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after Birthday ※視点は惠

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僕の考えた惠ルート ※視点は智

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act2 「てのひらかえる半日の夢」 


「裏SNS?」
「のようなもの、みたいだね。ほら」
 液晶を指差す。表示されている画面は一見ポップで明るい色彩ではあるものの、書かれているのは腐臭を放つ悪意の群れだ。襲撃予告、犯罪履歴自慢、組織内のいざこざの噂話、喧嘩の実況中継、なんとか狩りの仲間募集まで、あらゆる種類の犯罪が集められたコミュニティサイト。
 昨日、組織から送られてきたメールの内容がこれだった。
 添えられていた説明によれば、今までの成果に対するボーナス……ということらしい。当然ながら会員制でプロテクトも万全、自分たちだけでは絶対に見つけられない場所。まさに組織に関わっているからこそ得られた情報と言える。
 裏社会にもこんなものが存在したなんて、と思うのはきっと浅薄。
 その行いや人格はどうであれ、道具を使うのは人間だ。表の人間が使うものを裏の人間が使わないなんて話はない。人がいて技術があるのなら、あらゆるツールは活用されて当然だ。
 違うのは、方向性だけ。
 世界を美しく感じるも醜悪に感じるも心ひとつ。けれど、現実はいつも儚い理想を打ち砕く。誰もが奈落へ引きずり込まれることがある。当人の意志も、過去世の因果も、理由も関係ない。そこにあるのはただ、理不尽。
 その奈落へ通じる穴が、液晶画面の向こう側で展開されている。
「……それにしても……ひどいね、これ」
 智が顔をしかめる。マウスを動かすたびに憂鬱な、じめじめした気持ちの悪い熱が湧いてくる。
 盗んだバイクで走り出すとか、やらせとか、一過性のブームを起こす不良の殴り合いなどとはワケが違う。ここにあるのは搾取であり、蹂躙。弱肉強食という法則を履き違えた愚か者達の空威張りだ。
『悪』……明確な定義の存在しないそれが実例として居並ぶ。
「ここにあるのは氷山の一角なのだろうね。声高に叫ぶのは極一部、多くは隠れて爪を研いでいる」
「弱い犬ほどよく吠えるって言うもんね」
「ここには犬も、飼い主も、ブリーダーも集っているんだろう。だからこんなに賑わっている……ということかもしれない」
「警察につきだしたら大変なことになりそう」
「暗黙の了解があるんじゃないかな。誰だって、自分のテリトリーは壊されたくないだろう?」
「僕たちだって、そうだもんね」
「……そういうことも、あるかもしれない」
 書き込みはひたすら膨張し続ける。更新ボタンを押せば新着情報が増え、共犯者募集には名乗り出る人間が現れる。『悪』という定義に当てはまるもの、その領域すら飛び越えるもの、そこに届かないもの、程度の差はあれ、渦巻いているのは他者の尊厳を意に介さないものばかり。見れば見るほど、胸糞が悪くなる。
 改めて痛感する。
 ……これが『裏側』。
 そして、今ここで苦い顔をしている二人の情報もまた、当たり前に載ってしまっている。
 裏側の人間として、把握されている。
「でもまあ……助かるよね」
 顔を寄せてパソコンを覗き込んでいた智が静かに呟く。
「助かる?」
 意外な発言に思わず横を見ると、智は平静な表情になっていた。
 と思うと、画面から目を離さず、少しだけ口の端をあげる。
「だってほら、どっからどうみても極悪な、ニンゲンじゃない誰かさんがいっぱいでしょ? まさに摘み放題って感じじゃない」
 ……こともなげに。
 彼はそう言ってのける。
「――智」
「これだけいれば相手に困らないよ。やっと安心できる」
「……」
 安心できる――
 今の智にとって、それはごくごく自然な感想なのだろう。自分の台詞が秘める意味を、内包される罪を十分に理解した上で、さも常識であるかのように口にする。
