未来に爆発し、彼女から明日を奪うという。
 きっと、彼女は今も絶望のカウントダウンを聞いている。泣かないように狂わないように心を削ってすり減らして、逃れられない恐怖と戦っている。
 出口のない戦いで枯れ果てた心に、呪いはさらに追い打ちをかける。心のままに生きれば、そこにもまた死が待ち受ける。
 それでもなお、惠は僕を想ってくれた。身体を求めたのは、それが彼女に許される数少ない愛情表現だったからもあるんだろう。純潔を捧げる意味ぐらい、僕にだって分かる。
 それでも、僕は彼女の憎しみに足がすくんでしまう。
 惠は、人を せる。それもまた、紛れもない事実。
 ……このままじゃ、駄目だ。あと一歩が、あと一欠片が欲しい。
『愛と憎しみは双子のようなもの』なんて言われたって、そんなの信じられない。
 だって僕は――何をどうしたって、惠を憎めないんだ。
「ね、惠」
「ん?」
「……お風呂、一緒に入ろ?」
「二人一緒では狭いんじゃないかな」
「いいの」
 しがみつくように惠の腕を抱く。
「離れたくない。もっと、もっと君に近づきたい」
 憎まれている恐怖からか、この部屋で一人ぽっちになる寂しさからか、僕の身体は小刻みに震えている。
 好きだから……こういうのは、嫌だ。好きなくせに惠に怯えている自分が嫌だ。
「惠を、君の心をもっと知りたいんだ」
「……心、か」
 ふわりと、撫でるように頭に手が置かれる。
「君は――逃げ場すら、用意しないんだね」
 平静を装った、トーンの低い声。
 ……そこに動揺があることを、僕は聞き逃さなかった。

 ……で。
 盛大に動揺したのは僕の方だったりする。
「あ……あううううぅ」
「どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたも……あの、惠さんそんなにじっと見ないでください」
「智……本当に、男の子の身体なんだね」
「いやぁぁぁぁ」
 思いつきや感情主体で物事を進めるもんじゃありません、和久津智。
 情けないうめき声がこぼれてくる。とっくに呪いは踏んじゃってるし、二人の関係は既にいきつくところまでいってるんだけど、それでも裸を直視されるのは乙女心的にかなりこう……こう……。
「うううぅぅぅ」
「恥ずかしいのかい?」
「わざわざ聞かないでっ!?」
「恥じらう君も可愛らしい」
「それ、男の子が女の子に言う台詞……」
「大丈夫、横からなら胸の小さな女の子に見えるよ、智」
「嬉しくない! 相当かなりバリバリに嬉しくないーっ!」
「……下さえ見なければ」
「その補足説明もいらないーっ!」
 お風呂では服を脱ぐものです。二人でお風呂に入るということは、まっさらな姿をお互いに見せ合うということです。
 お風呂は閉鎖空間です。拘束されるのです。身体的な意味でも状況的な意味でも、いっぺん入ったらひと通りの所作を終えるまでは出られないのです。
 ……どうしてこんな単純なことがわからなかったんだ僕っ!
 言いだしっぺが前言撤回するわけにもいかず、結局二人でお風呂に入っている。惠はざっとシャワーを浴びて湯船に、僕は身体を洗う。つまり、今は惠の前に一糸まとわぬ姿を晒している状態だ。
 シャワーですませずにわざわざお湯を張ったのは、惠の身体を冷やさないため。ただでさえ体調が思わしくない中で盛大に負担がかかる真似をしてしまったんだ、せめてあったかくしておかないと。
 そういう気は回るのに、そこで訪れる己の状況に思い至らなかった辺り、我ながら手落ちが過ぎる。
 素っ裸……事実上、僕はオトコノコですという全身全霊での自己主張……心臓が縮み上がる気分。
「……ふふっ」
 お湯で気持ちがほぐれるらしく、惠はリラックスした表情を浮かべている。でも視線はきっちり僕の方に固定。そりゃ、味も素っ気もないバスルームなんだから僕以外に見るものなんてない……今こそ遠いどこかを見ていてほしい、正直。
「君の気遣いには恐れ入るよ」
「墓穴掘った気分でいっぱいです」
「体温が一度下がると免疫力が三十%落ちるというからね、あんなことのあとに風邪を引いてしまっては」
「シャレにならない、色々と」
「智も一緒に浸かるかい?」
「心臓の三倍速再生は身体に悪ぅございます」
「……そんなに?」
「むしろ惠が恥じらってないのが驚きです」
「恥ずかしがった方がいいのかな」
「それ、聞くことじゃないと思うんだ」