「いい機会だから、いっぱい摘んじゃおうよ。その方が手っ取り早くていいでしょ?」
「……摘ん、で?」
「うん、摘んじゃおう」
 顔をこちらに向けて、嬉しそうに微笑む智。その瞳に嘘はない。意気揚々とした雰囲気からは、後ろ暗さもためらいも微塵も感じられない。
「なんにも問題ないよ。だってこいつら、ニンゲンじゃないんだから」
 自分の言っていることの意味を知りながら……それを狂気と思っていない。
 ……その意識は、既に。
「智……」
 思わず表情を歪めた僕を見て、今度は不思議そうな顔をする。
「どしたの? 僕、何か変なこと言った?」
 わかっていないのか、わかりたくないのか、わからなくなってしまったのか……僕にそれを知る術はなく。
「……いや、いい。なんでもないんだ」
 胸が痛い。心臓が圧縮されて、肺が乾いて息が詰まる。
 後悔は胸をえぐり、無益な自己弁護を量産するだけだ。そんなことで智に染み込んだ血の臭いが、手に刻まれた肉の感触が、理性の膿が消えるわけじゃない。
 かつての智ならば、なんて考えるだけ無駄だ。
 時は戻らない。起きたことを、起こしたことをなかったことにはできない。戻れるところなど、もうどこにもありはしない。
 僕たちには――もう、前しかないんだ。
 だから僕はごまかし、はぐらかし、目を背けて……なんとか、止めようとする。
「智の言うことにも一理あるかもしれない。けれど、組織がこれを送ってきたことも考慮すべきだとは思わないか? ボーナスならば、金銭でもいいはずだ」
「そういえば……そうだね。僕たちは殺し屋さんの中では薄給らしいし、お金で懐柔しようとするのが普通だよね」
 話の方向を転換すると、智も素直に乗ってきた。実際問題、これも考えなければならないことだ。答えの出ない問に耽溺するより、こちらの方が建設的だろう。
 ある日突然現れた、目的不明の二人組の殺し屋……それが僕たちだ。組織と裏社会は二人を迎え入れたとはいえ、気を許したわけじゃない。単に、お互いが利用し利用される関係になったに過ぎない。
 だから、相手の行動には常に意図が潜む。罠と、打算が織り込まれる。
 単純に使い勝手を良くしたいなら、お金を積めばいい。こちらの事情はともかく、大多数の人間が最も求めるのはそれだし、円滑な交渉を求めるなら最も妥当で効果的だ。
 けれど今回は金銭ではなく、情報。それだけでは利益にならない。
 ……『それだけ』なら。
「彼らはこちらが真に望むものを知らない。にも関わらず情報を与えてきた……どう思う? 智」
「んー……」
 智は瞳を閉じて軽く眉を寄せ、数秒考え込む。
「……暗黙の了解みたいな何かがある、とか?」
「さすがに、察しがいいね」
「単にお金ケチっただけかもしれないけど」
「固定給があるわけじゃないからね。ボーナスという発想自体、そもそもおかしいのかもしれないよ」
「確かに。言葉の響きがいいから騙されそうになるけど、本来もらえるわけがないものだよね」
「とすれば、彼らの目的は何かな」
 今回の裏SNSはいわば相手の手の内の一端だ。今まで通りの距離を取りたいならば絶対に教えないだろう。
 つまりは――
「……」
 小首をかしげて思案した後、智は残念そうな表情を見せる。
「……踏み絵、かな」
「ああ」
 同意を込め、大きく頷く。
「自由には責任がつきまとう。依頼だけをこなしている僕たちをこの情報の群れに誘い込んだらどうなるか……彼らはそれを見たいのかもしれない」
「ヤバそうな実力者もチンピラに毛が生えたようなのもいるもんね。グループも個人も混ざってるし。どういう奴らに僕たちが手を出すのか見定めたいってことなのかな」
「相手もだが、数も注視しているだろう。水を得た魚になっては危険視されてしまうかもしれない」
 言いながら思考を整理する。
 今の僕たちは『受けた依頼だけをこなす』タイプの殺し屋だ。普段は小競り合いのひとつも起こさず、ひたすらおとなしくしている。言ってみれば受身の状態だ。
 ただ、新参者はそのスタンスだけでやっていくのは難しい。下積み時代は待ちの姿勢では乗り切れないのは表も裏も変わらない。例え人手不足の領域でも、控えめにしていてはやがて忘れ去られる。名を売りたいのなら、仕事が欲しいのなら、ルールの範囲内で手段を選ばないぐらいの積極性を持つ必要がある。
 ただ、役割が役割なだけに、闇雲に積極性を発揮したらそれこそ終わるし、組織だってせっかく得た道具をそんな形で失いたいとは思わないだろう。
 だからこそ、彼らは僕たちに『場』を与えた。
 与えられた情報からどれを選び、どの程度の頻度で執り行うかで僕たちの積極性、実力を測り、より活用しやすい方向を探ろうとしている……そんなところか。
 よく言えば、買ってくれている。悪く言えば、値踏みされている。
 いずれにせよ、僕たちはより深いところへ誘われているんだろう。
 ……もっと堕ちてこいと、呪われた世界が囁く。
「ある意味、これからが本番なのかもしれないね、智。僕たちが何を成し遂げ、どんな立ち位置を選ぶのか……その舞台が整ったという言い方もできるんじゃないかな」
「そうなると、好き勝手に摘みまくりってわけにはいかないね」
「目立ちすぎるのは危険じゃないかな。行動は最低限に絞り込み、様子を見たほうがいい、そうは思わないか」
「そっか……んー、これだけいっぱいなのにもったいない」
「過ぎたるは及ばざるが如しというだろう? 焦ることはないよ。彼らが突然消滅するなんてことはないのだし」
「惠が……そう言うなら」
 釈然としない様子で、けれど頷いてくれる。一応は説得に成功した……んだろうか。
 小さなため息が思わず漏れる。
 智はときどきこうして妙に積極的になる。誰の目から見ても『悪』とされるような、それでいて手の届きそうな輩を見つけると目を輝かせる。一石二鳥と言わんばかりに喜ぶ。
 歪な勧善懲悪。『悪』ならば、倒しても構わないという暴論。
 ざっと見た限り、裏SNSに跋扈するのは、そんな智の眼鏡にかなうような奴らばかりだ。今まではたくさんいることは知っていても、具体的な数や量として把握したことはなかったし、できなかった。それが『見えた』ことが、智の心を揺り動かしたのだろう。
 ……無理もない。
 彼の言う『ニンゲンでないもの』こそ、僕たちが求めてやまないもの。
 お金も名声も立場もどうだっていい、そんな表面的なものに価値など見出していない。
 欲しいのはただひとつ……この世界で最も呪われた贅沢。
 ――命が、欲しい。
 あまりにも当たり前で、あまりにも残酷な要求。
 依頼だけではままならないのは事実だ。新参者の依頼の優先順位は決して高くはないし、タイミングだって合うとは限らない。実際、この数ヶ月で智に心配をかけてしまう局面が何度かあった。状況は常に最悪の一歩手前。いつ切れてしまうか分からない、二重三重の綱渡りが続いている。
 そんな僕たちにとって、裏SNSは希望の宝庫。欲するものを与えてくれる場所なのは間違いない。智の喜びは正直な反応と言えなくもない。
 けれど、できるなら使わずに、そこには踏み込まずにいたい。
 だって、その希望は絶望と同意。
 情報を活用するとは、意志を優先するということ。依頼でも、託宣でもなく、自分たちで対象者を選ぶということなんだから。
「……智、喉が乾いたと思わないか? コーヒーか紅茶か、どちらが好みかな」
 鬱々とした気分を変えようと椅子から立ち上がる。
 根本的な原因を取り除けない以上、思考はいつだって堂々巡りだ。それに心を割くことは無駄ではないものの、有益というわけでもない。
 今日明日で決めずとも、なんとかなるだろう。じっくり考えて、ゆっくり決断すればいい。
「あー、んとね、じゃあミルクティーがいいな。はちみつ入れてハニーミルクティーにしたの」
「ああ、では君のリクエストに――」
 
 ――……
 キッチンに向けて、一歩踏み出す。
 二歩目は――

「――惠っ!?」

 いきなり、だった。
 世界が灼けた。

 肺が砕ける。神経が絶たれる。脚の感覚が消滅し、視界が塗りつぶされる。
 逆流する赤が見えたように思ったのはほんの一瞬。
「かっ……は……! ごほ、ぐぅ……っ!」
 ――発作。
 遠いどこかで音がする。ただの重力のカタマリになった身体が崩れ落ちる。
 反射的に手を伸ばす。何かに触れた、のだろうか?