 この期に及んで態度が逆なのが、僕たちらしいというか何というか。羞恥心は社会生活の中で育てられるから、おそらく学校にすらまともに通えなかった惠が恥ずかしがってないのは自然なことなんだろう。なんかちょっと不公平感。
「はぅ」
 全身に、いつもより気持ち厚めに泡を塗る。
 恋人とお風呂に入るなんて、とても心ときめくシチュエーションではあるんだけど……今はあちこち散らばった感情を拾い集めるので精一杯、楽しめるほどの心の余裕は持てそうにない。
 シャワーを勢い良く出して、一気に泡を流す。肌に手を滑らせると、きゅっと音がした。備え付けのボディーソープだったけど、洗浄力は結構あったみたいだ。
 ……だ、第一段階、クリア。
「えっと……じゃ、惠どうぞ」
「ああ」
 答え、僕の目を気にするでもなく湯船から出る惠。入れ替わりで僕が湯船に入る。一瞬視界いっぱいに広がる肌色が眩しい。
「……」
 顎の先をお湯につけるぐらいまで浸かりつつ、惠が身体を洗う様をちらちら観察。さっき自分は見ないで欲しいと思ったのに、現金なもの。
 ……だって、その……はだけてたとはいえ、してるときは服着てたし、一生懸命すぎて見れなかったし。
 湯気が充満しているせいか、肌が心持ちぼやけていて、本来の輪郭にさらに色気を添える。スレンダーではあるけれど一箇所として直線のないラインに薄い肩。引き締まった肌の向こうの弾力を想像して、どきりとする。柔らかでも張りがあって、包むのではなく受け止めてくれる、指先がとろけそうな質感を夢想する。温めたからだろう、全身がほんのり桜色を忍ばせ、ふわりと乗る泡と相まって甘い色彩を作り出す。
 ……美味しそう、と思う。カニバリズム的な意味でも性的な意味でもなく、最上級の褒め言葉としてそう思う。
 惠の、生まれたままの身体。灰色の日々を脱ぎ捨てた肌色の姿は、魂を震わせる魅力に満ちている。
 ……そんな至上の器の中に、神様はなんて残酷な運命を詰め込んだのだろう。
 僕が動くたび、お湯が跳ねる音がする。シャワーを止めているから他の雑音はなく、満ちるのは静かさが乱反射した響き。その中でほとんど無音で身体を洗う惠は、魅惑そのものでありながら、どこか朧気な存在に思えてくる。かき消えてしまいそうな不安と、五感で味わう幸福感が混ざり合い、緊張をほぐしていく――
「――例えば」
「え?」
 謳うようなつぶやき。
「例えば君は、僕が呪いを踏んででも愛を囁けば、僕を信じてくれるのかい?」
 一気に意識が引き戻される。
「……」
 返答を予想した問いかけに、けれど答えられずに息を飲む。
「答えはどちらでも構わないが……いずれにせよ、君が真実を判断する根拠は僕の発言ではなく『呪いを踏んだ』という外部要因ということになる」
「……そう、かも」
「だとすれば、何を言おうと聞こうと、永久に疑いの余地は生まれ続けるんじゃないかな。本質的に君は僕を信じていないのだから」
「そんな、信じてないわけじゃ」
 思わず湯船から身を乗り出しそうになる。惠は視線を寄越すこともなく、前を向いたまま静かに続ける。
「ああ、君は『僕を』信じていないわけではないんだろうね。いくらなんでもそこまで節操のない人間ではないだろう。俗にいう初めてを捧げられて無邪気に喜べるような単純な思考は持っていないはずだ」
「あ、うん……」
「――ならば、君は一体何を疑っているのだろう? 何を信じていないのだろう? あるいは、信じる以前の条件反射かもしれない」
「惠……」
 ばしゃ、とタオルを洗面器に突っ込む。視線はかたくなに僕の方へ向けない。
「君は退路を断った。一言甘い言葉を囁けばそれでよかったのに、あえて切り込んだ。夢見心地に逃げこもうとする弱さを、先手を打って封じてしまった」
「……甘い台詞がほしかったの?」
「誰にでも、憧れというものはあるんじゃないかな」
「憧れてたんだ」
「状況に完全に一致する表現を選ぶのは難易度が高い、そうは思わないか?」
 ちょっと拗ねてるような言い方。期待してたらしい。
 つまり僕は、伊代ばりに空気が読めてなかったと。惠が甘えたがるなんて一生に一度有るか無いかだろうに、その気持ちをおもいっきり折っちゃったのか。
 ……大分、いや相当、鬼だ。
「なんか……ごめん」
「いや、良いんだ。らしくないことはするものじゃないね」
「……あうぅ」
「気にすることはないよ、智。それだけ君の目は真剣にものを見据えているんだから」
 僕をフォローするような口ぶりと発言。だけど、惠自身に言い聞かせているような雰囲気もある。
 ふっと天井の蛍光灯を見上げて――