「めぐ、惠……!」
 耳が聞こえなくなる。僕が詰まっていた入れ物が形をなくしていく。力は入らない、意識の残滓だけでもがく。
「あ……はっ、が……げほ、ぐ……」
 苦しいの領域を一気に突き抜ける。
 ちぎれていく。つなぎとめていたものがバラバラと離れていく。
 運命は僕をあざ笑う。刹那の幸福さえ見逃さない。首筋に当てられた死神の鎌は、いつだって無遠慮に命を跳ね飛ばす。
 意識が転げ落ちる。ずるりとした底なし沼へ、幾度となく引きずり込まれた死の淵へと飲まれていく。
「……め……」
 ――抱えてくれる温度だけが、最後まで覚えていられるものだった。

「……」
 ――そして、また帰ってくる。
「惠……」
「……あ、ぁ……とも……」
 滲んでいた視界は次第にものの形を作っていき、やがて愛しい人の顔が認識出来るようになる。
 発作を起こすたびに見てしまう、苦渋と悲しみに充ち満ちた、智に似つかわしくない表情。
「だい……じょうぶ……?」
 かけてくれる声も弱々しい。今にも泣き出してしまうんじゃないかと不安になる。
 ……不安にさせているのは、僕なのに。
「君の心配は……もう要らないんじゃないかな。あまり気に病まない方がいい」
「……うん……」
 差し出した手は両手でくるまれる。柔らかく心地良い温かさ。倒れる寸前に感じたものと同じものだ。
 ――すまない。
 言いたいことは口に出せず、ぐっと唇を噛み締める。言えたところで現実に変わりはなく、智が抱く苦しみを取り除くこともできない。
 ……また、智の目の前で、死んだ。
 これで、一体何敗目だろう? もう数えるのはやめたし、数えたくもない。
 ゴールのない死との戦い。敗れて、敗れて、敗れて、また立ち上がる。勝利の瞬間でもあれば希望も持てるだろうけれど、そんなものが存在しないことは明白だ。僕に与えられているのは勝つ力ではなく、再度負けるチャンスを得る力。終わらせたくない、その一念だけが僕を支えている。
 その傍らにいてくれる智。ただひたすら、抗う僕の無様な姿を受け入れてくれる智。そのたびに心をすり減らしながら、じっと耐えていてくれる智。
 ……愛しくて、悔しくて、やるせない。
 彼が選んだのが僕でなかったら、苦しみを繰り返さなくて済んだだろうに……失礼ですらある後悔が胸を刺す。
「……ごはん、食べられる? おかゆとかおじやとか、身体に負担がかからないものを作るから」
「……食事?」
 言われて窓の方を見ると、なるほど既に空が橙色に染まっている。パソコンを見ていたのは午前中だったから、かれこれ半日近く倒れていたのか。
「もう、夕方なんだね」
「うん……今回の発作、重かったよね……」
 僕が生きていることを確かめるように、智がおでこに、頬に触れる。そのたび伝わる体温が生気を呼び戻してくれるような気がする。
 まだほとんど力が入らない手でちょいちょいと招き寄せる仕草をすると、意図を汲んだ顔が近づいてきた。
「おかえりなさい、惠……」
「……ただいま、智」
 軽く触れるだけの口づけを交わす。わずかな血の味は僕が吐き出したものの名残だ。
 負担をかけないようにと気遣ってくれているのか、控えめに抱きしめられる。
「また、帰ってきてくれた……よかった……」
「智……」
「惠……めぐむぅ……」
 震えた声を出す愛しい人を、震える腕で抱き返す。
 熱を伴う実感と、底知れぬ優しさに溢れた吐息が染みこんでいく。湧き出すのは愛しさに染め上げられた充足感、感じる鼓動が心地いい。
 ……こんなに――こんなに、あたたかい。
 ささくれだった心も擦り切れた倫理観も、智の前では霞んでしまう。
 口にすることを許されない、だからこそ際限なく膨張していく想い。智さえいれば何もいらない、そんな暴論を振りかざしてしまいそうになる。
 いや、違う。
 智さえいれば、じゃない。
 必要なのは二人。
 智と、智と一緒にいる僕。
 ……失いたくない。二人で紡ぎ上げるこの時間を、今を、一分一秒でも長く引き伸ばしたい。
 あの世になんか行きたくない。天国だって願い下げだ。この世であれば、地獄だって受けて立つ。
 ただただ、ここに。智の隣に。
 生き返るたびに想いはそこへ戻り、より強固な鎖となって僕を縛り、支える。
 そして、当然のように、未来のための対価を求めてしまう。
 一緒にいたいから、だから……
 羽のように膨らみ舞う高揚感の裏側で、粘り蠢く蛇の意志。
 ――だから、次、を。
 昨日摘みとった命は、早速消費してしまった。まだ危機的状況ではないけれど、余裕があるとは到底言い難い。依頼だっていつ来るか分からない。
 ……じゃあ、どうする?
 倒れる直前に願ったはずのことは早速覆される。
 ……絶望と希望は、とてもよく似ている。
「そうだな、智。夕食は、君の好みの味付けで頼むことはできるのかな?」
「あ、食べられそう? わかった、急いで準備する」
「焦ることはないよ。身体を落ち着けるまで待てるのはいいことじゃないかな」
「うん、ちょっと待っててね」
 智がベッドから離れ、エプロンを身につける。
「――そうそう」
「ん?」
「食事が終わったら、見て欲しいものがあるんだ」
「……ああ」
 その声の調子に、智が用意したものを察知する。
 ……切実でおぞましい、二人の願いは一致する。

 果たして。
 食後に智が出してきたのは、予想通り、裏SNSから抽出したリストだった。
「惠が寝てる間にささっと抽出しただけだから、まだ全然精度は高くないんだけど……とりあえず、やるならこの辺かなっていうのを集めてみた。襲撃予告とか、すぐに行動に移せそうなのを中心に」
「なるほど」
「下見もしてないから、うまくいくかどうかはまだわかんない。いくつか候補を選んで下見に行って、それで決めるのがいいと思う」
「智の判断ならば、万が一にも間違いはないんじゃないかな」
「そんな、過信するほどのものでもないけど……」
「君の直感はよく当たる。意識せずに選んでも、無理なものは省いているかもしれないよ」
 ぺらりぺらりとリストをめくっていく。こういう作業は得意なんだろう、驚くほど見やすいリストだ。
 まとめられているのはSNSにあった犯罪の内容、対象者の犯罪履歴、襲撃などの実行日、住所。内容は多岐に渡るようで、意外と似通っている。一見区別がつかないものまである。同レベルの悪人ならば、その行動も類型化するのだろうか? そうだとすれば、なんとも馬鹿げた話だ。
 10、20と目を通し、内容とは別の類似性に気づく。
「住所は……やはり、田松が多いみたいだね」
「うん。あのSNSは地方限定なのか機能限定なのか、この近辺しか調べられなかったんだ。こっちより田松の方が大きいから、どうしても……」
「そうか」
 仕方のないことだろう。田松市には円塚みたいな場所もあるし、大陸から移動してきたマフィアもいる。ひとつの場所の住人が似通るのは自然なことだ。人が集まれば便利になり、さらに人を呼ぶ。構造は表も裏も同じ。
 ……贅沢は言っていられない。
 書かれている住所を元に、頭をフル回転させる。
「ふむ……このあたりは人通りが多いな。円塚は妥当かもしれないけれど、五丁目付近は大陸系グループが複雑に絡み合っていたはず。ヤクザの事務所が十三番地だから、この通りに乱入するのはあまり頭のいいことではないかもしれない。となるとあっちの七階建てビル……いや、あそこにはカラーギャングが住み着いていたな。こっちの件は彼らも関係しているか」