「――ゆえに、君の誤解を解いておく必要がある」
「誤解?」
「ああ」
 視線を戻し、シャワーで泡を流していく。愛する彼女のかたちが脳に刻み込まれる。
 きゅ、と栓を止める。語る言葉は湯気に広がり、耳に、肌に染みこんでいく。
「生存本能というものがある。その名の通り、生命を維持するための本能だ。ヤクザであっても麻薬の売人であっても、殺人犯であっても、もしくは人でなかったとしても、生き物であればすべからく持ち合わせている。そして、生命の危険にさらされたとき、本能は全てに優先する」
「……うん」
 一呼吸。
「ならば、なぜ君の生存本能は働かなかったのだろう? 命の危険に晒されていたのに」
「あ――……」
「君に本能がない、なんてことはありえないよ」
 言われて、気づく。
  されてもいいとか、 されるとか、そんなことをうつらうつらと考えていて――考えて、いて。
 その時あったのは、妙な平常心。殺伐とした思考回路とは裏腹に筋肉は弛緩していた。諦めや投げやりは違う、どこか透き通った、素直な『感想』。本能を揺さぶるほどの切迫感はそこにはなく。
 つまり――
「でも、僕はそう思ったんだ、君に……されるって」
「なぜ?」
「……だって、惠の目には憎しみがあって、僕を、憎んでて」
「……智」
 惠が僕の方に顔を向ける。
「憎しみでは、命は摘めないよ」
「え……」
「君は、出発点から誤解している」
 深淵の宿る瞳。逸らさずに向けるのは、彼女の真剣さの現れなのだろう。
 その美しさと、底知れぬ深さに息を飲む。丹田に力を入れて、揺らぎながらも強い視線を受け止める。
「真耶が指示を出しているという話は聞いたね」
「……うん」
「彼女は自らの能力……未来を視る力によって対象者を選ぶ。おおまかな条件は伝えてあるけれど、それは逆を言えば『条件に合致すれば誰でもいい』ということだ。相手は真耶によって選ばれる。命の上乗せの能力は、それに従って発動する。基本的には状況と対象者の背格好の指定だけで、名前や所属組織さえ明かされない。感情の入る余地などないんだ」
「……感情の、余地がない……」
 繰り返す。理解は出来ないことを、なんとかお腹に落とし込もうとする。
「心というのは案外不器用でね。気軽に相手を変えることもできなければ、一色に塗りつぶすこともできない。常に揺れ、ちぎれ、風に舞う。そんなものを根拠にしては非効率的だ」
「……惠……」
「憎しみは動機へと練り上げられ、やがて殺意へと転化する。それは人の世でまことしやかに囁かれるひとつの道筋だ。ただし、分かりやすいというだけで、全てを包括するわけじゃない」
 一息に続ける。考えながらというよりは、抱えていたものを並べるように語り続ける。
「憎しみに代わる、あるいはそれを超える動機があるのなら、別の道筋でも構わない――そうは思わないか、智」
「……憎しみ以外の……気持ち、以外の」
「ああ。動機は心が作るものとは限らないんだ」
 はっきりと言い切る。
 感情をもって能力を行使しているわけではないのだと、惠は言う。
 だから、たとえ僕を憎んでいたとしても、それは僕の考えるようなものではなくて――
「……生存本能は、あらゆる生き物に存在する。何であれ、生きている以上はそれには逆らえない」
 話が戻る。いや、本丸に迫る。
「たとえそれが怪物であっても、同じことじゃないかな」
 生存本能。
 それは、生き物が身を守るための最後の武器。
 僕が使わなかった、命の叫び。
「……だからね、智。本能とは、最高の言い訳なんだよ」
 湿ったバスルームに、乾いた笑みが置かれる。
 自分は、心すら使っていない――生命の内側に数多の怨嗟を溜め込んできた惠の告白。
 本能による行動は意志よりも優先される。言い換えれば、意志を介在させることなく動かせる。
 もっと、言えば。
 惠は、そうでもしなければやっていけなかったのだ。
 意志の前段階に根拠を求め、心を排除しながら彼女は生きてきた。
 抗えない衝動を、彼女の心は許さないから。生まれるのはひたすらに軋轢、握り続けるのは諸刃の剣。
 憎しみとは、心の働き。
 だから、惠が強く僕を憎んだということは、それ自体が――
「……こんなことを語る僕を、さて、君はどう思うのかな」
「……」
 裸の惠は、そこで言葉を切る。
 目を軽く閉じ、瞑想するようにゆっくりと息を吐く。
 まるで、涙が溢れるのをこらえるように。