 住所を見て、頭の中に映像を浮かべる。数ヶ月経っていても記憶は驚くほど鮮明で、数字だけで大体の状況は把握できた。離れている数ヶ月の間にビルの取り壊しなどの工事があったかもしれないが、そのときはそのときだ。
「……この辺は古くからのオフィス街だな。建築法違反で立て直しが出来ない雑居ビルが二棟あった。隣との距離が狭かったはずだから、飛び移れる……ベランダありのアパートは反対側か」
「……」
「ここは……全面ガラス張りのビルだったはず。侵入するのは骨が折れる。ああでも、裏口の鍵はサムターン式だったかな。だったら破れないことはないかもしれない」
「……あの」
「こっちは倒産したホテル……確かに、たむろしやすい環境だ。絨毯が剥がされていなければ防音性もある。潜むところが多いから危険性は高い。それに、三軒隣の鍵師集団が噛んでいるかもしれない。彼らを敵に回すと厄介なことになる」
「……惠さん惠さん」
「え?」
 智の困惑した声に顔をあげる。目の前にあるのは声の通り、困ったというか戸惑った表情だ。微妙に引いてるようにも見える。
「どうしたんだい、智」
「そのリスト、写真載ってないんだけど」
「ああ、その通りだね」
「……なんでそんな詳しいことが分かるの」
「……へ?」
 思わず目を丸くする。
「へ、って言われても……普通は住所だけでそんな詳しいところまで思い出せないよ」
「そうなのかい?」
 ますます驚く。
「そうなんです。大体、住所なんて書類書くときぐらいしか気にしてないし、知らなくたって景色を覚えてれば辿りつけるし」
「……そういうものなのか」
「そういうものなのです」
 ……意外だ。
 ごく自然と思っていた発想は、智からすれば異質に近かったらしい。
 気になったので、試しにもう少し突っ込んで聞いてみる。
「ビルやアパートの室外機の数と位置は?」
 首を振られる。
「各ビルの間の距離、フェンスの有無は?」
 もっと振られる。
「窓ガラスがワイヤー入りかとか、非常階段の材質とか、窓枠部分に足をかけられるかとか」
「……それだけ聞いてると、とってもイケナイ人だよ」
 呆れられた。何故。常識じゃないのか。
「えと……じゃあ、お店とかにも詳しいの?」
「店?」
 少し顔をひきつらせつつ、今度は智が聞いてくる。
「そうそう。美味しいケーキショップとか、雑貨屋さんとか、カトラリーの店とか。別に食材の激安店とかでもいいけど……裏路地とかに詳しいなら、穴場的な店も知ってたりしない?」
「……」
 今度は僕が困る番だ。残念なことに、全く心当たりがない。
「……いや、そういう方面は……裏口の鍵が開けやすいとか、通気口に身体が通るかとかそういうことなら」
「なんというドロボーさん視点」
 正直に答えると、カルチャーショックでも受けたように智がげんなりする。
「智は……そういうの、知らないのかい?」
「知らない、まず知らない、考えない。お店の名前とか外観ならまだしも」
「それは必要な情報なのかい?」
「まあぶっちゃけ、惠が今言ったような情報よりは、かなり」
「……そういうこともあるのか……」
 店……そういえば、店を買い物する場所として見たことはなかったかもしれない。店といえば人の出入りの激しさと裏口、搬入口の有無の違いぐらいに捉えていた。智からしたらその辺が不思議なのか。
「なんかとても切ない……いや、惠らしいんだけど」
 微妙な表情で納得される。
「移動方法は限られるし、不慮の事態に備えておくに越したことはない。建物の構造を覚えておくことは重要じゃないのかな」