 湯気に圧迫されるバスルームに満ちるは沈黙。奪うための武器もなく、背負うためにまとう服もなく、未来を約束する能力すらすり減らした一人の女の子が、生のままの自分を晒す。水滴が乗った肌は冷え始めているのか、少しずつ白くなっていく。
「……惠」
「……正直に答えてくれていい。君は、こんな僕を」
 ようやく――ようやく、僕は気づく。
 ……今、惠は弱音を吐いている。誰にも言えなかった在り方を、過ちだと知りながら否定出来ない大元の弱さを、逃げ場のないこの場所で見せている。
 ……僕が、見抜いたから。
 彼女の微笑みの裏側でくすぶり続ける、どうにもならない苛立ちを、切り離せない禍々しさを指摘したから。
 ころさないの、と。
 彼女を貫く罪の意識を、鷲掴みにしたから。
 故に惠はあえて語る。逃げ場のないこの場所で、逃げ場のない関係となった僕に、自分が立ち向かい続けている絶望を語る。身体以上に心を凍えさせながら、それでも想いを搾り出す。
 それが彼女の答え。甘い世界のお盆をひっくり返した僕に、彼女が見せる精一杯の誠意。
「……僕は」
 お湯から手を出して、惠に差し伸べる。
「命を狙われても、君の望みならいいって思ったんだ」
「逃げても構わないんだよ、智」
「うそつき」
「……正直がお好みかい?」
 苦笑いに、満面の笑みで返す。
「どっちでもいい。君の気持ちなら、全部受け止める」
 だって――惠が心を表した、それ自体が何よりの証だから。
 差し出した手に頬を寄せ、その上に自分の手を重ねる惠。伏せた瞳、長いまつげがしっとりと湿っている。
 無関心という張り子の内側に隠れている彼女は、こんなにも危うく、そして強い。
「……こういう甘さも、有りなのかもしれないね」
 呪われた世界で見るちっぽけな夢。とても苦い甘さに、二人で身を委ねる。

 ――その儚い夢の中でさえ、すれ違うことになるとは考えもせずに。

 肉を割く感触がまだこびりついている。骨に筋肉がついて皮で覆われて形になる、ニンゲンモドキも基本的な作りは動物とさほど変りないんだけど、受ける印象は全く違う。まあ、僕が今まで刃を立ててきたのは既に絶たれた命で、今回は絶つところからだったから、それも関係しているのかもしれない。
 心臓は震えるように、けれどあせらず騒がずリズムを刻む。夜の中、ちょっとだけ暗さを上乗せした影が僕たちを先導する。行き先知らずの彷徨える怪物は、静かに静かに呼吸する。
 あの日とは違う形で、あの日よりもっと深く結ばれた二人は、どこかへ向かって歩いて行く。
「……智は、三宅が憎かったのかい」
「うん」
「それが、理由だった?」
「それも、理由だった」
「……そうか……」
 元気を取り戻した惠だけど、口調に明るさはない。装おうという気もないんだろう。そういう素直な姿を見せてくれることが嬉しい。
 本当は、もう苦しまないで欲しいんだけど……それは流石に無理な話かな。
 でも、惠はもうひとりじゃない。僕だって背負っていける。
 同じ能力を持つことはできなくても、同じ結果を招くことならできる。
「でも、それじゃ君は」
「大丈夫だよ、惠。憎しみで剣を取るのはこれっきり」
 惠の不安を察して、先回りする。
 今回はあくまできっかけで、かつ、イレギュラーだ。これから僕たちが奪っていくのは憎む価値もない命。弱肉強食、生きるために奪うのは当然のこと。心を割く必要などない。
 それでも、惠は優しいから、その常識に抗って苦しんでしまう。今までもそうだったし、これからもきっと同じ。そこをねじ曲げてしまったら、惠は惠でなくなってしまう。
 だから――僕が支えるんだ。
「……憎しみでないのなら、君は一体何で道を開くんだい?」
「決まってるでしょ」
 臆面も無く告白。
「大好き」
 惠と僕は、生き延びる条件が違う。それは事実だ。けれどそんなのはもう問題じゃない。惠が生きることが僕が生きること、惠が生きるために必要なものは、僕にも必要。それは、本能にすら近い想い。
「……智……」
「だから惠、もう心配しなくていい、一人で苦しまなくていい。一緒に生きていこう、ね?」
「……」
 返事はない。当然だ、惠は本当のことは言えないんだから。言わなくたって分かる、彼女は喜んでくれている。
 だって僕たちは――愛し合っているんだから。
「――ああ」
 思いついたように、惠は顔を上げる。
 芝居がかった口調、よく通る声。
「――ああ、今日はなんて素晴らしい、呪われた世界の始まりだろう――」
 藍色の空に、ため息のような詩が消えていった。

(了)