「いや、そういうことじゃなくて……んむー、こう、もうちょっと……」
 何やら考え込む智。何かが引っかかっているらしい。
 上手く表現できないのか、むずむずと手を動かす。
「……まあいっか。惠がそのタイプなら、惠が注目してないものを僕が探してあげる」
 数分の逡巡後、智が出したのはそういう結論だった。
「似合う服とか、美味しい物とか、僕に任せて。役割分担って大事だよね」
「ああ、その方が良い結果になるんじゃないかな」
「うん!」
 なんだかよくわからないけれど、智が納得したならそれでいい。お互い環境が違ったのだから、着眼点や発想に差異があるのは当然だし、平行線をたどることもあるだろう。
 ……平行線、か。
 心の隅にひっかかりを覚えつつ、再びリストに目を通す。
「――しかし、今の智の話は非常に重要かもしれないな」
「え?」
「地の利を活かすという視点に立てば、田松も妥当な選択肢となり得るんじゃないかな?」
「……あ、そっか」
「こちらから攻め入る形になる以上、少しでも有利な条件で……としたら、田松を最初から除外するのは賢明とはいえないかもしれない」
 勝手知ったる街が動きやすいのは事実だ。かつてパルクールレースで走った時も、街の知識が大いに役立った。体調がいいときは大抵出歩いて情報を集めていたから、田松についてならそれなりに自信はある。行きたくないけれど、失敗は許されない以上、少しでも確実性を上げておきたい。
「……できれば近づきたくないけど、うーん……言いたいことはわかるけど」
 智は渋る。
 おそらく、彼は摘みとることより、田松に足を踏み入れる事の方が引っかかるのだろう。
 できるなら――摘みたくない。
 できるなら――戻りたくない。
 おそらくどちらも叶わない。運命の暗闇に開いているのは針先のような小さな穴。僕たちの取れる選択肢など、最初から極限まで絞りこまれている。
 それでも、選択できるだけマシだ。リストから好きに選べるのなら、希望条件に遠くとも、折り合いのつけられる部分はあるはず。そんなかすかな希望を追うように、リストを眺め続ける。
「表と裏は隣り合っていても、混ざり合ってはいないんじゃないかな。確実ではないけれど、より裏に近い方、危ない方を選んでおけば、きっと――」
 ……けれど。
 現実は、どこまでも残酷だ。
 手が、止まる。
「……!」
 リスト、42件目の情報に目が釘付けになる。
「――智」
「どうしたの? よさそうなの見つけた?」
「……42件目、これの詳細を出してくれないか」
「え、うん、いいけど……それだけでいいの? その前にも似たようなのいくつもあった気がしたけど」
「……とりあえずはこれを」
 記載されている無機質な文字列の向こう側、記憶が脳に該当箇所を映す。
 発作でもないのに、動悸が激しくなる。
 ……僕の記憶が確かなら、ここは……
「あ、出てきた出てきた」
 智がパソコンを開き、詳細をチェックし始める。
「うーんと、強盗襲撃予告だよね。明後日決行予定で、場所は住所の通り。住人は女性が二人、目標物の外観は森みたいに木が茂った大きな屋敷――え?」
 智が息を飲む。
「……惠、ここ、まさか……!」
「……ああ」
 画面を見ずとも、智が驚いた理由はわかる。
 記憶が確かも何もない。
 日々さまよい歩き、集め続けた田松の位置情報。
 その中心地――もはや覚える以前に脳に刻み込まれた場所。
 あの場所を、あの住所を忘れるはずがない。
 ……自分がかつて住んでいたところを、忘れるはずがない。
「……大貫の――そして才野原の、屋敷だ」